古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

買い物に出て花見ドライブ

2018年03月31日 00時30分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 畑を耕運しているのですが、豆類の畑に苦土石灰が必要になってきました。そこできのうは、朝一番にホームセンターに買い物に出掛けました。
 行く道道で桜が咲いています。「三木市もかなり咲いてきたな。6分か7分咲きだな」。東条川のほうにまわってみるとこちらも5~6分咲き。シャレードの花見デッキはかなり咲いてます。買い物をすませたあと、吉川町の北谷川にまわってみることにしました。

 北谷川は5分咲きというところでしょうか。まだまだ。ついでに天津神社まで足を伸ばして一つ一つの祠にさい銭をあげて丁寧に拝みました。

 重要文化財の神社はいつも見とれます。田舎道をゆっくりドライブして「よかたん」の会館に行き、お昼になったので近くの美食城という店でラーメンを食べました。「やっぱり稜庵の蕎麦にすればよかったな」と反省しきり。
〈お昼寝〉のあと耕運機をもって畑へ。風があり、きのうより空気も冷たいので早めに帰り、ゆっくり風呂に入りました。
 もったいないような気楽な一日でした。
 
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裏山の桜も咲きはじめました。

2018年03月30日 01時23分07秒 | 古希からの田舎暮らし
 まだ3月なのに、神戸の桜は満開でした。きのうは散髪に行き、ついでに車でコープ協同学苑や東条川沿いの桜を見てきました。東条や三木は五分咲きというところです。
 見てまわりながら、今年の花見スポットを道子さんとリストアップしてみました。
〇 北谷川沿いの桜並木 …… 若い樹樹の勢いのある咲き方が魅力です。
〇 喫茶店:シャレード …… デッキの桜の下でお昼を食べる。
〇 とどろき温泉    …… 温泉に入り、東条川沿いに花の下を歩く。
〇 コープ・協同学苑  …… 桜並木を散歩する。
〇 我が家の裏山    …… 花見デッキで野点をたしなむ。
 きのうは午前も午後も畑に出ました。家に戻るとまず裏山の花花を見てまわります。地面にはムスカリやネモフィラが咲き、帰ってくるたびに桜が一段と咲いています。

 まだ蕾もありますが4月1日には「満開宣言」ができそうです。
 
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ハシビロコウを見たぞ!

2018年03月29日 01時43分50秒 | 古希からの田舎暮らし
 天気がよくて畑仕事日和ですが、神戸の教育会館に行く用事で出掛けました。「神戸の名谷まで車で行って、地下鉄に乗る〈行き方〉」がいいと思いましたが、道子さんは「車に乗るのを少なくしたほうがいい」といいます。結局神戸電鉄の恵比寿駅に車を置いて電車に乗りました。
 9時を過ぎると30分に一本しかありません。ちょうど出た後で30分電車を待ちました。60歳代は県庁まで車で行くのが平気でしたが、いまは「どこまで車で行くか」思案します。
 用事をすませて、午後は「神戸どうぶつ王国」に行きました。
 珍しい動物をいろいろ見ましたが、なんといってもアフリカの怪鳥『ハシビロコウ』を見られてうれしかった。

 テレビのBS放送で「ハシビロコウの生態」を見たとき、「世界にはこんな怪鳥がおるのか」と驚きました。風貌に凄みがあります。その生きた怪鳥を見られた。立ち上がると背が高いですが、カメラが電池切れ。でも、見た見た!
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次は畑の耕運です。

2018年03月28日 02時01分33秒 | 古希からの田舎暮らし
 村の公民館裏に老人会で植えた桜(ソメイヨシノ)は生長が遅いようです。でも4本とも蕾をつけています。あと10年もすれば「うちの村の花見スポット」になるでしょうか。いまはうちの裏山(ソメイヨシノを過密に6本)のほうが圧倒的にリードしています。
 ところが直径10センチほどに生長しているハナミズキ2本は傾いたままになっています。この正月に『とんど』の準備をしていたとき、「かわいそうに。杭を打って支えをしてやろう」と思いました。しかし老人は「しようと思ったことをすぐ忘れ」ます。
 きのう畑から昼ご飯に帰るとき、軽トラで遠回りをしました。ときどき気分転換に『村内ドライブ』をるするのです。公民館裏にはツクシがいっぱい生えていました。ハナミズキは傾いたままです。
「そうだ。ハナミズキを支えてやらなくては」と〈正月に思ったこと〉を思い出し、午後作業しました。

