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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

近くの民家に猪が来ました。

2010年09月29日 13時30分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 このヌートリアの親子の写真は去年の二月に撮りました。草を食べながらお母さんと散歩しているほほえましい図です。三月になって畑の大根が何十本とかじられているのを見つけ、檻を借りて捕獲してしまいました。でも道子さんは「今度ヌートリアが戻ってきたら、捕まえないでおこうね。どうしても食べられたら困るものはマルチでカバーするから」といってます。ぼくもそうしようと思います。
 ヌートリアはいいのですが、きのう猪が出ると聞きました。ゴミステーションで会った村の人が「お宅の畑の近くに猪が来たそうですよ」と教えてくれました。物音がしたけど飼い犬は吠えなかった、朝出てみたら庭に猪の足跡があって菜園の芋かなにか食べたようだというのです。おそらく裏山の向うの道をゴルフ場のほうから下りてきたのでしょう。もう一つ東の我が家の前を通る道を下りてきたら、畑に行くことになり相当に荒らされるでしょう。うちの畑に来るのも時間の問題かなー。
 いまはアライグマにサツマイモを横取りされないようにせっせと掘っています。30株の安納芋は全部掘りました。去年と比べると数が少ないようですが芋は結構大きくなっています。ナルトキントキとベニアズマがひと畝ずつ残っているので、今週中に掘ることにします。
 サツマイモを植えた五月は季節外れの寒い日が幾日かあり、枯死した苗もありました。根付く頃に寒いとあとでいくら暑くなってツルは伸びても、サツマイモは出来がわるいです。今年はどこともサツマイモの出来がよくないようです。我が家も大きさ、数ともに去年より劣りますが、とにかく掘ってしまうことにします。
 掘るのはいいけど捕獲も大事です。そこでアライグマ捕獲用の檻を数日前に仕掛けました。JAのおじさんの忠言にしたがってチキンラーメンを針金で檻の奥にくくりつけました。(エースコックのワンタンメンをつけてみたけど反応ゼロでした)まわりに饅頭を切ってばら撒きました。なおカラスには食べられないように檻の周りに杭を打ってテグスを縦横無尽に張りました。
 作業をしているとき、カラスは墓石の上や山のクヌギの枝から見ていて、しゃがれ声で交信していましたが、これでは手も足も出ません。ほくそえんで見ていました。ところがきょう畑に行ってみたら、饅頭が食べられています。檻はそのまま。カラスがテグスのすき間を学習したのでしょう。
 カラスはけしからん!! 
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来年のイチゴは二畝で。

2010年09月28日 05時01分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 来年のイチゴの畝をつくりました。今年のイチゴ畑の横に二畝。今年はイチゴを三畝つくりましたが、道子さんは手入れに忙し過ぎました。孫たちへのイチゴ宅配やイチゴ狩りと五月ひと月てんてこ舞いでした。あの忙しさは田舎暮らしのリズムに合いません。それに二畝でもイチゴは存分に食べられます。『イチゴ天国』を招来しようと頑張りましたが、二畝でもイチゴ天国を招来できると悟ったといいましょうか。
 写真は来年のイチゴ畝です。今年より2メートルあまり長くして畝幅も広くとり、草木灰、コープ瑞穂農園の堆肥を一輪車で何度も運んでたっぷり入れ、しっかり耕運してから元肥の割肥えを入れて畝を整形しました。そして雨のあと水をふくんだ畝に黒マルチをかけてひと月おきます。
 この畝の横には今年のイチゴの株を10株残して、ランナーを育てています。そこから苗をとって、150本を別の場所に移植しました。一人立ちした苗は11月になったら本植えします。イチゴはマルチをかけないで冬を越させます。寒さにもまれてつよくなるのです。
 三月になれば黒マルチをかけてイチゴの収穫にそなえます。こうしてイチゴは丸々一年かけてつくります。(ランナーの苗はまだたっぷりあります。入用でしたらいくらでもどうぞ)今年は10株を市松模様に残してランナーを育てましたが多すぎました。隣りのイチゴをたくさんつくる方は、ひと株のランナーから100本は苗をとると話しておられましたから、我が家程度のイチゴ畑なら五株からとる苗でも十分過ぎます。
 写真の向うに軽トラックが見えるでしょ。我が家の軽トラです。チンタラ2分歩いて畑に行くことがなくなりました。いつも軽トラに乗ってしまいます。いまではなくてはならぬ存在です。あまり感心しないと思いつつやっぱり乗る。そういえばこの頃は買物に行っても階段よりエスカレーターやエレベーターに乗ってしまいます。
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『ムシナックス』で夜盗虫のお母さん蛾を捕獲しました。

2010年09月27日 04時36分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう紹介した捕虫用粘着シートは『ムシナックス』という名前です。黄色と青色のシートがあって、それぞれの色を好む虫を捕獲します。畑の6枚のシートをきのう調べてみたら、それぞれのシートに夜盗虫のお母さん蛾が捕まっていました。卵を産みに小豆にやってきたのです。ミドリカメムシその他いろいろな虫も捕まっています。いくらか有効なようです。一坪の農園に三枚使用とありますから、我が家の小豆畝では間隔が空き過ぎですが、それでもかなり捕獲できています。一、二ヵ月有効だそうです。
 本命の『アズキノメイガ』は捕まっていませんが、これはもうアズキノメイガが飛んでいないからでしょう。卵を産みつけたのはひと月くらい前で、いま卵から幼虫になってサヤに入っているのでしょうか。蛾の飛ぶ時期にムシナックスを立てれば有効だったかもしれません。
 それにしても虫はどうやって「ここに小豆があるぞ!」とか「レンゲが咲いてるぞ!」と知り、仲間を呼ぶのでしょう。一昨年、レンゲ畑で花にミツバチが飛んでいるのを見て、不思議な気がしました。レンゲ畑なんか周囲にないのにレンゲが咲くとちゃんとミツバチが来ます。大豆の花が咲いても黒豆や小豆の花が咲いてもオクラやキュウリやナスビやカボチャの花が咲いてもちゃんとムシがやってきて受粉する。自然の精妙さに神の存在を感じる人間がいるのもわかる気がします。
 きのう安納芋を全部掘りました。国華園の通販で買った苗10本、水田種苗店で買った苗20本ともによくできていました。今年は五月になっても夜の気温が10度以下に下がったときがあり、サツマイモの中には枯死した苗もあったのに、安納芋はよく頑張りました。(少し弱ったナルトキントキの苗を『ダイキ』で安売りしていたので20本買って植えましたが全部枯死しました)
 芋虫が表面をガジガジかじった芋がちょくちょくあります。掘っていくと大きな芋虫やサナギが出てきます。残りのサツマイモ(ベニアズマとナルトキントキ)も早く掘ったほうがよさそうです。
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小豆のサヤがつきはじめました。

