◆松田裕之著『モールス電信士のアメリカ史-IT時代を拓いた技術者たち』紹介(2/2)
・片倉日龍雄
2.影武者がいたモールス
ところで、私が従事していた電信の仕事は、モールス音響通信(モールス符号をトン・ツーの音で送受する方式)であったが、この方式が定着するまでにはいくつかの前史があった。第1章では裏面史を含めその経過が述べられている。
実用電信機の開発は、まずヨーロッパの指字式通信機から始まった。指字式通信機というのは、送信側が文字盤上で指定した文字を、受信側では受信機文字盤上で回転する指針がその文字位置を示すという方式である。1836年イギリスのウイリアム・クックとチャールズ・ホイーストンが開発した五磁針式通信機に始まり、ホイーストンが1840年それを改良してABC通信機を作り、フランスの時計職人ルイ・クレメント・プレゲが完成型のプレゲ指字電信機を作った。本書16ページにはそれら3種の通信機の図版が掲載されている。明治2年(1869)の日本電信事業創業時、東京-横浜間32キロメートルに設置されたのは、このプレゲ指字電信機である。その受信機の文字盤には、特注でイロハ47文字が記されていた。
指字式通信機のアナログ伝送方式に対して、文字を符号化(デジタル化)して伝送することを考えたのがニューヨークの画家サミュエル・モールスである。1837年モールス自作の電信機の図版が本書18ページに掲載されている。しかし、この電信機は数字だけを符号化して通信するもので、まだモールス符号は使われておらず、単語に対応する数字(例えば58ならtelegarah)をあらかじめ定めておいて、受信した符号の数字を単語へ変換するという具合に、まことに手間のかかる方式で、通信機としての実用性にはほど遠いものであった。
これに改良を加え、小型化して実用化を実現し、現用のモールス符号(アルファベット26文字と数字10文字を、短符と長符で記号化)を完成させた人物がいた。アルフレッド・ヴェイルという機械技師である。著者は、この事実を米国文献の渉猟により明らかにされた。しかし、私たちはヴェイルという名を聞いたことはなくモールスの名前しか知らない。なぜか。それは、ヴェイルが「特許収益の4分の1を受け取る代わりに、新たな通信方式に関連するすべての発明・特許をモールスの名義とすることに同意」したため、以後通信装置は「モールス電信機」、通信に使用される符号は「モールス符号」と呼ばれることになった、という裏話まで披露されている。
この欲のないヴェイル」について、著者は、『のちに「富と名誉、我これを欲せず」と日記に残している。貴人にして奇人というべきか。が、歴史というものは、往々このような世俗の名利(みょうり)を忘れたかの如き仕事人の登場によって、その流れを大きく変えるものなのだ。』と述べている。
モールスが完成した通信装置は、モールス符号を受信装置に印字し、それを受信者が電文に翻訳する方式であった。従来の指字式に比較すれば画期的な原理による通信方式である。
この方式は、1838年4月にはニューヨーク郊外の約16キロメートルに導線を引き、公開実験を行って成功を収めた。大統領ほか閣僚も視察した。
しかし、当時としてはいまだなじみの浅い電気を使って奇妙な符号を遠方まで送るテクノロジーであり、連邦政府は「なかなか面白い工夫だが、本当に使いものになるのか」という程度の認識しか抱かなかった。
それでも1840年6月、モールスの「電信符号」は特許権を得、1844年5月3日、ワシントン国会議事堂からモールス本人の打電した「神の御業なり(What hath God wrought)」という旧約聖書の一節~これは、ワシントン=ボルチモア間の電信線敷設議案可決に尽力したヘンリー・エルスルスウォース議員の令嬢アニーが選んだといわれる~がヴェイルの待つボルチモア鉄道駅に到達。ヴェイルはただちに同じ一節をワシントンに返電する。ここに史上初めてのデジタル通信が産声をあげた。その後、この通信方式はアメリカのみでなく、ほどなくヨーロッパでも電信の定番となっていく。わが国創業期の指字式通信も、間をおかずモールス符号を受信機に印字するモールス通信方式に切り替えられた。
3.モールス通信からモールス音響通信への飛躍
さて、私が本書を読み、驚いたのは、モールスが開発したモールス印字通信方式は、やがてモールス音響通信方式~、耳で聞いたモールス符号を、頭の中で直接電文化する方式~に進化した秘密を教えていただいたことである。今回、この著書に出会って、長年の疑問を解消できたことをこの上なく、感謝し喜んでいる。
このモールス音響通信への移行は、革命的な通信方式への飛躍といえる。だがその音響通信への進化、それを操る音響通信士の出現は、多分に自然発生的なものであったと著者は次のように教えてくれる。
実用化初期の受信機は、「信号記録装置とも称され、紙テープに符号群を刻印・記録する仕組み」であり、受信側の電信士は「紙テープに浮かんだ短符と長符の窪みを読み分けて」文字に翻訳していたが、要領のよい電信士は、「受信機が紙テープに符号を刻むカチカチという機械音の間隔を頭のなかで短符と長符の配列に置き換えながら、元文書へと変換」するようになった。
