古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

卵焼きをつくりました。

2019年03月31日 04時30分48秒 | 古希からの田舎暮らし
 茶碗や皿を洗って片付けるのは好きなほうです。アライグマのDNAが混じっているのかもしれません。でも料理をつくるのはサッパリです。道子さんが「ちょっとしんどい」といえば「そしたらインスタント・ラーメン食べよう」と湯を沸かします。
 しかし「アラ80」夫婦はそんなことではダメ。
 どちらかが調子を崩し、どちらか先に死ぬ。これは必ず起こることです。
「自分が先に調子を崩し、先に死ぬ」とぼくは思い込んでいます。しかし「そうは問屋が卸さない」かも。
「あなたのお母さんは何歳で逝かれましたか。(答え:105歳)そのお母さんは何歳で逝かれましたか?(答え:103歳)あなたはどうなると思いますか」と説得されて、ぼくはまず「卵焼き」を作ることにしました。81歳にしてまず卵焼き練習から。
 きのうはまず「固焼き」のほう。豆腐と味噌・ウインナー・リーフをアレンジしてお昼のおかず。
 夜は村の寄り合いがありました。そんなに大声で話し合いませんから聞こえにくい。話の中身がよくわからない。でも、忘れずに出席してよかったです。最近の「寄り合い出席率」は5割くらいでしたから。来年度は村の役員がまわってきます。順番で。
 毎月役員会に出席することになります。出席を忘れないか。居眠りしないか。心配です。
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今日は大働きしました。

2019年03月27日 23時43分09秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは「物憂さ」と書きましたが、こころの波というか、「今日は大働き」しました。
 まず午前中は、老人クラブの役員さんで集まって、クラブ員の名簿をチェックしました。

 我が家で、真剣に話し合いました。
 お昼前には電動ウォーカーで30分(時速2,5キロ=1200メートルほど)を歩きました。膝の痛みはゼロではありませんが、それなりの運動になっています。
 昼寝のあと、午後は軽トラで「三木バイオ堆肥センター」に堆肥をもらいに行きました。近畿のあちこちから集めた食品残渣でいい堆肥ができています。軽トラにざっと一杯もらって帰り、堆肥入れに入れました。

 高さ60センチの畦板を2枚つないで円筒形にして、その中に堆肥を貯蔵します。軽トラの荷台に上がって、シャベルで堆肥を投入している図です。久しぶりに働いている感じがしました。円筒形の入れ物4つがほぼいっぱいになる量の堆肥でした。(堆肥は無料でもらえました)
 サツマイモの畝やまだ整備していなかった畝に、燻炭/鶏糞/三木バイオの堆肥/を入れて、何度も何度も耕運して 〈真砂土⇒畑の土〉 にします。
 そこで豊地農協に、燻炭と鶏糞をもらいに行きました。フジワラ・ファームの鶏糞をつかっていたのですが、近ごろなかなかもらえませんので。燻炭は豊地農協が、おそらく日本一安い。一袋770円です。もう一つ入れるものがあります。ヌカです。これは志染農協でもらうのですが、時間切れでまたもらいに行きます。
 畑は去年の秋、真砂土を入れて、それから「畑の土づくり」をしたのですが、植えた物はいい具合に育っています。道子さんは「ソラマメの間に植えたホウレンソウが驚くほど根を張って大きくなっている」と感心しています。去年の秋に一株100円で120株植えたイチゴ:宝交早生は、立派に育ち、花がついています。イチゴも期待できそう。

 今日はこころのうねりが、高波の頂上でした。疲れましたが、さわやかな気分です。
 
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母の文学仲間に手紙を書きました。

2019年03月27日 01時03分50秒 | 古希からの田舎暮らし
 14日に母は亡くなり、12日が過ぎてゆきました。葬式/役所の手続き/司法書士で後見人へ依頼(相続)/母の持ち物の片付け・処分/と目の前の仕事をすませたところです。
 もう一つ大きな仕事があります。母の文学仲間への手紙です。
 手っとり早く伝わるようにと、朝日新聞の「ひととき」欄に母の死を投稿することを考えていました。なんとか書いて投稿しましたがボツ。そこで文学仲間のみなさんに手紙を書きました。

 
 突然の手紙で失礼します。                吉岡妙子の長男・吉岡啓一です。
 母がお世話になりました。吉岡妙子は平成31年3月14日に亡くなりました。母の感謝を伝えようと手紙を書きます。