2010年09月26日 03時31分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 7月になって播いた小豆の花が咲き、サヤをつけはじめました。写真のサヤはマッチの軸の太さくらいす。小豆は一斉にサヤをつけるのでなく、五月雨式にだらだらと花が咲き、サヤをつけ、豆が実ってきます。ですからつくる人は、まだ花が咲いたり未熟なサヤがあっても、最多の小豆が実ったと思うときに刈り取ります。あるいは道子さんがやるみたいに、太く実ったサヤだけをつぎつぎとちぎって干します。
 そのとき無農薬の小豆ではサヤに必ずムシが入って、おいしい小豆を食べています。例外はありません。道子さんは、蛾が、いつ、どこに、卵を産み付けるのかを観察しながら、毎日二うねの小豆を点検し、ムシの入った枝を除去し、アセビなどを煎じたものをスプレーします。今年は電池式のスプレーでなく、霧吹きのようなハンドスプレーで、点検しながらより的確に葉の裏をねらってスプレーしています。去年は捕虫網で小豆の枝をたたいて、飛びあがった蛾を捕まえようとしましたがうまくいきませんでした。そこで今年は4ミリ目の防風網をかけようか、と考えたこともありますが夏の暑いときに空気がこもってよくないでしょう。
 ホームセンター・ナンバで、捕虫粘着シートを見つけて買ってみました。400円ほどでハガキくらいの黄色のシートが三枚入っています。これを細い竹の棒につけて小豆の横に立てておきます。するとムシがくっつくというのです。六枚のシートを立てて、夜盗虫のお母さん蛾が一匹くっついていましたが、あとは小さい羽虫だけでアズキノメイガはくっついていません。
 誘蛾灯はホームセンターでも売っていますし、通りがかった村の人が「誘蛾灯をつけたら蛾がいっぱいとれました」と声をかけてくれたのですが、家からコードを引っ張ってくるわけにもいかず電源がありません。無農薬で小豆をつくるのは、なんと大変な仕事なんでしょう。道子さんの努力し工夫する姿を、ぼくは感心して見ているばかりです。
 イチゴのランナーから苗をとって植え替えました。今年のイチゴ畑に10株残してランナーを育てたのですが、苗(宝交早生)がたくさん残っていますからどうぞ。
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雑草は草刈り機で。

2010年09月25日 06時39分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨のあと、しっとり湿った畑は草を抜きやすいのですが、秋の草はよく育っており、手で抜くとごっそり土がえぐれます。10月に入るとあまり伸びなくなるのでここは草刈り機で刈るのが一番いい。そこできのうは、畝間や遊歩道の草を刈ってまわりました。
 例の最強の雑草といわれるハマスゲも11月になると増えなくなります。勢力を張るのもあとわずかです。そこで一体どれくらいしぶといのか、どれくらいすぐ伸びてくるのか調べるために地面を削るように遊歩道のハマスゲを刈ってみました。
 写真の手前はハマスゲがびっしり生えていた遊歩道です。上の方は比較のために刈り残しています。12時頃にきれいに刈り、カメラを忘れていたので夕方四時過ぎに撮りました。ところがもうすでに刈った草が一ミリほど伸びています。あしたになれば一センチは伸びているでしょう。
 しかしハマスゲに畑を占領させるわけにはいきません。刈りながら考えました。
 そういえば近頃ギシギシをあまり見かけないがどうしているのだろう。ギシギシという雑草は、他の草と生長のリズムがちがい、すぐに伸びてきます。春の雑草の中では他を圧倒する速度で高くなります。また人参のような根が地中深く伸びて、すっかり抜いてしまうのは不可能です。耕運したり刈ったりした根のカケラが地中に残れば、そこからまた立派なギシギシが育ってきます。ほどなくこの畑はギシギシに占領される、と思うほどです。
 でも今年はギシギシがはびこって困るとは思いませんでした。しつこくはびこるスギナも、雑草が生い茂らない程度に刈っておれば大丈夫です。ハマスゲも防波堤のうねで侵入を防ぎ、畑をよく耕してつくっておれば、覆い尽されることはないでしょう。そう思うことにします。そうでないと草刈りをする元気が出ません。
 コイモのうねの両側、大豆や黒豆の畝間も草刈り機で雑草を削りました。畝間は広くとっているのですが(草刈り機を動かせるほどの幅です。400坪の広さのお陰です。)、ちょっと手元が狂うとサヤがびっしりの大豆やコイモを刈ってしまいます。気をつかいました。これで収穫まで草抜きをしなくてもいいでしょう。
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絵本専門店『空とぶくじら』と出会いました。

2010年09月23日 23時55分29秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは久しぶりの雨で外の仕事はお休みです。そこで滝野温泉『ぽかぽ』に入って骨休めをすることにしました。あそこは休日でもあまり混まないし、お湯は源泉100パーセントでちょっと塩辛く、疲れがよくとれるような気がします。それに番台に口頭で言うだけで『再入浴』できます。きのうは10時過ぎから入浴、昼食をとって広間で昼寝をして、2時頃から再入浴しました。
 昼食時に少しビールを飲んだので帰りは道子さんの運転。社から中国縦貫道に入って東条インターで下りました。南山西の信号で安国寺方面へ左折すると、右手に広大な造成地が広がります。一面に草が生い茂り、建っている家は一番奥の隅に一軒だけ。あそこに住む人は、山中の一軒家に住むより気味がわるいのではないかと心配します。
 一体あの家にはどんな人が住んでいるのか。興味津々。「ちょっと寄り道してみようか」「どうせきょうは畑には行かないからいいわよ」と車を造成地に乗り入れました。真新しい舗装道路が縦横に走り、公園もできています。でもどの区画も夏草が高くのびているだけ。人はだれもいません。
 家に近づくとメルヘンチックな建物で、仙人みたいな世捨て人が住んでいるのでもなさそうです。もっと寄ってみると『絵本専門店・空とぶくじら』とささやかな看板が出ています。
 ええっ! こんなところに本屋さん? 
 看板を見てもまだためらいはありましたが、『open』とあるので扉をあけてみました。
 木の床ですが靴のままで入れます。真新しいきれいな店です。店番はおじさんで、中には絵本が並んでいます。娘たちが幼い頃よく読み聞かせをした絵本ばかりです。『小さいおうち』『はなのすきな牛』があるかと思えば『きかんしゃやえもん』が。『ぐりとぐら』シリーズがあり、ピーターラビットの絵本があり、『しろいうさぎとくろいうさぎ』があり……、見覚え、読み覚えのある本がずらっと。別の棚には『ゲド戦記』シリーズがあり、安房直子さんの作品集も並んでいます。
 娘たちが来たら声を弾ませて思い出を語るでしょう。読み聞かせをしてもらっている孫たちの目も輝くでしょう。とっても素敵な絵本館と出会いました。車も人もいない道はいくら遊んでも走っても大丈夫。近くの公園は広くていくらか遊具もあって、ピクニックができます。
 絵本を買おうかと思いましたが、それはまた孫たちと来てのお楽しみに。2011年の『ターシャ・テューダーのカレンダー』<庭の写真>を買いました。
 参考までに。 『空とぶくじら』(播磨の小さな絵本館) ℡&Fax: 0795-47-2120 水曜日定休
           
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妙子さんは敬老会を早退しました。

2010年09月21日 03時28分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちのの老人クラブには50人以上のメンバーが登録されています。そのうちの75歳以上のメンバーは、口吉川町全体の敬老会に招待されます。でも参加希望者は我が母・妙子さんを含めて三人だけです。ちゃんとバスによる送迎・おみやげ付きで大事にしてくれるのに、老人のほうが白けちゃってるのか、やりにくい世の中です。
 ところでその妙子さんですが、お迎えのバスで参加したのはいいけど、会場の公民館の体育館に入ってみると冷房で寒い。寒さにはとても敏感なので、すぐに「帰る!」と言い出しました。自分のカバンに長袖のブラウスを持っていても、ひとたび「寒い!」と思うと帰る以外の選択肢がなくなってしまうのです。
 電話が掛かってきて、早速公民館に引き取りに行きました。彼女はいそいそと帰ってきて、自分の部屋で本を読んでいます。でも老人会の係りの人、区長さん、付き添いを頼んだ人は、九十七歳とご高齢な方だからと、それぞれに心配して様子を見に来られたり、電話を掛けてくださったりで恐縮しました。
 写真は我が家の庭で調達したお墓用の花です。お墓は車で往復一時間かかるので、妙子さんは行きません。写真で拝んでもらいます。野菜は畑でつくるので、道子さんは庭には花をたくさん育てています。畑の野菜、庭の花、プランター、裏山の花壇とすることがいっぱいありすぎて道子さんは大変です。それでも枯らせずにこの夏をのりきりました。立派です。ぼくは植えた木を何本か枯らせてしまいました。ごめんなさい。
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今年はじめてのバーベキューをしました。

