
宮城にも蔵の町並みが残る街道がある。
"みちのく宮城の小京都"と呼ばれる村田町です。
蔵の陶器市でも有名ですが、混み合うのが嫌で外して見学しようと5月28日やっと訪れることができました。
通りの中程に駐車場があり、そこに車を止め散策開始・・・・
すると風情のある一軒のお店が目に入ったのです。
なんとも情緒あふれる佇まいの蔵のお店ではないですか。
私は、宮城に居ながら村田商人のことは恥ずかしながら知りませんでした。
ある意味カルチャーショックでしたね。
山形の紅花商人のことは存じていましたし過去にも一寸だけ記事にしています。
紅花商人と鈴木清風(紅花について書いています。)
村田商人とは・・・・柴田郡や刈田郡の仙南地方では、宝暦(1750)の頃から、紅花栽培が盛んになったそうです。
村田商人は、その紅花や生糸を江戸へは陸送で上方には、笹谷峠を越え最上川を下り酒田から北前船で運ばれ西回りですと関門海峡を抜け瀬戸内海に入り大阪や京都に届けたようです。
しかし、経費を考えると敦賀がから陸路に替え琵琶湖を抜けた方が3分の1で済んだそうです。
地図を見ても一目瞭然でしょう。
ところが、石川(金沢)沖辺りでの難破も多かったそうです。
当時の紅花は、江戸時代には「紅一匁=金一匁」と言われるほど高価なものでした。
1匁(もんめ)=3.75グラム
帰りの船には、呉服・古着・瀬戸物・薬・砂糖・塩などを積み、またお土産にと雛人形や屏風・掛軸などを運んできたのです。
当時の庶民は紅花染の着用を禁じられていたため、紅花染めの衣装を着せられた雛人形を購入してきてくれたのですね。
村田には、「ひな巡り」といいまして商家に飾られた雛人形を「見せてくない~ん」と声をかけて見て回る風習があったそうです。一時途絶えてしまいましたが、今回案内してくれた大沼様が復活させたそうです。
代々家訓が残っているそうです。「質素倹約」「正直で信頼される商売」「分相応の社会貢献」
家督は、人柄なども大事ですし浪費家はなれませんね。「やましょう」さんは笹谷街道の整備にご尽力つくしたそうです。


かねしょう商店さん
店の中が暗くてよく見えなかったのですが、よく目を凝らして見ると、ご主人さんが頭を下げたのが見えたです。
私も、店の魅力に惹かれ吸い込まれるように中に入って行きました。
ご主人は、人の良さそうな感じがその姿勢から滲み出ていました。
「蔵を案内できますよ。」とご主人が声をかけてくれたので、私には、願ってもないこと、一つ返事で「御願いします」といいました。
すると奥から、奥様がお目見えになり、向かいの「やましょう」を案内してくれたのです。






薬医門と言われる門は店蔵の南側に設けられるのが、この村田の特色のようです。
この門構えは、豪商の誇りでもあったのでしょう。
木戸を開けると奥へ10棟もの蔵が並ぶ・・・
表通りからは、見えないのですが、奥に長い町家は上方を一寸思い出させる。


玄関を入って座敷がありその右側に店蔵がありました。
厚い扉が豪商の証しでありましょうか、歴史の重さを蔵の中の空気に感じたのです。
看板を見ると分かるように、紅花や生糸を中心の商いから、味噌醤油を扱っていたことがわかります。
また、広い間口の店蔵の内側の梁は幅1メートルもあり新潟の豪商の館と見比べるとかなりガッチリした造りです。農家と商家ですから比べるわけにはいきませんけどね。



上の金庫は耐火金庫ですが、金庫の下には石が敷いてあるようです。
右の看板は、どうやら薬のようです。
天元子:家傅 秘方 江州甲賀郡和田村博済堂製
大人小児五疳 急病に用いる良薬なり
京都三條通寺町西江入町 出店
一角丸:仙神 上総国京令町(かずさのくに)