 父は22年前、1997年に行年89歳で亡くなりました。そのあとしばらくして、母は体調を崩しました。そのときは健康を回復しましたが、母は自分の図書や書き物を整理して、雑文集『でんでん虫の歌』を、2000年9月に自費出版しました。その「あとがき」にこう書いております。


     この世を去るにあたって  ……  御礼申しあげます。  ……  
     私個人の好みとして、葬儀・告別式無用、香典辞退、近親者だけで静かに
    送り出して頂きたいのです。  ……
     ではみなさま御機嫌よう。     吉岡妙子

  
 いま読み返してみると、明日にでも死ぬような「死ぬ気まんまん」の文章です。しかし〈妙子〉という「生命体」のほんとうの意志はちがっていたようです。
 父の死後10年、母は94歳の誕生日に、神戸市北区ひよどり台の家から、長男の私の家に引っ越してきました。(私は「田舎暮らし志向」で神戸から三木に移り住んでおりました)
 100歳に近くなり、デイ・サービスのお世話になりはじめました。また、私の妻の入院もあって、施設に数泊する「ショート・ステイ」のお世話になるようになり、だんだん弱ってきました。しかし、医者に薬をもらうこともなく、元気に過ごしておりました。
 母の100歳のお祝いには、私たち4人の子どもや連れ合いなどが三木に集まりました。母は、図書館で借りる大型活字本も読みにくくなり、100歳の祝いに自分用のテレビを贈りました。
 103歳のときは要介護5になり、妻の入院もあって、老健施設にずっと預かってもらうことになりました。また長年ひよどり台でいっしょに暮らした弟が急性心筋梗塞で亡くなり、彼の死と葬儀は母に知らせずに兄弟や連れ合いで行いました。
 母の施設には週に一度顔を見に寄っていました。今年3月に入ってからは一日おきに様子を見に行きました。
 母は、お医者さんに薬を処方してもらう病気はありませんでした。生きる力を使い切って、105歳10ヵ月で逝きました。
 64歳になって山陰の田舎から神戸に出て、お世話になった文学仲間のみなさんに、母の死をどう伝えようかと思案して、朝日新聞の「ひととき」に投稿しましたがボツでした。
 お世話になった方へは「とおりいっぺん」のあいさつ状でなく、母の気持ちを伝えたいと思って手紙を書きました。
 母の好きなミモザの咲く季節に、母は逝きました。子たち孫たち曾孫たちは、大和会館の『やわらぎホール』の母の葬儀に集まって、棺を花でいっぱいにしておくってくれました。
 母の100歳の写真を遺影用にしました。その写真とボツ投稿を同封いたします。
 ありがとうございました。

 書き終わってホッとしています。「母が亡くなる」という人生の出来事には、多くの人が出会います。その「こころの物憂さ」みたいなものと向き合っているときでしょうか。
 外仕事もするのですが、気力の乏しさを感じております。
 
 

 
 
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電動ウォーカーを室内に入れました。

2019年03月24日 06時47分49秒 | 古希からの田舎暮らし
 膝の筋肉運動は夜中にしているのですが、最近はあまり「する気になりません」。イスに座って足首を回したり、脚を水平にホールドする運動にあきてきました。というより「歩く」運動をして鍛えたい。
 散歩にいい季節になりました。だから「福地池を周回する」。しかし道は凸凹があります。すり足で歩くと、引っ掛かって転びそうになります。やっぱり電動ウォーカーがいい。
 ハンモックを置くために小屋に出していた電動ウォーカーを、母の部屋に置くことにしました。
 時速2キロメートルで15分歩いてみました。
 足は引き摺り気味ですが、引っ掛からないで歩けます。しばらくこれで歩いてみます。

 テニスの応援はしているのですが、錦織圭も大坂なおみも負けてしまいました。
 どちらも不甲斐ない負け方です。情けない!
 仕方がないので当分枕を高くして寝ます。
 
 
 
