古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

〈老人二人〉で新年をむかえます。

2022年12月31日 22時07分40秒 | 古希からの田舎暮らし
 年の暮れとか新年に、子や孫が訪ねてくる年が多かったのですが、今年は老人二人だけで新年をむかえます。今日はガラス窓を拭いてきれいにしました。道子さんは、お正月の料理をととのえ、二人で新しい年を祝います。
 ところで、大晦日にこの写真!

 昨日・30日に届いた〈あたご柿〉を、道子さんが〈夜なべ仕事〉をして、干し柿にしました。干し柿を人に賞味してもらったら〈べたほめ〉でした。気をよくしてまたあげたりしたので、手持ち分を確保するために追加注文したのです。
 それにしても、木になっている渋柿は、今頃は熟して全部落ちてしまうでしょう。早めにとって貯蔵するとしても、はたして大晦日まで渋柿のままで存在するでしょうか。不思議です。
 焼き芋や干し柿をもらった人はうれしいでしょうが、あげる人はもっと〈しあわせ〉です。それが自分でつくったものであれば、さらにうれしい。〈しあわせな老後〉です。
 田舎暮らしをはじめ、下の畑(400坪)で野菜や黒豆をつくってあげたり、焼き芋や干し柿をあげたり、この16年間、いっぱい〈しあわせ〉をもらいました。ありがたいことです。
 年末まで、アオジ/シロハラ/はとうとう帰ってきませんでした。でも新年早々にもどってくるでしょう。待ちます。
 みなさん、よいお年を! 
       
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2022年は〈焼き芋〉〈干し柿〉の年でした。

2022年12月31日 02時56分06秒 | 古希からの田舎暮らし
「今年はどんな年だったかな」とブログを見ながら、思いついたことをメモしてみました。
〇 1月 2021年6月に弟が80歳で亡くなりました。喪中はがきは出さず、年賀状に「寒中見舞い」を出しました。「賀状の返事を書く気分で、わるくない」と思いました。例年のように味噌を仕込みました。シイタケのほだ木を5本。
〇 2月 通販で「べにはるか」を買って、たき火/焼き芋/をすることをおぼえました。平岩弓枝の本を数冊読みました。
〇 3月 お正月に「電動ウオーカーで100日歩く」ことを思い立ち、50日を突破しました。阿部牧郎『神の国に殉ず』(小説:東条英機と米内光政)……文庫本では(上・中・下)と大部な本です。
〇 4月 東条町の南山西の住宅街に、お花見スポットを見つけました。「ソロプチミスト公園」の桜です。「どこかに行きたいけど、コロナだし」と近くの〈夢前温泉〉に行き、セントラル・パーク(サファリ)に入りました。
〇 5月 村のバス停に置いたベンチに車が突っ込み、壊れました。ベンチをつくって、防草シートを敷いて置きました。船戸与一の大作『満州国演義』(全九巻)にとりついて、読みはじめました。日本のあの戦争を、命をかけて告発する大作でした。
〇 6月 『満州国演義』を読みました。大豆・黒豆の苗立て/植え込み/をしました。6月になっても、たき火/焼き芋をしました。20年超つかったダッチオーブンが割れて、買い替えました。大きめのダッチオーブンで重い。いつまで持ちあげれるか。
〇 7月 テレビを見る大きな安楽椅子を買いました。読みあぐねていた加瀬俊一『ワイマールの落日』を読みました。
〇 8月 コロナで自粛した「我が家のBBQ」をたのしみました。ブドウの季節。藤稔/翠峰/ゴルビー/ピオーネ/…。
〇 9月 認知症になったときの療法に、写真と文章をセットにした「アルバムづくり」に精を出しました。2006年からの写真を一年ごとにファイルにしました。全部で17冊。テント・ハウスの屋根が強風で破れ、取り換えました。
〇 10月 浜坂温泉に一泊旅行をしました。プリンターを買い替え。ウッドデッキの通路を撤去。エアコンを買い替え。
〇 11月 イチゴ・ネット・ハウスを撤去。デッキ工事。早坂暁『戦艦大和日記』(全五巻)を読みはじめました。
〇 12月 道子さん運転免許更新。音楽会で篠山に行き、うろうろ。マロ音楽会。例年の〈ご褒美〉で宮津に一泊蟹の旅。
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今年最後の焼き芋をしました。