 樹は芽をつけていますが、根が動いたから枯れるかも。うちでも裏山に植えたハナミズキを枯らしてしまったことがあります。様子を見ることにします。
 ナイロンコードでの畑の草刈りは終わりました。これから生える草には伸びてもらいます。
 ハコベ/ギシギシ/クローバー/レンゲ/スズメのカタビラ/ホトケノザ/タンポポ/ヨメナ/スギナ/カラスノエンドウ/レンゲ/ヨモギ/などなど。4月20日頃に摘んで「手づくり野草酵素飲料」を仕込みます。その頃には木の芽もいっぱい採れますし。
 
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〈運転免許証返上〉適齢期なのですが ……

2018年03月27日 00時43分08秒 | 古希からの田舎暮らし

 写真は畑の遊歩道(南側)です。畑ですが広すぎるので一部を遊歩道にしています。土手の畦(右)には電気柵。草が伸びないように防草シートをしいています。
 遊歩道の草が伸びてきました。草刈り機で刈るほどではないけれどビッシリ生えています。あと半月もすれば草むらになります。
 で、きのう草を刈りました。地面を這うように生えているので、鋸歯では刈りにくいですがナイロンコードなら一発。その写真です。

 
 ところでぼくも80歳と6ヵ月。〈運転免許証返上〉適齢期です。ああ! それなのに。なんと!「軽自動車の新車を購入しよう」としているのです。
 どーゆーことだ! なに考えとるんや! 何歳まで運転するつもりや!
 いまの軽自動車は10年目になり9万キロ近く走っています。調子はいいです。故障したこともありません。まだ数年は乗れそうです。
 しかし、いま流行りの「安全装置」みたいなものがついていません。アクセルとブレーキを踏み違えても急発進しないとか。
 車には二人で乗るようにしています。うっかり見落としのないように。田舎道をゆっくり走り、後ろに車が来れば待避して、追い越してもらいます。安全運転に徹しているつもりです。認知症テスト/動体視力/体・手足の動き/にも問題はありません。ヒヤッとしたこと、危なかったこともありません。
 田舎では、自動車がないと買い物にも、ゴミ出しにも、医者にも、行けません。
「絶対大丈夫!」と思い、当分乗るつもりです。車を運転するのはあと3年かもしれない。1年かもしれない。それでもより安全な車があれば、用心して乗り換える。そういうつもりです。
 
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草刈りがはじまりました。

2018年03月26日 01時57分36秒 | 古希からの田舎暮らし
 あたたかくなり、これから草がグングン伸びます。数年前の4月中頃、草刈り機で畑の草を刈っていたら、何か飛びました。調べてみるとマムシの頭で、草むらにいたのを知らずに刈ってしまったのです。
 物音がしてもマムシは逃げないで構えます。だから草むらはなるべくつくらない。できればマムシに噛まれないで一生をおえたい。そんな気持ちで、きのうは一日草刈りをしました。
 ナイロンコードだと、広い面積を、障害物を気にしないで、刈れます。あと10日もすれば草が伸びて、ナイロンコードでは刈れなくなります。で、一日がんばりました。
 まだ遊歩道の草が残っています。今日も草刈りをします。
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裏山の花花たち

2018年03月25日 05時41分02秒 | 古希からの田舎暮らし
 朝食のあと裏山の花花を見てまわります。「おー! おまえも咲いたな」と声を掛けて。しあわせな時間です。いくつか紹介しましょう。
 2メートルを越える樹になり、いっぱい咲いているのに目立たない「侘助」。

