古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

朝食はたき火にあたって。

2013年11月30日 01時32分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 寒い朝、軽トラでゴミを出しに行きました。家に帰ってくると、無風なのに裏山のコナラ・クヌギの枯葉が「ひら」また「ひら」と落ちてきます。「音もなく」とか「しずかに」と形容したくなる秋の暮れです。よく晴れて青空がきれいです。
 そのまま家に入ってしまうのが惜しい気がして、裏山でたき火をはじめました。すると道子さんが「ホットドッグつくってくるからここで朝食にしましょう」。
 ジョウビタキが裏山にきて、よく鳴いています。「ヒッ、ヒッ!」という鳴き声です。〈火焚き〉の火打石の音に似ているからこの名前がつけられたそうです。姿を見分けやすい鳥なので、二度に一度は鳴き声をたよりに姿をたしかめます。
 午後ショートステイしていた母を迎えにいきました。転んでどこか打ったようで、自分で起き上がり立ち上がるのが難儀です。レントゲンを撮って診察してもらいましたが、骨折はしていません。母は2年前ギックリ腰になり、このまま介助するようになるかと思いました。しかしこのときは回復してまた自分で裏山まで出掛けられるようになりました。今度はどうかわかりません。
 いつも回復するとは限らないし、いずれは介助が必要になるでしょう。もう少し先になれば、自分の老い先でも同じことが起きます。動けていたのに動けなくなる。便所に行けていたのに行けなくなる。そのひとつひとつにわが心をどう向き合せるか。
 母は100年間自分の力でやってきたという自負を、どんなふうに手放して生きるか。そしてぼくはどう学ぶか。
 「〈PPK〉で逝きたい」とのん気に言ってても、〈逝く〉のは大仕事のようです。
 
 
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寒い日に慈眼寺に寄ってみました。

2013年11月29日 03時45分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 母・妙子さんは一週間ショート・ステイで過ごしており、きょうの午後迎えに行きます。施設の方が送ってこられると母は「見知らぬ人に拉致された」と思うので、こちらから迎えに行くことにしているのです。
 で、きのうは「明日の昼から迎えに来るからね」と伝えるために施設に顔を出しました。「明日は帰れるか。うれしいなあ」と満面の笑みでした。明日帰れるとわかっていても、ぼくらが顔を見せて「迎えに来る」と明言しないとどこか不安なのです。夜になって職員の方にせっつき、電話をかけてくることがあるのです。
 家にいると、どんなに寒くても母は外に出たがります。花バサミの入ったカゴをかかえて、裏山に出掛け、竹の小枝を切ったりします。新聞や手紙を取り込むためにポストをのぞくのも母の役目です。元気です。でもときどきショート・ステイしてもらうことで、こちらはほっとするところがあります。
 だからショート・ステイ中快適に過ごしてもらえるようにあれこれ手配します。まずステイ中に大好きな「桜」のDVDが見られるように小さいDVDプレイヤーを持参して施設のテレビにつなぎます。(トイレつきの個室で、テレビも置いてあります)また本を読みたがるので図書館で借りた〈大型活字本〉10冊近くを、母のライブラリーのようにテレビの横に並べます。(大型活字本しか読めなくなりました。)全部読むわけではありませんが、沢山本があるとうれしいのです。
 また個人用のおやつ箱を部屋に置かせてもらい、自分で食べられるようにしています。暴飲暴食はしませんから安心しています。食事がすすまないときは奈良漬や小梅の梅干などをとれるよう職員の方に託しています。
「また顔を出すからね」といってもすぐに忘れるので、大きな字でノートに書いておきます。それを出して読み、いわれたことを思い出すように。そのノートももう4冊目になりました。また兄弟に日程を知らせておき、ステイ中にできるだけ顔を見せてもらうように頼んでいます。こちらもなるべく一日おきに顔を見せるようにしています。
 恵まれています。母は、まさか自分が百歳を越えて生きるとは思わなかったでしょう。でも彼女の人生はなぜかこんな展開になっています。
 あれはぼくが22歳になった秋の暮れでした。まだ学生でした。母は医者に〈肝硬変〉といわれ、死を覚悟しました。「いたらぬ親であったけれど、員数外になってしまった」と下宿先に手紙をもらい、返事を書こうとして書けず泣いてしまったことがありました。
                  
