絵のタイトルは、「ゴッドママ」です。
私の亡き妻を彷彿させる陶器の人形です。
この人がいたから、家族みんなが暮らせたのです。
多くの人が、私のブログのカテゴリーの「思い出話」(今日のタイトル)を読んでくれます。
どうせ、年寄りの世迷言だろうと自分のブログを読み返しました。
しっかりと書いています。どの記事も一球入魂の仕上がりです。
「思い出話」は、記憶の産物です。
認知症になった方は、昔のことはよく覚えている。
私も徐々に人の名前が出て来なくなりました。
記憶の壺には限りがあると言われます。
反面、映像の壺の容量は格段に大きいのです。
あの顔は見たことがあるが、文字の記憶の名前は思い出せない。
当然な現象で、気にすることはない。
私の「思い出話」には、具体的な名称や言い回しが再現されている。
よく覚えていたものだと感心する。
なぜ、思い出話を読んでくれるのか、考察しました。
一つは、正直に書いていること。
考え方も記憶の一つです。
人の考え方は、どんどん変化する。
苦しい経験を積み知恵をつける。
若い時の感動は、日々の葛藤ですり減らされ風化される。
思い出話が新鮮なのは、当時の気持ちになって書いているからでしょう。
辛かった思い出話を優しい目で見られる大人になったからでしょう。
どんな事柄にも意味があった。
嫌々やらされていた手伝いの記憶だって、今ではやらせた側の辛さが理解できる。
「思い出話」には、心の原風景が映し出されている。
知らぬうちに、血となり肉となっている経験であり、
ルーツのような精神の背骨であろう。
人それぞれ生き方は違えども、心のこなし方は似ているのであろう。
そんな風に推測する。
生きることが素晴らしいと気づくまで、「思い出話」は続く。
年寄りの 堂々巡り 進化なり
2021年3月20日
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