(原文)
養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。
凡、養生の道は、内慾をこらゆるを以本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪をおかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶれやすくして、大病となり天命をたもたず。内慾をこらゆるに、其大なる条目は、飲食をよき程にして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色慾をつつしみて精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後には、必数百歩、歩行すべし。もし久しく安坐し、又、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎてやぶられず。此内外の数の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。
(解説)
いよいよ具体的な養生の方法に入ってきました。まず初めにすべきことは、「わが身をそこなふ物を去」ることであり、身体に良いことをすることではありません。『十八史略』に「一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生ずるは一事を減ずるに若かず」とあるように、ある行いの効果を最大にするためには、その行いの順序がとても重要です。例えば、穴のあいたコップに水を溜めようとして、水を注ぐのを先にするか、穴を塞ぐのを先にするかの関係と同じです。
そして「身をそこなふ物」を身体の内外で分類し、それぞれ「内慾」と「外邪」と呼びます。前者にまず挙げるのは、儒学の経典『礼記』の礼運に「飲食男女、人の大欲存す」とあるように、人類の本能的な欲望です。そして睡眠と多弁の欲、それから「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」の七つの感情を挙げています。七情は、通常は『礼記』にある「喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲」のことであり、より高度な人情も含まれているのですが、益軒のいう七情は、これとは別の分類のもの、医学におけるものです。
江戸期につながる日本の儒学の祖と言えば藤原惺窩ですが、医学の祖と言えば曲直瀬道三でしょう。道三は自身が著した医学書『啓廸集』で、「喜楽恐驚は正気を散ず、正気を散ずる者は之を益す、怒憂悲思は邪気を鬱結す、邪気を結する者は之を行らす、此れ七情を治するの要法なり」と述べています。この七情は約二千年前の医学書『素問』の陰陽応象大論や『霊枢』の百病始生などに散見できるもので、身体への影響が大きい感情であり、養生するためには重要な要素です。
「外邪」とは、「風・寒・暑・湿」という気候・環境のことです。「寒・暑・湿」は分かりやすいのですが、「風」は単なる空気の流れではありません。それは目に見えない病を起こす要因であり、ばい菌やウイルスも含まれている、とも言えなくもないですが、当時は顕微鏡もなく、今日と違って認識できる対象ではなく対処できるものでもないので、そう定義する意味はありません。
「言語をすくなく」すること、これも養生法の一つですが、これはどういう訳でしょうか。「気をへらす事をおし」むことが、ここでの理由ですが、より具体的に調べていきましょう。
益軒は、当時を代表する博物学者であり、医学・薬学者であり、それ以上に儒者でありました。儒者とは己を正し、国家を正し、民を感化させ、全ての人々が平和に暮らしていける世の中を作り上げようとする人です。それゆえ益軒の養生法は儒学的香りが強く出ています。孔子は『論語』の中で、「君子は、言に訥して、行いに敏ならんことを欲す」と言ったように、おしゃべり、軽はずみな言葉は、避けるべきものです。話すことがいけないのではありません。「徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず」、であり、有徳者には言葉が必要です。しかし「巧言は徳を乱る」であり、「言未だ之れに及ばずして言う、之れを躁と謂う」とも言うのです。口が上手いこと、必要でない時に話す躁々しさ、それは君子の条件ではないのです。余計な言葉は人々を、そして国をも乱します。
老子も「多言なれば、しばしば窮す」と言ったように、不必要な言葉は困ったことをひき起こします。言語によって「気をへらす」と言うのは、しゃべると身体から何らかの生命エネルギーのようなものが抜け出てしまう、というような意味ではなく、普段日常で言うような、人間関係などに気をすり減らす、と言うような意味に近いでしょう。「言語をすくなく」はこの後にも何度もでてきますが、それはその時またもう少し詳しく解説します。
(ムガク) (これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。
凡、養生の道は、内慾をこらゆるを以本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪をおかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶれやすくして、大病となり天命をたもたず。内慾をこらゆるに、其大なる条目は、飲食をよき程にして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色慾をつつしみて精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後には、必数百歩、歩行すべし。もし久しく安坐し、又、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎてやぶられず。此内外の数の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。
(解説)
いよいよ具体的な養生の方法に入ってきました。まず初めにすべきことは、「わが身をそこなふ物を去」ることであり、身体に良いことをすることではありません。『十八史略』に「一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生ずるは一事を減ずるに若かず」とあるように、ある行いの効果を最大にするためには、その行いの順序がとても重要です。例えば、穴のあいたコップに水を溜めようとして、水を注ぐのを先にするか、穴を塞ぐのを先にするかの関係と同じです。
そして「身をそこなふ物」を身体の内外で分類し、それぞれ「内慾」と「外邪」と呼びます。前者にまず挙げるのは、儒学の経典『礼記』の礼運に「飲食男女、人の大欲存す」とあるように、人類の本能的な欲望です。そして睡眠と多弁の欲、それから「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」の七つの感情を挙げています。七情は、通常は『礼記』にある「喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲」のことであり、より高度な人情も含まれているのですが、益軒のいう七情は、これとは別の分類のもの、医学におけるものです。
江戸期につながる日本の儒学の祖と言えば藤原惺窩ですが、医学の祖と言えば曲直瀬道三でしょう。道三は自身が著した医学書『啓廸集』で、「喜楽恐驚は正気を散ず、正気を散ずる者は之を益す、怒憂悲思は邪気を鬱結す、邪気を結する者は之を行らす、此れ七情を治するの要法なり」と述べています。この七情は約二千年前の医学書『素問』の陰陽応象大論や『霊枢』の百病始生などに散見できるもので、身体への影響が大きい感情であり、養生するためには重要な要素です。
「外邪」とは、「風・寒・暑・湿」という気候・環境のことです。「寒・暑・湿」は分かりやすいのですが、「風」は単なる空気の流れではありません。それは目に見えない病を起こす要因であり、ばい菌やウイルスも含まれている、とも言えなくもないですが、当時は顕微鏡もなく、今日と違って認識できる対象ではなく対処できるものでもないので、そう定義する意味はありません。
「言語をすくなく」すること、これも養生法の一つですが、これはどういう訳でしょうか。「気をへらす事をおし」むことが、ここでの理由ですが、より具体的に調べていきましょう。
益軒は、当時を代表する博物学者であり、医学・薬学者であり、それ以上に儒者でありました。儒者とは己を正し、国家を正し、民を感化させ、全ての人々が平和に暮らしていける世の中を作り上げようとする人です。それゆえ益軒の養生法は儒学的香りが強く出ています。孔子は『論語』の中で、「君子は、言に訥して、行いに敏ならんことを欲す」と言ったように、おしゃべり、軽はずみな言葉は、避けるべきものです。話すことがいけないのではありません。「徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず」、であり、有徳者には言葉が必要です。しかし「巧言は徳を乱る」であり、「言未だ之れに及ばずして言う、之れを躁と謂う」とも言うのです。口が上手いこと、必要でない時に話す躁々しさ、それは君子の条件ではないのです。余計な言葉は人々を、そして国をも乱します。
老子も「多言なれば、しばしば窮す」と言ったように、不必要な言葉は困ったことをひき起こします。言語によって「気をへらす」と言うのは、しゃべると身体から何らかの生命エネルギーのようなものが抜け出てしまう、というような意味ではなく、普段日常で言うような、人間関係などに気をすり減らす、と言うような意味に近いでしょう。「言語をすくなく」はこの後にも何度もでてきますが、それはその時またもう少し詳しく解説します。
(ムガク) (これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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