 いろんなことを思いながら施設から帰る途中、三木の紅葉の名所のひとつである『慈眼寺』に寄ってみました。寒い日でしたが紅葉を見に立ち寄る人たちとよく出会いました。
 人にはそれぞれ寿命がある。
 わかります。
 自分の人生はどんなふうに展開するか。
 いくつになってもわかりません。    つくづく思います。
 
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2013年の草刈りもおしまいです。

2013年11月28日 03時40分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 2013年最後の草刈りをきのうからはじめました。ぼくにはぼくの『草刈りの美学』があって、もう来年3月まで刈りませんから時間をかけて丁寧に刈ります。
 ぼくが草刈り機を購入して草を刈りはじめたのは1999年、62歳のときでした。神戸の街中に暮らし、西区神出の田んぼに出掛けて、おっかなびっくりで草刈り機を振り回しました。はじめは鋸歯が猛烈に回転するのがこわくて、十字の歯をつけて刈りました。翌年道子さんが『大豆畑トラスト』を立ち上げ、ぼくは3反の田んぼの草刈りをせっせとするようになりました。でも斜面の草刈りはこわくて、はじめはせいぜい高さ1メートル程度の土手を刈っていました。
 いま76歳。それなりにうまく刈れるようになり、きれいに仕上げようと思っています。でも斜面の草を刈ると脚が疲れます。足場をつくっていますが、バランスをとるのに脚の筋肉を使うのでしょう。なにしろよろめいたときの粘りがなくなり、ポテッとこけるようになりましたから。休み休み刈ることにします。
 ときどき何歳まで刈るのかな、と考えるようになりました。勝手に82歳くらいまでは大丈夫と思ってはいます。
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『辻井伸行 奇跡の音色』を読みました。

2013年11月27日 03時43分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 田舎に暮らすようになって残念に思うことがあります。写真の右の小山はうちの村の山(=我が家の裏山)で、左の少し高い山がとなり村の山です。どちらの山にも名前はついていません。どちらの山も竹がはびこり、山に登ってみると竹薮の中を歩いている感じになります。
 しかし外からみるとクヌギ・コナラが竹より高く伸びて山をおおい、晩秋の日を浴びています。残念なのはその《晩秋の色合い》を写真に撮れないことです。晴れの日も曇りの日もこころをやわらかく包んでくれる、地味だけれど深い色合いです。それが写らない。写真に撮ると平凡な田舎の景色になってしまう。山すその道を散歩する、しっとりした情緒が伝えられない。
 嘆声をあげるような鮮やかな紅葉ではありませんが、枯葉がはらはら落ちる秋の山すそを散歩するのが一番のしあわせです。ついでにいうと2番目のしあわせは若葉の小径を散歩することです。
『辻井伸行 奇跡の音色』(神原一光 著・ 2011年刊・アスコム出版)という本を読みました。NHKの職員の方(神原さん)が取材して書いたものでぼくには「いい本」でした。中味は辻井さんのピアノを「小学校1年生から高校卒業までの12年間教えた川上昌裕さん」の〈苦労と試み〉です。
 まず感じたのは「出会い」です。ピアニストであり東京音大の先生である川上さんが、なぜか小学一年生の子どもにピアノを教えることに打ち込むようになる。その子がハンディを乗り越えてぐんぐん成長する。世界で活躍するピアニストになる。
 川上昌裕さんが一流のピアニストで、ほんとに精魂込めたから、辻井さんがここまで成長できたのです。この出会いがなかったら〈ピアニスト・辻井伸行〉はなかった。それが実によくわかりました。そんな「出会い」があるんですね。不思議な気がします。
 次に辻井さんのエネルギーです。好運なことにチケットがとれて、今年4月西宮芸文センターで辻井さんのラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番を聴きました。彼は次の日はフェスティバル・ホールでやはりラフマニノフを、そして翌日にはチャイコフスキーのピアノ協奏曲を演奏するスケジュールになっていした。連日指揮をする佐渡裕もすごいけど、辻井さんの底知れぬエネルギーを感じました。
 平凡なわれわれには想像もつかないエネルギーが、どこかからふりそそいでいるのでしょう。
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チャイコフスキー/交響曲第5番に圧倒されました。