 芝生のなかに咲いているハナニラ。

 今年は背が高くなって剪定しきれなかったミモザも遅れて満開になりました。

 5月に咲くオオデマリは、小さい小さい蕾をつけて咲く気満満です。

 きのうは西宮の芸文センターに出掛けました。大ホールのサイド席は一階席でも2階の高さです。「芸文センター交響楽団」と「日本センチュリー交響楽団」の合同演奏でも広いステージ全面を上から見渡せます。
 佐渡裕指揮の『新世界』交響曲(日本センチュリー)は熱演でした。そして合同演奏の『ボレロ』は圧巻でした。アンコールに宝塚歌劇の「すみれの花咲く頃」がはじまると笑いと拍手。2000人のお客さんたちはしあわせそうな顔で帰途につきました。
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PACと日本センチュリーの合同演奏会

2018年03月24日 02時18分54秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは小学校を卒業した大志くんが遊びに来て、裏山でたき火をしたり、竹を伐ったり、稜庵で蕎麦を食べたり、〈龍神参り〉の池めぐりをしたり。おじいちゃんおばあちゃんといっしょにカントリー・ライフをたのしみました。
 今日は西宮芸文センターで演奏会を聴きます。PAC(芸文センター交響楽団)・日本センチュリー交響楽団の合同演奏会。二つの交響楽団を佐渡裕が指揮。若さと力に満ちた演奏がたのしみです。

 ところで「この頃ブログにテニスの話が出ない」と思われるでしょう。
 実は錦織圭が去年の夏から休養しており、話題にできませんでした。しかしネットでは動静をフォローしていました。今年の2月にやっと復帰。これからはときどき話題にします。
 女子テニスのほうは伊達公子や杉山愛の引退後、有力な選手がいなくて応援していませんでしたが、若い大阪なおみが出てきました。この選手はすごい。近いうちにグランドスラムで確実に優勝します。オリンピックは金メダル候補。日本とアメリカの国籍を持っていますが、絶対日本国籍で活躍してもらいたいです。
 大阪なおみは先週、マスターズ1000で優勝。(錦織圭はまだ優勝してない)今週のマイアミ・オープンは2回戦で負けました。でも1回戦ではセリーナ・ウイリアムスに勝ちました。彼女の試合では「おー!」と思わず声の出る、すごいプレーが見られます。
 テニスの試合はアメリカやヨーロッパが多くて時差があり、夜中に起きるぼくには好都合です。
 日本の選手がグランドスラムで優勝するのを見られるまで、しっかり応援します。
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孫の卒業式に感心しました。

2018年03月22日 20時30分43秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は孫の卒業式。おじいさんおばあさんは見掛けませんでしたが参列したっていいじゃありませんか。ねえ。朝から張り切って神戸まで出掛けました。
 ピカピカの街のピカピカの小学校。家家も道路も電柱もみんなピカピカ。こんなところで暮らしたらどんな気持ちでしょう。田舎から出てくると気後れしてしまいます。
 中学校に長年勤め、卒業式には毎年付き合ってきましたが、小学校の卒業式は新鮮でした。式の準備や練習など裏の苦労も知っています。ご苦労さまです。

 卒業証書をもらった後、卒業生がステージに並んでいくつも歌を歌い、大声で〈思い出〉や〈感謝〉を伝える写真です。昔でいうと〈在校生送辞 ⇒ 卒業生答辞 ⇒ 蛍の光 ⇒ 仰げば尊し〉という場面です。歌の指導/シュプレヒコールの指導/一人一人が卒業証書をもらう出入りの動き/と時間をかけて指導されたことでしょう。大変な努力が感じられ、立派な卒業式でした。