この天井の格子になっているところは、二階の倉庫から商品の上げ下げに使用したようです。

二階へはこの階段箪笥を利用したようですね。旧家でよく見ることが出来ますが、一般のものより
大きいようにも感じます。

座敷の方はご覧のように天井が吹き抜けのように高くなっています。
当主が座る場所には頭上を圧迫することが無いように高くしたようです。
下の写真が座敷の様子ですが、座敷の中に電話ボックスがあるのです。
これは、電話が取り付けられた当初からこのようになっていたそうです。
使用人も電話を使用することがありますので、プライベートを尊重したものでしょう。

電話2番の表記がありますね。
門のところにもありました。
どこかで聴いたような?? ♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂




次に通されたのは、内蔵です。
ここも厚い扉になっていますね。 この部屋は、家の住人が住む場所でここに一歩足を踏み入れたら
冷っと感じるほど涼しかったのです。
きっと、夏の暑い日はここで昼寝をしたことでしょう。
下の窓をご覧いただくと分かりますが、片方は障子ですが、片方は土塀のようになっています。
これは火災の時に閉めると火が入らない仕組みですね。
入り口の扉を閉めれば、全く火は入らず鼠一匹入らない仕組みです。
落語の「鼠穴」を思い出します。

この部屋に匠の技が・・・・畳と壁の間に隙間があります。
これは、締切った時に空気の流れを作る為のもののようです。




これは、内蔵を外から見たところです。
下の窓が先ほど内側から見た窓ですね。
白壁が黒く煤けていますが、実は戦時中に空襲から守るために町全体がこのように白壁を塗ったそうです。




屋敷神ですが、これは金華山の弁財天を勧請したもののようです。
この度、ご案内をしていただいたのは、「やましょう記念館」の向かいにある「かねしょう」さんで
やましょうさんの分家にあたります。
大沼様ですが、「紅花と村田の一商人」の著者でもあります。その本欲しいのですが?
と言いましたら、発刊当初地元新聞に採り上げられあっと言う間に無くなってしまったそうです。
今は、県の図書館で見るしかなようです。
案内が終り店に戻ると、ご主人様が「お茶の用意をしてありますからどうぞ!」と言うことでお茶までいただきました。
本日、再会しまして、ブログに写真を掲載していいか? 写真を持ってお聞きしに行きましたら
快くOKしてくれました。
ありがとうございました。
「かねしょう」さんで求めてきた絵葉書と便箋です。
その時代に京都から長旅をしてきた雛人形ですね。



みちのく宮城の小京都/村田町 村田の蔵を並べてみました。
まだまだ書きたいのですが、長くなりましたのでこの辺で・・・
この歴史と伝承が何時までも伝わりますように。
「やましょう」さんの内部の写真はあくまでも個人のブログとしての採用です。
村田町観光物産協会さんとの話で
無断転記や写真のコピーはお断りします。
お問い合わせ
村田町役場産業振興課 商工観光班 /村田町観光物産協会
0224-83-6406
"みちのく宮城の小京都"と呼ばれる村田町です。
蔵の陶器市でも有名ですが、混み合うのが嫌で外して見学しようと5月28日やっと訪れることができました。
通りの中程に駐車場があり、そこに車を止め散策開始・・・・
すると風情のある一軒のお店が目に入ったのです。
なんとも情緒あふれる佇まいの蔵のお店ではないですか。
私は、宮城に居ながら村田商人のことは恥ずかしながら知りませんでした。
ある意味カルチャーショックでしたね。
山形の紅花商人のことは存じていましたし過去にも一寸だけ記事にしています。
紅花商人と鈴木清風(紅花について書いています。)
村田商人とは・・・・柴田郡や刈田郡の仙南地方では、宝暦(1750)の頃から、紅花栽培が盛んになったそうです。
村田商人は、その紅花や生糸を江戸へは陸送で上方には、笹谷峠を越え最上川を下り酒田から北前船で運ばれ西回りですと関門海峡を抜け瀬戸内海に入り大阪や京都に届けたようです。
しかし、経費を考えると敦賀がから陸路に替え琵琶湖を抜けた方が3分の1で済んだそうです。
地図を見ても一目瞭然でしょう。
ところが、石川(金沢)沖辺りでの難破も多かったそうです。
当時の紅花は、江戸時代には「紅一匁=金一匁」と言われるほど高価なものでした。
1匁(もんめ)=3.75グラム
帰りの船には、呉服・古着・瀬戸物・薬・砂糖・塩などを積み、またお土産にと雛人形や屏風・掛軸などを運んできたのです。
当時の庶民は紅花染の着用を禁じられていたため、紅花染めの衣装を着せられた雛人形を購入してきてくれたのですね。
村田には、「ひな巡り」といいまして商家に飾られた雛人形を「見せてくない~ん」と声をかけて見て回る風習があったそうです。一時途絶えてしまいましたが、今回案内してくれた大沼様が復活させたそうです。
代々家訓が残っているそうです。「質素倹約」「正直で信頼される商売」「分相応の社会貢献」
家督は、人柄なども大事ですし浪費家はなれませんね。「やましょう」さんは笹谷街道の整備にご尽力つくしたそうです。