2013年11月25日 03時54分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 兵庫芸文センターの定期演奏会は6月までにしました。三木の口吉川からはるばる〈車⇒地下鉄⇒阪急)と都会に出るのが億劫(おっくう)になり、会員チケットはとりませんでした。でもときどき音楽会には行きたいからとチラシを見て、アンドリス・ネルソンス指揮/バーミンガム市交響楽団の演奏会チケットはとっていました。(11月24日・兵庫芸文センター)
 なぜこの演奏会にしたか。「チャイコフスキー・交響曲第5番がプログラムにあった」からです。ぼくはイギリスのこの交響楽団も指揮者もよく知りませんでした。
 実はチャイコフスキーの『交響曲第5番』には特別な思い入れがあります。
 原稿用紙100枚の作品募集。明日の消印有効。何ヶ月も前から書き始め、前日の深夜までかかって書き上げた。ワープロに感熱紙で印刷した。コンビニまで歩いて出かけてコピーした。(感熱紙応募は不可)家に帰り穴をあけて綴じた。封筒に入れた。あとは郵便局が開いてから送ればいい。
 こんなときの高揚感をどう表現したらいいか。
 部屋を走りまわるわけにいかないけど、じっとしておれない。
 ヘッドフォンをつけてチャイコフスキー/交響曲第5番/第4楽章を大音量で聴く。
 やった! 書き上げた! 音楽がぐんぐん盛り上がる。体が躍動して思わず音楽の指揮をする。
 ぼくの持っているCDは〈ロリン・マゼール指揮/ウイーン・フィル〉で、とてもよく聴いています。特に第4楽章は。でも生の演奏では聴いたことがありませんでした。「死ぬまでに一度は目の前で演奏される『5番』を聴きたい」「あの音の迫力を浴びたい」という思いがずっとありました。
 バーミンガム市交響楽団と指揮者はすごかった。第4楽章は嗚咽をおさえるようにして聴きました。最後の終り方がよかった。〈you tube〉で終り方を聴き比べたことがありますが、カラヤン、バーンスタインなどより切れ味が鋭く、気に入りました。何度も何度も凄い拍手。アンコール。
 生の演奏はよかった。バーミンガム市響でよかった。聴けてよかった。このたびのツアー、東京では『新世界』とブラームスの『第4番』をやったそうです。どれも聴きたかったなあ。
 そうそう、一つだけ苦言を。バーミンガム市響のみなさん、メタボはこわいよ。
 
 
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『龍神』さまにお礼参りしました。

2013年11月22日 07時20分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「なんとかうまくいきますように」と願っていた老人クラブの『ラフター・ヨガ』がうまくいき、ほっとしています。まわりのたくさんの人々、この村、その他あらゆるもののお陰です。感謝の気持ちをなにかに伝えようと、久しぶりに『龍神』さまにお参りしました。(いまの家を建てて移り住んだとき、霊の感知能力に優れた方が訪ねてこられ、「この池には龍神さまがおられます。生卵/お水/お塩をお供えして拝まれるといいですよ」と教えられ、ときどきお参りしています)
 〈佐の広池 ⇒ 蛇ガ池 ⇒ 福地池 ⇒ 九文小池 ⇒ 大池 ⇒ 無施池〉(※龍神さま不在の池もあるでしょうが)と、横着して軽トラでまわって龍神さまにお礼を申しあげました。その方面のことを読みかじった道子さんによると、龍神さまというのはハイレベルの神さまというわけではないそうで、具体的に「かたち」で感謝の気持ちを伝えるとよろこんでくださるそうです。届いたかな。
 ところで福地池はいま干しています。水はほとんど抜けて、底の泥が現れています。
                 
