柳に水車・・・・・柳を見ると「柳腰外交」を想像するのは私だけでしょうか?
渡邉邸を出まして、隣接する「歴史とみちの館」へ
ここは小さな地元の博物館的な存在です。渡邉家のお宝も展示してありました。
また、永禄4年(1561)関川村湯沢の垂水城主の垂水源次郎は、上杉謙信に従って、第4次川中島の戦いで勇戦、武勲をたてて「血染の感状」を授与された。
その謙信から拝領した感状は、川中島の歴史を立証する貴重な資料として保管されています。
また、最近話題の桜田門外の変の現場指揮官、関鉄之助は諸国逃亡の末、ここのすぐ隣の湯沢で捕縛されています。
その関鉄之助の書も展示されています。
渡邉家に残る甲冑・・・兜の上に「鬼?」ちょっとユニークですね。
下の弓矢は、上杉鷹山より拝領したものです。
それには、理由が・・・
3代、三右エ門は享保5年(1720)米沢藩に750両の融資をしました。
同年に75両の利息が支払われ、その記述が米沢藩の記録にあります。
これが始まりで、4代の時は17年間で2万7000両を融資し、幕末までに融資した総額は10万両に達したそうです。
上杉家は以前に書きましたが、後継ぎが無く養子を何度か入れてます。
その度に禄高は半減してゆき、台所は火の車だったはずです。
上杉鷹山は、米沢の復興に貢献した方で政治家の鏡みたいな人格です。
現在の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいです。
話を戻します。
上杉鷹山は、渡邉家が大金を用立ててくれた功を賞し、5代三左エ門に250石の秩録を与え勘定頭格に任じた。
また、7代三左エ門善映は天明6年(1786)に450石の秩録が与えられた。
そんな訳で鷹山公直筆の書幅とともに弓矢が寄贈されたようです。
平面図ですが、今とあまり変わらないようです。
ジオラマがありました。こういうの好きなんですよね。
東 桂 苑
ここは、分家になります。
渡邉家八代の四男が初代になります。
善俊(よしとし)=嘉永元年~大正5年(1848~1916)
この建物は明治38年に新築したものです。
木造二階建、日本瓦葺寄棟造り。
敷地面積:約1670坪 建築延面積:177坪
急な階段を上ったら・・・
そこは、女中の部屋でした。 当然狭くて何もありませんでしたがね。
今、思い出したのですが、その1の渡邉邸ですが、武者隠しの部屋がありました。
まるで殿様みたいですね。
この部屋は、書斎と書いていますね。
二階の部屋ですが、この廊下に腰を掛け庭を眺めていたのでしょうか?
歪んだ板ガラスは歴史を感じます。
私のブログでは、始めての新潟でした。
日帰りで行ったものですから、ここしか見れませんでしたが、そのうちまた新潟を訪れたいと思います。
それでは・・・
渡邉邸を出まして、隣接する「歴史とみちの館」へ
ここは小さな地元の博物館的な存在です。渡邉家のお宝も展示してありました。
また、永禄4年(1561)関川村湯沢の垂水城主の垂水源次郎は、上杉謙信に従って、第4次川中島の戦いで勇戦、武勲をたてて「血染の感状」を授与された。
その謙信から拝領した感状は、川中島の歴史を立証する貴重な資料として保管されています。
また、最近話題の桜田門外の変の現場指揮官、関鉄之助は諸国逃亡の末、ここのすぐ隣の湯沢で捕縛されています。
その関鉄之助の書も展示されています。
渡邉家に残る甲冑・・・兜の上に「鬼?」ちょっとユニークですね。
下の弓矢は、上杉鷹山より拝領したものです。
それには、理由が・・・
3代、三右エ門は享保5年(1720)米沢藩に750両の融資をしました。
同年に75両の利息が支払われ、その記述が米沢藩の記録にあります。
これが始まりで、4代の時は17年間で2万7000両を融資し、幕末までに融資した総額は10万両に達したそうです。
上杉家は以前に書きましたが、後継ぎが無く養子を何度か入れてます。
その度に禄高は半減してゆき、台所は火の車だったはずです。
上杉鷹山は、米沢の復興に貢献した方で政治家の鏡みたいな人格です。
現在の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいです。
話を戻します。
上杉鷹山は、渡邉家が大金を用立ててくれた功を賞し、5代三左エ門に250石の秩録を与え勘定頭格に任じた。
また、7代三左エ門善映は天明6年(1786)に450石の秩録が与えられた。
そんな訳で鷹山公直筆の書幅とともに弓矢が寄贈されたようです。
平面図ですが、今とあまり変わらないようです。
ジオラマがありました。こういうの好きなんですよね。
東 桂 苑
ここは、分家になります。
渡邉家八代の四男が初代になります。
善俊(よしとし)=嘉永元年~大正5年(1848~1916)
この建物は明治38年に新築したものです。
木造二階建、日本瓦葺寄棟造り。
敷地面積:約1670坪 建築延面積:177坪
急な階段を上ったら・・・
そこは、女中の部屋でした。 当然狭くて何もありませんでしたがね。
今、思い出したのですが、その1の渡邉邸ですが、武者隠しの部屋がありました。
まるで殿様みたいですね。
この部屋は、書斎と書いていますね。
二階の部屋ですが、この廊下に腰を掛け庭を眺めていたのでしょうか?
歪んだ板ガラスは歴史を感じます。
私のブログでは、始めての新潟でした。
日帰りで行ったものですから、ここしか見れませんでしたが、そのうちまた新潟を訪れたいと思います。
それでは・・・
農作業~道具は
ありませんでし~たか?
東北 新潟 全てにスケールが大きい
ひーさんのおかげで行きたいところが
どんどん 増えていきます~
でも、これだけの金持ちは自分では作らないかも知れませんね。
米蔵に入っていた数量聞いたのですが忘れてしまいました。
地震の影響を受けていないか心配です。
ここは、石の上に柱が乗っているだけですが、過去の大きな地震でも、左右に揺れただけで問題なかったそうです。
しかし柱と石はピッタリ合うまで何度も削って合わせるそうです。
10万両は多分殆ど回収できなかったのでは?
鷹山公 治憲さんですね
いーさんちの不昧公は治郷さん
将軍家治はんから一字貰ったんですね♪
伊達家になると気にしますが他の藩では気にも留めていませんでした。
書斎・・・と書いていましたが・・確かに何もありませんでした。
雨漏りするのかな~?
貸した金ですが、最初は利息3分だったそうですが、後から1分にしろと云ってきたそうです。
その後数年返してもらわなかったようです。
確かにこの時代の米沢藩は貧しかったはずです。
全額返済は聞いていませんが、貸し倒れもあったでしょうね。
こういう家に住んでみたいものです。
そうそう、玄関の柱に刀傷がありました。
説明してくれた人が早いテンポで話すものですから、記憶が飛び飛びです。
また、玄関の横には武者隠しの部屋もあったのでした。
大変為になりました。
一時は上杉家だけでなく、他の外様大名の伊達家や前田家も改易の危機の時があったんですよね^^
昔の庄屋は徳が高い家が多かった。
上杉家最高~(^o^)b
地元でも足を運ばないと解らないことが多くあります。
新しい発見があると楽しいものです。
様々な歴史は、意外と身近かにあるものです。そして繋がっています。
歴史は詳しいわけではありませんが、好きなんですよ。
是非、身近な歴史に触れてみてください。