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寒い日は外仕事をする気になりません。

2019年03月23日 00時43分44秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは特別寒い日ではありませんでした。でもあたたかい日を体感したあとは「寒くて外仕事をする気にならない」。「稜庵」で蕎麦を食べて「よかたん温泉」に入ることにしました。
 稜庵の蕎麦はこの地に移り住んでから13年、変わらぬ味です。おいしい。お店は11時半に開き、お客さんは絶えません。天麩羅つきのざる蕎麦を食べて、腹ごなしに少しドライブすることに。
 吉川町毘沙門あたりをドライブしていると「歓喜院聖天堂」の看板。寄ってみる気になりました。
 実はこのお堂には数年前に来たことがあります。よかたんに集合して徒歩で吉川町を歩く催しがありました。あのときは、お堂まで歩き、黒滝で弁当を食べました。(あの頃は健脚で元気だったなー)
 村の中の細い道をのぼり、駐車場に車をとめ、お寺に歩いていきました。

 重要文化財の小さいお堂です。建物でおおわれているので全体を撮るのはむずかしい。格子戸にカメラを差し込んで撮りました。
 近くにある石の像。表情がなにかを伝えようとしているような。いい顔です。しばし見とれました。
 毘沙門の墓地。お寺のそばには村から出征した兵士たちのお墓が並んでいます。一つ一つ見ていくと、青年壮年男性のお墓です。南の島や中国で戦死したと記されています。

 この小さな村からも、屈強な男達が出征し、還って来なかった。なんというか …… 。
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花いっぱいの初七日に。

2019年03月22日 02時52分57秒 | 古希からの田舎暮らし
 母は2000年に『でんでん虫の歌』という本を自費出版して「あとがき」に書いています。
 
 私個人の好みとして、葬儀・告別式無用、香典辞退、近親者だけで静かに送り出して頂きたいのです。

 20年も前は香典はしっかりやりとりされていました。葬式も田舎ではそれぞれの家で行っていました。その時代に書いた文です。いまは家族葬が多くなり、母の願いもかなえやすい。
 通夜・葬儀は質素な仏壇で家族葬で行いました。ただ、花だけはあふれるほど用意しました。棺のふたをするとき、山のような切り花で全身をおおいました。

 家の仏壇の横には、2年前に亡くなった弟/14日に天寿をまっとうした母、身内や友人で亡くなった人、の写真を置いて、毎朝拝むときに心に思います。そこに母の写真も加わりました。

 きのうの母の初七日は、胡蝶蘭やクレマチスの鉢、身内から送られてきた供花で写真をかこみました。道子さんについてぼくもたどたどしく途中までお経をあげました。
 これからも花いっぱいのコーナーにしたいと思っています。この部屋は、冬は胡蝶蘭に適した暖房を入れ、夏は冷房を入れています。
 夏は外仕事をして家に入ると、この部屋で涼むことがよくあります。弟の急死以来そうしていますが、母も加わり、当分涼しい夏はつづきそうです。ありがたい。
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あいさつ/手続き/遺品整理/にとりかかりました。

2019年03月20日 20時23分04秒 | 古希からの田舎暮らし
 おそらく10年若かったらなんでもないことでしょう。でも81歳になってみると/あいさつ/役所の手続き/遺品整理/は結構な気持ちの負担になります。
 今日は朝から/役所/老健施設/司法書士事務所/とまわり、いろんなことをしました。なんでもないことでも、頭がまわりません。説明を受けても、スーッと自分の頭の上を通り過ぎてしまう感じです。何を言われたのか。何をすればいいのか。何も残りません。
 自分でも頼りない感じで、お願いできるところはお願いしてきました。
 あとは昼寝をして、風呂に入って、本を読んでいます。
 いま読んでいる本は『筆に限りなし …… 城山三郎伝』(加藤仁 著 2009年刊 講談社)です。著者はノンフィクション作家で、この伝記はかなり優秀です。城山三郎をしっかり見ています。

「城山三郎は経済小説を書く作家/ぼくは経済に関心がないし、社長や実業家の出てくる小説は読む気がしない」と決めつけていました。彼の小説は一冊も読んでいませんでした。 
 ところが城山三郎は昭和2年生れ/熱烈な愛国少年で18歳で海軍の予科練に志願・入隊する/殴られ、いじめられ、海軍に幻滅する/敗戦後「ぼくは廃墟となって生きた」と書いた。(「そうか。きみはもういないのか」)/そのことを知って、城山自身の精神の流れ/反骨/に興味をもつようになり、作品を読んでいます。
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まず蟹を食べてから。

2019年03月19日 19時37分52秒 | 古希からの田舎暮らし
 母・妙子さんは、最後の一滴まで生きる力を使い切って、105歳10ヵ月で逝きました。
 葬式をすませてまずぼくたちがすることは。とりあえず「蟹を食べてから」。

