新潟と言えば「豪農の館」で有名です。
今回紹介する「渡邉邸」を初め、隣の東桂苑・市島邸(新発田市)・北方文化博物館(越後の大地主伊藤文吉氏の旧日本邸)・佐藤家住宅(魚沼市)・目黒邸(魚沼市)・旧笹川家住宅(笹川邸)・佐藤家住宅(関川村)・椿寿荘(田上町)などがあります。
どこの屋敷も風格のある大きな屋敷です。
今回は、ぶらっと出かけて渡邉邸にお邪魔しました。
詳しいことは、HPがありますので貼り付けておきます。
http://www.watanabe-tei.com/index.html
ここは、米沢街道の宿場町であった関川村です。
渡邉家は、酒造業・金融業で財を成し、廻船業もしていたと言ってました。
ここの敷地は3千坪で土蔵が6棟あり主屋も含めすべてが重要文化財に指定されています。
初代当主義右ヱ門は村上藩の家臣であったが、家督を譲った後、寛文5年に関川郷の桂村に隠居し同7年には関川村に定住した。
当時の建物は天明6年(1786)に消失し、文化14年(1817)に再建。
現在192年経過し当主は13代目になる。
現在、平成の大修理ということで工事現場を見ることになったのですが、こんなことでもなければ普段は見ることがございませんのでラッキーと言えばラッキーだったのかも知れない。
この位置からですと5つの蔵が見えます。
まず、下の棒ですが、普通の一本の棒でした。
広げていくと、なんと梯子になったのです。
この梯子、宮城県丸森でも作っているようです。他にも山形でも見られるようで、大工さんの横の繋がりが見えてきます。
この建物の一番の特徴は屋根の形状といいますか「石置屋根」になってます。
杉の木をナタで割って数ミリの薄さにします。
その板を重ねて、その上に石を置いただけです。
釘は使わず、交互に重ねていきます。下の写真のような感じです。
以前山形の映画村に隣接した江戸時代の建物もこんな感じでした。
屋根裏を見ますと、新しい木片が見えますね。
大工さんが5年持つだろうと判断した板は交換しないそうです。
この屋根の面積は1,862㎡でそのうち石置屋根が1,236㎡です。
石の数は約15000個にもなるそうです。
部屋の数は約40室で便所が7箇所、浴室が4箇所とかなり大きい。
最盛期は70人が住んでいたそうです。
屋根裏の梁に番号がふられていまして、写真には写っていないのですが、8番の梁は一本物で55メートルだったそうです。
今回の修理で発見されたそうですが、匠の技は色々なところに見られました。
驚きの技に感心しました。
敢えて節を使った部屋は縁起のいい小判の部屋だとか???
中庭ですが、真ん中の柱が一本に見えますが、3本重なってます。
この角度から庭を見るのがいいそうです。
風呂とトイレです。
味噌蔵
長くなりましたので2話につづく
今回紹介する「渡邉邸」を初め、隣の東桂苑・市島邸(新発田市)・北方文化博物館(越後の大地主伊藤文吉氏の旧日本邸)・佐藤家住宅(魚沼市)・目黒邸(魚沼市)・旧笹川家住宅(笹川邸)・佐藤家住宅(関川村)・椿寿荘(田上町)などがあります。
どこの屋敷も風格のある大きな屋敷です。
今回は、ぶらっと出かけて渡邉邸にお邪魔しました。
詳しいことは、HPがありますので貼り付けておきます。
http://www.watanabe-tei.com/index.html
ここは、米沢街道の宿場町であった関川村です。
渡邉家は、酒造業・金融業で財を成し、廻船業もしていたと言ってました。
ここの敷地は3千坪で土蔵が6棟あり主屋も含めすべてが重要文化財に指定されています。
初代当主義右ヱ門は村上藩の家臣であったが、家督を譲った後、寛文5年に関川郷の桂村に隠居し同7年には関川村に定住した。
当時の建物は天明6年(1786)に消失し、文化14年(1817)に再建。
現在192年経過し当主は13代目になる。
現在、平成の大修理ということで工事現場を見ることになったのですが、こんなことでもなければ普段は見ることがございませんのでラッキーと言えばラッキーだったのかも知れない。
この位置からですと5つの蔵が見えます。
まず、下の棒ですが、普通の一本の棒でした。
広げていくと、なんと梯子になったのです。
この梯子、宮城県丸森でも作っているようです。他にも山形でも見られるようで、大工さんの横の繋がりが見えてきます。
この建物の一番の特徴は屋根の形状といいますか「石置屋根」になってます。
杉の木をナタで割って数ミリの薄さにします。
その板を重ねて、その上に石を置いただけです。
釘は使わず、交互に重ねていきます。下の写真のような感じです。
以前山形の映画村に隣接した江戸時代の建物もこんな感じでした。
屋根裏を見ますと、新しい木片が見えますね。
大工さんが5年持つだろうと判断した板は交換しないそうです。
この屋根の面積は1,862㎡でそのうち石置屋根が1,236㎡です。
石の数は約15000個にもなるそうです。
部屋の数は約40室で便所が7箇所、浴室が4箇所とかなり大きい。
最盛期は70人が住んでいたそうです。
屋根裏の梁に番号がふられていまして、写真には写っていないのですが、8番の梁は一本物で55メートルだったそうです。
今回の修理で発見されたそうですが、匠の技は色々なところに見られました。
驚きの技に感心しました。
敢えて節を使った部屋は縁起のいい小判の部屋だとか???
中庭ですが、真ん中の柱が一本に見えますが、3本重なってます。
この角度から庭を見るのがいいそうです。
風呂とトイレです。
味噌蔵
長くなりましたので2話につづく
もちろん今までの写真も素晴らしいですが
迫力のある写真に解説文。
まるでその場に身を置いているかのような
いえ
多分それ以上。
続きが楽しみです。
いささか建築にも興味のある拙も観に行きたいものです。
毎日説明書とにらめっこです。
この地区は、水害にあっており、胸の高さまで水がきたことがあったようです 。
その為に床下の柱をほとんど交換してますが、古い木材と新しい木材が一体化した様子は匠の技に感服です。
今も昔もあるところにはあるんですね。
金蔵もありましたよ 。空っぽでしたがwww
やはり~米どころすごいですね
あのはしご 欲しい加茂 (^^♪
聞き間違いだったかな~3時間かも知れない?
あれは画期的ですね。驚きました。