かねしょう商店さん
店の中が暗くてよく見えなかったのですが、よく目を凝らして見ると、ご主人さんが頭を下げたのが見えたです。
私も、店の魅力に惹かれ吸い込まれるように中に入って行きました。
ご主人は、人の良さそうな感じがその姿勢から滲み出ていました。
「蔵を案内できますよ。」とご主人が声をかけてくれたので、私には、願ってもないこと、一つ返事で「御願いします」といいました。
すると奥から、奥様がお目見えになり、向かいの「やましょう」を案内してくれたのです。






薬医門と言われる門は店蔵の南側に設けられるのが、この村田の特色のようです。
この門構えは、豪商の誇りでもあったのでしょう。
木戸を開けると奥へ10棟もの蔵が並ぶ・・・
表通りからは、見えないのですが、奥に長い町家は上方を一寸思い出させる。


玄関を入って座敷がありその右側に店蔵がありました。
厚い扉が豪商の証しでありましょうか、歴史の重さを蔵の中の空気に感じたのです。
看板を見ると分かるように、紅花や生糸を中心の商いから、味噌醤油を扱っていたことがわかります。
また、広い間口の店蔵の内側の梁は幅1メートルもあり新潟の豪商の館と見比べるとかなりガッチリした造りです。農家と商家ですから比べるわけにはいきませんけどね。



上の金庫は耐火金庫ですが、金庫の下には石が敷いてあるようです。
右の看板は、どうやら薬のようです。
天元子:家傅 秘方 江州甲賀郡和田村博済堂製
大人小児五疳 急病に用いる良薬なり
京都三條通寺町西江入町 出店
一角丸:仙神 上総国京令町(かずさのくに)

この天井の格子になっているところは、二階の倉庫から商品の上げ下げに使用したようです。

二階へはこの階段箪笥を利用したようですね。旧家でよく見ることが出来ますが、一般のものより
大きいようにも感じます。

座敷の方はご覧のように天井が吹き抜けのように高くなっています。
当主が座る場所には頭上を圧迫することが無いように高くしたようです。
下の写真が座敷の様子ですが、座敷の中に電話ボックスがあるのです。
これは、電話が取り付けられた当初からこのようになっていたそうです。
使用人も電話を使用することがありますので、プライベートを尊重したものでしょう。

電話2番の表記がありますね。
門のところにもありました。
どこかで聴いたような?? ♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂





次に通されたのは、内蔵です。
ここも厚い扉になっていますね。 この部屋は、家の住人が住む場所でここに一歩足を踏み入れたら
冷っと感じるほど涼しかったのです。
きっと、夏の暑い日はここで昼寝をしたことでしょう。
下の窓をご覧いただくと分かりますが、片方は障子ですが、片方は土塀のようになっています。
これは火災の時に閉めると火が入らない仕組みですね。
入り口の扉を閉めれば、全く火は入らず鼠一匹入らない仕組みです。
落語の「鼠穴」を思い出します。

