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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

大志くんと落葉を踏んで散歩しました。

2009年11月30日 04時52分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 朝の瞑想をしていると、大志くん一家が秋の散歩に来ると電話があり、急いで掃除をしました。人の訪問があると『掃除パワー』がわいてきて、体がよく動きます。朝食後、きょうはとなりのの神社にお参りすることにしました。
 我が家から三分北に歩くと蛇ガ池があります。
 そのむかし、この蛇ガ池に棲む蛇が山に登り、その頂上から龍になって天に昇ったという伝説があります。いまはこの山頂に相当立派な神社の社殿が建っており、中に五つの社が並んでいます。この竜神は村の旱魃のときに雨を降らせて民を救ったので、村人は毎年7月に一晩を山頂で過ごして竜神をあがめました。ところがある年祭りをサボったら、たくさんの村人がはやり病(やまい)で亡くなった。と散歩の立ち話でとなり村のおじいさんに聞いたことがあります。
 この山頂に登るのは我が家からゆっくり一時間の散歩ですが、引っ越してから三回しか登っていません。とってもいい散歩道ですが、山頂に行くにはちょっと有酸素運動が必要です。気合を入れないと登れない、というほどキツイ山ではないけれど、軽い気持ちで登るとちょっとしんどい。竜神さまが登る人を試しているのかもしれません。
 はじめに階段がつづき、息があがったころに小さい鳥居をくぐります。そこからしばらく写真のようにゆっくり登る道になります。両側の雑木林の葉っぱはほとんど落ちてしまい、落葉のじゅうたんを踏んで散歩します。雑木には山ツツジもかなり混じり、「若葉の頃はいいだろうな」と思いながらまだ来たことがありません。
 この数日でまわりの山々が急に色づいてきました。一本の木をよく見ると落葉しきりですが、山全体はこころにしみる色合いです。田舎に暮らせるようになったよろこびが、じんわりこころを満たします。
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黒大豆を刈って稲木に架けました。

2009年11月29日 01時59分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 黒大豆を稲木に架けて干す時期になりました。
 米の生産調整のために、今年は我が家の畑のまわりは黒大豆畑になっています。その二町五反の黒大豆畑は、JAの指導があって、11月に入ると葉を落とし、中旬には刈り取り、乾燥をはやめていました。ビニールハウスで温風乾燥をした黒大豆もあります。
 聞けば、今週中に脱粒すればいい値段で出荷できるけど、来週出荷ならキロ500円安くなり、年を越して出荷すると半値になってしまうそうです。一畝100メートルの黒大豆畑で、葉を落とす作業、刈り取って逆さに干す作業を何畝も延々とやり、ライスセンターで脱粒してやっと出荷になります。米つくりよりハードな作業がつづき、まわりの田んぼの黒大豆は全部なくなりました。
 我が家の黒大豆は、葉が自然に落ちるにまかせていましたが、お正月の黒豆を煮るにはそろそろ刈り取って干さねばなりません。稲木は去年常設しましたが、これには今年もらったワラを架けています。写真の向こう奥に、ブロックの草焼き場・道具箱・肥料置き場と並んで写っています。ですから今年は手前の畝に腰の高さの稲木をつくり、それに架けていきました。黒大豆は本数が少ないので10メートルの稲木に納まりました。
 葉を落としていないので、まだ枝豆にできそうなみどり色のサヤがあります。黒大豆のおいしい枝豆を思い出し、ちょっとサヤをちぎって帰り、ゆでてみました。でも枝豆の風味はもうありません。乾燥していないので粒は大きいですがしっかり黒豆になっていました。
 これから干したら脱粒は12月20日前後になるでしょう。黒大豆は、サヤが自然にはじけて粒が落ちてしまうことがないので、十分乾燥してから脱粒します。
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ウッドデッキは物干し場