 卒業式のあと拍手で見送る人垣を、笑顔で巣立っていく子どもたち。4月からランドセルを置いて中学生になります。明るい未来がこの子どもたちをつつんでくれますように。


 最近のニュースで国会議員が文部省を通じて「中学の授業のことで現場に問い合わせた」とか。「道徳が教科として、教科書で教えられる」とか。おそらくそんな人たちの頭は、卒業式といえばいまでも「 送辞 ⇒ 答辞 ⇒ 蛍の光 ⇒ 仰げば尊し 」というパターンで固まっているでしょう。
 実はぼくの中学の卒業式(65年前=昭和28年3月)では「蛍の光」を歌いませんでした。ショパンの「別れの曲」の合唱でした。敗戦後のあの時期は、明治以来国民を教化してきた軍国主義の反省として、古い慣習を打ち破ろうとする力が学校にはありました。
 それが保守的な地域の雰囲気でいつの間にか「送辞・答辞・蛍の光・仰げば尊し」のパターンに戻っていました。しかしそんな古い体質はもう変化しています。どんなにあがいても、強権を発動しても、元には戻りません。魅力的な新しい卒業ソングを駆逐することはできません。「以上総代:○○▽▽」と省略してしまうことはできません。一人一人を大切にする式の流れはしっかり根づいています。
 未来への力強い流れを感じました。
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西村京太郎 (2)

2018年03月21日 08時25分25秒 | 古希からの田舎暮らし
『15歳の戦争』は、西村京太郎が著書の595冊目に、86歳にして書いた自分の戦争との関わりを話している本です。
 後半は駄弁めいた戦争談義になっていますが、前半はなかなか面白かった。
 彼は、敗戦で幼年学校が無くなり、旧制中学に戻りました。そして敗戦後できた「人事院」に就職しました。しかし官僚は東大出でないと出世できません。こんなふうに書いています。

 
 10年も、人事院という官庁で働いていると、次第に、自分が、サラリーマン(公務員)に向いていないことがわかってきた。 …… このまま、人事院にいても、課長補佐かと思っているうちに、29歳という年齢になってしまった。30歳になったら、第二の人生を始めるのは無理だろうと、勝手に考えていた。 …… 問題は、辞めて、何をするかだった。が、すぐ決まった。作家以外、なれそうもなかった。
 この頃、一番人気のあった作家は、松本清張で、「点と線」が、ベストセラーになっていた。2時間くらいで読み了えたので、「これなら、自分にも書ける」と、錯覚した。読むのと書くのとは、大違いなのにである。一日も早く、プロの作家になりたいので、あらゆる懸賞小説に応募した。純文学、ミステリー、歴史小説の懸賞にも応募した。ところが全く手応えがない。それも一次審査にも通らないことが、続いた。困ったのは、母親のことだった。 …… 人事院を辞めたとはいえないので、そのことは内緒にしていた。退職金が、だいたい月給の一年分貰えたので、その中から、毎月25日に、一ヶ月分を母親に渡すことにした。 ただ、自宅で、原稿を書くことができない。毎朝、いつものように家を出ると、上野図書館に行くことにした。


 その後西村京太郎はちょっと賞をとったりしますが、競馬場の警備員や探偵のアルバイトをしてしのぎ、48歳にしてようやくベストセラー作家になります。
『点と線』を読んで「これなら書ける」と思う。それを正直に書くところがおもしろい。彼のミステリーも一度読んでみようかな。
 
 肩が凝ってる。畑で杭を打ち込んだから。
 雨で外仕事はできないし、朝からとどろき温泉に行きました。
 年寄りだから〈働く〉〈休む〉のリズムを大切にします。
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西村京太郎『15歳の戦争』を読みました。

2018年03月20日 02時36分47秒 | 古希からの田舎暮らし
 推理小説作家・西村京太郎は昨年末現在596冊の本を出しているそうですが、ぼくは一冊も読んだことがありません。「列車の時刻表をめくるトラベル・ミステリーばかりだろう 」と思って。でも図書館で見かけた『15歳の戦争』という題名と「陸軍幼年学校・最後の生徒」という副題に魅かれて、借りて読みました。
 昭和5年に生まれて、敗戦のとき15歳だった少年は、どんな愛国の念にかられて陸軍幼年学校に入ったのか。
「陸軍幼年学校」といえば『帰らざる夏』という、作家・加賀乙彦(昭和4年生れ)の等身大の小説があります。純粋培養された愛国少年は、日本が負けた日に、小説の中で自決しなければ、その後の人生を生きていけませんでした。
 昭和2年生れで、愛国の念にかられて海軍・予科練に志願入隊した作家・城山三郎は、日本が戦争に負けたとき「私は廃墟になって生きた」と書いています。(『そうか。きみはもういないのか』)
 昭和4年生れの西村京太郎は、86歳になってから人生を振り返り、幼年学校志願をこんなふうに書いています。