2010年09月20日 05時03分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 娘たちが相談して決めたようで、きのうウッドデッキでバーベキューをしました。食べ終わるころに、「そういえば今年はじめてのバーベキューだ」とだれかいい、ブログに載せようと写真を撮りました。焼き上げたごちそうはもうほとんど残ってません。
 このウッドデッキは4年前の2月に完成しました。我が家は小さい平屋だけど、デッキからの眺めはいいし、バーベキューをしているたのしい場面が容易にイメージできました。そこで友だちや知人に声をかけて、秋になってもよくバーベキューをしました。この年は春から秋にかけて7回バーベキューをしたと記憶してます。
 ふだんは古希近いおばあちゃんと古希を過ぎたおじいちゃんと『白寿』目前のおばあちゃんの三人暮らしですから、バーベキューなんてしませんが孫たちの家族が来るとそういう話になるのです。いくら年寄りでも、暮らしている者が言い出さないとなかなか実現しないものですね。
『千の風になって』という歌がありますが、お墓には死者の霊はいないでしょう(か)。でもお彼岸にはみなさん、墓参りをします。我が家の墓は神戸市北区の平和霊園というところに1981年頃につくりました。米寿を祝って亡くなったぼくの父が一応入っており、また敗戦後間もない頃に亡くなった妹・伸子も入っていることになっています。きょうはその墓にお参りします。母上・妙子さんには墓の写真を撮って見せ、それを仏壇に置いて墓参りをしてもらったことにします。
 その母上が亡くなったら墓参りはどうするか。証拠写真を見せなければならない人はいないし、参りたいという気持ちは乏しいし、責任感義務感も乏しいし、こちらもエエ加減年寄りになるし、子や孫にお参りしてもらおうとは思わないし、もうだれもお参りしないことになるでしょう。永代供養でも頼みますかね。 
 
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やはり秋はめぐってきました。

2010年09月19日 02時40分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 8月はほんとに雨が降らず、カンカン照りの日がつづき、畑や山は白く乾き、天気予報を見ても雨マークはなく、はたして秋がくるのだろうか、と心配するほどでした。でもやっぱり秋になり、ほっとしています。道子さんはいろんな種を蒔き、それぞれ順調に芽を出しているようです。ホームセンターの人に「暑くて例年のようにはいきませんよ。8月末に植えたのなら腐っているかもわかりません」と首をひねられた秋ジャガイモも芽を出しはじめました。特に追加して植えた『シェリー』という品種はほとんど芽が出揃いました。優秀です。今年は秋ジャガイモの種芋が品薄でめったに売ってなくて、はじめての品種を植えてみたのです。
 胡麻の収穫・選別はほぼ終わりました。道子さん一人で奮闘して、例年よりたっぷり収穫できたそうです。コンニャクは、地上部分が枯れはじめ、茎の枯れた芋から掘り出しています。冬にはまたコンニャクづくりに挑戦します。
 いまは豆類が実りつつあります。大豆はサヤがふくらみはじめました。10月はじめには枝豆として食べられるでしょうか。去年からサチユタカという品種にしていますが、木はあまり大きくならず、サヤはよくついています。今年は目盛りをつけたヒモを張って苗を40センチ間隔で植えましたから、のびのびと育っているような気がするのですが。でも来年は直植えにします。苗植えはしんどかった。防鳥ネットを張るほうがいい。
 落花生は勢いよく育っています。これは8月中頃の写真ですが雑草は見当たりません。草抜きに精を出していますから。実際、雑草まみれになったら地面に広がる落花生は処置なしです。これからは地中のサヤが大きくなるので草は抜きません。見かけたら途中でちぎります。落花生も黒豆同様、近年枝豆として食するのが人気のようで、千葉の産地では枝豆用落花生の栽培が盛んです。そこで今年は大粒になる品種の種を買って苗をつくりました。でも苗を植えるときにまぎれてしまい、どれが大粒になる枝豆用品種かわかりません。そうそう、先日散歩していたら、となりのに一軒だけ落花生を庭先でつくっている農家を見掛けました。胡麻は去年は見掛けましたが今年はゼロ軒です。
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定年退職後の人生のために。

2010年09月18日 02時51分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 若い頃から本を読むのは好きでした。でも自分が文章で何か書いて、不特定多数の人に読んでもらおうなんて考えたことはありませんでした。ところが50歳を過ぎたある日、職場の机上に『○○市文芸祭』作品募集というチラシが置いてあったんです。そのチラシを見て、どんな魔が差したのか「童話を書いてみよう」と思いました。童話を書くついでに原稿用紙十枚という小説も書いてみました。それがたまたま賞の端に引っ掛かって、なぜか小説を書いてみようと多少の努力をするようになりました。
 定年退職後は、「おじいちゃんはテレビでも見といて」「囲碁がしたいなら囲碁クラブにでも行ってきなさいよ」「男の料理教室で料理を習ってみたら?」「老人大学(神戸ではシルバーカレッジ)というのがあるわよ」、あるいは盆栽、ボランティア・クラブ、趣味の同好会、カラオケ、カルチャーセンター、体力づくりジムや旅行というのもあるでしょう。
 自分ではあまり将来のことを考えず、かなり行き当たりばったりで生きてきた、と思いますが、それでも老後の生活について多少は考えていたのだなー、と思い返します。
 まず五十歳の頃、神戸フロイデ合唱団という大きな合唱団に入りました。それまで合唱の経験はまったくなかったのに。勧誘されたのでも紹介されたのでもなく自分から。引っ込み思案なぼくがどうしてそんなことをしたのかいまでも不思議です。オルフの『カルミナブラーナ』、ベートーヴェンの『第九番交響曲』、ハイドンのオラトリオ『四季』は二年がかりで、またモーツアルトの『レクイエム』を歌い、モーツアルトの生家近くの教会でレクイエムを歌うザルツブルグ・ツアーにも参加しました。いまではいい思い出です。
 文を書くことには結構しぶとく食い下がりました。「おじいちゃん、テレビでも見といて」ではすまない。そう思ってまわりにあふれている年寄りを見ると、みんなそれぞれに自分の執着や夢に食い下がって生きているのですね。生きてるかぎり夢を見る。晴耕雨読の田舎暮らしをして、行雲流水とか明鏡止水の心境で暮らすなんて、やむなくポーズにはまっているだけなんですね。
『炭焼き小屋にて』を時間をかけて読んでいただき、ありがとうございました。限界集落、滅びの美学、死、を未整理のまま情緒的にとらえていました。ブログは、また『田舎暮らし』のテーマにもどします。よろしくお願いします。
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『炭焼き小屋にて』  (5)

2010年09月17日 04時12分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
     炭焼き小屋にて       (5)