この部屋に匠の技が・・・・畳と壁の間に隙間があります。
これは、締切った時に空気の流れを作る為のもののようです。




これは、内蔵を外から見たところです。
下の窓が先ほど内側から見た窓ですね。
白壁が黒く煤けていますが、実は戦時中に空襲から守るために町全体がこのように白壁を塗ったそうです。




屋敷神ですが、これは金華山の弁財天を勧請したもののようです。
この度、ご案内をしていただいたのは、「やましょう記念館」の向かいにある「かねしょう」さんで
やましょうさんの分家にあたります。
大沼様ですが、「紅花と村田の一商人」の著者でもあります。その本欲しいのですが?
と言いましたら、発刊当初地元新聞に採り上げられあっと言う間に無くなってしまったそうです。
今は、県の図書館で見るしかなようです。
案内が終り店に戻ると、ご主人様が「お茶の用意をしてありますからどうぞ!」と言うことでお茶までいただきました。
本日、再会しまして、ブログに写真を掲載していいか? 写真を持ってお聞きしに行きましたら
快くOKしてくれました。
ありがとうございました。
「かねしょう」さんで求めてきた絵葉書と便箋です。
その時代に京都から長旅をしてきた雛人形ですね。



みちのく宮城の小京都/村田町 村田の蔵を並べてみました。
まだまだ書きたいのですが、長くなりましたのでこの辺で・・・
この歴史と伝承が何時までも伝わりますように。
「やましょう」さんの内部の写真はあくまでも個人のブログとしての採用です。
村田町観光物産協会さんとの話で
無断転記や写真のコピーはお断りします。

村田町役場産業振興課 商工観光班 /村田町観光物産協会

面白そうだなぁ
案内してもらって、じっくり話しも聞けてよかったですね
素晴らしい家訓、昔の商人には志がありましたね。
今の拝金主義の商人とはまったく違います。
残ってるんですね (^^♪
そうそう~
木綿街道の石橋酒造跡が似てるかも (^_-)~☆
でも高々度からでは識別不可能でしょう。もったいないことを・・・
そもそも蔵の維持には相当にお金と手間がかかるようでして。
でも農業地帯のこちらには、結構残されていますよ。
そういえば仙台周辺には「古民家」を集め公開している場所は少ないですよね。
近所の小金井公園の「江戸東京たてもの園」とかいらしてくださいよ。ひーさんでしたら住みたくなっちゃうのでは?
そん時拾ってきた藤の種ば庭さ蒔いったっけば2っつ3っつ萌えで来ったよ~♪
んでも何時っつも通りぬけるばっかりで、街中の蔵屋敷ばゆっくり見て周りでのに、さっぱり機会がありません・・・
今度、時間作って行ってみっかなぁ~
オライではとんでもない所に伸びてゆき切りました。
白鳥神社・・取材済みです。後程!
自分もいつも通過していたものですから、やっとあの蔵の謎が解けました。
戦災を免れたいという必死の思いだったのでしょう。
そういえば八甲田は酸ヶ湯温泉の電話ボックスも、
今回の写真のような感じだったと思います。
創業「嘉永二年」・・・
嘉永といえば、
ペリーの黒船が浦賀の沖に現れた時の元号ですね。
このお店の歴史の古さを実感します。
高度成長期の時代になると蔵の店は古くさいと大きな看板で囲ったそうです。今のご主人さんが壊したのは私ですと言ってました。そういった時代の流れには逆らえなかったのですね。
しかし、時代は変わり昔の姿を保存しようと、活動が始まったようです。ところが、ナマコ壁を作れる職人が居なくなったそうです。酸ヶ湯の前はよく通りましたが気づきませんでした。
なまこ壁は技術者居なくて再建不可能な状態だそうです。
また、宮城県沖の地震で壁にヒビが入ったそうです。
今の政治家にも教えてあげあげたいくらいです。