

戦国大名なら、殆どが諜報活動、謀略の為に忍者を活用していたのは、歴史好きな方で無くともTVの影響でよく知っていることでしょう。
ことに私は、忍者ハットリ君、赤影・・・、忍者部隊月光などなど、小さい頃はおもちゃや手作りのホントに刺さる手裏剣などで遊んだものです。
ドラマでは、やはり水戸黄門ですかね。
ブロ友の雨漏り師匠は、伊賀上野の出身ですからきっと本物の手裏剣で遊んだことでしょう。
さて、伊達政宗ですが、忍者と言うべき諜報部隊を擁していたようです。
「黒脛巾組」と呼ばれるようになったのは、彼らは脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことから、そう呼ばれるようになりました。
この特殊部隊は地域の農民や町人・職人などのうちから、刀や槍などの武器の腕に覚えがあり、力量の優れた者の30人、50人を一組に組織していました。
商人・山伏・行者などにまぎれているものもいたようです。
政宗は、「黒脛巾組」を利用し、後方攪乱策、つまり敵方に進入し流言蜚語を飛ばし、敵を分裂させたり、混乱させる「情報戦」をよく行なったようです。
黒脛巾組の一人、大林坊俊海は蘆名氏の黒川城下(現:会津若松)に忍び込み、蘆名氏が、諸勢力を結集して政宗を包囲しようとしているという重大情報を入手したという話や、同じく黒脛巾組の太宰金助は、蘆名氏重臣の猪苗代盛国とその子盛胤に争いを起こさせ盛国を内応(裏切り)させることに成功したと言われています。
この活躍は、蘆名氏との戦いの様子なので、摺上原の戦いのことでしょう。
政宗が小田原参陣に迷った際も、太宰金助は小田原に赴いて、北条や秀吉の動向を探っていたといいます。


翌朝調べると右巻きの者が八人いました。
たちまち捕らえて、二人ずつ公の前に連れ出されました。
公はあたかも二階堂・石川・岩城・白河の家中のように扱い、「二階堂らの城主たちは蘆名・佐竹を裏切ってくれるそうだから」と、酒を出し引き出物を贈って釈放しました。
この八人は実は蘆名方のスパイでした。
スパイたちは帰国してこのことを報告したので連合軍の間に、疑心暗鬼が横行してしまいました。
スパイと知って、ウソの情報を流したのですね。

1589年(天正17)6月4日、伊達政宗は母成峠を越えて猪苗代に着陣。
その兵力は2万3000。
一方、黒川城・蘆名義広の兵力は1万6000と言われてます。
(兵力はその4分の1程度・・と言う人もいるようです)
6月5日(現在の7月17日)猪苗代湖北岸の摺上原(磨上原とも書きます)で合戦は行われました。
その勝利で政宗は、現在の福島県の殆どと山形県の一部を有する114万石の大大名となったのです。
この時、政宗は23歳です。
しかし、1590年(天正18)6月9日伊達政宗は、小田原参陣に出遅れ、豊臣秀吉と会見する際に死を覚悟して白装束で秀吉の前に現れたのです。
秀吉は、その潔さを気に入り、摺上原で得た蘆名氏の領地を召し上げられるだけですんだのです。
つまり、没収されてしまうのです。
遅れた理由は、色々と重なりますが、実母による毒殺未遂事件や弟小次郎の斬殺事件が大きく響きます。
この、摺上原の戦いや小田原参陣の事件、毒殺未遂や小次郎の斬殺については気が向いたら折を見てUPしたいと思います。

戦国の人は厳しい忠誠心が要求されるんだね
いまはさらに~その価値が増していますね
逆に翻弄される
そういう時代ですね
本物の情報には 昔から 金かけてる訳ですね (^_-)-☆
この時代は、御家断絶と言われれば、死を覚悟ですね。
戦国時代はいい時代では、ありませんね。
今から追加します。
23歳で112万石の大大名。信長や秀吉がいなかったら、そのまま天下まで取れたのではないかと思ってしまいますね。
小田原参陣に早く行けば、蘆名氏の土地は、与えられたと聴いてます。
馬は、みっちゃんのまねっこです。
あと騎馬鉄砲隊もな♪
んでも意外と話題になんねーのが朝鮮出兵の時のド派手軍装・・・
関白が気に入って、手近に置いたんで渡海しなくて済んだとか・・・
たしか仙台市博物館にもトンガリ陣笠とか大鉄砲・大長巻なんか展示してあったよなぁ?
「あー秀吉軍強すぎーっ!そろそろ挨拶いくべ」
「西国軍は当分がんばるだろうなー。三成はやってくれそうだしねー。そうすりゃその隙に関東あたりまでかすめとって・・・」
「えー家康軍強すぎーっ!一日で終わっちゃったよー」
画面に馬が走っている姿に眼を奪われました。
そして、伊達の忍者部隊(黒脛巾組)テレビ
などで見るのと違って大変だったのですね。
伊達政宗が天下を取っていたら~
なんて考えると楽しくですね。
朝鮮出兵の事をもう少し調べたいです。