2009年11月28日 04時04分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 小春日和です。日なたにいると暑いくらい。
 ウッドデッキは干し物がいっぱいです。きのう干したのは、安納芋(サツマイモ系は干すと甘みが増すという人もいます)・シモン一号・ヤーコン・切った生姜(乾燥粉末にして使えます)・切干大根と切干人参・トウガラシ(米びつなどの防虫効果は抜群です。有機農薬としてアセビといっしょに煎じて畑の野菜に散布します)・大豆(雨で脱粒後干していなかった)です。この前まで干していた落花生は乾いたので選別して仕舞いました。
 このウッドデッキは、ときに下靴のまま上がったり室内スリッパのまま出たりします。これから日々さらに老いていくので、そのうち上下の区別がますます曖昧になってしまうかな。気をつけます。
 でも靴をはいて外に出るとなるとおっくうですが、スリッパのままちょっとウッドデッキに出るのはいいですね。窓から外を見るのと一、二メートルちがうだけなのに気分がちがいます。
 引っ越してまずつくったのがこのウッドデッキでした。ぼくとしては冥土の土産になる大仕事でした。引っ越した年はこのデッキで8回もバーベキューをしました。いまでも家まわりの仕事、裏山の仕事(ぼくの仕事は竹切りが主ですが、これから冬にかけては竹薮に穴を掘って木を植える仕事があります)などをしているときは、デッキで昼食をとります。長靴を脱いだり作業衣の汚れを気にしたりしないで食べられるのがいい。
 でも、畑の産物を干す場としてこんなによく利用するとは思いませんでした。三〇坪もない平屋の小さい家なのにウッドデッキのお陰で、便利に、こころゆたかに暮らせます。ウッドデッキに感謝!
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小学生と老人会の交流です。

2009年11月27日 06時28分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちのの老人会と校区の小学生の交流会があり、二人で参加しました。参加した老人は全部で9人。そのうち我がから7人。小学校に入るなんてほんとに久しぶりです。
 写真はぼくの前にすわった一年生です。食べているのは、サツマイモを入れたドーナツとカボチャを入れたクッキーで、一年生がつくりました。形はいろいろですがおいしかった。なにより子どもたちの、おっとりした、素朴な存在感が好ましかった。
 日頃の学習を見てもらおうと、一年生はとなりにある給食センターのことを調べました。パワーポイントを先生が操作し、食洗機やリフトなどをみんなが発表してくれました。「これはそういうことをする機械なのか」と興味を持って聞きましたし、給食センターのことがよくわかりました。先生の指導で一年生が発表し、老人たちが興味を持って聞けるなんてすごいな。
 二年生は、秋の野菜類を使って音楽を演奏しました。カボチャやサツマイモなどを叩いたり容器ごと振ったりして音を出すのです。演奏から秋が伝わってきました。
 おとといは、三木市全体のグランドゴルフ大会が『グリンピアみき』であり、ぼくも参加しました。前日の雨で二つのコースで三チームがすることになり、途中でつかえてしまいました。
 順番のことでもめてるみたいです。新興住宅地のチームが、先に行こうとして、口の達者そうなおじいさんがしゃしゃり出ていかにもテキパキと差配しようとしています。「しっかり者」と顔に書いてあるおばあさんもそばで応援しています。後まわしになりそうな我がチームは、と見ると、よそのの人と久しぶりに会ってしゃべっている人、のんびり眺めている人。こりゃぼくでもなにか言わなくては……。
 そのとき気づきました。「たかが老人のグランドゴルフ。意識してないけど、うちの村の人たちはそれをわきまえている。あのチームの人たちはなにかあると血相変えて後回しにされまいと生きてきたのかも」
 むかしからの村で暮らしている人たちは、こころの動きがゆったりしています。それは土地の空気になっていて、子どもも大人も老人もその空気を吸って生きています。
 そんな空気を吸う仲間になれたことをうれしく思いました。 
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シモン一号を収穫しました。