「父と母は仲がわるくて、夜になるとよく言い争いをしておりました。わたしは喧嘩がはじまると、布団に入って寝たふりをしました。親の喧嘩は子どもが見るもんじゃない、ときつく叱られていましたから。
 七歳になった冬の夜でした。いつものように喧嘩がはじまり、わたしが布団に入って寝たふりをしていると、母が泣いて父をたたきました。父は血相を変えて母をなぐり、台所から包丁を持ってきて母の腹や胸を刺しました。
 母は畳に倒れ、血がいっぱい流れました。母は苦しそうにうめき声をあげましたが、ぴくっとして動かなくなりました。
 父は包丁を投げ捨てて、奥の部屋に入りました。わたしは起き出して、包丁を台所で洗いました。それから畳の上に流れている血を布巾で拭きました。何回も何回も布巾を洗って拭きました。母にシーツを掛けて、その上に毛布を掛けました。
 父は朝起きると、なんにもいわずに出ていきました。警察の人が来て、母の顔に布を掛けて運んでいきました。父は刑務所に入り、わたしはおばさんの家から学校に通うことになりました。
 わたしは友だちがいなくなりました。友だちなんかいなくてもいい。そう思って学校に通いました。でもまわりの子どもはそっとしておいてくれませんでした。わたしはいたたまれなくなり、遠くのおじさんのところに転校しました。そのうちどこからか父と母のことが伝わって、そこにもいられなくなりました。中学生になっても高校生になっても、学校を出て知らない遠くの町で勤めるようになっても、父と母のことがどこからか伝わってきました。
 大人は、わたしに同情するような顔をして、好奇心いっぱいに根掘り葉掘りきいてきました。わたしがよく覚えてない、というと、隠さないで言ってしまったようがすっきりするよ、と親切そうにいいました。
 でもわたしは、あのときのことをほんとうに覚えてないんです。夢の中で見たことみたいで、いまでも、あれはほんとにあったことだろうかと思います」
 紫織は黙った。勇作が薪をくべた。善導も謙三も無言で火を見つめていた。
「わたしのこころはこわれていると思います。まわりの人は泣いたり笑ったりするのに、わたしは本気で泣いたり笑ったりすることができません。仕方がないからまわりの人に合わせて、ふりをしています。
 一日一日を生きてゆくのにすごく疲れます。寝床に入るときは、水分の乾いた砂の像が崩れるように、どさっと横になります。みんなは、こんなに苦しくても我慢して生きているのだろうか、とよく考えます。
 ……死んだらこの苦しさから解放される。
 わたしはもの心ついた頃から、いつも死への憧れを抱いて生きてきました。やっと本気で死ぬ気になって、わたしは旅に出ました」
 話しおわっても紫織は火を見つめたまま動かなかった。勇作は凛とした彫像のように紫織を凝視していた。
 
 謙三は前夜寝た部屋に善導と布団を並べて寝た。紫織は奥の部屋に、勇作は囲炉裏の部屋に寝た。
 夜中に謙三は便所に行った。満月だった。縁側に立って月光に照らされた万物寝静まる山里を見ていると、自分がだんだん小さくなり、ついには目に見えない点になって夜の風景に引き込まれてしまうようだった。
 布団に入ってしばらくして、縁側を歩く物音がした。紫織が便所に行ったようだ。しかしいくら待っても戻ってくる物音はしなかった。
 紫織は小さな点になってあの月光の風景にとけ込んでしまったのだろうか。
 謙三は人の声で目覚めた。日の当たる縁側で朝の散歩をしてきたらしい善導と紫織がしゃべっていた。紫織のまぶたが腫れていた。
「紫織さん、目はどうしたの」
 謙三の問いかけに紫織が微笑んだ。初めて見る紫織の笑顔が陽光をはじいた。
「夜中に勇作さんの布団にもぐり込んで、抱いてもらって寝ました。涙があとからあとから出てとまりませんでした。朝鏡を見たらこんな顔」
 紫織がまた笑った。
 勇作が朝飯が炊けたといいに来て、みんなで囲炉裏を囲んだ。
「わたしは今夜から炭焼きにかかります。この家にはいくら泊まってもらってもいいけど、火の用心だけはしてください」
 善導が、なんでこんな季節はずれに炭焼きをするのかと勇作にたずねた。勇作は、炭焼きをしたくなったから、と素っ気なくこたえた。謙三がお世話になったしなにか手伝わせてほしいといい、紫織はもうしばらく勇作さんのそばに居させてほしいから炭焼きを手伝うといった。勇作は、もうすぐ梅雨になるので手伝ってもらうのはうれしい、と素直に申し出を受けた。
 善導もいっしょに行くことになり、四人は時間をかけて山道を炭焼き小屋まで登った。四人で木を運んだので仕事ははかどり、夕方には火を入れる段取りになった。
 謙三が炭焼き小屋の隅に細長い木箱を見つけて、何が入っているのかとたずねた。
「三八式歩兵銃を知っていますか」
 それをきいて善導が寄ってきた。勇作は箱をあけて鉄砲を見せた。善導は銃を手にとって、重さを量るように上下に動かした。
「日本の兵隊はこれで戦争したんですよね。兵隊がこの先に銃剣をつけて匪賊を殺したりする戦争漫画を、わくわくして見たもんですよ。あのころの男の子は、はやく大きくなって軍人になり、お国のために死ぬんだ、ってみんな思っていました」
 善導の弾んだ言葉に勇作は反応しなかった。黙って善導の手から銃を取り上げ、木箱にしまった。
「弾もあるんですか」
 謙三の問いに勇作はうなずいた。
「炭を焼いてるとわたしの食い物をねらって猪が出ることがあります。そいつをこれで仕留める。ずいぶんむかしになりますが、熊を撃ったこともあります」
 晩飯のあと、今夜は寝ずに火の番をするという勇作につきあって、謙三、紫織、善導は焚き火を囲んだ。
 日が沈み、炭焼き小屋から見えていた山里が闇にとけ込んだ。分厚い雲が空全体に広がり、月も星も見えなかった。
「これがほんとの真っ暗闇なんですね。はじめて体験しました。でも闇につつまれるって、なんかほっとします」
 紫織がいい、勇作がうなずいた。
「わたしは炭焼きに来て、たったひとりでこの闇に抱かれるのが好きです」
 だれともなく焚き火の世話をしながら、ぽつりぽつりと四人の間をことばが行き交った。