 昭和20年(8月に日本が負けた年)2月から全ての中学校は、とうとう授業が中止になり、生徒は、軍需工場に働きにいく命令が出た。
 私も中学生だったが、東京の大崎にあるモーターの工場へ行くことになった。その時に、いろいろと考えた。子供が純粋で損得など考えないというのは嘘である。
 これから、どうするのが、一番トクかを考えるのだ。どうせ19歳になれば(徴兵されて=赤紙が来て)、兵隊になるのだが、階級は、一番下の初年兵(二等兵)である。やたらに、殴られると聞いていた。それなら、早くから兵隊になった方がトクに違いない。少年飛行兵の募集の、営養は「500キロカロリーも多い」というのには、惹かれた。毎日、腹を空かせているのだから。ただ、訓練は1年から2年と短いのが気になった。それでは、下士官止まりで、戦場に行くことになってしまう。
 それで、考えたのが、陸軍幼年学校(陸幼)だった。明治からある学校で、卒業すると、そのあと、陸軍士官学校(陸士)、陸軍大学校(陸大)と進んで、少年兵の方は下士官だが、こちらは、大将にもなれる。そこで東京陸軍幼年学校(東幼)を受験することにした。
 ……  政府も軍部も「本土決戦」を叫んでいるから、当分戦争は続くだろう。いつまで続くかわからないから、考えても仕方がない。
 次は自分のことだ。19歳になったら、嫌でも兵士になって、戦場に行くわけだから、それまでに、兵士でなく、将校になっていよう。これが、当時、私の頭にあった全てである。


 幼年学校は100倍超のすごい志願者だったともきいていますが、西村京太郎は淡々と語っています。敗戦・廃校までわずか4ヵ月半の学校生活でした。
 あの時代の空気の中にあって、こんなふうに現実を見ている少年たちもいっぱいいたのでしょう。満蒙開拓青少年義勇軍だった方々に聞き取りをしていた頃「幼年学校をあきらめて義勇軍に志願した」という方に出会ったことがあります。
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畑仕事に精を出しました。

2018年03月19日 01時12分54秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは久しぶりに畑仕事に精を出しました。ぼくはまず、小芋5株を掘って、ホースで土を洗い落としました。道子さんが株にモミガラ(このあたりでは「アラヌカ」といいます)を被せて防寒対策をしたのですが、3月ともなるとさすがにいくらか傷んでいました。
 次にシート・ハウスを建てました。

 シート・ハウスは去年の台風で壊れてしまったので、もう一度パイプを差し込むところから。骨組みを組み立ててシートを掛けてみたら屋根が高過ぎます。もう50センチ低いほうがいいけど。
 台風のときはシートをはずします。
 道子さんは、遅れていたイチゴの作業。草を抜き、肥料を入れ、黒マルチ掛け。イチゴ・ネットハウスは3畝180株で、しんどい作業になります。根を詰めないでボチボチ。

 寒さで遅れていた菜の花にミツバチが。

 やっぱり畑仕事はいいですねー。
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映画『空海』の口直しに映画『北の桜守』を見ました。

