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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

寒い日はたき火がうれしい。

2017年11月25日 19時14分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうも寒い日でした。昼までは裏山でたき火をして、ダッチ・オーブンで焼き芋。午後は畑のブロックを積んだ炉で火を焚き、まだ残っているサツマイモのツルやジャンボピーマンの木を焼きました。これで野菜クズなどは片づきました。大豆/黒豆の脱穀は残っていますし、15株残っている小芋の保温(モミガラをかぶせる)もありますが。道子さんもタマネギを植え、イチゴ苗の本植えもすませました。
 冬支度は着々と。
 
 いまから思うとあれは不思議な出来事だったなあ。
 人生にはそんな思いにかられることがあります。
 話は「ぼくが携帯電話を落とした」というだけのことですが。
 先日法隆寺に行ったときは雨でした。傘をさして宝蔵館から 夢殿 ⇒ 中宮寺 と拝観しました。よく歩いたので同行の方がもう一度宝蔵館を見るという間、休憩所で道子さんと待っていることにしますした。
 ぼく「よう歩いたなあ。何歩歩いたかなあ」
 と、ポケットやウエストポーチのどこかに入れた携帯電話を探す。
 道子「私は7500歩歩いてる」携帯電話で歩数を見て。
 ぼく「携帯電話がない。ちょっと鳴らしてみて。…… アレ? 鳴らんなあ」
 道子「落したんじゃない?」
 ぼく「なれないウエストポーチ、持ったから。だれか拾ったかもしれん。ぼくの携帯にかけてみて」
 道子「もしもし、あ、中宮寺の受付ですか。わかりました。とりに行きます」
 ということで、道子さんに取りに行ってもらいました。ぼくは膝痛いし。
 なんでもないけどあんなところで歩数を気にしなかったら、そのまま帰ってたかも。

ブログの追伸です。
 今日は三木文化会館『北播磨ふるさとフェスタ』という催しで、テレビ・ドラマ『相棒』に出てくる六角精児さんのトーク・ショウがありました。道子さんは『相棒』を見ているので、どんなおしゃべりになるかと、昼食後に二人で出掛けました。
 お昼のニュースを見ていたら「山口駅でSLのデゴイチ(D51)が走った」というニュースが放映されており、駅長と並んだ〈一日駅長〉がどうも六角精児さんみたいです。
「あれっ? 山口にいるのか。今日三木でトーク・ショウがあるのに」
 六角精児さんはトークでも話していましたが、一日駅長やってから新幹線でかけつけたそうです。彼は「のみ鉄」として有名で、列車にはくわしく、神戸電鉄・粟生線の「粟生駅」を評価していました。粟生線・北条鉄道・JR加古川線と3つの線路のターミナルで、「しかもまわりに何にもない」。
 彼はテレビドラマの演技でも、持ち味そのままで演じているんですね。おもしろかった。
  
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畑の草刈りをしました。

2017年10月28日 02時41分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 最強の雑草「ハマスゲ」が衰えて、刈ったあとほとんど伸びません。11月になると姿を消します。来年の5月まで。ハマスゲは「25度になるとはびこる」といわれます。で、今年最後の畑の草刈りをはじめました。
 まわりの田んぼは稲刈りの前に土手の草を刈り、来年の3月までそのまま。早春に土手焼きをしてまた「一年の草刈り」がはじまります。
 草刈り用の足場がガタついてきました。この冬は杭を打ち込んで補修し、来年12月に畑をお返しするまで無事故でいきたいと思います。
 数年前までは12月の年末にも土手の草を刈って、清清しい新年を迎えようといていました。この畑をつくって10年目、80歳になった今年は「ちょっとなあ」という気持ちです。
 大豆のエンレイを見たら、いつの間にかサヤがはじけて豆が地面に落ちています。刈りとって家のデッキに干して脱粒します。タマホマレのほうは11月10日頃に刈るつもりです。

 今日はコスミックホールで、『日本木管コンクール』の二次予選があります。ネットで見たら二次予選には16名が出場します。課題曲はモーツアルトの「クラリネット協奏曲」を全曲暗譜で。一人30分として8時間。全部はとても聴けないでしょうが、朝から聴きに行きます。
 若い人の真剣な演奏。ピアノ伴奏をする人も素晴らしい。響きのいいホールで、ゆったりすわって、ただ聴く。極楽タイムだなあ。
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父の『引揚げ記』 (21)

2017年10月27日 03時41分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (21) 最終回
 
 私の前の席にいる夫婦の引揚げ者は、私と同県人の鳥取県出身である。そしてその夫婦は境町出身であって、同じく乗っている人にしきりに境の事を聞く。
「境の火薬庫はどうなっていますか」
「何でも爆弾を落とされて大爆発したという事です」
「倒れた家もたくさんあったでしょうなあ」
「えゝ、家も人も大分やられたという事です」
「私の家は無事であればいいが」
 と二人は案じながら話していた。
 すぐ側で一人の兵隊が、柳行李を二つ持ってその上に腰を下ろし、大声でまくし立てていた。
「おのれ、アメリカの奴。もう二年たったらきっと敵(かたき)をとってやるぞ」
 まわりの人々は、その景気のいい話につい釣り込まれて、一同もその気になるのであった。
「俺は漢口から帰って来たのだが、家内や子供は今どこにどうしているのかわからない。俺のところにソ聯兵が入ってきたので、終戦と同時にトラックに乗って逃げて来た。逃げる途中に、ソ聯兵に捕まってトラックを止められた。俺達はそこで下ろされ、持っている荷物を調べられた。ソ聯兵が荷物を調べている間に、夢中でトラックを走らせて逃げ帰った。その時トラックの運転手は殺されてしまったが、幸いに我らの仲間の中に運転の出来る者がいて、しゃにむに川といわず山といわずぶっとばして逃げた。同僚の一人は、トラックの上に突っ立っていたために、道の上を通っている電線にはねられて首がすっ飛んでしまった」
 私は、その話に相槌を打つのも億劫なほどに空腹を感じていた。兵隊は、なお話を続ける。
「漢口ではたくさんの婦女子が山の中に逃げ込んで、消息がわからないでいる。これ等の人々は、いずれ食糧に飢えて、皆死んでしまう事であろう。この度は全く無茶苦茶で、軍の将校などは軍服や軍の食糧等を奪い取って、自分のものにしてしまった。この私の持っている二つの行李も、上官の将校に頼まれて、将校の家まで届けに行くところだ。滋賀県まで行かなくてはならんが、どんな鉄道に乗ったらいいか」
 近くの人が彼に鉄道を教えている。
「今まで日本は戦争に敗れたことがなかったのに、兵隊の俺達は恥ずかしくて故郷の人に顔を見られるのが辛い」
 この日本を代表する兵隊さんは、頻りに慨嘆していた。彼は全く愉快な快男子であった。
 十二時間汽車に乗って、私はリュックの上に腰を下ろしたままで、もう昼近くなる。私のお腹は益益小さくなる。でもうとうとしていると、境の夫婦の人が辨当を開いて食べ出した。そのおにぎりは、小豆もまざっている辨当なのである。そしてすぐ前に座っている私に「一ついかがですか」と差出してくれた。私はもうたまらんと、おにぎりを有難くいただいた。
 午後その夫婦は米子で境線に乗る為に汽車を降り、私は家内の暮らしている松崎で汽車を降り、遠い道を妻の顔を思い浮かべながらひたすら歩いた。
 そして午後三時頃であろうか、やっと家内の里を訪ねる事ができた。
 皆は驚きかつ喜んだ。私も家族の皆の顔を見たので、もうこれで死んでもいいと思いながら、その晩は畳の上で朝までぐっすり眠ることができた。
 朝起きて便所に行ったら、その入口に手洗水があった。私はこんな手洗水など長い間見ていなかったので、大変懐かしく眺めた。朝鮮では、便所に行っても誰も手を洗わなかったのだ。  おわり