「わたしは八十歳だから、謙三さんや紫織さんみたいに死のうと思わんでも、そんなに長く生きることはありません。しかしわたしは、戦争に負けてこの国に還ってきた二十三歳のときからいままで、おれは生きているわけにはいかん、死ぬしかない、と思って生きてきました」
 火勢の衰えた焚き火に枝木をくべて、謙三が場の沈黙を破った。
「戦争の話ですか。よく聞かされました。こんな悲惨な被害を受けました、とか、日本軍はこんな酷(ひど)いことをしました、とか。だからどうしろというんだ、といいたくなりますよ」
「わたしは、戦争の話をする気はありません。謙三さん、あなたは人間を殺したことがありますか」
「いきなりなんですか。殺人なんてふつうの人には縁のないことでしょ」
 謙三は昨夜の紫織の話をちらっと思った。
「殺人じゃない。人間を、殺すんです。銃の先に剣をつけて、人間の胸を、突き刺して殺す」
 勇作の言葉は鋭かった。謙三も善導も紫織を見た。
 紫織はまっすぐ勇作を見ていた。勇作の視線にこたえるように、紫織はゆっくりうなずいた。
 長い話になる、いやになったら自由に寝てくれ、生々しい話をするが、やめてほしかったらそういってくれ、と前置きして、勇作は重い言葉を引きずるように語った。
「中国で転戦してある村に入ったとき、わたしの班は『徴発』に行けと命令されました。住民の隠している食料を奪うのです。村に入っても住民は一人もいません。みんな隠れています。わたしたちは藁の山に火を放ちました。とび出してきた娘をつかまえて上等兵が強姦しようとすると、手に刃物を持ってかかってきました。上等兵が銃剣で突き刺し、娘は血を流して倒れました。すると物陰から男が、鉈(なた)を振り上げてかかってきました。父親でした。ほかの上等兵が銃で撃ち、男は倒れて娘のほうに手を伸ばして息絶えました。隠れていた母親らしい女を、一等兵が見つけました。小隊長がやってきて、二等兵のわたしに、女を刺し殺せ、と命令しました。わたしは銃剣を構えました。
 二人の兵隊に右と左の腕をかかえられた女は、そばに倒れている娘と夫を悲しい目で見てから、胸を張ってわたしをにらみました。あれは悪魔をにらむ目でした。人間は悪魔に負けないぞ! さあ、殺せ! と叫ぶ目でした。その目は、いまもわたしの網膜に焼き付いています。
 わたしは突こうとしました。体が動きません。小隊長は、突け! 突かんと軍令違反でおまえを銃殺する! と銃をわたしに向けて迫りました。それでも体が石になったようにびくともしません。わたしは焦りました。
 小隊長は、突け! と叫んで銃を構え、一歩踏み出しました。
 そのときです。銃剣を構えた兵隊が、わたしのそばを走り抜けて女の胸を突き刺しました。樫村健太郎伍長でした。銃剣が胸骨に突き刺さったグキッという音で、体がふいに動くようになり、わたしもつづいて女を突き刺しました。
 それからたくさんの人間を、銃剣で突き刺して殺しました。九人まで数えましたが、恐ろしくなって数えるのをやめました。
 中国人を生き埋めにしろ、と命令されたこともあります。中国人に穴を掘らせてから、中にすわらせて土をかけました。それだけでは死なないから上から踏め、といわれて土を踏みました。骨がぼきぼき折れる音がしました。
 わたしは、こんなに人間を殺した自分が生きていてはいけない、敵の弾に当たって死のう、と思いました。敵と遭遇したときは、わざと弾に当たるように突撃しました。しかし弾は当たりませんでした。
 樫村健太郎伍長は、敵と戦うとき、敵の弾を恐れず勇敢に戦って、勲章までもらわれました。でもわたしには、敵の弾に当たって死にたいと思っておられるのがわかりました。そしてついに敵の弾が当たって倒れられました。
 そばに寄ったわたしに、『八重、生きるのだぞ』と言付けされました。それからわたしに笑顔を見せて絶命されました。
 これでやっと人間にもどれる、と安心された笑顔のように見えました。
 戦争に負けてこの国に還ってきても、夜になると、悪魔をにらむあの母親の目や、土の下でぼきぼき骨の折れる音にうなされて、叫び声をあげることがありました。
 わたしは生きていてはいけないと思いました。しかし樫村健太郎伍長の言付けだけは伝えてから死のう、とこの谷に上がってきました。
 わたしは『八重、生きるのだぞ!』という言付けを、八重さんに伝えました。樫村健太郎伍長と八重さんは、ふたりいっしょでないと生きてゆけない。どちらかひとりでは生きられない。お互いにそういう存在でした。八重さんは戦死の公報が来たときから死ぬ気でした。樫村伍長の死をわたしからはっきりきいて、死ぬ気持ちを固めました。
 この人は、あした、死ぬ。
 わたしはそう直感して、八重さんのそばについていることにしました。
 やがてわたしたちは結婚しましたが子供はつくりませんでした。八重さんには、わたしや樫村伍長が中国でしたことを話しました。八重さんは、『人間を殺して、健太郎さんはどんなに苦しかったでしょうね』といいました。こうして死ぬ気だったふたりが、五十七年も生きてしまいました」
 山里のほうを見ると暗闇の中に山の稜線がかすかに感じられた。生き物が目覚め、山の空気がざわめくにはまだ時間があった。
「これから日の出るまでがいちばん冷えるのですよ」
 といって勇作が枝木をくべた。火の勢いがつよくなった。
 勇作を残して小屋でまどろんだ三人は、朝飯のあと焚き火にする枝木を集めてくることにした。
 わたしは元気だが寄る年波には勝てないから助かる、と勇作がお礼をいった。
 日が高くなったら山を下りなさいと勇作がいい、三人はそれにしたがった。善導を先頭に謙三、香織が下りてゆくのを、勇作は炭焼き小屋のまえで見送った。
 振り返った紫織が山道を駆けのぼり、勇作に頭を下げた。勇作は腕に力をこめて紫織を抱き寄せてから、送り出すように山道に押しもどした。
 三人は黙って山道を下りた。下りははやく、十一時には田村勇作の家に戻った。
 紫織と謙三は庭に立って、炭焼き小屋はどのあたりかと山を見上げた。ここから炭焼き小屋は見えないが大きな松の木の少し右だ、と善導が山の中腹を指差した。
 風がなく、煙はまっすぐ上がっていた。
 炭焼き小屋の近くで小さく煙が上がり、銃声が山にこだました。
                                          了
 