2022年12月30日 17時28分49秒 | 古希からの田舎暮らし
 今年はサツマイモ(べにはるか)や渋柿(あたご柿)を通販で買うことに味をしめて、たびたび注文しました。大晦日近くになってからまた注文しました。

〈べにはるか〉です。5キログラム×2箱ありますから、新年はまた焼き芋ができます。たき火/焼き芋/はたのしい外仕事です。
 29日に届いたので、今日は早速〈今年最後の焼き芋〉をしました。このサイズの芋を7~8個アルミホイルで包みます。ダッチオーブンに小石を入れて、その上に芋をのせます。鉄の鍋に直接ふれないように、まわりに小石を詰めます。水を100cc入れて火にかけます。たき火は1時間。かなり強火にしても大丈夫です。
 火をつけ、火を育て、強火にして、火にあたりながら番をするのはいい気分です。

 この〈あたご柿〉は今日30日に届きました。明日は大晦日という今頃になってから〈干し柿〉をつくれるとは思いませんでしたが、届いた柿は粒が大きい。木になっている渋柿でも、今頃になると熟して落ちてしまうでしょう。どうしてこんな立派な柿が今頃あるのでしょう。
 我が家の干し柿は、干して一週間ほどで取り込みます。ヘタをとり、ラップして、冷凍します。甘みは十分です。白い粉をふくまえの、柔らかくて、甘い、干し柿になります。
 この間から〈焼き芋〉や〈干し柿〉を送ったりしたので、手持ちを増やそうと注文しました。通販で買う時代なんですねえ。

 ブログによると、去年は12月26日にシロハラを見かけました。27日にはアオジを見かけました。今年も粟粒はまいていますが、まだ姿を見ません。スズメはときどき来ていますけど。
 アオジくん/シロハラくん/。待ってま~す!

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裏山の祠にもお正月がきます。

2022年12月29日 20時26分08秒 | 古希からの田舎暮らし
「幣」をつけたメガネ飾りを九つ用意しました。つけたところは次の9カ所です。 
① 裏の大工小屋 道具が整理整頓されて、大工仕事を快適にやることができます。
② バード・フィーダー(アオジ/シロハラ/がもどってきますように)

③ テント・ハウス コロナ時代でも野外応接間として役立っています。
④ 裏山の登り口  裏山で遊ぶのが大好きな〈じい〉〈ばあ〉です。
⑤ 裏山の祠(萌ちゃんや大志くんは幼いときにつくり、道子さんがお花を供えている) 
⑥ 「生きもの塚」(ブログに新登場した塚です。道子さんが裏山の山すそにつくりました)

⑦ 前の畑 ※ 去年までは軽トラにつけていましたが、今年からやめます。たき火場につけるのもやめました。
⑧ と ⑨ は村の/愛宕さん/祇園さん/の祠です。
 頂上に登る山道を掃除しました。今年の7月24日・愛宕さんにお参りする日には、祠まで登ったのですが、そのときは道はきれいでした。ところが今日登ってみると落ち葉が積もり、竹や樹が道に倒れて、かなり荒れた道になっています。

 登山道を封じるように二本の竹が倒れていたのでパチリ。道は落ち葉がいっぱい。サラエで掃きながら降りてきました。

 祇園さん/愛宕さん/の仕事を終えて、福地池をまわって軽トラで帰ってきました。50メートルほど先を動物が走って田んぼを横切りました。〈しっぽ〉が横に伸びて立派です。キツネだ! 猫は後ろを見ないで跳んで逃げますが、狐は安全な距離になると立ちどまり、振り返って、こちらをじーっと見ます。軽トラをとめてズームいっぱいにして写真を撮りました。

 小さく見えるのが狐です。狐って、なんか人間に興味があるみたいです。
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インド旅行/モンゴル旅行/を思い出して。