 父の『引揚げ記』は、あの〈戦争、敗戦の大混乱〉のなかでは、ありふれた手記です。
 父はあの戦争に敗けて数年たった昭和28年頃にワラ半紙(粗末なB4版の紙)に書いたこの手記を、80歳になってからノートに書き直したようです。彼の平穏な89年の人生では、あの「引揚げ」は忘れられない大きな出来事だったのでしょう。
 長く読んでいただき、ありがとうございました。
 
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父の『引揚げ記』 (20)

2017年10月26日 02時18分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母の顔を見に寄りました。週に一度は顔を見に行くつもりですがこのたびは9日ぶりでした。親身にお世話してもらい、ありがたいことだとつくづく思います。
 道子さんはいまイチゴのランナーから苗をとっていますが、とても足りません。で、ホームセンターのナンバで「宝交」の苗を十数株買い足しました。レジに並んで後ろの人を見ると、いっぱい苗の入ったケース二つをカートに載せています。100株くらいか。
「夏、親株を枯らしてしまったので」と笑っています。うちは道子さんが草を抜き、水をやり、世話していたのですが、苗はまだまだ足りません。(3畝で180株はいります)ランナーの苗が育つのをもう少し待ちます。


   昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で  (20)

 向うの小船には兵隊が二人いて、こちらから跳び込む人を受け入れるように抱えてくれるのであるが、その間には青く深い海がある。波が立つ為にその両方の船が近くなったり遠くなったりする。その上高さも高くなったり低くなったりするのでなかなか跳び込めない。それに大きな荷物を持っているのでその跳び込みが一層むずかしくなる。中にはあわや海に落ちかけて、腰から下を水にぬらした者もあった。
 私も思い切り跳び込んだが、その拍子に頭をぐゎんとぶつけてその場に倒れてしまった。すぐ立ち上がってやれやれ、助かったのだなと思った。次から次に続いて小船に跳び移るので、私は頭をさすりさすり奥の方に詰める。小船が一杯になると夕方近い緑の山を目指して、小さな蒸気船は進む。いよいよ日本に着くのだという安心感と嬉しさで心は勇み立った。
 とうとうあれほど憧れていた日本の大地をしっかり踏むことができた。
 懐かしの日本の山河。見なれた建物があり、周りの人の話もみんな日本語である。
 港のおばさん達が、
「ようこそお帰りになりました。ご苦労様でした」
 と迎えてくれた。
 夜の十二時に汽車が出発するという事であるので、それまでどこか休息できる宿を見つけなくてはならないとあちこち尋ねて廻ったが、そんな宿はどこも満員で入る事ができなかった。
 駐在所のところまでくると、たくさんの人々が長い列を作っている。何事だろうとそこまで行ってみると、食料のもらえる食券がもらえるというのである。私もその列の後に大分長く待たされて、やっと一人前の食券をもらうことができた。その食券を持って辨当屋に行くと、そこの人がおむすびを一つくれた。
 何分にも今朝から腹に入ったものはリンゴ二つだけである。だからお腹はペコペコでその一個の握り飯のうまい事うまい事、御飯がこんなにうまいものだとは知らなかった。そして腹の底から暖まる思いであった。一つだけでは空腹は満たされないが、一つしかないのだから仕方がない。駅の構内の材木に腰を下ろして、汽車が出発するまで待つことにする。
 駅の構内のあちらこちらでは、鍋や飯盒もないので、米をかじって水を飲んで腹を太らせていた。街に何か売っているものはないか、と思って街を歩いてみたが、食べ物は何も売っていなかった。十二時までの長い間、眠るのでもなく、材木に腰を下ろして時を過ごした。
 私のとなりにいた夫婦の人は、夜通し話し続けていた。
「お前の実家に落着いてから、俺の家に行こう」
「私の家に寄らなくても、一気にあなたの家へ行きましょう」
「でも帰る途中に、お前の家の駅があるではないか」
「でも帰るとき、あなたの家へ帰る約束だったんですもの」
「だけど帰ってみると、お前の家が途中にあるのだもの。寄って行けばいいではないか」
「私は私の家へ帰りたくありません。私はあなたの家へ行きます」
「勝手にするがいい。俺は俺の勝手にする」
 夫が大きな声で怒鳴る。
 二人は暫く黙っている。だがまたすぐ前のような問答をする。そうしてこの二人はとうとう汽車に乗り込んで行った。果たしてどうなった事か。二人とも引揚げのみすぼらしい姿を、家の人々に見せたくなかったのである。
 私達も十二時出発の汽車に乗った。そのときも、我先によい席を取ろうと戦争のような争いが演じられた。私はやっと汽車にもぐり込む事ができたが、座る場所もないので、背のリュックを下ろしてその上に腰を下ろす。  (つづく) 
 
※ 父の手記は明日で終わります。
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父の『引揚げ記』 (19)

2017年10月25日 01時30分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨が降り続いたので稲刈りがまだ残っています。きのうはどんより曇った日でした。それでも「稲刈りをすませよう」と薄暗くなるまでコンバインが動いていました。水はけのわるい田んぼはコンバインがめり込んで刈れないので、手で刈った稲をコンバインのところに持っていって脱穀していました。「稲刈り」はまだ残っています。しばらく雨が降りませんように。ぼくたちも畑仕事。道子さんは親株からイチゴの苗をとって仮植えしました。ぼくは電気柵のポール(台風で折れた)を修理しました。

 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (19)

 この汽車は連絡船の出る釜山まで殆ど駅に止まらず、したがって人の入替もない。引揚者ばかりの汽車である。だから立った人は一日中立ったままの姿勢でいるより仕方なかった。或る人は楽しそうに日本であった事を話しているし、また或る人は敗戦日本の恐ろしさを話している者もある。それ等の人々の懐かしい日本へ、憧れの内地へ、新しい希望を乗せて、この汽車はひた走りに走る。
 私は大邱でリンゴを一籠買い、たった一つの日本への土産にする事にした。お腹がぺこぺこになる夕方になって、やっと釜山に到着した。
 その夜は釜山の小学校で一夜を明かす事になり、何千人かの引揚者に学校の講堂が割り当てられた。その講堂には朝鮮のあちこちから引揚げて来ているので、別の知人に会ったり親戚の人が顔を合わせたりして、そこで大きく話が弾んだ。そこで敗戦当時の朝鮮のあちこちの様子を聞かされた。
 朝鮮全土から集ってきた日本人であるから、その数は大変なものである。到底連絡船に乗れないから順番を待っていなくてはならなかった。明日出発する連絡船に乗れる人々は嬉しさ一杯で荷物をまとめていた。私達一行はその小学校で二日程待たされた。
 いよいよ明日出発の番が廻ってきたという話を聞かされた時は、天にも上る嬉しさであった。その夜の午前二時に釜山港に集合するように通知があったので、十二時を過ぎると寝てはいられない。電気はないが蝋燭の火で荷造りを整えて、釜山港へと向う。引揚げの人々は、京城を出発する時以上に荷物が重くなって、もっともっとたくさんになっている。軍隊の寝る時に使用する毛布など持てるだけの物は皆持った。
 背一杯、両手にトランクを下げた奥さんや娘さんがいるかと思うと、前と後に荷を振り分けて担い、両手にうんとこさ持った男もいる。皆が力のある限りの荷物を持っていた。
 引揚げの列はゆるりゆるりと進み、やっと連絡船に乗る事ができた。連絡船に行く道の両側には、日本から引揚げて来た朝鮮人が、地べたに枕を並べて眠っていた。
 やっと船に乗る事ができたが、皆が自分の座る場所、自分の家族が落着く場所を見つけるために必死の争いで、まるで餓鬼道の有様である。私もやっと座る場所を見つけたが、あまりに狭いので座ったまゝ動く事もできない。夜になると横になって眠ってしまうので、余計に場所が狭くなる。時々便所に立つ人があると、近所の人々は手や足を大きく伸ばして、吐息をつく位が関の山であった。そして近所の人々は、いろいろな話を話す事で時の移るのを忘れようとしていた。
 すると突然、大きな声で叫ぶ者があった。
「海のこの辺では機雷がいくつかあるから若しもの事があったら、どうか覚悟して下さい。その為にこの船は、下関には着かないで仙崎港へ着きます。若しもの事があったら、そこの棚に浮袋があるから、これを使ってください」
 棚を見上げると、なる程そこに浮袋があるが、その数はほんの僅かであった。いよいよ日本に帰れると喜んでいたのに、こんなところに難関が残っていようとは思いも寄らなかった。噂によれば昨日も軍隊の家族を乗せて帰る連絡船が下関に着こうとしたら、機雷に触れて全部死んだという事であった。一同の者が不安に思っていると、
「日本が見える」
 と大声で叫ぶ者がある。皆総立ちになって、小さな船の窓から覗いた。
 なる程緑の山が、遥か彼方にうすく霞んで見える。一斉に皆が自分の荷物をまとめ出した。憧れの日本へ帰れる。心が浮き浮きして、じっと座っていられない。それから一時間程たって船は止った。窓から覗いてみると、日本の陸地はまだ遠い彼方である。
 ここから小さい船に乗り換えて、陸地に行くというのである。さて小さい船であるから、なかなかその船に乗り換える順番が廻ってこない。重い荷物を背にして長い列について番を待っていると、一時間ばかりして大きな連絡船の船腹が開かれて、そこから小船に跳んで移るのである。 (つづく)
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父の『引揚げ記』 (18)

