今日は日が出ているし、寒くないので、笹薮にチャレンジしました。二回目です。
ビッシリ笹が生えていますから、一度刈っただけでは歩きにくい。地面すれすれまで何度も刈って、通路だけでも歩けるようにします。石垣の半分近くまで刈れたかな。
あと二回で笹薮は刈り終えたいと思っています。連日でなく二日おきくらいで。
『「文藝春秋」にみる昭和史』という本を図書館で借りました。借りたのは第一巻で、昭和元年~昭和20年まで。700ページ超の二段組です。(1988年1月10日発行)10年若かったら全部読む気力があったかな。「読んでみよう」という気になりそうな文が並んでいます。戦争が終わってから事件について書いたものもありますが、そういう原稿はパスしました。「あとになってから/言い訳/弁解/するような文は読みたくない」。〈拾い読み〉しています。
戦時中は特高が言論弾圧にきびしくて、自由に言ったり書いたりできませんでした。戦争に負けてから、みんなが「軍隊の悪口」を言ったり書いたりするようになりました。その一部を引用します。
〇 「敗戦日記より」 玉川一郎 (ユーモア作家)
インパール作戦が失敗して古関裕而、火野葦平が帰還してからの話。火野葦平談
「インパールが駄目になった時、昭南(シンガポールのこと。日本がイギリス軍を破って占領してそう呼んでいた)へ来たボーズ(チャンドラ・ボーズ=日本に力を借りてインドを独立させようとした)が寺内に会って、こっち(日本軍)の実力を聞かされた時、蒼くなって卒倒したそうだ。(日本軍の戦力がないから) (中略) 寺内が言ったそうだ。(東条なんかの言う事を真にうけてるからそんなことになるんだ)ってね」
今こそ思う。比島(フィリピン)、ジャワ、スマトラ、馬来(マレー)、ビルマ、印度(タイは言わず)の諸民族に対し、日本民族は心からの陳謝をすべきではないだろうか。
地に手をついて土下座して詫びるべきである。一億の整理もつかない成り上り者が十億の指導者になんでなれよう。
自分の頭の蠅も、追えないくせになんという思い上がったことをして、かわいそうな夢を与え、そして潰した事だろう。
昭和20年11月号より
戦争に負けて、こんな〈日本軍の悪口〉が誌上で言えるようになりました。誌上でも巷(ちまた)でも軍隊の悪口が噴出しました。ただ全体としては〈一億総ざんげ〉で流されてしまい、戦争の責任追及、告発が不十分なままでした。例えば戦時中〈敵前逃亡〉した富永恭次(陸軍中将)は軍事裁判を開いて処刑されるべきであるのに不問のままでした。そういう上官はいっぱいいます。
また国民から徴発した物資や食料を取り込んでしまった上官もいっぱいいます。みんなが困っているときに、自分だけ〈いいめ〉をしようと物資を取り込んだりした上官を、もっときびしく追及すべきでした。