2022年12月28日 02時04分20秒 | 古希からの田舎暮らし
 1998年のことですから25年もまえの体験ですが、思い出して書きます。6月にモンゴル旅行をしました。「モンゴルの人は写真をよろこぶからポラロイド・カメラを持っていくといい」とだれかにきいたので、「L版」の写真が写る大きなカメラを買って、80枚くらい撮れるように準備しました。現地の人にあげる写真です。
 朝の散歩に出て、出会った人の写真を撮ってその場であげたり、寺院のまえで露店を出している人を写して写真をあげたり、通訳の娘さんを撮って写真をあげたり、みなさんのうれしそうな顔がよかったです。喜んでもらえ、うれしかったです。三人の写真を撮ると一人ずつあげますから三枚いります。写真は全部つかって、足りないくらいでした。
 25年もまえのことですから、いまは事情がちがうでしょうけど。
 モンゴル旅行の4か月前・2月にインド旅行をしました。まえに書いたことがありますが、タージマハール寺院でのことです。入場して、向こうに大きな寺院が見えたところで、カメラを構えました。すると4,5歳くらいの女の子と弟みたいな子がカメラの前にパッと立ちました。
「おー、かわいいな。写真をとってあげよう」と写しました。「住所をきいてあとで送ろうか」と思いましたが、その子たちは手を出します。「モデルになったのだ。お金をくれ」という手です。二人で分けるように渡したら、もう一人が手を出してついてきます。「分けたりしない。自分がもらったものは自分のもの」。写真なんかどうでもいい。お金だ。
 あとで考えると「あの子たちはどこからか寺院にもぐり込んで、観光客がカメラを構えそうになると前に立ってたんだ」。どんなふうに成長するのでしょう。そんなインド社会を感じたあとだったので、モンゴルの人の感じが気持ちよかったです。
 そして思い出すのは、脱北して韓国に来た北朝鮮の人のことです。まえに書きましたが「命がけで脱北を助けても、いろいろ裏をかんぐって、感謝してもらえないことがある」という人情。北朝鮮の専制政治下で育った人の心情。読んだ本では「専制国家の国民の人格破壊」という言葉がつかってありました。

 自分にはどうしようもないことです。人はそれぞれ、したたかに生きてくしかない。
 図書館で『ロヒンギャ危機』(中公新書・2021年刊)という本を借りました。読もうと思います。
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もうすぐ〈お正月〉です。

2022年12月27日 18時26分08秒 | 古希からの田舎暮らし

 道子さんに門松用の竹を頼まれたので、細い竹を伐って用意しました。道子さんは玄関に、小物をあしらって門松をつくってくれました。お正月の雰囲気が出てきました。
 年賀状は二人とも書きあげて、今日投函しました。三木に引っ越してきた頃は、二人で200枚の〈年賀はがき〉を買っていました。二人とも80歳を越えたいまは、出す人が亡くなったり、途切れたりして、二人で100枚足らずです。
 東条の〈とどろき荘〉に「きざみめかぶ」(朝の納豆に入れる)を買いに行ったら、小さい〈鉢植え〉が売ってあります。見とれているうちに欲しくなり、一鉢買ってしまいました。来年の干支・うさぎと植物をあしらった置き物です。自然にたっぷりかこまれているのにまだ欲しがる。まー、老い先短いのですからお好きなように。

 ぼくは昼から何をしたかというと、〈たき火〉〈焼き芋〉です。寒いときはたき火が一番。炎を写真に撮ってみました。

 三木は乾燥注意報が出ていますが、たき火はすぐには燃えません。「〈燃えさし〉の材木がいい」とまえに書きましたが、あまりよくない。竹がいいです。竹を短く切って、割って、用意しておきます。

 竹は火がつきやすい。青竹でも燃えやすい。紙や杉の枝はすぐ燃えてしまいますが、竹に火がついたら材木が燃えるまでつづきます。
  
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少しずつ、着実に、老いていきます。

2022年12月26日 19時50分25秒 | 古希からの田舎暮らし
 自分では85歳でも「そうやすやすと老いないぞ!」という気持ちですが、少しずつ、着実に、老いていくのを実感しました。
 今日は映画『ラーゲリより愛を込めて』を、三田イオンシネマに見に行くつもりでした。「明日は8時に家を出て、9時からの映画を見よう」と思って寝床に入りました。しかし、いつものように夜中に目覚め、読書/漢字ナンクロ/テレビ/で3時間過ごしました。夜中の3時ごろ「さ、映画に行くから、もう一度寝床に入って、朝の6時まで寝よう」とベッドに腰掛けました。
 そのとき「シベリヤに抑留された日本兵の悲惨な映画だ。なんか見る気力が出ない。見に行くのはやめよう」という気持ちになりました。そして「ああ、老いたな」と思いました。

