
【伝説のさらなる謎を追って】
山鹿地域に残る景行天皇の伝説にはまだ疑問が残ります。それは、他の熊本に残っている伝説には無い物語の”濃さ”です。そして、その”濃さ”は何かというと景行天皇の山鹿地域での特別な行動であることに気が付きます。
景行天皇は山鹿の地に入ると震岳(ゆるぎだけ)の頂きに八神殿をお祀りになります。その八神殿は景行天皇の祖父にあたる第10代崇神天皇に「湖を乾かすべし」と命令された阿蘇大明神が湖岸に立って「海神、吾を知れりや」と叫ぶと、そこから八頭大亀の魂神が火龍のごとく立ち昇り高天山(震岳)に現れた神とされています。また、俗説ではこの大亀は、景行天皇と阿蘇大明神に退治されています。
その後、景行天皇は震岳に行宮を造営されると土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)との戦いに臨みます。苦戦を強いられますが、天皇の祈りによって彦岳から届いた霊光によって勝利します。そして、景行天皇はその神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立されたのでした。
山鹿地域に残る景行天皇の伝説にはまだ疑問が残ります。それは、他の熊本に残っている伝説には無い物語の”濃さ”です。そして、その”濃さ”は何かというと景行天皇の山鹿地域での特別な行動であることに気が付きます。
景行天皇は山鹿の地に入ると震岳(ゆるぎだけ)の頂きに八神殿をお祀りになります。その八神殿は景行天皇の祖父にあたる第10代崇神天皇に「湖を乾かすべし」と命令された阿蘇大明神が湖岸に立って「海神、吾を知れりや」と叫ぶと、そこから八頭大亀の魂神が火龍のごとく立ち昇り高天山(震岳)に現れた神とされています。また、俗説ではこの大亀は、景行天皇と阿蘇大明神に退治されています。
その後、景行天皇は震岳に行宮を造営されると土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)との戦いに臨みます。苦戦を強いられますが、天皇の祈りによって彦岳から届いた霊光によって勝利します。そして、景行天皇はその神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立されたのでした。

震岳(ゆるぎだけ)と彦岳(ひこだけ)

山鹿市周辺の地質図

震岳

震岳山頂の八神殿の祠

南側から見た彦岳
中華鍋をひっくり返したような形

彦嶽宮

東側から見た彦岳
左右対照の末広がり持った秀麗な山容
景行天皇は震岳の頂きには八神殿を、彦岳にはお宮を造立されました。伝説にはその理由が一応明示されていますが、まるで荒唐無稽なおとぎ話のようで、文字通りでの理解は困難です。しかし、神話や伝説には真実が含まれている可能性があります。
山鹿地域での景行天皇の行動の理由をひもとくためには、先ず天皇の故郷、つまりヤマト王権の発祥の地とされる奈良盆地の東部に位置する纏向(まきむく)を理解する必要があるのではないかと考えました。纏向には景行天皇の御陵とされる古墳があるのです。
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