 2006年12月4日この地に引っ越して、まず、したことは。天橋立に一泊して蟹を食べました。あれから13年。やはりまず「蟹を食べてから」あいさつや手続きにとりかかります。
 というわけで、きのう一泊して蟹を食べてきました。
 明日からあいさつや手続きに動きます。
 むかしはもっとテキパキ動いたように思うのですが、いまは何をするにしても「心と体の準備運動」が必要です。不用意に動きはじめるとうまくいきません。
 
 
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演劇『藤原惺窩物語』を見ました。

2019年03月18日 04時28分45秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは三木のホールで演劇『藤原惺窩物語』を見るためにウロウロした一日でした。「午後1時からの公演を見よう」と10時には出掛けました。図書館に寄り、座席指定券をもらおうと12時に会館に行ったら「昼の部は満席でチケットはありません」。
 6時からの夜の部を見るしかありません。家に帰って昼寝して、また出掛けました。
 藤原惺窩のことは三木に住むようになってから知りました。でも学者です。地味です。どんなことで偉いのか知りません。毎年秋になると、三木市細川町のあたりに『藤原惺窩まつり』と幟(のぼり)が立てられますが、どんな〈まつり〉をするのか知りません。
「演劇でも見て、ちょっと知りたい」と見る気になったのです。
 で、なにかわかったか。
 やっぱり、わかりません。偉い人だったということは伝わりましたけど。
 でもいいですね。郷土の偉人をこうして顕彰して、満席になるほど市民が見る。
 
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16日は神社にお参りする日でしたが……。

2019年03月17日 02時28分06秒 | 古希からの田舎暮らし
 毎月16日は、うちの村の『大将軍神社にお参りする日』です。カレンダーに記入して、絶対忘れないように気をつけています。しかし「身内が亡くなるとお参りできない」と聞いていました。
 念のため村の親しい方に電話で尋ねたら …… 。
「親が亡くなったら一年間はお参りできません」
「母は100歳を超えて天寿をまっとうしましたし、めでたいことですけど」
「それでもお参りでしません」
「裏山の〈祇園さん〉〈愛宕さん〉、八幡神社(うちの村の氏神さま)もですか」
「ええ、そうです」
 ショック!
 道子さんは、〈我が家/萠ちゃん一家/大志くん一家〉と3軒の一年間の袋(奉納と書いてそれぞれの干支を記入する)を用意して、今年も『毎月お参りの皆勤賞』をねらっていました。
 また裏山の祠は我が家のお気に入りでして、〈年末の掃除と注連飾り・新年のお参り〉それに当番の登られる〈7月14日/24日〉のお参りはたのしみでした。
 それが今年から来年3月まで禁止になる。田舎暮らしのたのしみの一つだったのに、それを取り上げられたような気分です。
 お寺参りだったらいいでしょう。
 この機会に「美嚢郡三十三ヵ寺巡拝をしよう。足を引きずってもゆっくりお参りすれがいいから」ということでちょっと気分が落ち着きました。

 きのうはコスミック・ホールで日本センチュリー交響楽団の音楽会がありました。
 スメタナの『モルダウ』/エルガーの『威風堂々』(地元中学生のブラスバンド・第九合唱団も加わって)とこころのほっこりする演奏会です。
 久しぶりに生の音楽を、コスミック・ホールで聴ける。こころよいひびきに、自然に涙が流れます。
 葬式の次の日ですが、文字通り天寿をまっとうした母に、世話をした道子さんとぼくに、何の悔いもありません。からっぽのこころに、音が満ちて、いい気持ちでした。
 
 
 
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「長生きおつかれさまでした」。

2019年03月15日 16時55分35秒 | 古希からの田舎暮らし
 14日の未明、施設から電話がありました。「息をしておられません。来てください」。まだあたたかでした。お医者さんが見えて、死亡を確認されました。
 前日の午後訪ねたとき呼吸がおだやかでした。「ちょっと落ち着いたかな」と思って帰宅していました。大正2年生れの母は 〈大正 / 長い昭和 / 平成〉 と3つの元号を生き抜きました。105歳と10ヵ月。生きるエネルギーのすべてを使い切って旅立ちました。
 