2018年03月17日 20時47分19秒 | 古希からの田舎暮らし
 3月1日には映画『空海』を見ました。唐の時代で楊貴妃が出てくるし、遣唐使の阿倍仲麻呂も出てきます。その役はなぜか阿部寛が演じていました。あんな役なら誰でもよかったでしょうけど、同じ苗字だから? よくわからん映画でした。ネットの評に「珍作」と書いた人がありましたが、なんとなく同感です。この映画を見た後、道子さんと「あまり気分よくなかったから、口直しに吉永小百合の『北の桜守』を見ようよ」という話になっていました。
 雨のあとで畑はまだ入れないし、今日はその映画『北の桜守』を見ました。吉永小百合より3歳年上の道子さんはいつも、いろいろと感心して見ている女優です。彼女の演技を堪能して満足そうでした。ぼくは声が小さくて聞き取りにくかった。(ぼくの耳が遠くなっているからですが、もうちょっと大きい声にしてほしい)。樺太からの引揚げや認知症やシベリア抑留や敗戦後のいじめやいろいろ雑多にあって、ぼくには散漫な感じでした。この映画でも、吉永小百合の夫の役で、阿部寛がちょっとだけ出てきました。
 ニッポンの「アベ」さんはあちこちでいろいろあって、大変ですなー。
 ま、明日は天気になりそうだし、ぼちぼち畑仕事をします。まだ小芋が5株残っています。掘り出して洗い、冷凍します。
 もうひとつ。去年の台風で、畑のシートを張った小屋が倒れてしまいました。もう一度あのシート小屋をつくりなおし「イスにすわってハーモニカを吹く」。ぼくの去年からの夢です。その小屋づくりを明日します。
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山仕事は今日でおしまい。

2018年03月15日 19時24分04秒 | 古希からの田舎暮らし
 竹藪や下生えの片付けは今日までかかりました。やっと一区切りつけられます。
 竹は写真のように、曲がりくねってもしぶとく伸びています。

 どちらの竹も、何本も積み重なった竹の下に生えてきました。そして真っ暗な土中から、光をもとめて伸びてきました。ほんの1ミリのすき間を通り、押し広げながら。でも感心しておられません。とにかく竹という竹を全部切って片付けました。
 今年はこのスペースを守ります。せっかく片付けても、一年放置すると茂みが復活します。すると片付けるのに大変なエネルギーがいることを思い知りました。

 それにしても80歳になった年になぜこんなに頑張れたか。斜面を歩くだけでなく、力を入れて竹や木を引っ張り、地面を掻き寄せて腐植土を運び、スペースをつくることができたか。
 あの座椅子……「スタイル・アスリート」と「スタイル・ドクターチェア」のお蔭だと思います。骨盤を立てる椅子に毎日一定時間座り、背中の筋肉が知らず知らずに強くなり、数か月で「片付けてやろう」という気持ちになった。「足元がおぼつかなくなった」のに「片付ける気持ちになった」のが自分でも不思議です。あの椅子以外に考えられません。
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2006年3月に思ったこと

2018年03月14日 20時05分12秒 | 古希からの田舎暮らし
 2006年は『田舎暮らしの家探し』で明けました。前年の10月に神戸市北区の空き家を購入する話がゼロになり、あせっていました。しかし1月が過ぎても2月が過ぎてもいい感じの家が見つかりません。不動産屋さんが「空き家探しより家を建てたらどうです? 小さい家なら1000万で建ちますよ」といって、3月6日に、いまの土地に案内しました。
 そのとき家の土地の写真のほかに、まわりの景色を撮りました。
 今日は、軽トラで畑に行きました。うららかな春の畑を眺め、12年前を思い出しました。
「あれから12年が過ぎたんだなあ」と感慨にひたりました。
 12年前の3月も、同じ空気感につつまれ、同じ景色を見て、「こんな感じのところで、のんびり畑仕事をしたらいいだろうな」と写真に撮りました。
 今日撮った写真も同じです。

 村の墓地の木立ちがあり、遠くに村里があり、目の前に陽当たりのいい、広い畑がある。
 あのときは「この畑を耕すようになる」とは思いませんでした。しかしその思いは現実になり、たっぷり畑づくりをたのしんでいます。
 
 そうそう、今日は買い物に出掛け、東条町のシャレードで昼食にピザを食べました。もうすぐ桜が咲きます。シャレードにも花見テラスがしつらえてありました。満開の頃に、また昼食に寄りたいです。

 満開の桜の下で、東条川の桜並木を眺めながら昼食。たのしみです。
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