 ぼくは、63歳から約10年間「満蒙開拓青少年義勇軍」だった方の体験聞き取りに精魂傾けました。〈一番のきっかけ〉はシベリヤ抑留の体験をきいたことでした。それから、シベリヤ抑留関係の本を読み、舞鶴引揚げ記念館には二度行きました。展示を見ながら涙がとまりませんでした。引揚げ桟橋にも行ってみました。
 図書館で本を借りるときも、シベリヤ抑留/満州開拓/満州からの引揚げ/などの本を目にすると借りて読みました。シベリヤから引き揚げてきた三木在住の方にも聞き取りに訪ねて、体験を聞きました。(その後まさか自分が三木に住むようになるとは思いもしませんでしたが)
 ぼくはふだん映画なんか見ない老人ですが、〈ラーゲリ〉という文字を見て「これは絶対見なくては」と行く気になりました。
 ※ 「ラーゲリ」は日本兵を抑留して強制労働させた収容所
 悲惨な映画でも「絶対見なくては」と思ったのに、なぜ気持ちがくじけたか。「気力」が老いてしまいました。そういえば思いあたります。満蒙開拓の体験の本、満州からの引揚げの本、を借りてきても、読みかけてやめてしまいます。悲惨な体験を読む「気力」が、悲惨な体験を見つめる「たましいの力」が、老いてしまったのです。
 どうしようもない。励ますことも訓練することもできない。「老いたな」と思うだけです。
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「隣百姓」という言葉

2022年12月25日 22時00分27秒 | 古希からの田舎暮らし
〈モンゴルへの思い〉/モンゴルへの旅行/大相撲の現状/朝青龍や日馬富士の追放/を思うと、いろいろ言いたいことが出てきます。しかしむかしのことです。「ふれないでそっとしておきます」。
 ただ『モンゴル力士はなぜ …… 』の本から一か所だけ引用します。読んでみてください。


 日本語のなかに「隣百姓」(となりびゃくしょう)ということばがある。「お隣が田植えを始めたら、うちも始める。隣近所をよく見て、遅れないように、その通り真似をするだけで、百姓仕事はやっていける。自分で何も考えなくても、理由は分からなくても、他人と同じことをしていれば、とりあえず何とかなる」という意味である。このことばは、いまではだいたい皮肉として、悪い意味で使うことが多いようだ。しかし、むかしの日本社会では、実際にこの言葉通りだったのである。
 隣近所が一斉に田植えをしなければ、農村社会は成立しなかった。田植えをするには、川から田んぼに水を引いてこなければならない。川に近い田んぼから田植えをしていかなければ、川から遠い田んぼの田植えはできない。
 だから、田植えの季節には、村中の人が一緒になって、川に近い田んぼからみんなで田植えをしていった。協調こそが、日本人が生きていく上での美徳となったのは、そのためである。  ……    (中略)
 このようなわけで、農村で稲作をして暮らす日本人にとって、一番怖いのは、仲間はずれになることだった。ご存知のように、「村八分」ということばは、村の秩序を乱した人間とその家族を、村中の人が仲間はずれにして、一切付き合わないという意味である。ただし、葬式と火事の二つだけが例外だったので、二分を引いて、八分絶交といったのだ。
   ……  (中略)
 だから、数を頼んで一人だけのけ者にするという「いじめ」が成立するのだ。どちらが正しいとか、理屈が通るかどうかはぜんぜん問題にせず、気に入らない人間を「ただ仲間はずれにする」という嫌がらせが成立するのは、日本の文化の特徴であると思う。日本人がいまでも、仲間はずれになることをひどく怖れるのは、このような伝統のせいだろうか。

 モンゴル人は、日本の村落のように、近所に何十人もがまとまって住むことはなかった。なぜなら、草のまばらな草原で集住すると自然の草場が荒れるからである。とくに草原に草が少ない春や、厳しい冬を乗り切るためになるべくたくさんの草を食べさせたい秋には、遊牧民たちは遠く離れたところに広がって暮らす。
 たくさんの家畜に十分な草を食べさせるためには、別の人間がすでに放牧したところに行ってはいけない。つまりモンゴルの放牧生活では、他人とはつねに違うことをしなければ生きていけなかったのである。日本の「隣百姓」とはまったく正反対の生き方であることがおわかりいただけるだろうか。

 
 


 