 昨夜は家族葬の葬儀場に泊まってお通夜。参列してくれた曾孫が、用意してもらった寄せ書きにメッセージを書いてくれました。
  「長生きおつかれさまでした」。
 そうです。実感のこもったことばに思わずうなずきました。
 今日は家族で葬儀をして斎場からさきほど帰宅しました。
 
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膝は痛くても外仕事はたのしいです。

2019年03月13日 23時39分04秒 | 古希からの田舎暮らし
 
 裏山の登り口に、芝生を張りました。
 膝は痛くないわけではありません。とくに起き上がって最初の一歩を踏み出すときは「今日はどれくらい痛むか」と用心します。でもしばらく動くうちに気にならなくなります。
 治ったわけではありませんが、毎晩の膝トレーニングが効いているのでしょうか。
「花と野菜の土」12袋/コンクリートのブロック8個/その他の買い物/と思いつくままに買って、荷台に積んで、帰る。軽トラはありがたいです。もうしばらく手放せません。
 母の顔を見に寄りました。嚥下作用が不安で経口摂食は無理になりました。呼吸はおだやかです。

 プロ・テニスのシーズンです。大きな大会がアメリカであり、大阪なおみも錦織圭も負けました。
 錦織圭は勝てる試合でした。それなのにミスで負けてしまいました。2セット目の最後のミス。あのミスは「軽率!」でした。それでアッという間に形勢が逆転しました。ここ数年ずっと応援してるのにうんざり。「またか!」といいたくなります。
 
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母に会いに行きました。

2019年03月11日 22時28分26秒 | 古希からの田舎暮らし
 母のところに、金曜日に行ってから2日あいています。老人会総会の世話をしたり、バタバタしましたが、今日はお昼にかけて母に会いに行きました。吸引してもらって少し落着いたようです。いのちのおもむくままに。
 少し様子を見て、昼食に出掛けました。午後また顔を出すと、呼吸はややらくになったようです。なでたりさすったりして、日誌を書いて、帰ってきました。できれば一日おきに会いに行くつもりです。
 午後は裏山の登り口斜面の工事をしました。
 5時前、道子さんが「虹が出たよ」といいます。雨がパラつき、西日があたって、しっかり見えます。

 半円の虹を写しました。見えますでしょうか。
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老人クラブ総会がすんでホッとしています。

2019年03月10日 21時27分25秒 | 古希からの田舎暮らし
 2018年度最後の老人クラブの行事=老人クラブ総会がすみました。
 今日までいろいろ準備をして、なんとか終わりました。ほんとは「おらが村の小さな集まり」ですから、久しぶりに談笑するのが楽しみな会です。でもいろいろ手配・準備する者としては、いっぱい気をつかいました。
 
 遅れた人もいますが全体の写真です。ぼくはセルフタイマーを押して、足を引きずって写真に加わりました。10秒で机をまわって、なんとかたどりつきました。
 2年任期の役員交代の年です。しかし交代の話はうまくいかず、もう2年することになりました。会長/副会長/会計(ぼく)/女性委員(道子さん)はごくろうさんです。

 小さな村で、生まれたときから「ちゃん」づけで呼び合って遊んだ人たちの集りですが、長い年月にはいろいろあって、老人会の盛り上がりはイマイチです。「新参者ですがそんな村の力になれば」とがんばっていますが、それもそろそろピリオドを打ちたいところです。
 とりあえずあと2年は役員としてなんとか。
 
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原木を買ってシイタケ菌を仕込みました。

2019年03月09日 20時10分03秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日美嚢園芸に寄ったとき、シイタケの原木の値段を見たら一本500円でした。ホームセンターと比べると安い! 「今度ついでのときに買ってもいいな」と話し合っていました。
 で、今日はいい天気だし「原木を買いに行こう」と美嚢園芸に。えらくにぎやかでした。きけば「特別謝恩セール」ですって。
 5本買って帰り、裏山で菌を仕込みました。いつもなら道子さんがドリルで穴をあけて仕込むのですが、いまは肩が痛い。ぼくが「穴あけ」/「菌の打ち込み」をしました。
 電気コードのドライバーはパワフルで、200個を1時間で打ち込むことができました。

 シイタケが採れるのは来年からですが、たのしみです。
 クララの苗は、長野県小諸市の方に送りました。今日先方の方からお礼の手紙と絵葉書がきました。東京から小諸に移住され、蝶の保存運動を展開しておられます。
 画家として活躍し、たくさん入選しておられる方で、つくられた絵葉書が入っていました。

 
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