ある新聞記事を紹介しちゃう。
1999年、底の見えない不況で、リストラの嵐が吹き荒れていた。東京に本社のある大手鉱業会社の調査部門にいたタカユキさん(35)=熊本市・仮名=。満員電車や駅のホームではルーズソックスにガングロの女子高生が怖くて、何度も逃げ出したくなった。もう限界だった。ハードな毎日で仕事は充実していたが、心は悲鳴を上げていた。
◇
タカユキさんが熊本市内の高校に通っていたころ、父親が家を出た。大学の修士課程に在学中、幼なじみと学生結婚。卒業後、大手鉱業会社に入った。家庭を顧みない父親が嫌いで「熊本に戻るつもりは毛頭なかった」。早く自分の家庭を持ちたい―。
専門を生かした主に金の鉱脈探査を担当。「自分なりの理論を実証できたし充実していた」。国内外の現場を飛び回り、新たな鉱脈を発見した。深夜残業、休日出勤は当たり前、出張は年間150日間にもなった。
だが、先輩たちがリストラで次々と会社を去り、タカユキさんの仕事量は増すばかり。
もともとまじめな性格。「(就職氷河期の中)拾ってくれた上司にこたえたかったし、頼まれた事は全部やった。何より負けたくなかった」
“変調”は突然やってきた。国際会議に出席しているとき、メモを取っていたペンが止まった。「あれ」。自分の意思とは裏腹に体が動くことを拒んだ。議場で飛び交う専門用語が、どこか遠くで聞こえるようだった。
◇
病院にいくと「うつ病」と診断された。ショックだった。しばらくは服用を続けながら仕事を続けたが、しばしば死にたい衝動にも駆られるようになった。
「おれ、熊本に帰ろうかな」。ふと漏らした一言、それまで静かに見守ってくれていた妻が「帰ろうよ」。数年ぶりに父親と連絡を取った。決心がついた。翌日、会社に辞表を出した。
すぐに熊本市の実家に戻り療養。妻は近所の自分の実家に戻り、毎日、様子を見に来てくれた。「すべてに負けたんだ」。酒と薬を大量にあおったこともあった。
二ヶ月間ひどい状態がつづき、外出ができるようになると、行くあてもなく自転車のペダルをこいだ。近くの公園から江津湖、水前寺、熊本城・・・と徐々に足を延ばした。自分の生まれ育った土地に初めてゆっくり触れた。
◇
やがて、実家を離れ妻たちとの生活に戻り、今の会社に勤め始めた。だが、しばらくは何もできなかった。近くの飲み屋で、同じ悩みを抱える同年代の人たちと知り合い、悩みを打ち明け合った。「彼らの存在も大きかった」。がむしゃらに生きてきた肩の力が抜けるようだった。
昨年末、両親からの誘いで二世代住宅を建てた。ずっと不仲だった父親との同居。「まだわだかまりはあるけど・・・」。三人の子どもに囲まれ、穏やかな日々を実感しつつある。「熊本に帰ってきて土の息吹を感じることができた。今までそんな余裕なかったもんな」最近、熊本市周辺の地下水の状況が気になる。「“資源屋”としての血が騒ぎ始めた」。少しずつ前に進み始めている。
(2004年6月 クマニチの特集記事より)
こないだの記録(病気自慢)で鬱病を患ったことを書いたけど、実は、最近、鬱病について質問されることが多い。
病気が治ったスグの頃(クスリが必要なくなった)は、自分が鬱病であったことを周囲にヒタ隠しにしていたから、そんなことを訊いてくる人はいなかったんだ。だけど、最近は、この病気、スッカリ市民権を得てるみたいで、世間話なんかで、「実は、ボクは・・・・」って話しをすると、後になって「実はムスコが・・・」とか「実は自分が・・・」って告白されちゃうのだ。
そんなワケで、鬱病に関心のある人の参考になればと思って、予備校んときの友人がボクのことを取材して記事にしたものを冒頭にコピペしたんだけど、トニカク、鬱病は治るとボクは思っている。
そんなワケで、ときどき、真剣モードで鬱病の記録をしてもヨカですか。