 その泥の上にいろんな足跡がついてます。夜ともなればいろんな動物が歩きまわっているのでしょう。
 うまくいったことに感謝する気持ちを「かたち」にしたくて、バス停のベンチにペーパーをかけてキシラデコールを塗りました。4年前自作したベンチですが、これでまたしばらく活用されるでしょう。
 ラフター・ヨガをリードしていただいた植田弘一さんは、『おさるの健康の里』というホームページをもっておられ、ブログにうちの村で行った「笑う健康教室」のことを書いていただいてます。
 自由に生きる。人のために明るく行動する。いい目・いい目が出て、どんどん人のためになる。広がる。つながる。
 こうした行動力あふれる若い方を見ると、こちらまでうれしくなります。「人間っていいな」という気持ちになります。なお「笑い」でハイになった心身をクール・ダウンするのに「タッピング・タッチ」というのを教えてもらいました。あんなかすかな「タッチ」だったのですね。
 しっかり効きました。
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公民館で『ラフター・ヨガ』を体験しました。

2013年11月21日 06時31分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは三木市老人クラブの花の苗配布があり、花の植替えと公民館まわりの清掃をしました。昼食のあと、かねて計画していました『ラフター・ヨガ』(笑う健康教室)を開催しました。参加者は16名あり、なんとかかたちができました。インストラクター・「おさる」さんのリードで、しっかり笑うことができました。
 カメラはもっていってたのですが、ヨガのほうに夢中になってしまい、写真を撮るのを忘れてしまいました。ぼくの思ってた以上にみんなが引き込まれて、しっかり笑うことができました。
 大阪の落語のメッカ・繁昌亭が繁盛したり、綾小路きみまろの舞台が売り切れたり、笑いがもとめられていますが、「お金なしで笑い、それが健康によい」。そんな結構なお話がラフター・ヨガです。
 インストラクターの植田弘一さん(「おさる」さん)とは去年つながりができ、きのうは、私たちの「笑う力」を実に上手に引き出してもらいました。彼のホームページを見ると、日ごとに忙しくなっていくみたいで、ラフターヨガの拡大を目で見るようです。(『おさるの健康の里』です。)
 おさるさんの話の中で印象に残った言葉があります。
「漫才なんかで可笑しくて笑うのは3秒くらいです」
 そうか。ドッと笑うの「ドッ」はそれでも長いかも。そういえばずいぶん前のことですが、カーラジオで野球実況を聞いていたとき、解説者の中村稔(往年の巨人軍のピッチャー)がこんなことを言ったのを覚えています。
「人間の集中力って7秒くらいしかつづきませんから」 エッ? たった7秒? 
 バットを構え、投手の投げる球を待つ瞬間。豹が獲物にしのび寄りとびかかる前の瞬間。7秒かもしれんな。

 「笑う」という反応を体に持続させる「ラフター・ヨガ」の力をあらためて認識しました。
 
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それぞれにうれしいこと。

2013年11月20日 03時28分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 ウッドデッキが『永久不滅デッキ』(76歳のぼくにとって)になりました。床面はフィンランド・エコ・デッキ材、〈手すり〉兼〈腰掛け〉の低い柵は『イタウバ』という25年もつ木材です。25年生きたらどうなるか? そのときになったら、また考えます。
 とりあえずこれでメインテナンス・フリーになりました。ぼくは、とてもうれしいです。ただし母の部屋の前はまだSPFのデッキ材ですから、いずれそのうちフィンランド・エコ・デッキ材にします。「いずれそのうち」というのはなかなかの曲者(くせもの)ですがね。
 道子さんのうれしいことは、皇帝ダリアが寒さに耐えて咲き誇っていることです。一輪だけ咲いて、寒波が襲来して、もう駄目かと思ったのに。
                  