 
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思い出に残るモンゴル旅行

2022年12月24日 08時44分31秒 | 古希からの田舎暮らし
 朝青龍が、鎌谷くん(琴桜)の大相撲部屋で育てられてたら、親方の指導で日本の〈しきたり〉や〈心構え〉をわきまえた力士になっていたような気がします。
 貴乃花が引退して、朝青龍が一人横綱として数年間、相撲人気を支えました。日本人の大関は、勝ち負けが混みあって、毎場所、入れ替わり立ち替わり角番大関になりました。
 道子さんとぼくは1998年6月に〈モンゴル旅行〉をしました。その頃はモンゴル・ツアーがあまりなかった時代です。人間国宝・大場松魚さんの個人的なグループ・ツアーがあり、道子さんと二人でそのツアーに加えてもらいました。どこまで行っても草原が広がっています。古都・カラコルムの広大な〈エルデニゾー寺院〉を見学したときのことです。
 ツアーの20人ほどが寺院の裏の亀石を見に行ったら、モンゴルの人が数人、道端で小間物を地面に広げていました。お店のつもりなのでしょうか。見知らぬ人で緊張した表情です。ぼくらは黙って前を通り過ぎ、亀石を見ました。見て帰りに、地面の小間物を手にとったりしておしゃべりしました。写真も撮りました。モンゴルの人たちはやっとうちとけて、笑顔で応対してくれました。(通訳の人をとおして)ぼくらは腰を下ろして品物を見たり買ったりしました。
 あとで聞けば、ぼくらはその年のはじめての観光客でした。出店を出したのは、ツアーのぼくら目当てで、その日ほかの客はありませんでした。それでもぼくらが前を通り過ぎるのをしずかに見ている〈はじらい〉〈ためらい〉のような人間性にふれた気がしました。
 モンゴル人は5歳の子どもの頃から馬を乗りこなし、勇壮さをそなえた遊牧民族です。ぼくらはおだやかな気候にめぐまれた農耕民族です。2月にインド旅行をしたあとだったので、その「人間同士」という感覚がいとおしい気がしました。
 そんなことでモンゴルからやってくる人には親近感をもちます。  まとまりません。おしまいにします。
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〈大相撲〉を見ないワケ

2022年12月23日 10時41分01秒 | 古希からの田舎暮らし
 大相撲は、ひと月おきに年に六場所あります。15日×6回で90日もあります。毎日数時間、NHKのテレビで放映されます。相撲中継を見るのは年寄りの大きな〈たのしみ〉です。59歳で退職してから、ぼくは好んで「大相撲中継」を見ていました。
 しかし、あるときから相撲中継を見なくなりました。ニュースも見ません。どんな力士がいるか/だれが連勝しているか/だれが休場しているか/だれが強いか/に関心もありません。
 なぜか。
 話せば長いのですが、見なくなったのは「朝青龍が引退させられた」からです。ずいぶん前の話です。

 いま『モンゴル力士はなぜ嫌われるのか』(日本人のためのモンゴル学)という本を読んでいます。(宮脇淳子 著 2017年12月 ワック出版)「週刊誌の見出し」みたいな題名ですが、著者は東洋史/モンゴル史/モンゴル語などに精通している歴史家です。うなずくことがいっぱいあります。

 ぼくは昭和28年に倉吉東中学を卒業しました。3年下には鎌谷くんという少年がいました。彼は中学生になってからずんずん背が高くなり、力が強くなり、柔道部だったのに陸上部の大会に狩りだされて〈砲丸投げ〉で優勝したりしていました。彼が大相撲の力士になり、だんだん昇格して、十両の筆頭近くなったのは、ぼくが中学校の教師になった頃です。あの頃のテレビは白黒で、ビデオなんて便利なものもありません。テレビ放送は幕内力士の対戦でしたが、日によって十両筆頭の対戦も見られました。  
 鎌谷くんの相撲の対戦が見たくて、6校時の授業をすませると宿直室に走っていき、テレビをつけました。(テレビは宿直室に置いてあるだけでした)
 その鎌谷くんがだんだん昇格して、ついに横綱・琴桜になりました。50歳くらいのときだったか、郷里で中学の同窓会があり、鎌谷くんの活躍が話題になりました。「コンペ」というあだ名の理科の先生と話していたら「鎌谷くんはやさしい少年だった。私が注意して前に呼び出すと、自分のイスを持って出てきた。あの子は背が高いから、私がオデコにコンペするのに手が届かない。私がイスに上ってコンペするように」。
 鎌谷くんは親方になりました。彼は相撲の部屋はちがいますが、朝青龍のことをとても心配していました。朝青龍の笑顔を見れば、善良なことはわかります。日本のしきたりになれなくで、やんちゃなだけです。日本のしきたりに合うように、言い聞かせて、育てることが大切です。   ……  やっぱり話が長すぎますね。すんません。
 