2009年11月24日 07時26分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 一昨日は雨が降り、畑がまだ乾いていないのですが、寒くなる前にシモンを掘らなくては。
 というわけで芋掘りをしました。まずヤーコンを堀りました。苗を二株買って植え、一株は植えた直後に夜盗虫にやられてしまいましたが(ほんとうの犯人はネキリムシです)、もう一株はよくできていました。写真の白いシモン一号に混じっている有色の芋がヤーコンです。携帯電話と比べても立派な大きさの芋ができています。
 さて、いままで二度試し掘りしては「芋はどこにできてるんだ。根ばっかりで芋が出てこない」とがっかりしていたシモン一号ですが、ツルを切って掘ってみました。白い根がとなりの畝の端まで伸びて、そこにできている芋もありますが、株によってはふつうのサツマイモのように植えたところにかたまってできています。よくできているのかどうか、わかりません。でもとにかく収穫できてほっとした気分です。10株あまり掘って、写真のような芋がもうこれくらいあります。
 半分掘ったところで日が暮れました。あとは明日掘ります。
 シモン一号はブラジル原産のサツマイモの仲間ですが、薬効のほうが宣伝されていて、おいしいというわけにはいかないようです。でも天ぷらの上品な味は捨てがたいし、味噌汁の具にすればおいしいです。
「一度つくるとその畑には五年シモンをつくれない」ほどに土の栄養分を吸い尽くすといわれています。たしかに掘っていくと根がすごい。「こんな芋が……」と思うような小さい芋でも根は四方八方に伸ばしており、根の太さや長さもハンパではありません。来年つくるかどうかまた考えますが、つくった畝はちゃんと覚えておかなくては。
 畑の作業はタマネギを植えて一段落しました。ことしも1000本超のタマネギを植えています。娘たちはせっせと持ち帰るし、訪ねてきた人にもあげやすいし、よろこんでもらえるようならお安い御用です。りっぱなタマネギになってね!
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イチゴの畝を追加しました。

2009年11月22日 03時16分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いま孫たちが「イチゴ! イチゴ!」とイチゴ狩りをたのしむ『苺』(いちご)のことを、ぼくらが子どもの頃は『オランダ苺』と呼んでいました。もっと固くて酸っぱくて、あまり子どものよろこぶ食べ物でなく、食べるときは砂糖と牛乳をかけて、さじ(スプーン)で潰して食べました。ですから苺はあまり好まれず、バナナのほうがずっと憧れの果物でした。というかバナナは高級な果物でした。
 地区の新年宴会などで出され、父が手をつけずに持ち帰る折り詰弁当に一かけら入っているバナナを、子どもたちは等分に切り分けました。まず一センチくらいに切られたバナナを眺め、においを嗅ぎ、なめ、かじるように口に入れ、じっくり味わって食べました。そんなとき以外にバナナを口にすることはなくて、皮をむいて一本丸ごとバナナを食べた記憶がありません。バナナの代わりにバナナの形をして、中にクリームが入ってバナナのにおいのする菓子があり、それなら一本丸ごと食べた記憶があります。
 さて、10月21日のブログで「来年も孫たちにイチゴ狩りを存分にたのしませてやろう」とイチゴの畝を二畝つくったことを書きました。それから話はさらに発展します。二畝にイチゴの苗を140株植えたのですが、ランナーからとった苗がまだ50本ほど余っています。小豆を刈り取ったのでイチゴ畑の横は空いています。
 孫が小さいうちに『イチゴ極楽』を一度体験させてやれば、こころの大らかな生涯を送る子に育つのではないか。そんなことをおばあさんは考えて「横にもう一畝つくろうか」と提案しました。
 おじいさんは「イチゴをスーパーで1パックか2パック買って、洗って、数えてガラスの器に盛り分けて食べる一家」のイメージを思い浮かべました。それから、ざるにイチゴを収穫して、山盛りのイチゴの大皿にみんなでとりついて、食べ放題に食べる我が家の孫たちをイメージしました。イチゴ極楽を体験すれば大らかな人間に育つかもしれん。おじいさんにもイチゴの畝をつくるパワーがわいてきて、二人で畝をつくり、苗を移植して写真のように三畝の立派なイチゴ畑ができました。
 欲張りじいさんばあさんではありませんぞ。自ら働いて、自然の恵みを孫たちにたっぷり享受させて、こころゆたかな人間に育ててやろう、というのです。なかなかいい話じゃありませんか。
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消滅する集落を心に留めておきたい。