2017年10月24日 03時09分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 台風の被害を調べようと、きのうの朝は軽トラで近くの村を走ってみました。稲刈りのすんでいない田んぼも穂先は大丈夫のようです。うちの畑も大豆、黒豆はなぎ倒されてはいません。傾いていますが。もうすぐ葉が落ち、脱粒するので、このままにしておきます。
 裏山に掘った池は、地下水がプールライナーを持ち上げて、底が浅くなっていました。ポンプでプールライナー下の水をくみ出しました。メダカは元気にしています。


 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (18) ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 私と一緒に山の中に入った校長一家の人々はソ聯兵に捕まったので、皆が自殺してしまったんだ、と云い聞かせてくれた。全く物騒な世の中である。
 その第一高女の管理をしている人に頼んで、伊川の人々と一緒に暮せるようにしてもらった。そしてやっと伊川を出てから初めて平穏無事に暮せるようになったのである。日本人同士、言葉を出せば敗れた日本の事、またこれからの日本のあり方ばかりである。
「日本へは既に米兵が上陸しているという事であるが、日本人達はどんな暮しをしているのであろう。ひどくいじめられているのではあるまいか」
「既に占領されてしまったのであるから、何をされても仕方あるまい。学校も児童も無茶苦茶されているのではあるまいか」
「どうせ日本は食料が不足しているから、こちらから土産に食料を持って帰ってやろうか」
 また或る夫婦の話であるが、引揚げたら夫の家に帰ったらいいとか、いや嫁の実家に行こうとかお互いに云い争っている。どこの家に行ってもどうせ引揚者はきらわれるのであるから、当然の事である。そんな話に花を咲かせながら二、三日過ごした。
 ところが朝鮮にも、米軍が上陸してくるという噂が広まって来た。一刻も早く帰らないと、その米軍に何をされるかわからないと気が焦る。
 指導的立場に立っている人々は総督府に行って交渉したり、警察に行って交渉したりするが、何分にも日本と結ばれている連絡船を動かす事ができないので、どうする事も出来ない。日本人の中には日本の政府を恨む者も出て来た。
「我々がこんなに苦しんでいるのに何もしてくれないのか」
「いや日本は敗けたんだから、どんなに交渉しても幅が利かんのだろう」
 月が変って九月になっても、一向に日本に帰れそうにならない。いよいよ米軍が南朝鮮に上陸して来るという日になって、連絡船が動かせるようになったから、引揚げたい人はその旨申し出るようにという指令があった。
 皆は喜んで引揚げるように申し込む。しかし連絡船に乗る人には人数に制限がある。誰かは残される。残念ながら私はその選にもれて残されることになった。
 引揚げの決った人々は、引揚証明書をもらったり荷物を整理したりして大いに張り切っている。一方後に残されるほんの僅かの人々は全く稍気切って、引揚げの人々をぼんやり眺めているばかりである。米軍は入ってくればどんなことになるかもわからない。或いはもう日本に帰ることができなくなるかもしれない、と心配で一杯である。
ところが その日の夕方になって、残された者も皆引揚げてよいようになったからその準備をするように、という指令が伝えられた。私は躍り上って喜んだ。準備といっても荷物は何もない。ただ輕いリュックが一つあるだけである。翌朝、まだ暗い間に皆起きて、引揚げの準備に掛かる。子供の手を引いたり荷物を負ったりして長い列を作る。そして少しずつ少しずつ歩きながら駅への道を辿った。
 やがて列はやっとプラットホームに出た。どの人もどの人も持てるだけの荷物で体中ふくれ上っている。汽車が到着するとまた大騒ぎである。我先に人を押し退けて汽車に乗り、座る場所を探すのに必死である。窓から荷物を放り込んで、窓から入ろうとする者もいる。幸いに皆が汽車に乗り込む事は出来たが、座る腰掛もなく床にも空地がない。
「女や子供達を座らせろ。男は立つんだ」
 と大声で叫びながら整理をして廻る感心な男があり、その人はそれをそのまま実行させて廻った。だれもが自分の事しか考えないこのどさくさ騒ぎの最中に、これだけの世話ができるのは、実に感心の至りで頭が下がる。
 朝から列に並んで歩き、誰もが何も食べていないので、各人が自分の座につくと早速辨当を開いて食べ始める。今朝第一高女で分けてもらった辨当は、お握りが二つ入っているだけである。この二つのお握りを朝と昼の二度に分けて一つずつしか食べられなかったのである。
 あたりを見ると地べたに座って食べている者、腰を下ろすところのない者は、立ったまま食べている。皆はしゃべりながら愉快に食べている。   (つづく)
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父の『引揚げ記』 (17)

2017年10月23日 00時16分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 台風が来て、稲刈りのすんでいない田んぼの被害が心配です。畑も水びたしです。しばらく入れないので裏山の仕事をします。
選挙が終わり、対抗軸を四分五裂状態にして、自民党は安泰です。こんな政治のレベルで、いまの国際社会で、しっかりした外交ができるか心配です。