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冬至は〈柚子風呂〉ですね。

2022年12月22日 16時20分55秒 | 古希からの田舎暮らし
 冬至の〈日の出〉を写真に撮っておこう。しかし今朝は雨でしたから、昨日の写真をのせておきます。我が家のウッドデッキから見た〈日の出〉は7時27分でした。

 石上山が211メートルですから大阪港の日の出より少し遅れます。(※ 12月21日の〈大阪港の日の出〉は7時1分)明日から日が少しずつ長くなります。まだ「これから冬本番だ」という気がしますけど。うつ病気味の人にいわれたのを思い出します。「私はうつ病だから〈日の長さ〉にとても敏感です。冬至を過ぎると気持ちが上向きになる気がします」。
 
 予約の歯医者さん/ホームセンター・コメリで買い物/蕎麦屋の稜庵でお昼。

 テント・ハウスの床に雨水がたまります。それをホウキで掃き出すのですが、幅広のゴムのレーキがあると便利です。コメリで値段を見たら3000円。高い! 材木で自作することにしました。
 午後、裏の小屋でつくりました。

 これに古いバスタオルをとりつけました。雨水はどうしてもたまるのですが、これでサッと掃きだすことができます。

 裏山に植えた柚子がよくできるようになりました。冬至の今日は〈柚子風呂〉です。
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〈公民館の生垣〉を刈り込みました。

2022年12月20日 17時23分59秒 | 古希からの田舎暮らし
 寒い朝は〈たき火〉が一番です。たき火といえば〈焼き芋〉。子たち孫たちは「焼き芋おいしい」と好評ですから、おじいさんは注文してどんどん焼きますよ。9時には外に出て、たき火・焼き芋をしました。
 NHKのBSテレビでは「魂のたき火」とかいってたき火を映した画面を放送しています。あれってどうかなあ。街ではたき火はできないだろうけど。ちょっとたき火を写してみました。

 午後は〈公民館の生垣〉を電気バリカンで刈り込みました。刈って、切った枝を片づけて、ズボンについた〈アレチヌスビトハギ〉の三角の種をとるのに3時間かかりました。
 伸び放題に伸びた生垣の枝です。
 
 太い枝は電動バリカンを当てて、時間をかけて切りました。腕がだるくなるので、左右持ち替えながら作業します。
 刈って、枝葉を片づけた生垣です。

 道子さんは、公民館花壇の草を抜き、切った枝葉を片づけ、がんばりました。
 疲れたなあ。
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団地清掃/祝・道子さん誕生日

2022年12月18日 16時45分58秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は団地清掃の日です。150メートルほどの〈落ち葉に埋もれた山すその道〉をきれいにします。寒い朝ですが、昨日の雨で落ち葉を燃やせません。山の方に捨てました。

 移住してきた6軒の人たち/看護ステーションの人/畑を作りに来ている人/が力をあわせて掃除しました。
 山すその道は落ち葉を掃除して、きれいになりました。

 2月頃まではこのきれいな道です。通るたびにいい気分です。
 掃除のあとは道子さんのつくった〈白玉粉団子・ぜんざい〉をシェアしました。今日は寒いので我が家の室内で。看護ステーションのカレンダーをいただき、ミカンや焼き芋も供してなごやかなおしゃべり。
 道子さんの誕生日は過ぎたのですが、今日は子たち孫たちがお祝いケーキを持ってやってきました。

 ローソクは一本。これで道子さんも晴れて80歳になりました。間違えました。81歳になりました。
 ケーキをシェアしたあと、久しぶりのおしゃべり。おじいさんおばあさんはノーマスクですが、子たち孫たちは〈親しき仲にもマスクあり〉と気づかいをしてくれました。

 みんなが帰り、おじいさんおばあさんは〈今日一日〉をふりかえり、すべてのできごとに感謝しています。
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褒美をもらったら働きます。