2009年11月21日 06時40分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 鳥取県中部の山奥の集落を訪ねたときに見た廃屋です。藁屋根の家を保護するためにトタンの波板でカバーして暮らし、やがて無住になり、カバーが剥がれ、家が傾いています。今年か来年には倒壊するでしょう。冬は二メートル超の雪が積もります。
「ぼくはなんのために限界集落を見て、住む人の話を聞いているのだろう。滅びゆくものへの好奇心、野次馬根性だけで覗き見されるのでは住んでる人は迷惑する。先祖代々生きてきて、ついに見捨てざるを得なくなった集落を、さも同情するような顔をして見てまわる。こんな事態になったのは、大きな社会の流れでどうしようもない。善でも悪でもない。そんな限界集落に、いまおまえは自分の身を置けるか。とてもじゃないが一年間暮らせないだろう。ほんのひととき、『故郷の廃家』を歌ってその情緒にひたるように、ただ見て歩いてるだけじゃないか。この現況をどうしようというのだ」
 こんな問いを胸元に突きつけられた気がして、考えがまとまりません。でも限界集落と聞けば好奇心が動き、自分の身をひたしたいと思います。
 以前鳥取県東部の智頭町にある『板井原集落』のことを聞いたときも、行ってみたいとネットであれこれ調べてみました。この集落はやはり山奥にあり、家や道は昔のままで、の中のせまい道は、自動車というものが走ったことがありません。
「いまどきそんな集落があるのか。行ってみたい」と気持ちが動きます。近年訪ねる人が多いそうですが、地元では観光地化しないで滅びるにまかせるべきだという声があがっています。
 でも思い出します。父は山奥の小学校の分校に勤めていました。その父が88歳で亡くなったあと、その分校跡を訪ねたときのことを。
 谷川沿いの立派な道路を車で上がっていくと、集落の最初の家が見えてきました。屋根の中央が陥没しています。中の家財道具や布団が見えます。生身の家が大怪我をして血を流しているみたいです。
 腹の底からなにかが突き上げる衝撃を受けました。
 神戸の地震のとき、上郡から神戸に電車に乗ってやってきた人のように。彼女は書いていました。「電車が須磨駅に着いた。家が横倒しになっている。気がつくと、満員の電車は、さっきまでの喧騒がウソのように沈黙して窓の外を見ていた」
 あの衝撃。あとで知った限界集落という単語。簡単に片付けられない気持ちをかかえて、しばらく暮らします。
 
 
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老人会若手委員会主催のウオークに参加。

2009年11月20日 02時48分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市には老人会に若手委員会という組織があります。どこの町でもそんな委員会があるでしょうか。そこが主催して秋のウオークがあり、二人で参加しました。三木市全体で80人あまりの老人が参加し、秋の一日吉川町ウオークをたのしみました。
 朝は、少し寒い日になるかと心配したのですが、歩いているうちにあたたかくなり、気持ちのいいウオークでした。吉川町の名所を歩いてまわるコースで、6キロ弱を二時間かけてのんびり歩きました。写真はコースの途中にある『黒滝』という滝です。落差は4メートルですが幅が30メートルあって、かなりの流量です。この滝を見下ろしながら弁当を食べました。
 美嚢川(みのがわ)は三木市内を蛇行しながら流れて加古川に合流しますが、水はにごっています。田んぼの水が流れ込み、その泥でにごるのです。旧吉川町は酒米の山田錦生産が日本一です。山田錦は根が一メートルも下に伸びるので泥が深く、水がにごりやすいそうです。でも滝を流れる水はきれいに見えます。
 若手委員会の人に先導され、ナップサックを背負って数十人で歩いていると、先生に引率されて遠足しているようです。
「あー、子どもに戻ったみたいないい気分だ。なんにも悩まないで、ただ、『いま』をたのしんでた時代がぼくにもあったなー。年をとると子どもに還るという。いま還りつつあるのだろうか」
 ウオークの後はよかたん温泉に入ろうと思っていたのですが臨時休業で残念。帰り道、おやつがわりにそば屋さんでざるそばを食べました。以前ブログで紹介したそば屋さんです。久しぶりでした。やっぱりここのそばが一番。
 あの超限界集落は、だれか訪ねてくることもなく、今日も山奥にじっとうずくまっているだろうか。
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安納芋を掘りました。