  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (17) ※用字、仮名遣いは原文のまま

 京城に着くとさすがに朝鮮の中心地だけあって、どちらを向いても人ばかりでごった返している。駅前に出ると、そこに飯を売っている露店があった。私はすぐ飛びついて二杯平らげ、人間らしい心持ちになった。一杯五円だから十円払った。
 早速今夜京城に宿を探さねばならぬとあちこち旅館を探し廻った。以前宿った事のある日本人旅館を訪ねて泊めてもらうように頼むと、
「何県の人か」と聞く。
「鳥取県」
「生憎だけど現在室が皆詰っていて泊める事ができない」
「女中部屋でもいいから」
「女中部屋も一杯です」
 とすげなく断られてしまった。仕方なく次の旅館を探す。あちらの旅館に頼んでもこちらの旅館に頼んでも、皆断られてしまう。探して探してやっと一軒の朝鮮人旅館を見つけた。
 一日の宿泊料は十五円だという。それも二人で一室に泊ってほしいと云う。私の財布には五百円位しか持っていなかったが、とにかく眠る家が出来たので私は幸福であった。その夜はぐっすり眠った。
 翌朝京城の街に出て歩いてみると、戦時中不自由をしていた品々が、あちらこちらの露店で売り出されている。パン、たまご、砂糖等の食料品や衣料品も何でも揃う。値段は少し高いが、品物ならどんな物でも売っている。戦時中だれが一体こんな物を隠し持っていたのかと不思議な事である。
 色の白いアメリカの男も女も、意気揚々と通りをかっ歩している。戦時中決して手に入らなかった煙草も山のように袋に詰められて、道路に投げ出されて、人びとに踏まれている。中にはその散らかっている煙草を箒で掃いて持ち帰る者もいる。いろいろな品物がこんなにたくさんあると思えば、何も買う気にならない。
 全財産の五百円がなくならない間に、もっと安い宿に引っ越さねばじきになくなってしまう。私達はいつ日本に帰れるかその目途がつかない。私は毎日毎日安い宿とか下宿を探したが、どこにもそんな宿はなかった。
 私の宿っている旅館の主人はどこから買ってきたのか知らないが、たくさんの軍服を買ってきて、ばらばらにほぐしている。そしてきっと何かに仕立て直してまた売り出すに違いない。
 毎日毎日同じような日が繰り返されている間に、私の財布は次第に淋しくなって、もう二百円になってしまった。これ以上この旅館に泊っていることは出来ないなあ、と思っていると、旅館の主人が私にこんな事を云った。
「もう日本人はどこかに行って下さい。朝鮮人がたくさん泊りたくて困っている」
 ちょうど私の財布も淋しかったので、荷を背負って街にさまよい出て宿を探す。あちらこちら一日中探し廻ったが、どこにも泊る宿は見つからなかった。
 行くところもないので、ふらふらと駅に辿りつき、駅前の広場の地べたにうずくまった。寒い風が私の上を吹き抜けてゆく。眠るともなく起きるともなくうとうとしている間に夜が明けた。
 こうなっては仕方がない。いっそ春川へでも行こうと思いつき、春川への切符を求めようと駅に行ってみると、駅は既に切符を買う人々で長蛇の列が作られていて、待つ人ばかりである。聞けば昨夜から列が作られたということであった。
 私は列の終りについたが、どうせ私のところまでは切符は売らないだろうと案じながら待っていると、私の後にもたくさんの列が出来る。二時間も待っていると、汽車が来た。先頭の方は大分汽車に乗る事が出来て、少し列が進む。とうとう朝から待って、午後三時までも待ったのだが、まだまだ列の長さはなかなか縮まらない。暑い夏の日はじりじり照りつけて汗が流れる。
 この時ふと先方を見ると、私の知っている日本人が見える。その方を一心に見つめていると、その人も私の方を見ている。目と目が合うと二人は驚いた。どうしてこんなところで出会ったのであろう。それは伊川で一緒にいた日本人だったのである。
 その人は私のところに歩いてくると、
「どうしてこんなところにいるのか」ときいた。
「私は泊るところがなく困って、春川へ行くのだ」
「今私達伊川に住んでいた人々は皆、京城の第一高女に集って暮らしているんだ」
 その人は第一高女に行く道順を教えてくれた。
 私は深く感謝して、その第一高女を目指して歩き出した。幾度も道を尋ねて、やっと第一高等女学校を見つける。
 中に入って見るとなる程、伊川から引揚げた人々が皆それって暮らしていた。そして私を見て、その無事である事を祝福してくれた。
「お前はもうソ聯兵にやられたという噂であった」とある人は云った。   (つづく)
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父の『引揚げ記』 (16)

2017年10月22日 03時14分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 日本が戦争に敗れた直後の「引揚げの悲劇」から見ると、むしろ恵まれ、ありふれた、手記ですが、ぼくには〈思い入れ〉があります。もし母が昭和18年に病気にならず、内地(日本)に一時帰国して療養しなかったら、あの敗戦の直後、〈母 / 7歳のぼく / 5歳の妹 / 4歳の弟 〉は父に連れられて、この手記のように逃げねばならなかった。そんなことができただろうか。その後の、104歳で存命の母、80歳のぼく、78歳の妹、77歳の弟、の人生は存在しているだろうか。
 手記を読んでいると、「たまたま、ラッキー!」ではない、なにかわからないけれど、深い意志の存在を思うことがあります。

 台風が近づき、雨で外の仕事はできません。それでも黒豆の枝豆狩りに来た人があり、雨合羽で畑に行きました。
 龍神さま、今年は大活躍なのか、雨、雨、雨ですね。山田錦の稲刈りもまだ残っています。
 どうかよろしくおはからいください。

 父の『引揚げ記』 (16) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で

 ソ聯兵を迎える家ではなかろうか。或いはソ聯兵が既に入り込んでいるのかも知れない、と胸を波立たせながら、おずおずと歩いて行く。鉄道を横切って駅らしい建物を見ると、朝鮮の人々がたくさん集って、騒いている。屋根の上に登って大声で叫んでいる人もある。あれはきっとソ聯兵を迎える為の集りかも知れないと、恐る恐る駅に辿りつく。
 窓口を覗いて「京城行の汽車は何時に出ますか」と尋ねると、駅の人はじっと私の顔を見ていたが、
「今日はない。明日の朝まで汽車はもうない」
 と云う。がっかりである。仕方がない。今夜はこの連川に宿をとらねばならないので、旅館を探した。
「今晩泊めてもらいたい」
「宿は一杯で止められない」と日本人である事を知っているので、すぐ断られる。
「どんな室でもいいから」
「どんな室も空いていない」
 日本人であるが故に、天下に眠る家のない哀れさである。その間に日はとっぷりと暮れてしまう。仕方がないのでこの上は京城まででも歩いて行こうと覚悟を決めて、歩き出した。
 しかし足は痛むし家のない真っ暗な道を歩き続けていると、汽車の音がした。その方向に進んでいくと「金谷」という駅に着いた。汽車の事を聞いてみたが、明朝まで汽車はないという。仕方なく宿を探して頼んでみたが、日本語で話をするものは相手にしてくれなかった。
 暗がりで日本語の話をする者があるので、その方をよく見ると日本の兵隊である。十名ばかりの兵隊さんが既に武装を解除されて、地べたの荷を枕にぐったりと眠っているようであった。これ等の兵隊達も今夜宿る家もないので、この地べたで眠ると云う。
 私は空腹でへとへとになっているので、もう動く事が出来ない。やっと駅に辿りつくと駅のベンチに横になって眠った。
 翌朝目が覚めてみると、真っ暗なのに駅の切符売りの窓口には、二十人ばかりの人が列をつくって並んでいた。私は寝ぼけ面をしながら後に続いた。私のところまで切符を売ってくれればいいが、と気を揉みながら順番を待った。
 やがて私の後にまた二十人位の列が出来たと思う頃、やっと切符を売り出した。皆朝鮮語で切符を買っているのに、私一人は日本語で買わなくてはならない。その日本語が哀れに思えてならなかった。敗戦の日本の悲しい運命であった。私の後五人ばかり売られると切符は売り切れた。
 やれやれよかった、と胸をなで下ろす。暫く待っていると汽車が来たので、それに乗った。座席に座ると、ちょうどその前に朝鮮の子供が二人座った。二人の子供はトウモロコシを持っていてしきりにかじっている。昨夜も今朝も何も食べていないので、お腹の虫がくうくうなって、口の中は唾で一杯になる。まさか分けてもらうわけにもいかないから、眼を閉じてじっと我慢した。
 汽車が京城に近づくにつれて、日本人の姿もあちらこちらに見られるようになった。駅に止まっている貨物列車の中にたくさんの日本人が住んでいて、そのあたりにたくさんの洗濯物が干してある。そんな貨物列車が幾つも連なってある。戦に敗れた日本人が力一杯生きている姿を、しみじみと眺めるのであった。  (つづく)
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父の『引揚げ記』 (15)

2017年10月21日 01時48分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 黒豆はよくできている。枝豆もおいしい。が枝豆として賞味するのはそろそろおしまいです。今年は「出来」はいいけどムシもしっかり入っています。無農薬だと半分は「ムシさん用」と覚悟しなければなりません。12月になったらお正月用の黒豆を収穫します。