  
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『炭焼き小屋にて』 (4)

2010年09月16日 04時24分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 13日の夕方畝間潅水をしたら、翌朝には水たまりもなくなり、水は土に吸い込まれたように見えました。でも畑の畝間を歩くと、一日おいたきのうになってもまだ足が数センチめり込むところがあります。猛暑日がつづくようでもやはり秋です。こんなに乾かないのでは、いくら雨が降らなくてももう畝間潅水はできません。
 道子さんが、猛暑を避けて例年より遅く大根の種蒔きをしました。ホームセンターの顔見知りの人が「ベテランでもこの猛暑では秋ジャガイモの植え付けに失敗してますよ」といってましたが、我が家のジャガイモは芽を出しました。

   炭焼き小屋にて               (4)

「妻が亡くなりました。これから埋葬しに行きます。棺を墓場に運ぶのを手伝ってもらえますか」
 勇作がこたえ、女は埋葬についてきた。埋葬をおわって座敷の戻ると、善導がまたお経をあげた。勇作のうしろに謙三と女はすわり、神妙に頭を垂れた。
 勇作が煮物くらいしかできないけど昼飯を食べていけといい、女は手伝いますと勇作について台所に行った。
 食事のあと、勇作が謙三にもう一晩泊まっていけとすすめた。謙三はお願いしますと頭を下げた。女が、わたしも泊めてくださいとたのんだ。
「東京から来ました神埼紫織(しおり)です。二十三歳になります」
 女は自分を紹介した。
 善導は帰り、勇作と紫織は、台所でなにかしゃべりながら晩飯の用意をした。無口そうに見えたあの紫織となにをそんなにはなしているのだろう、と謙三は不思議だった。
 ふもとの禅祥寺に帰った善導が、わたしも今夜泊めてもらおう、とまた軽自動車で上がってきた。
「勇作さんとじっくり話したくて」
「わたしも善導さんに話しておきたいことがあります」
 晩飯のあと囲炉裏を囲み、勇作が一升瓶を出して湯呑みに酒をついでまわした。
 紫織は死ぬためにこの谷に上がってきた、と謙三は直感していた。しかしだれもそれを口にしないので黙っていた。少し酒が入ったところで紫織のことを切り出した。
「勇作さんは、はじめてぼくを見たとき、ぼくの自殺願望が見えるっていいましたね。ぼくにほんとにその気があるかどうかは別にして。それなら紫織さんの自殺願望だって見破ってるんでしょ。ぼくにわかったくらいだから」
 紫織は驚いた顔をしなかった。
 勇作は謙三を見たがなにもいわなかった。かわりに口をひらいたのは善導だった。
「紫織さんが死に場所を求めてここに上がってきたことは、一目見ればだれだってわかります。しかし、ずかずかと、ひとのこころに踏み込んで、きいていいこととわるいことがある。死ぬ気でここにきたあなたが、そんなこともわからんのですか」
 謙三はたしなめられたと思って、むっとした。
 おれだって死ぬ覚悟でこの谷に上がってきた。きのうは自分がおれにきいたくせに、なぜ紫織にきいてはいけないというのだ。紫織が死のうとおれが死のうと、死に軽重はないはずだ。
「たしかにぼくは、死ぬことを考えてこの谷に入ってきました。人間はかならず死にます。そして死ぬのは勇気のいることです。人生のいちばん大きな出来ごとです」
「そんなわかりきったことしかいえんのですか。そんなことじゃあなたは死ねません。死ぬのがどんな大変なことかわかってるんですか」
「死んだことのない者にほんとの大変さがわかるわけないでしょ。あなただってぼくだって。しかし人には死なねばならんことがある」
「それならあなたは、紫織さんの話を聞いて納得したら、死なせてあげるわけですな」
「ええ、そりゃ死ぬしかないと思ったら、死んだらいいと思います」
「あなたはどうなんですか。そりゃ死ぬしかない、と人を納得させられますか」
「人には言えん事情がある。話してもわかってもらえないから死ぬしかない」
「だったら言わせてもらおう。あんたの死ぬ気はまやかしだ。本気で死ぬつもりはない。死ぬという気分にひたってるだけだ」
 謙三の目の色がさっと変った。
「なにを! えらそうに言いやがって。そんならおまえは死ぬ覚悟ができているのか。人には引導をわかすくせに、自分は死ぬ覚悟があるのか」
「わたしは死ぬ覚悟はできていません。そして見たところ、あなたも死ぬ覚悟はできていません」
 善導はきっぱりいい、気色ばんでにらみつける謙三から視線をそらさなかった。善導の目には謙三を哀れむ色が見えた。それがさらに謙三の怒りを燃え上がらせた。
「田舎坊主! おまえにおれのやり切れん気持ちがわかるか。生き甲斐も希望も消えて、都会の砂漠で追い詰められとるおれの気持ちがわかるか」
 謙三は憤怒にふくれあがって、なにか投げつけるものはないかと部屋を見回した。善導はその空気を感じても動じなかった。
「柿田さん。死ぬのは自分のためです。でもあなたはなにかに腹を立てて、腹いせに死のうとしている。なにに腹を立ててるんですか。そんなくだらんもののために、あなたは死ねるんですか」
「真面目に働いてきたおれが、なんでこんな目にあわなきゃならんのだ」
 謙三は善導をにらみつけ、勇作と紫織を見た。勇作も紫織も謙三から目をそらしていなかった。
「なんでおれだけがリストラされるんだ。なんで家族が出ていくんだ。なんで……」
 ふいに込み上げてきた嗚咽に謙三はむせんだ。謙三が泣くのをだれもなだめなかった。無言で謙三の気持ちのしずまるのを待った。
 しばらくして勇作がおだやかにいった。
「柿田さん、あなたは都会に住んでいるから、いまのように自分を出してこなかった。もし自分をさらけ出したとしてもだれも振り向いてくれない。遠巻きにして見ているだけ」
 謙三はうなずき、死のうと思うに至った話をした。勇作、善導、紫織は同情するでもなく冷笑するでもなく黙ってきいていた。それが謙三には心地よかった。
 会話が途切れた。勇作が火箸で囲炉裏の燃えかすをつつき、新しく木をくべた。
 紫織が口をひらいた。
「わたしが死のうと思ってここに上がってきたのが、すぐわかってしまったんですね」
 善導がうなずいた。
「一目見て、重い石をかかえて生きてる人に見えました」
「そうですか。わたしは、生きていてもどうしようもないから、だれにもなんにも言わないで死ぬつもりでした。でもなぜかわたしの目の前にこんな舞台が回ってきました。わたしの話を聞いてください」
 紫織はうつむいたまましずかにいった。
「わたしは二十三歳までやっと生きてきました。でももう、生きるのに疲れました」
 さきほど泣いて気分が軽くなったのか謙三は口が軽かった。
「二十三歳といえば若いじゃないですか。わたしなんか、会社に入ってばりばり仕事をしてるときでしたよ。人生これからって張り切って」
 紫織は火を見つめたまま黙っていた。
「死にたいほどの失恋でもしたんですか」
「謙三さん、黙ってききましょう」
 勇作が謙三を制した。
 みんなが沈黙すると、囲炉裏にくべた木のはぜる音だけがした。
「紫織さん、ひとはだれでも、話したくても話せないことをかかえて生きています。無理に話すことはないんです」
 紫織の向かいにすわっている勇作が囲炉裏の火越しに語りかけるように話した。
 紫織は勇作をまっすぐ見つめて、やがて火に語り掛けるように話した。

  

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おかずを仕入れに『魚の棚』に行きました。

2010年09月15日 03時01分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 妙子さんは肉や魚が好きです。でもこちらの魚屋には新鮮な魚が並んでいない、と神戸に住みはじめた頃から思っています。六十四歳まで暮らした山陰の行商の魚屋さんがいちばん新鮮な魚を持ってくると信じ込んでいます。そこで道子さんと月に一度くらい明石の『魚の棚』に行って新鮮な魚を仕入れてくることにしました。
 きのうも山陽道で垂水ジャンクションに行き、第二神明北線の長坂で下りて大蔵海岸に出て『魚の棚』に行きました。ちょうど昼網があがったところで海老はピチピチはねるし、蛸は体をくねらせています。味に敏感な妙子さんは、新鮮な煮魚にめずらしくご飯をおかわりしました。

      炭焼き小屋にて           (3)