2009年11月19日 03時42分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう夕方になってから安納芋を掘ってみました。「最低気温が4度になるんだって。熱帯系の芋だから掘らないとだめになるわよ」とせかされたものですから。最近安納芋は焼き芋として、テレビ通販でも宣伝されるようになりました。種子島原産で、小ぶりだけどクリーミーな甘さで人気上昇中とか。
 今年はムラサキイモは植えないことにしていたら、7月になって道子さんが安納芋のポット苗を畑に持ってきました。「家の植木鉢と並べて置いてたけど繁ってきたので畑に植えて!」
 7月10日になってからツルをとって植えても大きな芋にはならないでしょう。親株と二株だけツルをとって植えました。でもひげ根のような芋ではどうしようもないから、せめて11月中旬以降に、つまり植えてから4ヵ月後に掘ることにしようと決めていました。
 先日よかたん温泉に行ったら、直販所に安納芋が出ていました。直径三センチ程度のくず芋のようなのを数本まとめて売っています。「安納芋ってこんな大きさなのか」といささかがっかり。
 きのうは掘ってびっくり。写真は一株の安納芋で、大きさがわかるように携帯電話を置いています。全部で4,6キロあります。二株掘ってみましたがもう一株は4キロ弱ありました。それにツルを二株植えたと思っっていましたが、5株植えていました。全部で6株。20キロ超あるでしょう。こりゃー、保存用の発泡スチロールの箱を買い足さなくては。
 掘るときに傷つけた芋を薄く切ってオープントースターで焼いてみました。ちょっとクリーミーかなー。甘みはそんなに感じません。掘って一ヶ月は熟成させる必要があるそうです。でもたのしみになってきたなー。
 パントリーというか食品等貯蔵庫というかまだ未完成で仕事が残っています。きのうは棚をつけるために木を切ったり削ったりビス止めしたり。小屋で音楽を聞きながら木を削っているのは、しあわせな時間です。頭の中には、月曜日に見た超限界集落がずっとただよっています。なにかいいたいのだけど、なにをいいたいのか。ときを待ちます。
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超限界集落を訪ねました。

2009年11月18日 07時20分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 郷里の鳥取県で同窓会があり、秋の旅を兼ねて道子さんと軽自動車で出掛けました。雪が積もる前に中国山脈の山奥にある限界集落を訪ねてみたかったのです。鳥取県中部のその集落は、町役場のホームページの統計では、世帯数3/人口6名/65歳以上6名となっていました。
 あらかじめ郷里の友人に「車で行ける」ことを確かめましたが、それにしても二車線にガードレールのついたいい道です。高度が高いため紅葉の見頃は少し過ぎていますが、快適な秋のドライブです。
 目ざす集落に下の町から20分で着いてしまいました。村に入る細い道に車を入れたところで、運よく大根を洗っている女性を見掛けました。話を聞いてみると、その年配の女性は独りでこの村に住むのはこわくて、下の町から通って農業をしていました。家族が亡くなったのでしょうか。「他の二軒の家に年寄り夫婦が住んどりますけど施設に入った人もあって、数年したら村は無人になってやがて山に還るでしょう」と話されるもの静かな声が、川の瀬音とともにしみ込みました。
 次に訪ねた集落は谷が違いますが車で行くことができます。写真はその村の崩壊した民家跡です。太い木材がありし日の家を偲ばせます。
 村の入口には小石を積んだ塚があり『安徳稜』と看板が置いてあります。二車線の舗装道路の向うには立派な『平家一門之墓』が立っており、小径の先に『二位尼の墓』と看板が。感激した道子さんがだれかに話を聞こうとするのですが、崩れた家、崩れかけた家、崩れてしまった家があるばかり。
 ようやく見つけた村人は80歳くらいの元気なおじいさんで、栃餅(とちもち)をつくるために薪割りをしていました。話を聞いてみると、この村に生まれ育ち、暮らしてきたけれど、いまは下の町から通って菜園や自分の家の補修をしているとのことでした。平家の落人伝説のことを尋ねたら「まー、あちこちにある話ですけーな」とえらくつれない返事です。 ……  明日に続く
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よそよそしく異界と呼べど……

2009年11月14日 02時08分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 妙子さん(母の名前です)は去年まで短歌を詠んで『コスモス』に投稿していました。短歌歴は三十年以上になります。しかし九十六歳を過ぎて詠むのが面倒になったらしくやめてしまいました。その妙子さんが平成14年(2002年・妙子さん八十九歳のとき)にこんな歌を詠んでいます。