 父の『引揚げ記』 (15) 昭和二十年八月1十五日 朝鮮の山奥で
                        ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 薄暗くなった頃、やっと一人の人が来るのに出会った。道を尋ねるが、その人には日本語がわからない。仕方がないのでまた歩き出した。そして日は暮れて真っ暗になった頃やっと家が見つかり、あゝ、これで助かったのだと言う心持ちで一杯になった。
 家のある道を歩いていると、このの警備隊が私を取り巻いた。そしていつものように、どこから来たのか、どこへ行くのか、これからどうするつもりかなどと尋ねてくる。それに答えて、このに宿があるかと尋ねた。「一軒ある」と云って警備隊の一人がその宿まで連れていってくれた。
 宿に着いて案内を請うと、奥の方からお爺さんが出てきたので、「今晩泊めてほしい」と云うのであるが、その言葉がわからない。仕方がないので黙って立っていると、すぐ近くに涼んでいた若い男が日本語がわかったとみえて、お爺さんに通訳してくれた。
 それで初めて話が通じ、一晩泊めてくれるという話を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。昨日から脱いだことのない地下足袋を脱いだ時の心地よさ。今思い出しても夢のような心持ちであった。
 背中のリュックを下ろし、そこで昼間分けてもらった煙草の葉を新聞紙に包んで、それに火をつけて吸った。その味のうまさ。真っ暗なオンドルの床に横になった。
 宿のお爺さんは日本語はわからなかったが、私の室に来ていろいろな世話をしてくれた。足の裏に出ている豆も潰してくれた。そして伊川を出発以来初めてゆっくりした夜を、室の中に体をのびのびと伸ばして一晩ぐっすりと眠った。
 二日分の眠り不足を、ゆったりとこの一軒の宿で取り戻すことができた。米を出してご飯を作ってもらって朝食をすませ、お昼の辨当のおにぎりまで作ってもらって、清清しく朝早く出発した。
 思いは連川へ連川へ。ここから八キロメートル先にあるという連川を目指して歩き続ける。八キロメートル位なら午前中に到着する事が出来るであろう。そう思いながら山を越え坂を下りひたむきに歩く。
 午(ひる)近くなって人に出会ったので、その人に尋ねてみると、
「まだまだ連川まではまだ半分も行っていない」と云う。朝鮮のキロメートルは当てにならないのだなあと思った。
 そこで道端の草の上に腰を下ろし、宿で作ってもらったお握りを食べる。昨夜ぐっすり寝たせいか、今日は割に元気で歩くことができる。だが足の裏の豆は破れて相変わらず痛んだ。
 午後になって雨が降ってきた。私は一軒の軒先に立って雨を避けた。中から人の声がする。
「中に入って休んで下さい」
「有難うございます。今何時になりますか」
「はい、もう三時です。どうかお入り下さい」
「いや、急ぎますから」
 と云うと、二つばかりの梨を恵んでくれた。
 日が暮れるまでにどうしても連川まで辿りつかなくてはならないので、また歩き出す。幸いにも雨はそうひどくならなかった。歩いている間に幾度か朝鮮人に怪しまれ、人に問いただされながら、ひたむきに歩いていると突然
「ポーッ」
 と大きな汽笛の音が空に響いた。
 その音を聞いたときの嬉しさ。山の中に入って暮らすようになってから何年も聞いたことのなかった汽笛であった。
 いよいよ連川だ! さあもう一息だと足の痛さも忘れて急いで歩く。だが行けども行けども駅らしいものはなく、鉄道も見つからない。
 道が二又に分れているところまで来たので、その辺に遊んでいる子供達に道を尋ねると、あの向うの山を越えねばならないのだと云う。
 その山さえ越えれば、すぐそこに駅が見えると思いながら山を登って行くが、木が茂っているばかりで、進めども進めども視界は開けてこない。足はじくじく痛い。道を尋ねようにも尋ねる人もいない。たまに人に出会ったと思うと、その人は私を咎めて、私を責めるばかりであった。もうこの上はやけくそになって歩くばかりだと歩いていると、やっと本道に出た。ほっとして顔を上げると、向うに赤屋根が見える。  (つづく)
 
 
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父の『引揚げ記』 (14)

2017年10月20日 04時51分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは雨だったので畑に出られません。ひよどり台「しあわせの村」の温泉に行きました。神戸の北須磨に住んでいたときはよく行った温泉です。あの広さはいい。気持ちが広がります。道子さんは遠くの友に黒豆を送っていました。「今年が最後になるかも」とコメントをつけたりして。広い畑は来年までつくるつもりですが、いつ、なにが、あるか、わかりません。気持ちはわかります。
 父の『引揚げ記』はもう数回つづきます。あの敗戦時に、とりわけひどい目に遭った体験ではありませんが、ぼくは読むたびに「もし母と7歳のぼくと5歳の妹と4歳の弟がいっしょだったら、どうなっていただろう」と思います。

 
 父の『引揚げ記』 (14) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で 
                   
                        ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 やがて家も見えず人も通らない山道に出ると、若者は私の荷物を持ってくれた。その若者はなかなかよく歩く。私は後れながら疲れた足を引きずって、若者を見失うまいとついて行く。それでも背の荷物を持ってもらっているので少し元気になり、どうにか若者に後れないようについて行った。
 二人は野を過ぎ山を越え川を渡って、かれこれ四キロメートルは歩いたと思われる。だが行けども行けどもきりがない。橋のない川を渡るときは、地下足袋のままざぶざぶと歩いて渡るのであるから、破れた豆に水がしみ込んで、じかじかと痛む。だがそんな事は構っていられない。ただ若者に後れまいとついて行く。
 歩き続けて安寧が近くなると、若者は私に向って「もう荷物はお返しする。私はここで別れる」と別の道に入り込んでしまった。安寧に着くと、なる程大きな町である。この町にはあちらこちらに人々が集り合っていて、じろじろと私を見つめる。そして中の一人が朝鮮語で話し掛ける。私は黙っていると、
「お前は日本人か」
「そうだ」と答える。
「今日このにソ聯兵が入って来る。お前はどちらから来たのか」
「伊川から」と答えると朝鮮人達は驚いていた。
「何をしにこんなところまで来たのか」
「京城に行く為に来たのだ」
「京城なら方向が違う。鉄原の方を通って行かなくてはならない」
 そこでソ聯兵との関係などの事情を話した。
「この巴(ゆう …… 街のこと)にも日本兵が一人残っている。その家を訪ねてみないか」
 と朝鮮人は云い、案内する人を一人つけてくれた。残っている日本人の家を訪ねると、それは郵便局長さんの家であった。
 初めて会った日本人同士であるが、なんとなく話が合う。ソ聯兵の噂、日本のこれからの将来等を話し合った。しかしいつまでも話している事は出来ないので、水を一杯恵んでもらい、次に目指す連川への道順を尋ねて別れた。
 その家を辞して歩き出すと、いつの間にかぞろぞろと朝鮮人が私の後からついてくる。飲食店を見つけてそこに入ると、また朝鮮人はじろじろと窓から覗き込んでいる。
「何か食べる物はないか」
「何もない。マッカリ(日本の『どぶろく』)がある」
 酒を飲んでいるような暇はないのであるが、今朝から何も食べていないので、朝つくってくれた握り飯を食べながら酒を飲む。食べ終わって、煙草に一服火をつける暇もなく外に出て歩き出す。歩くとまた後からぞろぞろ人がついてくる。飲食店で休んだせいか足がジクジクと痛み出し、一歩も歩けなくなる。
 致し方なく私は道端の草の上にごろりと横になった。すると飲食店で飲んだ酒の酔いと疲れが一緒になって、すぐ眠ってしまった。飲食店を出たのは午後三時頃であったが、目を覚ますともう四時になっている。しかし眠ったせいか、疲れが少しうすらぎ楽になった。連川へ連川へと一歩一歩踏みしめながら歩いた。
 次のまで歩けば旅館があるという話を聞いていたので、天を仰ぎ前方を眺めて、唯ひたすら歩くが、歩けども歩けども山ばかりで一軒の家もない。風邪がざわざわと木の葉を揺すぶって、雨雲が垂れてくる。雨が降るかも知れない。立ち止まって後方を見て、後がえりしようと何度考えたか知れない。
 足は痛むが今はそれどころではない。山の中にたった一人取り残された私なのである。とにかく人のいるところまで歩かねばならないと、教えてくれた人々の言を信じながら歩いて行く。道は行き詰まっては曲り、また次の山が待っている。行けども行けども家はない。若しや道を間違えたのではなかろうかと考えれば、夏の長い日ももはや暮れようとしている。 (つづく)
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父の『引揚げ記』 (13)