1999年、底の見えない不況で、リストラの嵐が吹き荒れていた。東京に本社のある大手鉱業会社の調査部門にいたタカユキさん(35)=熊本市・仮名=。満員電車や駅のホームではルーズソックスにガングロの女子高生が怖くて、何度も逃げ出したくなった。もう限界だった。ハードな毎日で仕事は充実していたが、心は悲鳴を上げていた。
◇
タカユキさんが熊本市内の高校に通っていたころ、父親が家を出た。大学の修士課程に在学中、幼なじみと学生結婚。卒業後、大手鉱業会社に入った。家庭を顧みない父親が嫌いで「熊本に戻るつもりは毛頭なかった」。早く自分の家庭を持ちたい―。
専門を生かした主に金の鉱脈探査を担当。「自分なりの理論を実証できたし充実していた」。国内外の現場を飛び回り、新たな鉱脈を発見した。深夜残業、休日出勤は当たり前、出張は年間150日間にもなった。
だが、先輩たちがリストラで次々と会社を去り、タカユキさんの仕事量は増すばかり。
もともとまじめな性格。「(就職氷河期の中)拾ってくれた上司にこたえたかったし、頼まれた事は全部やった。何より負けたくなかった」
“変調”は突然やってきた。国際会議に出席しているとき、メモを取っていたペンが止まった。「あれ」。自分の意思とは裏腹に体が動くことを拒んだ。議場で飛び交う専門用語が、どこか遠くで聞こえるようだった。
◇
病院にいくと「うつ病」と診断された。ショックだった。しばらくは服用を続けながら仕事を続けたが、しばしば死にたい衝動にも駆られるようになった。
「おれ、熊本に帰ろうかな」。ふと漏らした一言、それまで静かに見守ってくれていた妻が「帰ろうよ」。数年ぶりに父親と連絡を取った。決心がついた。翌日、会社に辞表を出した。
すぐに熊本市の実家に戻り療養。妻は近所の自分の実家に戻り、毎日、様子を見に来てくれた。「すべてに負けたんだ」。酒と薬を大量にあおったこともあった。
二ヶ月間ひどい状態がつづき、外出ができるようになると、行くあてもなく自転車のペダルをこいだ。近くの公園から江津湖、水前寺、熊本城・・・と徐々に足を延ばした。自分の生まれ育った土地に初めてゆっくり触れた。
◇
やがて、実家を離れ妻たちとの生活に戻り、今の会社に勤め始めた。だが、しばらくは何もできなかった。近くの飲み屋で、同じ悩みを抱える同年代の人たちと知り合い、悩みを打ち明け合った。「彼らの存在も大きかった」。がむしゃらに生きてきた肩の力が抜けるようだった。
昨年末、両親からの誘いで二世代住宅を建てた。ずっと不仲だった父親との同居。「まだわだかまりはあるけど・・・」。三人の子どもに囲まれ、穏やかな日々を実感しつつある。「熊本に帰ってきて土の息吹を感じることができた。今までそんな余裕なかったもんな」最近、熊本市周辺の地下水の状況が気になる。「“資源屋”としての血が騒ぎ始めた」。少しずつ前に進み始めている。
(2004年6月 クマニチの特集記事より)
こないだの記録(病気自慢)で鬱病を患ったことを書いたけど、実は、最近、鬱病について質問されることが多い。
病気が治ったスグの頃(クスリが必要なくなった)は、自分が鬱病であったことを周囲にヒタ隠しにしていたから、そんなことを訊いてくる人はいなかったんだ。だけど、最近は、この病気、スッカリ市民権を得てるみたいで、世間話なんかで、「実は、ボクは・・・・」って話しをすると、後になって「実はムスコが・・・」とか「実は自分が・・・」って告白されちゃうのだ。
そんなワケで、鬱病に関心のある人の参考になればと思って、予備校んときの友人がボクのことを取材して記事にしたものを冒頭にコピペしたんだけど、トニカク、鬱病は治るとボクは思っている。
そんなワケで、ときどき、真剣モードで鬱病の記録をしてもヨカですか。
( ̄^ ̄ゞ
大変だったんだね。
やっぱり命あっての人生だもんね。
最近も結構\無理しているようですが、ご自愛下さい。