   よそよそしく異界と呼べど知り人の増えて何やら親しき冥土

 長生きするとそうでしょうね。(といいながら息子のぼくも古希を越えてしまったのですが)10年ほど前に、こんなことを考えました。
 これほどみんなが『あの世』『あの世』というのだから、ほんとにあるのだろう。そして死んだ人はそこにいるのだろう。ということにしよう。
 ぼくが死んであの世に行ったら、どれくらい知ってる人が待っていて「やー、元気か? 久しぶりだなー」と話ができるだろう。108人はいるだろうか。(108という数字に何のいわれもありません。除夜の鐘から思いついた数字です)
 ちょっと多いので紙に番号を打って名前を書いていきました。まず身内・親戚、幼なじみ、同級生・同僚・先輩、ご近所などなど。ところが108人どころか50人をなかなか越えられない。名簿を出してきたり年賀状のリストを見たりしてなんとか60人を越えたところでやめてしまいました。自分でもばかばかしくなって。
 もし『あの世』を実感できたら、どれくらい友だちが待ってるか真剣に考えますが、ありそうな気がしません。
 臨死体験をした人は「花園が見えた」というそうです。そんな証言を聞きまわっている学者もいます。死んだら天国に行くとすれば結構なことですが、でも『あの世』ってほんとにあるのかなー。
 
  
 


  
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『秋はもみじで楽しもう in 三木!』

2009年11月13日 02時08分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうのブログの題は、三木市が出している秋の観光用リーフレットのタイトルです。三木市は人口8万人の神戸市の隣町です。ゴルフ場だけは25とやたらに多く、全国で二番目に多いとか。市街地は三木城のあった西に片寄っており、あとはなだらかな起伏の小さな山々と田んぼのひろがる田舎町です。
 リーフレットには12のもみじの名所が並んでいます。三木市に移り住んでからの三年の間にこのうちの10ヶ所には行きました。「結構ウロウロしてるんだな」と自分で感心してます。いくつかを紹介しましょう。
◎ 伽耶院 …… 家から車で15分のところにあり、初詣・和尚さんの現地講演会などで数回来ています。10月にある、全国の役行者全員集合のお祭りに来年はぜひ来てみたいと思っています。初詣では役行者から「エイッ!」と肩に喝を入れてもらえます。
◎ 蓮花寺 …… 家から歩いていける散歩コースにあるお寺です。節分の鬼踊りでは、鬼が火のついた松明の束を持って踊り、観客にその松明を投げます。「火のついた松明を投げるなんて危ないことをするな。しっかり逃げなくては……」と思って見物していたら、間違っていました。何度も何度も松明を投げますが、投げたとたん観客は数本の松明を奪い合います。生半可な気持ちでは一本も手に入りません。そうだなー。須磨水族園で魚に餌をやりますが、あのピラニアの迫力を上まわります。
◎ 慈眼寺 …… 図書館に行く途中にある小じんまりしたお寺です。ここには何度か来ましたがアプローチがいい。今年もちょっと寄ってみたいお寺です。
◎ 法光寺 …… 『よかたん』温泉の帰りに脇道にそれて、細い山道をちょっと走ったら忽然と現れたお寺です。行ったのは初夏でしたが、もみじの木が多くて紅葉の季節は見事でしょう。
  
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チャレンジャー

2009年11月10日 05時25分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 4歳になったばかりの孫の大志くんは、乗り物が大好きです。家から畑に行くときは、おじいちゃんに一輪車に乗せてもらいます。池のそばを通るときは「ヌートリア、どうしてるかなー」とたずねます。
 その大志くんが土曜日にやってきて、畑で遊びました。おじいちゃんが草やサツマイモのツルを燃やしているそばで遊んでいましたが、そのうち一輪車を動かしはじめました。いままで乗せてもらうばかりだったけど、自分で動かしてみたくなったようです。
 なんとか動かそうと一輪車と格闘してるな、と思いながら畑を片付けていて、ふと気がつくと大志くんがいません。遊歩道を見ると向こうで一輪車を動かしています。あんなところまで押していったのか。
 身長も力も足りないから一輪車が思うように動きません。でこぼこの場所にさしかかると、前にまわって引っ張ったり、また後から押したりして少しずつ進んでいます。
 大志くんの歓声。見ると一輪車を押して遊歩道を一周したところです。誇らしそうな顔がいい。全身の力と智恵をつかい切って、やりとげた歓声です。
 またすぐに、もう一周しようとする大志くんを見ていると、いつも可能性に挑戦する『子ども』という『エネルギー塊』に感心してしまいます。私たち老人とちがう種類の生き物みたいな気がすることがあります。
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大豆を脱穀しました。