 写真には写ってませんがすぐそばに電柱が立っています。この花たちは、街灯から2メートルしか離れていません。それにこの寒さ。健気です。よく頑張ってます。蕾はまだ100個以上ついています。道子さんは毎日花の下に行って、〈感謝〉と〈はげまし〉のことばをかけています。
 母・妙子さんは裏山に出掛けて、花バサミで竹の枝を切っています。ぼくが山から切り出して積んでおいた竹の山がなくなりました。また竹の山をつくって親孝行しようと思います。(毎度お馴染みの写真なので省略します)
 長寿社会だなあ。つくづく思います。
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年齢相応に弱ってきました。

2013年11月19日 01時18分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは三木市老人クラブの〈ウォーキング〉があって参加しました。ことしは口吉川町の番で、公民館から蓮花寺まで2,9キロメートルを歩く催しです。「我が庭」のようによく知ってる散歩圏ですから軽い気持ちでしたが、歩きはじめてみると結構きつく感じます。ふだんの散歩は「有酸素運動」どころか気が向けば立ち止まって草花を手折ったり写真を撮りながらのんびり歩くのですが、このウォークは一定の速度でしっかり歩きます。
 それをやってみて体力が落ちているのを実感しました。写真は蓮花寺に着いて本堂の前でお坊さんの説明を聞いているところです。みなさん、疲れたような顔をしています。ぼくも疲れをしっかり感じました。「弁当を食べたらまた公民館まで歩かねばならない」と思うだけで気が重くなりました。
                
 帰り道、先頭を歩いていましたが、だんだん老人たちに追い越され、公民館に着くころにはビリに近いところを歩いていました。怠けて歩いたつもりはないのに。「無理して早足で歩いたら続かない」と自分のペースを守っただけなのに。
 そうか。〈後期高齢者〉とはよく言ったものだ。ガクッと体力が落ちてる。もう〈ウォーキング〉に参加するのはやめよう。いまさら自分を鍛えるつもりはないから、マイペースで散歩すればいい。
 2時過ぎに帰ってひと休みしたあと、ウッドデッキの手すり工事をしました。『イタウバ』(ブラジル・マッドグロッソ州のハードウッドで「25年もつ」と書いてあった)を切ったりビス止めをする作業が残っていたのです。気がついたら2時間も作業に没頭していました。
「おかしなもんや。自分の興味があること、好きなことをする元気だったら、なんぼでも出てくるんやな」
 そんなことを思いながら日も暮れ、人生も暮れていきます。
 
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『たき火パーティー』はおいしいです。

2013年11月18日 02時12分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 予定していたこの秋はじめての『たき火パーティー』はおいしくおわりました。まだ火が恋しいほど寒くありませんが、たき火を囲んで食べ物を焼いていると食欲がぐぐっと盛り上がってきます。孫たちは食べる合間に山を歩きまわり、落葉ははらはら落ちてくるし、ウッドデッキでやるバーベキューとひと味ちがうたのしい食事になりました。
 孫たちがマシュマロを焼いて食べるので、「どんな味がするのだろう」とおじいさんも一つだけ竹串に刺して焼き、食べてみました。しかし「なんでこんなことをするのか」疑問は解けませんでした。
 大豆は稲木に架けて干していますが、黒豆はまだ大地に根をおろしたままです。
 村の営農組合がつくっている黒豆畑(転作の)では11月に入るとすぐ〈葉落とし〉⇒〈根を切って干す〉⇒〈ビニールハウスで送風乾燥する〉と作業がすすんでいます。12月に入る前後から〈脱穀〉⇒〈選別〉⇒〈出荷〉です。年の暮れが迫るほど引取る値段が下がる仕組みになっています。きびしいですね。
 うちの畑でも「せめて葉は落として乾燥を早めよう」と葉落としをしました。
 いまのところ大豆の脱穀は12月1日(日)にする予定です。街から野菜づくり学習に来ている青年も子や孫たちも、脚踏み式脱穀機や唐箕(とうみ)を使うところは見たことがないし、天気がよければ日曜日にしたいと思っています。いままで干した大豆の木をビール瓶で叩き、篩(ふるい)にかける脱穀は、子や孫にも手伝ってもらったことがありますが、古い農機具を使う作業ははじめてです。
 