2017年10月19日 03時11分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは朝から日が昇って晴れです。畑仕事ができる。行ってみると畝間に雨水がたまっています。曼珠沙華が咲いている間は土手の草刈りを控えていました。8月末に刈ってから一ヵ月半。久しぶりにきれいにしようと、土手の草刈りに精を出しました。畔のまわりの遊歩道も畑を一周できるように草を刈りました。やっと晴れたと思ったら今日はまた雨です。田んぼの稲はまだ残っているのに。あーあ。
 

     父の『引揚げ記』 (13)
     昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で   ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 昨夜生米を噛んでから何も食べていないので、ご飯のうまい事うまい事、またたく間にごのご飯を食ってしまった。
「あなたも無事、日本に帰れればいいがなあ。また日本に行っている徴用の朝鮮人も無事に帰ってくればいいのだがなあ」
 と若者は大変美しい心の持ち主であった。
 その若者はお昼の辨当まで作ってくれた。地獄で佛に会ったような拝みたい心を持っているその男と別れて、また歩きはじめる。
 人間はお互いに敵視していても、また人の道と誠意は常に変らないものであるとつくづく考えさせられた。
 また小さな山の小道を歩く。坂道なので背の荷物のリュックが肩に食い込む。今日中に連川まで辿りつかなくてはならないと、一歩一歩歩くのだが、それが堪えられない程疲れていて苦しい。気ばかり歩くのだが足が進まない。一山越えても家はなくまだ次の山が待っている。
 その頃にはもう足の裏が針を差すように痛くて、一歩も歩けなくなった。石に腰を下ろして地下足袋を脱いでみると、足の裏にできた大きな豆が破れて、血が流れているからである。思ってみれば昨日伊川を出発してからもう何十キロメートル歩いた事か。一休みしたいがその余裕の時間はない。痛む足を引きずり引きずり歩いてゆく。
 向うから歩いて来る人があるので、連川への道を尋ねるとその人も日本語がわかって、こちらは道が違うというのである。この時程がっかりした事はなかった。
 今まで歩いた事が何にもならない。仕方がないので私は、地下足袋を脱ぎ、裸足になって今まで来た方向と反対の道を歩み出した。
 一人の朝鮮人が私に近づいて来ると、
「お前の持っている背中の荷物は何か」と尋ねる。
「背中の荷はシャツで、袋の中は米だ」というと、
「今こちらでは塩がなくて皆が困っている。若し塩を持っていたらいくらでもいいから分けてもらいたい」と云う。
 生憎私は持っていないのでどうする事も出来ない。
「煙草はいらないか」と云うから、
「ほしい」と云うと、
「それなら煙草の世話をしてやるから銭を出せ」と云って一軒の家に連れて行って、乾燥中の煙草を五十円ばかり分けてもらった。
 そして四キロメートルばかり歩き続けていると大きなに辿りついた。
 ところがそので山の道は途絶えている。どうしても山を越えなければならないという事であったので、汗を流しながら山に登って行く。すると山の道は尽きて一歩も歩けなくなった。そして向うに見えるものは山ばかりで、どこまで行っても開けそうにない。
 疲れ切った時の山登りであるので、体は一層疲れてしまった。どうしたらいいのか困っていると、一人の若い者がそこを通ったので、
「連川へはどの道を行ったらいいか」と尋ねる。
「連川はここからまだまだ遠いですよ」と若者は云う。
「何でもこちらの山を越えると辿りつく、という事を聞いてきたのですが」
「こちらから行けないではないが、先ず鉄原に出て、それから行くのがはやい」
「それはわかっているのだが、鉄原にはソ聯兵が入っているという事だから、それに捕まらない為にこちらの方に廻ったのです」
「ここのでも今日ソ聯兵が入って来るというので、各家庭から鶏を集めたり卵を集めたりしてその歓迎の準備をしています。私はこれから作寧に行くところです」
 私の行くところでは既にソ聯兵が入っているので、この上は覚悟しなくてはならない。まあ行き着くところまで行くまでだ、と覚悟を決める。
「それでは途中まで一緒に歩いてやる」
 と若者が云うので、大いに助かって感謝した。
 あまり疲れているので「荷物を持って下さらんか」と頼むと、「さあ」と考え込む。「お金はいくらでも出す」と私が云うと「では百円下さい」と云う。私は早速百円を出した。
「ちょっと待って下さい。もう少し先まで歩いてから持ちますから」
 若者はお金を受け取って、そう答えた。変なことを云うなと思って、若者について行くと、「人に見られると具合が悪いのです」と云う。
「それはどうして」
「このでは日本人と仲良くした人々は皆やられてしまった。私もあなたの荷物を持ったという事がわかれば、後での人々にひどくやられてしまうのだ」
 私はそれを聞いて、さもありなんと思った。  (つづく)
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父の『引揚げ記』 (12)

2017年10月18日 00時47分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
やっと雨がやんだので、公民館まわりの草刈りを少ししました。道子さんも来て、きれいに掃いてくれました。あと、鉢植えの花をあしらえばいい感じになるでしょう。畑にも寄りましたが畝間に雨水がたまり、仕事になりません。まだ稲刈りのすんでない田んぼもあるのに、コンバインが動けません。なんとか晴れてほしいです。


父の『引揚げ記』 (12) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

「ちょっと待て。お前は京城に行く道を知っているか」と云う。
「知らない」と答えると、
「この道を行けば鉄原を通らねばならない。鉄原にはもうソ聯兵が入り込んでいるから、途中で山越えをして連川という所へ出なくてはならない」と教えてくれる。
「お前は朝鮮語を知らないな」
「連川に行くにはどう行けばいいか」という朝鮮語を、何度も、何度も云ってていねいに教えてくれた。
 暫くその言葉を覚えていたが、歩く事に紛れて忘れてしまった。
 それからどのくらい歩いたかわからないが、もうへとへとで足が動かなくなる。歩いても歩いても、家はなく道は暗く、今夜一夜眠る家とてない。朝まで歩くつもりであったが、もうこれ以上歩けない。道端の草の上に横になって静かに目を閉じる。
 風の音がざわざわと音を立てて、疲れている筈なのに眠れない。私の体の上を烈しく風が吹いてゆくので寒くなる。そのうち間もなく眠るにちがいないと思ってじっと目を閉じていたが、ぽつぽつと雨が落ちてくる。こうなれば寝てはいられない。
 次のまで行ってそこで休ませてもらはねばならない、と歩き出す。次のまでどれ位歩けばいいのかもわからない。それでも歩かねばじっとしてもいられない。雨の中を足を引きずり歩く。はいている地下足袋は水を含んで重くなり、背のリュックも水に濡れて重くなる。岩陰でもあれば少し休むのであるが、その岩陰もない。
 それからどれ程の時間歩いたかわからないが、やっと一軒の家に辿りついた。もう夜も大分更けているのだから、起こしてもここの人は起きてくれまい、宿を頼んでも泊めてくれまい、なにしろ朝鮮人には敵国となった外国の人だから。
 せめて雨のかからないところに入ろうと、その家の軒下に入り込み、横になることもできないでうずくまっていると、雨だれがぴしぴしと跳ね返って顔に当たる。肌を雨が伝って流れる。そして前からも雨がかかる。
 でもどうする事もできないので、背のリュックを下ろし、その上に腰を下ろして眠ろうとするがなかなか眠れない。仕方なく今度はぬれた地べたに腰を下ろし、リュックにもたれかかって眠りにかかる。それでもさすがに昼間の疲れが出て少しうとうとする。
 ふと目を覚ましてみると、あたりは真っ暗であるが、幸いにも雨はやんでいた。稍疲れが回復したのでまた歩き出す。
 少し歩いていると、五、六軒の家が集まって建てられている朝鮮人の家がある。そこの縁(朝鮮の家の前にはみな『縁』がある)に無断で横になってぐっすり寝込んでしまった。人声がするので目を開けてみると、もう明け方になっていて、私の周囲を数人の人が朝鮮語で何やらささやき合っている。
「京城に行くにはどの道を行けばよいのか」と尋ねても誰も答えてくれない。朝鮮人は顔を見合わせているばかりである。
 私が困っていると一人の男が出て来て、
「あなたは日本人ですね」ときいてくる。
「はあ、京城に行きたいのですが、その道がわからなくて困っているのです」
「実は私も戦争が終るまで日本の徴用に使われていて、今やっと帰って来たのだ。日本はえらい事になりましたなあ」と同情して慰めるように云う。
「全くです。もうソ聯兵がすぐ向うのまで入って来ているそうですよ。今日はこのまで攻めてくるのだそうです。だからあなたがソ聯兵に見つかるまいとするなら、これから少し遠いがすぐ山の中に入って山越えをしなくてはなりません」
 とくわしく道順を教えてくれた。
 私は教えられた通りの山道を、雨にぬれた道に足をとられて滑りながら、雨で重くなったリュックを背負って進んで行くと、山の中に一軒家があってそこに若い青年が佇んでいた。私はお腹がすいてたまらないので、
「お米を炊いてくれないか」と話し掛けた。
「お米は持っているか」と若者は日本語がわかり、親切である。
「ここに持っている」と米を差し出すと「ではこちらに入って待っていて下さい」と家の中に案内してくれた。しばらく待っているとその若者が熱いご飯を持って出てきた。  (つづく)
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父の 『引揚げ記』 (11)