「柿田さん、朝飯の用意ができました。目が覚めましたか」
 襖のむこうで勇作が控え目に声を掛けた。勇作に案内されて裏の小川で洗顔し、謙三は食卓についた。
「田村さんはお元気そうですが、お幾つになられたんですか」
「八十歳です。長生きしました」
「きのう海野さんが、奥さんは八十八歳で亡くなられたと話しておられましたが」
「家内はわたしより八歳年上です。敗戦後は兄貴が戦死したら、その嫁が年下の弟といっしょになったりしたもので」
「田村さんもそうだったんですか」
「いいえ、わたしは故郷の東京に復員して、しばらくしてから見ず知らずのこの谷に入ってきました」
 五十八年前に死ぬつもりでこの谷に入ってきた、といった勇作のことばを思い出したが、それにはふれないでおいた。
 朝食後、謙三は散歩してくるといって外に出た。耕土改善はしたけれど過疎のため雑草地になってしまった田畑が、あちらにもこちらにも見える。
 この谷は標高が高い。気温が低い。水も冷たい。両側に山が迫り日照時間が短い。米をつくりにくいところだ。村人は一人去り、一人死にして、とうとう田村勇作の家一軒になってしまったのであろう。
 滅びゆく集落の雰囲気が、謙三には心安らぐものに思えた。
 この谷を登り、山道のおわったところで茂みに入り込み、見つかりにくい場所で死ぬ。
 どう死ぬか。家を出たとき、死ぬ方法は考えなかった。死ぬ気ならどんなふうにでも死ねる。ここが自分の死に場所だ、という地点に辿り着けば、自(おの)ずからその方法が見えてくる。そう簡単に考えていた。
 しかし東尋坊でとび下りようとしたときは足がすくんで体が動かなくなった。大山(だいせん)の森に入って木にぶら下がろうとしたときは、いかにも折れそうな枝に紐を掛けた。手で引っ張っただけで枝は折れた。
 死のうと決めた自分にいいわけするために、死ぬ真似ごとをしている。自分のなかのなにが死をためらわせているのだ。死はもてあそぶものではない。
 家を出てからの日々、車を運転しながら堂々巡りするそんな思考をもてあましていた。ほんとうに死んだら、こんな深刻ぶった思考にけりがつく。
 きょうはこの谷を登っていこう。
 謙三はきのう立ち寄った分教場のあたりを見下ろして、タバコに火をつけた。
 車の音が聞こえた。海野善導の車のうしろにもう一台、軽トラックが登ってくる。荷台に積んでいるのは棺のようだ。
「よう眠れましたかな」
 善導は車を降りるなり明るい調子で声を掛けた。
「はい、鶏の声で目が覚めて、なつかしかったです」
 善導は軽トラックの若者に指示して棺を座敷に運ばせた。しばらくして謙三が座敷に上がってみると、田村八重の遺体は棺に納められていた。
 棺の蓋をするまえに、勇作は一枚の写真を遺体の胸に置き、手を合わせた。
 善導が写真をのぞき込んだ。
「健太郎さんの写真じゃありませんか」
「はい。樫村健太郎伍長の写真です。わたしの班の班長をされておりました」
 敬礼するような力ある声で勇作がいった。
「なんでまた……」 
 善導が驚いて顔を上げた。
「八重はこの写真を、わたしに見せたことはありません。タンスに大事にしまっておりました。あの世では樫村健太郎伍長と仲良く暮らせるように願っております」
「なんでまた……」
 もう一度善導がいい、勇作を見た。勇作は善導を見てかすかにうなずいた。
「そうですか」
 善導は八重の胸に置かれた写真に見入った。
「そうだったんですか」
 勇作が出したお茶を、善導はおしいただくように飲み、しずかな声でいった。
「健太郎さんには子供の頃かわいがってもらいました。正義感の強い人で、弱い者をかばって、立派な人でした。わたしら子供は、大きくなったら健太郎さんみたいな人になる、と憧れておりました。お八重さんと健太郎さんはずっと仲良しで、お八重さんがいつも影みたいにくっついとりました」
 善導はことばを切って勇作を見た。
「戦争に負けて出征しとった者がぽつぽつ還(かえ)ってきた頃に、健太郎さんの戦死の公報が届きました。それでもお八重さんは気丈でした。二人の仲が良かっただけに後追いするんじゃないかと村の者は心配しましたけど。その頃でしたな。勇作さんがこの村に来られたのは」
「はい、樫村健太郎伍長の遺品を八重さんに届けてから、山の中に入って死ぬつもりでした」
 謙三はびっくりした。
「どうして死ぬんですか。せっかく生きて日本に帰れたというのに」
 謙三の問いにはこたえず、勇作は善導を見たままことばをつづけた。
「樫村伍長は八重さんに伝えてくれといわれました。『いいか。八重。生きるのだぞ』というのが言付けです。この谷に上がってきて八重さんに言付けを伝えたとき、この人は死ぬ気だ、と思いました。わたしは自分が死ぬのを棚上げして、八重さんに付き添って生きてきました」
 善導のお経のあと棺を三人で玄関に運んだ。棺をリヤカーに積んで墓地に行こうとしたとき、下からバイクが上がってきた。
 こうしたとき沈黙の苦手な善導はまっ先になにかしゃべるのだが、さきほど勇作の話を聞いてから寡黙になっていた。謙三のほうが気をつかった。
「郵便配達でも来たんでしょうか」
 善導も勇作も首をかしげ、バイクを目で追った。バイクは分教場のまえから地道に入り、勇作の家の庭先まで上がってきた。
 バイクを下りたのは女だった。ヘルメットをとって頭を振り、髪をなびかせた。見たところ若い女だったが、生気が乏しく年をとっているようにも見えた。
「どなたが亡くなられたんですか」
 女の声は澄んでいた。
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『炭焼き小屋にて』 (2)

2010年09月14日 00時26分21秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 午前中三木市全体のグランドゴルフ大会があり、夕方畑の畝間潅水をしました。水が全体にまわるのに時間はかかりましたが、これで畑の水やりはしばらく大丈夫です。でも山のほうはカラカラのままです。水道水を植えた木にかけても焼け石に水のようなものです。雨よ降れ!!

    『炭焼き小屋にて』    (2)

 刻(とき)を告げる鶏の声がきこえた。頭を上げて縁側の障子を見たが外は暗い。台所のほうで朝餉の支度をする音がきこえていた。
 謙三は重い綿の掛け布団を引きかぶった。
 子供の頃の情景がまぶたに浮かんだ。
 鶏が刻を告げる。闇のなかに山の稜線がかすかに見えてくる。法輪寺の小坊主の鐘を撞(つ)く音が、遠くに聞こえる。裏の八幡神社で、ちょび髭の神主が朝の太鼓を打つ。陽射しが障子に当たる。雲雀が鳴きながら舞い上がる。
 柿田謙三は山陰の田舎で少年の時間をすごした。彼の生れたのは日本の敗戦後間もない頃で、農地解放で自作農になった親は、謙三には大学を出て都会に住む勤め人になるよう願った。謙三は親の願い通り大学に進み、卒業して都会の会社に勤め、結婚して三人の子が生れた。両親はどきどき孫の顔を見に出てきたが、街の空気は息苦しいといっていつも数日で帰ってしまった。
 五十歳までさしたることはなかった。兄二人はいずれも幼い頃に病死しており、いずれ両親を都会の家に引き取ることになるだろう、と漠然と考えていた。しかし達者で畑仕事をして、ときに畑で採れたものを送ってよこす親の様子からすれば、早急に対応を考えねばならぬ状況ではなかった。
 五十一歳のとき父親がわずか一週間寝込んで死んだ。残された母親も三ヵ月後に心臓の不調で急死した。どちらも八十歳を越えての死亡だったので、命の自然な流れとして親の死を受け入れられた。
 しかしその後立て続けに起こったことを思い返してみると、ふた親の死が災難の前ぶれだったかもしれない。やっと大学に入った長男が病気で入院し、運転免許とりたての長女が買ってやったばかりの車で人身事故を起こし、厄介な跡始末に親が奔走した。一段落ついたと思ったら謙三が20年来付き合っていた久米伸子の存在を家族に知られ、妻は三人の子供とともに家を出た。家族が出て行ったと告げると、久米伸子も謙三から離れた。
 それから一年、謙三は独り暮らしをして、会社とマンションを往復するだけの張りのない生活をしてきた。三ヶ月前会社からリストラを言い渡された。創業当時からの生え抜き社員で、会社と共に生きてきた自分まで整理されるとは思ってもみなかった。
 体の芯のずきっとする痛みをはじめて体験したのは、退職者の送別会があった日だった。家に帰りドアを開けたとき、へその奥あたりを襲った強い痛みに、その場にしゃがみ込んだ。どうして痛むか考えたがわかるはずもなく、とにかくあした医者に行こう、と這ってベッドに入った。
 次の日は朝から気分がよく、出勤しなくてもよいという解放感が痛みの不安に打ち勝った。そんなことがあったのを忘れた頃、また痛みが襲った。痛みは、謙三の気分のいい時間を妬(ねた)む意志をもっているかのようであった。
 あの痛みがだんだんひどくなり、苦しんで死ぬ。
 謙三は痛みの来襲にいつも身構えて、家に閉じ篭もることが多くなった。
 このままではいけない。気分転換に海外旅行でもしよう。
 謙三は銀行に行き、元の妻が退職金を全額引き出したのを知った。連絡をとると「養育費として当然でしょ。取り返せるものなら裁判でもなんでもしなさいよ」と一蹴された。金がないという現実の生活不安は、ホームレスの自分が公園のベンチで海老のように体を曲げて死んでいる、という終末の場面を連想させた。
 自分の置かれた状況をわずかな友に話そうと思ったが、やめた。家族に見放され女に見放され会社に見放され体の痛みに怯え金がなくなったくらいのことは、どこにでもある話だ。ことさらな不幸とも思えない。五十歳を過ぎた男がそんなことで、すべてがいやになり死にたい、といったら冷笑されるだけだろう。
 人生に起こることには、みんなそれなりの意味があるかずだ。自分の人生がなぜこの二年で急速に色あせ、生き甲斐や希望という文字が消えてしまったか。わからない。しかし考えてみればそれ以前だって、生き甲斐や希望に満ちて生きてきたわけではない。明日という日が来ることを待ち望んで床に就いたわけでもない。朝が来て惰性で動き出していただけだ。床に就いてそのまま目が覚めなくてもかまわない。いずれ人間にはそんなときがくるのだから。
 そんなふうに流れる思考に抵抗しようと思わなかった。かえってその思考にはまっていると不安が消え、心がらくになった。
 生命保険や家財などの処分をメモしてかつての家族に郵送し、柿田謙三は旅に出た。
 