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訪問看護ステーションが出来上がりました。

2013年11月16日 03時31分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 我が家の斜め向かいに〈訪問看護ステーション〉が出来上がりました。写真手前は我が家のウッドデッキです。ここにデッキチェアーを持ち出して、基礎工事、足場の組上げ、棟上げ、屋根葺き、外装、まわりのフェンスと駐車場工事などを毎日見せてもらい、4ヶ月ほどたのしい思いをさせてもらいました。木の切れ端やサイディングの切れ端をもらったりもしました。オクラやマクワウリが採れすぎて、工事の方にもらっていただいたこともありました。その工事もおしまい。残念な気もします。
 サイディングの板で家の外装をする人の仕事を見ていて、参考になったことがあります。
 いままで板を切るときは作業台の端に板をつき出して、作業台を切らないようノコギリを引いていました。また丸鋸を動かしました。切り落とした板はバタンと下に落ちていました。しかしサイディング屋さんの作業を見ていたら、下にスタイロフォーム(カネライトも同じ)という断熱建材を敷いてサイディングの板を切っておられます。スタイロフォームは少し切れますが台は大丈夫。台の端でないので切る板を安定して置けるし、切り落とした板が下に落ちたりしません。大工さんの間では常識かもしれませんが、ぼくは感心してしまいました。
 早速、廃材の鉄の箱からスタイロフォームを拾ってきて作業台に置き、板を切っています。なんとも具合がいい。このやり方をとても気に入っています。
 サイディング屋さんの作業を見ていて、板の間が1センチくらい空いているので「ここはパテかなにかで埋めるのですか」とききました。「そこはあしたコーキング屋さんが来て埋めます」。
 えっ? 別の人が来て作業するのか。作業がこまかく分かれてるんだなあ。
 コーキング屋さんは2階から下まですき間の両側にマスキング・テープを貼り、コーキング材を注入していきます。テープをはがすと継ぎ目がわからないくらいきれいに仕上がっています。
 大工の棟梁から基礎の鉄筋屋、生コン屋、屋根屋、電気屋、水道屋、タイル屋やぼくの知らない業種の人たちを仕切るのが工務店なのでしょうが、そんな店を若い女性が1人でやっておられたのにも感心してしまいました。実にこまめに現場に顔を出し、高い足場にも上り、工事全体に目を配っておられました。
 
 あしたの日曜日は子や孫が『たき火パーティー』を裏山でやるというし、サイディングの板で小さい台でもつくってやろうかな。ウッドデッキ工事は途中です。
 ぼちぼちでんな。
 
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大豆を干したら一日で。

2013年11月15日 03時12分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 13日に、写真のような稲木を立てました。2メートルの〈一寸角材〉を5本立て、鉄パイプの横木を3段に渡しました。(幅5,5メートル)それから大豆を全部抜いて架けていきました。まだ葉がついている大豆もサヤが枯れ色になっていない大豆も。
 ことしは〈脚踏み式脱穀機〉を借りて脱穀するつもりなので、根を切らずに手で抜きました。例年なら根の張りがよくて少々引いてもなかなか抜けないのですが、木が太く生長してから強風で根が動いた(それで倒れるのを防ぐために杭を打ちマイカ線を張った)、先日の雨で土が湿っていたのでなんとか抜けました。根がついていないと手で持てなくて脚踏み式脱穀機にかけにくいのです。
 14日は午前中三木市の老人クラブ・グランド・ゴルフ大会があり、午後畑に出てみると大豆がかなり乾いています。晴天でよく日が当たったとはいえ、一日で写真のように枯れ色がかってきました。夜は雨の予報だったのでブルーシートをかぶせてマイカ線でしばっておきました。夜露にあたらないように、雨に濡れないようにすると早くパリパリに乾きます。
 それにしてもうちの(借りてる)畑はいい場所にあります。山のそばですが、冬至が近くなると写真のように午後3時になっても日が当たっています。夏は太陽が北よりになるので午後2時前から山の影になり、日が当たりません。夏は日陰で畑仕事をし、冬は日に当たって畑仕事をする。東は太陽が地平近くから昇り、畑全体が朝日をあびます。
 鶴の子大豆では失敗しましたが他の品種は大粒でよくできているので、味噌用の大豆は確保できそうです。
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皇帝ダリアが一輪だけ咲きました。