2022年12月15日 18時28分07秒 | 古希からの田舎暮らし
 とても寒い朝です。氷が張っています。こんな日は〈たき火〉〈焼き芋〉にかぎります。午前中はたき火をしました。新しいダッチオープンをたき火から持ち上げるのは、気合を入れて全力でやります。来年はこれができるかなあ。
 13,14日と〈天橋立・蟹の旅〉=〈自分で自分にご褒美〉をもらったので、午後は張り切って働きました。
 日曜日は/移住してきた六軒のみなさん/看護ステーションの方/畑を作りに来ている方/で道路掃除をします。「年末の団地清掃」です。今日は、清掃がしやすいように、下準備をしました。電動の草刈り機で道路側面の笹や草を刈り、道路の路面にたまっている土をほぐしました。
 草刈り機についているバッテリーは15分が2個、あとで買い足したバッテリーは30分で2個。全部のバッテリーを使い切り、90分の作業でした。

 これで日曜日の作業がしやすくなります。
 それまでに雨が降らなければいいのですが。〈ぬれ落ち葉〉になると手間がかかります。

 年賀状を買ったのですが、まだ何もしていません。文案も写真もきめてません。ぼくはこの世にいる間は年賀状を出しつづける気です。また考えます。

  
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『戦艦大和・日記』読了

2022年12月15日 04時02分10秒 | 古希からの田舎暮らし
 11月9日ブログに書いた『戦艦大和・日記』(全5巻)を読みおわりました。
 この本の縦糸は〈海軍大佐・水野廣徳〉です。こんな人が日本にいたことを、はじめて知りました。
 水野廣徳は「満州事変から昭和20年8月の敗戦まで」に起こることを、渾身の力をこめて訴えました。悲しいことですが、それは正確な予言となりました。「何とかして、日本の悲惨な運命を回避させよう」と水野廣徳は、東奔西走して、軍の関係者にぶつかりました。
 いつも特高警察に尾行され、書いて出版するものは、即日〈発禁処分〉になって封じられました。
 早坂暁は、この〈水野廣徳〉を軸にこの作品を書き上げました。ぼくらが読めるのは、昭和16年10月10日までですけど。早坂の筆の力で、時間をワープして歴史の場面を見ることができます。
 一か所だけ引用してみます。


 ※ 昭和16年8月15日  日本が戦争に突入する直前です。
 近衛首相とルーズベルト大統領の頂上会談に、それこそ蜘蛛の糸のような望みをつなぎながら、開戦へのスケジュールがけが確実に刻まれていく。
 ところが、第二回御前会議の前日、天皇から開戦準備の中止かと思われる強烈な御下問が炸裂するのだ。このくだりは同席していた近衛首相が詳しく手記に残しているので、ぜひ紹介したい。
 呼びつけられたのは、陸軍の杉山参謀総長、海軍の永野軍令部総長の二人、つまり戦争を実行する場合の最高の責任者だ。
 それというのも、開戦を望んでいない天皇は、日米交渉という外交努力が、開戦準備の陰にかくれていくのが、我慢ならなかったようである。

天皇 「日米に事が起これば、陸軍としてはどれくらいの期間で片附ける確信があるのか?」
杉山参謀総長 「南方方面だけは、三ヶ月で片附けるつもりであります」
天皇 「杉山は支那事変勃発当時の陸軍大臣だぞ。あの時、陸軍大臣として事変は一ヶ月くらいにて片附く、と言ったように私は記憶している。しかしながら、四年の長きにわたり、まだ片附いていないではないか」
杉山 「支那は奥地が開けており、予定通り作戦がうまくいかなかったのであります」
天皇 「なに? 支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって三ヶ月と申すのか」
 杉山参謀総長は、頭を下げたまま、答えられない状態になるが、見かねた海軍の永野軍令部総長が助け舟をだす。
永野軍令部総長 「統帥部として、大局より申しあげます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術しないでこのままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常に危険があるが、助かる望みもないではない。統帥部としては、あくまでも外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、手術をしなければならんと存じます」
 残念にも、天皇はこんな訳のわからない助け舟でごまかされてしまうのだ。
「大本営機密日誌」にはこう書いてある。
『 …… 南方戦争に関し種々御下問二時間にわたり、両総長は退下した。一時は参謀本部内の空気は(天皇の猛反対に)サッと緊張したが、御前会議は、両総長の奉答により御嘉納あったようで、一同安堵した』
 この日記、日誌で、幕僚たちの、いわゆる ”輔弼” ”助言” というものの実体がよく分かるではないか。 

 
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