 
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『滅び』の美学に魅かれるのでしょうか。

2010年09月13日 04時32分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑に畝間潅水をしようと思って念のため三木市の天気予報をテレビのデータ放送で見たら、「夜の降水確率が80パーセント」と表示されていました。「8月末に植えたジャガイモは水びたしにしたくないし、上から雨が降るのがいちばんいい。もう一晩待ってみよう」ということで、きのうはコイモや種蒔きをしたところにだけ水をかけ、畝間潅水は見送りました。
 ところが夜起きてみると雨は降りそうにありません。きょうの夕方畝間潅水をします。畑の土を入れて土嚢袋を20個作りましたからそれで水がジャガイモに行かないようにします。

 さて、限界集落や廃村に魅かれ、かつて何百年にわたって人が住み、いま廃れていく村を訪ねたいとブログに書いてきましたが、なぜそうなのかあらためて考えてみました。そして自分の書いた小説のようなものに行き当たりました。退職した頃に書いたものです。原稿用紙で40枚余りになりますので、数日に分けて載せますのでお読みいただけたらうれしいです。

    炭焼き小屋にて    (1)

 峠にむかう国道の道路標識のそばに『東奥谷』と矢印のついた小さい板が立ててある。国道からそれる道が誘い込むように谷沿いに曲がって奥に消えている。
 柿田謙三はハンドルを切って谷に入った。バスとすれちがえるほど幅のある舗装道路がつづく。左は山を削った崖、右の谷底からは渓流の音がきこえる。
 アクセルをいっぱいにふかして坂道を登り、見晴らしのよさそうな曲がり角で軽自動車をとめた。
 走行メーターでは国道をそれてから八キロメートルは走っているのに、まだ立派な道路がつづく。この先になにがあるのか。道路地図を見ると、谷の途中で道は消えている。
 自動車にもどり、また坂道を登った。谷の幅が広くなり、左右に耕地が見えてきた。放棄され雑草におおわれた田畑ばかりだ。
 行く手に家が見える。藁屋根の中央が陥没し、両側の壁が内側に傾いている。次の冬の雪で倒壊するだろう。
 山すそに見える数軒も近づいてみると廃屋であった。崩れて材木の山となった家の跡もある。かつてはまとまった集落のようだが人の気配はない。
 舗装道路がおわった。乗用車一台がようやく通れる地道がつづいている。
「もうだれも住んでいないのか」
 謙三は声に出していい、広い道のとぎれたところで車をおりた。
 雑草畑のむこうに数本の鉄柱が立っている。畦道を歩いてそばに行ってみると、朽ちた鉄棒だった。試験管がころがっている。木製の大きな三角定規が落ちている。小学校の分教場が建っていたのだろう。
 痛みの予感がした。謙三はゆっくりとしゃがんだ。体の芯のうずくあの痛みは、しゃがんだほうが耐えやすい。手で腹をおさえて背中を丸め、身も心も痛みに備えた。へその奥あたりがちりちりした。
 しかし痛みは予兆だけで消えた。
 谷のいちばん奥に藁屋根の家が見える。煙突から煙が出ている。人が住んでいるのか。
 車にもどり、エンジンを掛けて地道に乗り入れた。道は雑草畑の間を蛇行してのぼっており、一軒家までは思ったより時間がかかった。
 家の前に軽自動車がとまり、玄関の戸があいていた。
 車をおりて人の気配をうかがった。読経の声が聞えた。
 むかいの山は植林した桧の林が頂上まで這い上がっている。藁屋根の家の裏山は傾斜がきつく雑木林のままだ。
「どちらさんですか」
 うしろから声を掛けられた。人の善さそうな僧衣の男が玄関に立っている。
「こちらに住んでおられる方ですか」
「いや、わたしはお経を上げに来ただけです。ここのおばあさんが死なれたんで」
「この村には人が住んでいるんですか」
「おばあさんが死なれて、この家のおじいさん一人になりました」
 奥から老人が顔を出した。頑丈な体つきで、腰が伸びている。
 謙三は頭を下げた。
「ちょっと通りがかったものですから……」
「どなたですか」
「いえ、用事はなかったんですけど……」
「わたしはあなたの名前をきいておる」
 老人の声には力があった。
「柿田謙三といいます」
 思わずいってしまってから、名前をいうことはなかったと悔やんだ。老人は田村勇作、僧衣の男は海野善導と名のった。
 勇作は尋問するようにさらに謙三の年齢や住んでいるところをたずねてから、
「あなたは、死ぬためにわざわざこんな山奥まであがってきたんですか」
 とはっきりした声でいって、謙三を頭のてっぺんから足の先まで見た。
 死ぬためにきた、と図星をさされて、なにか言い返さなくては、と謙三は思った。しかしことばが浮かばなかった。
「ま、お茶でも飲んでいきなさい」 
 善導がとりなるようにいって、謙三の背中に手を添えた。
 勇作は無言で先導して奥の座敷に入った。床の間の横に古びた仏壇があり、布団に寝かせた遺体の顔に白い布が掛けてあった。
 善導は、田村勇作の八十八歳になる妻八重が昨日亡くなったこと、死ぬ三日前まで元気に畑仕事をしていたことを、勇作の出したお茶を飲みながら離した。善導の話を、勇作は妻の遺体を見たままきいていた。
 善導がお茶を飲み干して謙三にたずねた。
「ところで柿田さん、なんでこんな山奥に来なさった」
 謙三は縁側を見たまま黙っていた。
「勇作さんのいわれたように、死ぬために来なさったか」
 自動車の音がして、家の前で止まった。
 診療所の先生が来られたかな、とつぶやいて善導が玄関に立った。来訪者はやはり診療所の東山先生で、善導に連絡をもらって、死亡診断書を書くためにふもとの村から上がってきたのだった。
 東山先生は遺体をたしかめて、用意してきた書類になにか書き加えて勇作に見せ、自分が役場に届けておくといって帰った。
 善導がさきほどの質問を蒸し返した。
「どうしても死なねばならんことがあるのですか」
 放し飼いにしてある鶏が餌をあさって縁先を通った。謙三はそれを目で追い、鶏が茂みに消えるとまたうつむいた。
「善道さん、いきなり詰め寄っても、どうして死ぬかいえるものではありません。胸に詰まったものをかかえたまま黙って死ぬか、人に話して死ぬか。それはこの人が決めることです」
 勇作がよく響く声でいった。見たところ八十歳くらいの老人なのに、眼光と声には人を圧する力があった。
「勇作さんは、なんでこの人が死ぬつもりだと思いなさった」
「六十年前、わたしは、死ぬつもりでこの谷に上がってきましたから、この人の目を見ればわかります」
「六十年前? 死ぬつもりで? わたしはこの村の人とは付き合いが長いけど、勇作さんのそんな話は聞いたことがありません」
 謙三が頭をあげて、二人の話に割って入った。
「あの、さっきから聞いてますと、わたしが死ぬつもりでこの谷に入ってきたことにされてますけど、死ぬなんて一言もいってないんですが」
「いわんでも顔に書いてある」
 勇作に鋭くいい返された。
 善導が電話を借りるといって立ち上がった。勇作がうつむいている謙三に声を掛けた。
「わたしはあれこれ詮索しませんから、今夜はここで泊まっていきなさい。飯と味噌汁くらいしかないけど」
 謙三は黙って頭を下げた。
 座敷にもどった善導は、なにもあわてて死ぬことはない、地獄にも極楽にも門限はないからじっくり考えてからでも間に合う、と笑って帰っていった。 
 
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