2013年11月14日 02時49分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 庭の隅に植えた《皇帝ダリア》が一輪咲きました。道子さんはとても喜んで、「あの蕾がつぎつぎと咲いたらいいけど、寒さは迫ってるし……」と心配そうです。この皇帝ダリアの木(「木」と呼ぶほうがいいほど立派な茎です)が生えてる庭のそばには電柱が立っており、街灯もついています。皇帝ダリアや皇帝ヒマワリは夜は真っ暗なほうがいいので気になっていましたが、見事に咲いてくれました。
 もし、これから小春日和が10日ほどつづいてくれたらあの蕾たちはみんな咲くでしょう。その見事さを想像するだけでワクワクします。
 しかしこの寒波! 
「気温が3度以下になるときは家に入れましょう」と書いてあるけど、3メートルもあって、地面から生えている木をどうしようもありません。
 大豆を全部抜きました。まず「鶴の子」ですが、これは7月に白い花が咲いてしまい、丈の低い貧弱な木になり、ちょっとだけサヤをつけました。9月に葉が落ち、サヤが茶色になったので抜いて持ち帰りました。しかし豆はほとんどできていないので、長いこと放置していました。先日脱穀してみたらほとんどクズ豆です。ひと畝40本で一合ほどまともな豆があったでしょうか。鶴の子大豆はもう絶対つくりません。
                
 写真は「タマニシキ」という味噌用大豆で、黒豆のような立派な木です。「ひょっとして黒豆の苗が紛れ込んだのではないか」とサヤをむいてみたこともありますが、大豆でした。しかしいつまで待っても枯れず、きのう全部抜きました。豆はよく出来ているのでこれから稲木に干して、11月終り頃に脱穀します。
 今年は〈脚踏み式稲こき機〉を借りることにしました。いままでのビール瓶で叩く脱穀から進化します。
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フィンランド・エコ・デッキの床にしました。

2013年11月13日 02時38分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 家を建てた7年前、東向きにひらけた眺望をひとり占めするように《ウッドデッキ》をつくりました。そのデッキの床が傷んできました。原因はいろいろあります。参考のために記しておきます。

○ 工事がらくなように幅の広い材木を使用した。ウッドデッキの床材料としては〈2×4材=厚さ4センチ×幅9センチ〉/少し幅広の〈2×6材=幅14センチ〉を使用するのだが、うちのデッキにはもっと幅広の〈2×8材=幅18センチ〉を使用した。
○ 長さ8フィート前後の木材をずらしながら桟にネジ止めしていくのだが、うちは欲張って14フィート(4メートル余り)の木材を使用した。分厚くて長いので材木があばれやすい。
○ 費用を安くあげようと「雨ざらしになるウッドデッキには使用してはいけない」とされているSPF材(安い外国産の針葉樹材)にキシラデコールを塗って使用した。
○ 分厚いはずの木材が「日にさらされ・雨にさらされて」反り返り中央に水たまりができた。また反ったり戻ったりして、分厚い板がひび割れてきた。そこから雨水が木材の中心までしみ込み、腐蝕がすすんだ。
○ 毎年キシラデコールを塗るつもりにしていたが、なぜか塗る気にならずに4年ほど過ぎてしまった。(もし毎年塗っていたとしても「ひび割れた」から腐蝕はすすんでいたでしょう)
 