2009年11月09日 00時25分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 稲木に干した大豆がよく乾いています。きょうの脱穀に備えて、きのうの夕方稲木から大豆をはずしてシートを掛けておきました。夜露にぬれなかったので朝から脱穀です。方法は『ビンでたたく』。
 ブログを見て「ビール瓶でたたくのなら我が家に先祖伝来の木槌があるから使わないか」と親切に声を掛けてくださった方もあったのですが、結局今年もビンでたたく脱穀になりました。写真はこれから脱穀する大豆の山で、ぱりぱりに乾いています。
 今年は根をつけたままなので持ちやすく、ぼくは6本くらいを束にして持ち、束をまわしながらビンでたたきました。道子さんはシートの上にブロックを置いて、『太鼓の達人』の要領で大豆を打ちつけて脱穀しています。黙々と作業して、午前中にサヤをたたく作業は終わりました。午後はふるいに掛けてゴミをとり、家に持ち帰って体重計で収量を量ると26キログラムあります。去年は14キロでしたから、今年のほうが収量が増えています。
 今年は「大豆畑トラストで収穫し、分け前をもらっていた大豆がなくなるから、自前でたくさんつくらなければ」と作付けを少し増やしたのですが、味噌と煮豆には充分です。去年は「脱穀が大変だから枝豆として消費しよう」とあちこちにあげたのですが、今年は大豆として収穫しました。江戸時代と変わらぬ脱穀方法でかなりの量を収穫できることがわかりました。
 大豆の収穫は無事終了しました。黒大豆は12月中頃に収穫します。まわりの休耕田での黒大豆栽培は、JAの指導で葉っぱを落とす作業がつづいています。葉を早く落とすと日がよく当たり、豆が乾いて早く脱穀できる。そして年内に黒大豆として販売できる。そのほうが値がいい。ということで。
 我が家の黒大豆はお正月に間に合えばいいので、葉っぱを落とす作業はしません。なるべく自然に。葉が自然に落ちるのを待ちます。
 
 
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セイタカアワダチソウの堰堤は黄色のベルト

2009年11月05日 01時37分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 柿の葉、桜の葉などが色づきはじめ、秋が深まってきました。この寒さでクヌギやコナラの葉も色づくでしょう。ブログで何度かふれた『秋の深い色合いの山々』を見られるようになります。
 でもセイタカアワダチソウはいまが満開なのでしょうか。
 写真は我が家から歩いて三分の蛇ガ池の堰堤です。他の雑草は勢いを失っていくのにセイタカアワダチソウだけは咲き誇っています。しかし草の丈は腰くらいです。
 この堰堤は隣のと共同で6月の終わりに草刈りをして、消防ポンプを持ち回りながら刈った草を焼きました。それから生えた草だから丈が伸びなかったのでしょう。このあたりの田んぼは月に一度は草刈りをします。だから田んぼの土手にはセイタカアワダチソウは生えていません。しかし放棄田では土手も田んぼも2メートル以上のセイタカアワダチソウにおおわれます。他の草を滅ぼすし花粉でアレルギーになるというし、まったく始末のわるい外来の草です。
 とセイタカアワダチソウの悪口をブログに書いてから、ネットで検索してみました。『アレロパシー』という言葉が出ています。
「自分がはびこるために他の草の成長を抑える物質を出すことで、それが自分の成長も抑制する」。
 写真の堰堤は、まず他の草の成長を抑え、それから自分自身も短くなったのか。ぼくの勝手な思い込みでした。
 セイタカアワダチソウは地表から50センチのところに根を張り、そこの肥料を食い尽くしてやがて衰える。地表の浅い肥料帯には根を伸ばさない。地表に根を張るススキや萩がはびこるようになる……そうか。植物の世界は深いんだなー。
 明日の散歩は、また蛇ガ池の土手を歩いてみることにします。
 
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