さいきんの流星光
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(ネタバレ注意です!)








『君の名は。』をもう一度鑑賞したので、
一度め見た後よりも、
もう少し頑張って意見をまとめてみました。

※みつは(みつはin)=外見も中身もみつは
 みつは(瀧君in)=外見はみつは、中身は瀧君




■ストーリーは理解した



ストーリーは、わかりました。

僕がわからないのは、どこで感動すればいいの?というポイント。

大きな感動ポイントは、3つある。

1、二人が初めて出会うところ
2、町の人たちの命を救うところ
3、二人が再開するところ




■ご神体の山頂で



時は現在。
山頂に行った瀧君(瀧君in)は、みつはの口かみ酒を飲んだ直後
転んで頭を打って気を失って、三年前の世界にいるみつはと入れかわる。
瀧君は、意思を持って、三年間の時をさかのぼったと言っていい。

  三年前の世界に飛んで、みつはになった瀧君は、
  町の人たちを救おうと奮闘する。
  その途中で、急にご神体の山頂に何かの気配を感じて一人で山を登り始める。

現在。
山頂では、瀧君が気絶から目覚める。
瀧君の中身は、みつはだ。
瀧君(みつはin)は、目覚めて、歩き出す。

  三年前のみつは(瀧君in)も山頂に到着。
  同じ場所に立つ。

場所は同じだけど、三年前と現在なので
お互いの姿は見えない。

でも、すれ違った瞬間、お互いに何か気づく。

※キーワード:たそがれ時

夕刻、恋人同士が相手呼び合う、みたいな
「たそがれ時とは、そういう時間なんです」
と古文の授業で習うシーンが挿入されていた。

※あの古文の先生は『言の葉の庭』に出てきた先生という噂。

で、夕刻のその一瞬、瀧君とみつはは、
向かい合ったお互いの姿を見る。

ここで僕としては、頭が混乱してしまったんだよな。
同じ場所に立っているとはいえ…
三年前と現在がつながる…ってどういうこと?

えーと、例えば三年前の6/8と現在の6/8は、
確かに同じ日付けではあるんだけど、
それに何か関連性があるのか?
それって、地球の自転とか公転の周期によって作られた日付けだよね。

だとしたら時間的に…かなり離れているはず。

三年間も時間のヘダタリがある。
全然違う時間帯だよね!って思ってしまうんだけど、
僕が間違っているのでしょうか。


ぶっちゃけ僕は、一年くらい前に、時間に関して次のような結論に達したのだ。

時間とは、行ったり来たり出来ないものである。
時間とは、そういう種類のものではない。
よってタイムトラベルは不可能。

それ以降ぼくは、過去と未来がどうとか
タイムスリップとか、そういうのが話の中で出てくると、
もう…頭の中がもやもやして素直に物語に入っていけない。

厄介な事になったよ、まったく…(-_-,,)

また話が反れた…orz



繰り返しになるけど、
すれ違った瞬間、お互い何かに気づく…って、
やっぱり納得できない!
同じ日の同じ時間帯ってことかもしれないけど
三年の時間の差はどうなる?



■ストーリー構成を見直す 結局どういうこと?



すでに死んでしまっているみつはの残留思念が
三年後の瀧君の脳みそとつながってしまった、ということか。

「糸守町を救って! 瀧君!」

みたいな感じなのだろうか。

そういう思念が働いたという事なのだろうか…???



当然、同じ時間軸に生きている女子と入れ替わっていると思い込んでいた瀧君は、
その事実を、そして、みつはがすでに死んでいる事を知って愕然とする。
(糸守町近くの旅館にて)

で、もう一度みつはと入れ替わるために、山頂を目指して登り始めるんだよな。


みつはの残留思念が、瀧君に過去の糸守町の夢をみさせた、というところまでは良い。
僕も納得できる。

みつはの魂の叫びだったのか?
そういう感じも良い。

で、その事が原因で、瀧君は彗星落下について、糸守町について知ることとなって、
糸守町を救えないか、と考えるところも良い。

瀧君が、山頂に登った状態で、みつはと入れ替わったことで、
みつは自身が、彗星落下で消えた糸守町の姿を目にする。


たそがれ時が終わった時、二人の魂は、もとの体に戻っていた。

三年後の糸守町の姿を見たみつはは、以前のみつはとは違っていた。
町の人たちを救うために父親の元へ走る。

そして、父親の説得に成功した…んだろうな。

で、過去が変わった。
町の人を救うことができた。
めでたしめでたし。

うん。
ストーリーとしては、良いんじゃない?

過去を変えるなんて不可能という考えの僕としては
納得できない部分はあるとしても、
ストーリーとしては、悪くない。



■感動ポイント どこ?



でも、町の人たちを救うというところが感動ポイントなら…
もっと、町長である父親を説得するところとか、
町の人たち全員を説得するところを見せるとかしなくてはいけない。

実際に肉眼で、消えた糸守町を見て、
ものすごくショックを受けるところとか。

「わたしがやらなくちゃ! 町の人を救わなきゃ!」
って走り出すところとか。

そんで、やっと避難させる事に成功したー!
やったー!っていうね。

そこ、めっちゃ感動ポイントだろ。

だけど、そこは完全に省略してしまってる。

元に戻ったみつはが、父親に迫っていって、
父親の表情が一瞬変わる。
そこまでで終了。

あとは彗星落下の大スペクタクルシーン。

見ていて、感動シーンすっ飛ばし、という感じだった。



■3つ目の感動ポイント



で、二人は、彗星落下の後、
お互いのことをほぼ忘れてしまう。
キレイさっぱり。
「何かがあった」というくらいの記憶はあるけれども、
ほとんど記憶は残っていない。

みつはは、生きている。東京で。
瀧君も、東京で生きている。

そうか。
糸守町はもう無くなってしまったから
住民は別の土地へ行く以外に手段はなかったんだ。

ま、それはいいとして、
瀧君とみつはが、東京で再会するというところが
もう一つの感動ポイントだったはず。

でも、そこも、よくわからん感じで終わってしまった。

電車で見て、追っかけて行って声をかける、とか…
もう少し工夫が欲しかったな。
肩すかしだったな。



■まとめ



つまり『君の名は。』という映画は、
町の人たちの命を救う、というところと、
ずっと会っていなかった滝君とみつはが再開するところが、
大きな感動ポイントとなるはずだった。

だけど、

どっちの感動ポイントも、中心を射抜くことができなかった矢のごとく、
的を外れてしまった感がある。

結果、風景描写だけが見事だけれども、芯がはっきりと見えない映画が出来ました。

というのが僕の評価です。

確か、上映当時、新海誠監督がどこかで、
「スポンサーの言葉を聞きまくりました」
とか言ってた記憶が…不確かな記憶ですが。

それが原因だったのかな。

新海誠さんが、好き勝手に作ったら、
なんか、もっと暗いラストになっていた気がします。

僕的には、そっちの方が好みだったかも知れません。






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長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました! <(_ _)>



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