2017年10月17日 00時13分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 稲刈りの一番大事なときなのに連日雨で、きのうはさすがにコンバインもお休みでした。買い物に出て、母の顔を見て、帰ってきましたが、途中見掛ける田んぼには、まだ稲刈りの終わっていない田んぼがかなりあります。なんとか晴れてほしい。


父の『引揚げ記』(11) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で  ※ 仮名遣い、用字は原文のまま

 校長の家族と私は、子供達の手を引いたりまた待ち合せたり、先に行ったり後に行ったりして歩くが、小さな子供がいるので思うように歩めない。そんなのろい歩みであるが、今にもソ聯兵が来るか来るかと後を振り向き振り向き歩んで行った。とうとう我慢が出来なくなって、私は一人校長の家族達と離れてしまった。
 私は歩きながら考える。こんな国民服を着てきては危険だ。朝鮮人に頼んで、朝鮮服を借りようと思う。
 早速幸いに私達の住んでいた面の道路であったので、心やすくしていた朝鮮人の家に立寄り、朝鮮人の服と国民服をかえてもらう。その朝鮮人は親切に、私に肌着まで恵んでくれた。
 私は別れを告げると、唯ひたすらにてくてくと一人歩き続ける。ところが夕方近くなって、後から走ってくる者がある。何事だろうと思っていると、その男はさっき洋服を取り換えた朝鮮人である。
「先生、私が洋服を日本人と取り換えた事がわかると、私がソ聯兵に連れて行かれてしまう」
 と云う。きっと誰かに入れ智恵をされたのだろう。私は残念に思ったが、朝鮮服を脱いで返してやる。その代わりの国民服は持ってきていないから、結局国民服を一着取られたような形になってしまった。仕方がないので背のリュックの中から一着の服を出してそれを着て歩く。
 歩いて歩いて歩いて、日はとっぷりと暮れてしまう。
 京城へ京城へ! 憧れの京城を目指して唯ひたすらに真っ暗な道を歩き続ける。京城までここから三十キロメートルあるか五十キロメートルあるかもわからない。でも一歩一歩京城に近づいているのだ、という希望を抱いて歩き続ける。
 京城には鉄原を通って行かなくてはならない。その鉄原には、既にソ聯兵が入り込んでいるという事である。何とかそのソ聯兵に見つからないようにと、思いめぐらしながら歩いた。
 道路の横に五、六軒の家があり、そこを通り過ぎるとたくさんの人が集っていて、私をじろじろと見つめる。背にあるリュックの荷物は益々重く感じ、肩に食い込んでくる。腹が空いて歩む力もつきてしまって、流れる汗を拭いながら、道の横の草むらに崩れるように倒れる。
 涙が出てくる。どうしてこんなつらい目に遭わなくてはならないのだろう。果たして京城まで歩けるだろうか。
 食べる物がないので、生の米をぽりぽりかじりながら元気を出そうとするが、もう立ち上がる元気もない。こうなれば欲も徳もない。唯ひたすらに生きたかった。背のリュックから服を捨て下着を捨て、終りには金も重いので捨てた。お米もあまり重いので畦道に捨てる。翌日こんな品物を見た朝鮮人はどう思うであろうかなどと考えながら捨てる。足に巻いたゲートルも捨て、少しでも重みのある物はみんな捨ててしまった。しまいに残ったのは、一枚の着替えのシャツだけであった。若し日本に帰って暮すようになっても、この一枚のシャツだけで暮らせばよい、とその時は思っていた。
 今度はリュックがさすがに輕かった。これにより稍元気を取り戻してまた歩き出す。すると道が二又に分れている。どちらへ進んだらいいのやらわからないので、幸いそこに涼んでいた朝鮮人に、
「京城に行くにはどの道を行けばいいか」と尋ねる。
「モウライオ(日本語はわからない)」と答える。
 仕方がなく私は運を天に任せて右の暗い道を歩き出す。暫く歩いていると、後から駆けてくる人があって、
「おーい、ちょっと待て」と叫んでいる。
 私はどきっとした。そう叫んでいる人は敵か味方か、逃げようか待っていようかと迷いながら道の横にしゃがんでいると、どやどやと四、五人の人々が私を取り囲んで立ちはだかった。中の一人が何やら朝鮮語で話し掛けてくる。何の事かわからないのできょとんとしていると、
「おい、お前は日本人か」と一人が云う。
「そうだ」と私は答える。
「どこから来た」と問う。
「伊川から来た」と答える。
「これからどこへ行くのか」
「京城へ行く」
「背に背負っているものは何だ」
「着替えのシャツだ」
「置いていけ」と云う。
 私が困っていると、中の一人が「お前は西面の校長だったなあ」と云う。
「そうだ」
「まあまあ、この度は許してやろう。行っていいよ」
 と中の長のような人が云ってくれたので、ほっと胸をなで下して歩み出す。    (つづく)
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父の『引揚げ記』  (10)

2017年10月16日 02時06分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
田舎では一番晴れてほしい「稲刈り」のときなのに、雨のよく降る天気がつづきます。きのうの日曜日は、コンバインも動けませんでした。うちはウッドデッキにオーニングを繰り出して、黒豆の枝豆をあちこちに送りました。大志くん一家も枝豆にするのを手伝ってくれました。


  父の『引揚げ記』  (10)

    昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で   ※ 漢字、仮名遣いは原文のままにしています。


 警察官は腰にピストルを下げて町中を歩き廻って警戒している。そんな物騒な毎日が続いている或る日、パンツ一枚だけはいた裸の日本人が入り込んできた。
 彼の言葉によると漢口から逃れてきたという。ソ聯兵が入り込んできたので夢中で山の中に逃げ込み、一週間も知らない山の中の道を歩き続けて、やっとここまで辿り着いたという。彼の持っているものといえば、五合ばはりの米だけである。彼はその米で山の中で炊事しながら夢中で歩き続けたのだという。若しソ聯兵が入ってくれば、真っ裸にされて、ソ聯領に連れて行ってしまうというのである。
 この男はこれから京城まで歩いて行くというので、伊川ではその男を保護し、食事や洋服を與えてやった。男は涙を流し、何度も何度も頭を下げ、多くの日本人に見送られて出発していった。
 そのうちにソ聯兵がどんどん侵入してくる、という噂が次第に広まってくる。一度ソ聯兵に捕まると、こっぴどくいじめられる。殺された者もあるとか或いはソ聯領に引っ張られて行ったとかいう噂が流れて、伊川の日本人は「ここにいては危ないな。早くどうにかしなくては」と皆がささやき合った。
 そこで警察が世話をして、一般市民は京城まで引揚げる事になった。各人は手廻りの荷物一個ずつ持ってトラックに乗れという事であったので、皆トラックに乗り込む。
 ところがその一台のトラックに乗れない人々はどうする事も出来ず、後に残されてしまった。私もぐずぐずしている間に取り残されてしまった。取り残された人々は気が気でなかったが、どうにもなす術がなかった。
 頼りにしている警察の人々も、別の一台のトラックにたくさんの荷物と一緒に乗り込んで、春川へ引揚げる為に出発していってしまった。
 伊川には後にわずかばかりの日本人しかいなかった。そのわずかの日本人の中に取り残された私は、なす術もないので、例の腹の大きい奥さんをかかえている日本人学校の校長の家へ行く。
「いよいよ残されたなあ」
 と私がささやくと、
「私の家は子供が生れるまではどうしても動けない」
 と校長が云う。
「お気の毒ですなあ。それまでソ聯兵が入って来なければいいが」
 二人で話していると、そこに一人の朝鮮人巡査が入って来て、
「ソ聯がすぐそこまで入り込んで来たという通知があった。早く引揚げて下さい」
 と急いで知らせた。
 それはもう昼近い暑い夏の日であった。
 引揚げて行く私達一行は、日本刀を持っている警察官と他に校長をしていた人の二家族計十二名である。警察官の家が、親二人に子供三人、校長の家は親の外に小さな子供四人、それに私を加えて十二人なのである。
 十二名の日本人が目指すは先ず鉄原だということで、歩き出す。背に負った荷物は重く、気ばかり焦って足は思うように運ばない。ソ聯兵に追いつかれたらそれまでである。何度も何度も後を振り向いては歩き続ける。
 子供がいるのであまり早くも歩けない。とうとう堪えかねて、警察の人は皆を待っていることができなくなり、どんどん進んで行ってしまった。後の残されたのは校長の家族と私だけである。
「道路を歩いたらソ聯兵に見つけられる。山の中に入ろう」と校長は云う。
「この山を越したらどこかへ出るだろう」などと話ながら山に入っていく。いままで一度も登ったことのない山だから、どこをどう歩いていいかわからない。道がある方向に向かってどんどん歩く。だが歩いている間に進んで行く道がなくなってしまった。
「これからどうしたらよいだろう」
「この山を越したらどこへ出るだろう」
「鉄原まで辿り着いたとしても、鉄原はもうソ聯兵が来ているという事なのでどうにもなるまい」
 行く先は全くの暗闇である。
「まあとにかくご飯を炊いて腹ごしらえをしよう」
 と校長の奥さんが云う。
 そういえばもうとっくに正午は過ぎて、午後二時になっている。皆は飯を炊くとそれをお握りにしてぱくぱく食べた。腹ごしらえが出来ると少し元気になる。
「こんな道のない山の中を歩くより、よくわかる道路に出て歩こうではないか」
 という相談がまとまり、再び一度歩いた事のある道路に出た。    (つづく)
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父の『引揚げ記』 (9)

2017年10月15日 01時05分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨が降りそうな、また降るときもある、そんな天気の一日でした。それでもコンバインは田んぼを走り、稲刈りがすすみます。ずっとこんな天気の予報なので、仕方ありません。ぼくらも畑に出るかどうか。思案しても仕方がないので黒豆の枝豆を採りました。ぼくは公民館周りの草をナイロンコードで刈りました。ちょっときれいになった感じです。老人会でやるつもりでしたが、稲刈りの主力は老人会のメンバーです。こちらでやることにします。

     父の『引揚げ記』 (9)

     昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま

 鉄原の近くの駐在所の主任は、河原に引っ張り出されて叩き殺され、家は焼かれてしまったという事であった。だが殺された日本人を、惜しいことをしてしまったと誰か嘆いてくれたであろうか。それはその家族だけであった。後の日本人達は自分がいかに生き延びるかの思いで一杯であった。
 実際に朝鮮人は終戦までと比べてみると、打って変わった態度であって、その変りようはあきれるばかりであった。
 十七日夜になって、伊川郡に住っている日本人達がそろい、お互いに無事である事を喜び合った。殺されたとうわさの校長もやっと晩になって辿りついて、無事である事が知れてほっとした。
 各家庭では食糧を持っていないので、当分の食糧という事で一人あたり二升ずつの米が配給され、各旅館とか或は心安くしている知人宅だとかに厄介になる。
 伊川郡内に住んでいる日本人が全部集ればそれでも六十人位にはなる。それ等の日本人は全く朝鮮人の敵兵に囲まれたようなものであるから、日本人同士で昼となく夜となく寄り集って、伝わってくるデマとか或いはどこまでが真実かわからないような噂を話し合う毎日であった。
 広島に大きな爆弾が落されて、大変多くの人が死んだとか、誰かれは鉄砲で打たれて死んだとか、或いはソ聯兵が進入してきて、多くの日本人は命からがら山の中に逃れて山の中で暮らしているとか、話は次から次へと尽きなかった。
 私はお世話になっている校長さんの奥さんのお腹があまり大きく苦しそうなので、ご厄介になるのが心苦しく、とうとう朝鮮人の旅館に宿泊する事にした。
 その旅館には同じく校長をしている日本人が泊っていて、その人も妻子を内地に残しているので、いろいろな事を話し合った。
「若し米人が入り込んで妻が辱められていたらどうするか」
「まあ仕方があるまいなあ」
「お前は許すか」
「許すより仕方があるまい。どうせ日本は戦争に敗れたんだから、それ位我慢しなくてはなるまい」
「うん、俺もそう思うなあ」
「俺は日本に帰ったら百姓をする」
「俺はこの際自由な立場で職業を探す」
「だが何といっても早く帰って日本の様子が知りたいなあ」
「早く帰って妻子に会いたいよ」
 日本人がちょっと集まると、早く帰りたいという事が嘆息のように口をついて出てくる。しかし朝鮮に長年住って、朝鮮に多くの土地や借家を持っている人々はそれに執着して、「ここに止まってこの土地の土となる」と頑張る。或いは「せめて今までの財産だけは處理して行きたい」という者もいた。
 だが周囲の事情はだんだん物騒になって、朝鮮人が暴動を起こして、日本人が殺されたという噂が流れる。或いはこの伊川でも暴動が起こればいよいよ覚悟を決めなくてはならない。若しそんな事が起ったら、日本人は皆警察に立籠もって、いさぎよく戦って死ぬるのだとうような司令が、秘密のうちに上の方から日本人に伝えられる。
「いよいよ最後の時が来たか」日本人の誰もが顔をこわばらせて緊張する。警察に集まった日本人は、最後の戦いに警察に保管してある二十丁ばかりの銃を持って敵に向って行こうという事であった。
 こんな不安な日が、二、三日続いたある日、武装した日本兵が十名ばかり伊川に入り込んできた。すると今まで大騒ぎしていた朝鮮人の示威運動はぴたりとやんだ。兵隊達は何もする事がなく、二、三日で他へ移動していった。するとまた金を鳴らしながらの示威運動が高まるという風であった。
 朝鮮人達は日本人に何か因縁をつけて、事を起こそうとしているのである。わざと日本人の前に立ちふさがり、何かわけのわからぬ朝鮮語で罵り、じろじろと睨みつけたりするのである。若しそれに逆らおうものなら、団体の力をもって日本人に刃向って行こうという雰囲気である。これ等腰の高い朝鮮人に対して日本人はじっと我慢するより外なかった。  (つづく)
 
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