 床を踏み抜くほど腐蝕がすすむのはまだ2年ほど先になるでしょう。(途中から急速にすすむものですが)でも腐蝕した板を、つぎつぎと「切り取って張り替える」のは気持ちの滅入る作業です。なんか「展望がない」というか「希望がない」というか「先が見えない」というか、とにかく気の進まない作業です。
 で、「メインテナンス・フリー」にしようと思い切って少し費用をかけて人工木材に替えました。じゃーん!!
                
 フィンランド・エコ・デッキの人工木材です。ぼくが調べた限り、これが人工木材の中では一番安いです。それに人工木材は中国産がかなり入っているのですが、いろいろなことがあるようです。フィンランド産なら安心。ヨーロッパの中でもアジアに親しみをもっている国ですし、ぼくも行ってみたい。ま、もう無理だけど。
 これをあつかっている店は1軒だけみたいですが、実物を見て安心しました。重いけど作業はしやすい。木材と同じように加工できます。温度による伸縮と、日が当たると熱くなる点には気をつけます。
 写真のように長さ4メートルの材を並べてスペーサー(クリップ)で止めました。なお腰掛けられる低い手すりの板も替えることにしました。こちらは天然木にします。ブラジル・マッドグロッソ州産の『イタウバ』という木材で、発売元のリーベという店によると「25年はもつ」そうです。
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新田次郎『小説に書けなかった自伝』を読みました。

2013年11月11日 04時54分26秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 キッチン前のウッドデッキはポリカの屋根を二年前につけたのですが、そこに道子さんが朝顔を這わせました。それがいまも次々と花を咲かせます。でも11月になったし、先日取っ払いました。斜め向かいのおじいさんは、庭に植えた朝顔の花を毎日数えて合計していきました。しかし2000の花を数えてもまだ咲くので「数えるのをやめた」そうです。朝顔ってほんとによく咲くのですね。
                
 図書館で借りた本の中に新田次郎の『小説に書けなかった自伝』(昭和51年出版……37年前)がありました。(ぼくが自分で選んだのですが)『新田次郎全集』が出されたとき、月報に新田が書いた文を集めた本です。それぞれの小説が生れる背景が書いてあって面白く、一気によみました。37年も前に出た本ですが、奥付を見ると版を重ねるほど読まれています。まだ「貸し出しカード」だった頃の日付ゴム印の紙が本の後ろに貼ってあり、図書館でもよく読まれたようです。
 新田次郎は『富士山頂』『芙蓉の人』を要約する必要があって何度も読み返したことがあります。文が素直で読んでいて気持ちのよい作家です。ぼくの文の好みによるのでしょうが。
 彼は自分の作品の生れる背景とか事情をサラッと書いています。こってりした感じでないのがいい。
 「文」ってただ文字を並べて「何かを伝える」だけのようですが、行間の息づかいが人によってちがいます。以前四万十川のことをだれかが書いた本を読もうとしたとき、出だしの文から満艦飾の形容詞がついていて、最初の一文を読んで読むのをやめました。
 朝日新聞の天声人語に外国の作家の文が引用されていました。こう書いてありました。

 文章は形容詞から腐る。

 まだ勤めており車で通勤していた頃に、ラジオで道場洋三の「おはようパーソナリティー」を聞くことがありました。道場洋三がだれか(多分劇作家だったと思う)の書いた文を紹介していました。その文にはこんなことが書いてありました。要約です。


 自分の書いたものの中に「3年の歳月が流れた」という一文があった。どうして「3年たった」と書かなかったのか。大いに反省した。

 これを紹介した道場洋三は、自分の語り口の参考にしようと取り上げたのでしょう。テレビの映像時代ですがしゃべり過ぎて上滑りするアナウンサー、行間のないアナウンサーがまだいます。
 

  
コメント
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