このことは、事業者側にとっては、紙テープ代が節約でき作業時間短縮にもなる「良いことずくめ」なので、これが主流の通信方式となったのである。受信機も改良されて音響式受信機ができた、というのである。40ページに私たちに馴染み深い音響受信機とスタンドの写真がある。
本書には、このような貴重な知識が随所にある。電信を愛する諸兄に、直接お読みいただくことをお勧めするゆえんです。
4.電信無宿者だった発明家エジソン
モールス電信を実用システムとして運用するためには、情報や文書の文字をモールス符号になおして送信し、受けたモールス符号を文字になおして受信する技能者の存在が必須である。モールス電信士はモールス電信機の発明によって生まれた新しい職業であり、高度の技能が必要であった。本書ではその必要条件を次のように述べる。
「電信士はモールス符号を完璧に記憶しなければならない。」というのも、彼らはモールス符号という言葉を、声帯の震えと口の動きではなく、手首や肘の動作による電鍵の微妙な打ち分けによって発するからだ。
私も、訓練用電鍵を常に携行し暇さえあれば叩いていた熊本学園の普通科時代、手崩れに悩んだ電報局時代を思い出したが、送信用電鍵についても、その形に定まるまでの前史があった。
モールス通信用電鍵の第1号機は、モールスの影武者アルフレッド・ヴェイルによる試作品だったらしく、これを改良した実用型も作ったという。ジョージ・フェルブスという電信士が作ったキャメルバック型電鍵は、私たちが知っている形に近い。ジェシー・バンネルという電信士は横振りレヴァー式電鍵を作った。キャメルバック型電鍵と横振りレヴァー式電鍵の写真が37ページに掲載されている。
文豪幸田露伴や伊東巳代治(伊藤博文の側近)、小原國芳(玉川学園創立者)などがモールス電信士の大先輩であったことは知っていたが、かの発明王エジソン(1847~1931)が、技能優秀なモールス電信士であり、鉄道電信士として各地を渡り歩き無軌道な無宿生活を送っていた青春時代があったことを、本書で初めて知った。
少年時代から研究、発明の才に長けていたエジソンは、自作の電信機と電池をこしらえて電信ごっこをしたり、駅で新聞売り子をしながら蒸気機関車を運転したこともあったという。たまたま駅で線路へ入り込んで轢死寸前だった幼児を助けた縁で鉄道電信士の職を得た。しかし、電信士としての勤務状況は「いい加減な」ものだったらしい。夜勤時には1時間おきに送信するよう義務づけられた異常なし信号の送信を、手作りの自動発信装置で手抜きしてバレたり、列車の停止指示信号の送信を怠ったため、あわや正面衝突の危機を招いたりしたという。
エジソンにとっては、実験や発明が本業であり、電信士の仕事は生活費や研究費を得るための資金稼ぎの場でしかなかった。「実験と読書の合間に電信士として働いたというのが実情であろう」と著者は述べている。ただ、電信士としての技能は優れていたらしく、早打ち自慢の送信者相手の受信を難なくこなし、相手に対して「とろいぜ。もう片方の足でうちな」と打ち返したという逸話が残されている。
勤め人としては問題児であったエジソンは、当然のことながら同じ職場で長続きするわけもなく、電信士としての技能だけを頼りに中西部各地を転々としながら無宿者的青春を送ったという。そういう渡り鳥的生活ができたのは、鉄道路線と電信網が急速な拡張期にあった1860年代初めから70年代へかけての時代がそれを可能にした、と著者は述べている。
同感である。私もまた昭和26年というモールス音響通信が主流であり採用数も多かった時代のおかげでその道に入ることができた。拙劣な通信技能だったが、モールス電信士の一時期があったことを、自分のひそかな誇りとしている。
◆寄稿者紹介
・片倉日龍雄 昭和10年生れ 佐賀県
・熊本電気通信学園普通電信科 昭和26年卒
・寄稿者は、NTT退職後、郷里の佐賀藩多久領で江戸中期から明治の初めまで書き継がれた古文書の解読・翻刻に専念、現在も、かくしゃくとして佐賀県立図書館や多久東原庠舎(たくとうげんしょうしゃ)の古文書講座講師等を務めながら古文書の研究・紹介活動を行っておられる。
【付記】
私は、「モールス音響通信の思いで(その5)」<2016/1/7日ブログ>に、「音響通信の開発者は誰だろうか」と下記のような疑問を書いた。
モールス開発の通信方式が音響通信へ変化した経緯を今回知ることができた喜びを、片倉氏と私だけでなく、数少なくなった音響通信経験者の皆さんとも共有したいと思います。
アメリカ通信史を研究され、私たちの疑問を見事に解明して下さった松田裕之教授に、心からのお礼を申し上げます。(増田)
・片倉日龍雄
2.影武者がいたモールス
ところで、私が従事していた電信の仕事は、モールス音響通信(モールス符号をトン・ツーの音で送受する方式)であったが、この方式が定着するまでにはいくつかの前史があった。第1章では裏面史を含めその経過が述べられている。
実用電信機の開発は、まずヨーロッパの指字式通信機から始まった。指字式通信機というのは、送信側が文字盤上で指定した文字を、受信側では受信機文字盤上で回転する指針がその文字位置を示すという方式である。1836年イギリスのウイリアム・クックとチャールズ・ホイーストンが開発した五磁針式通信機に始まり、ホイーストンが1840年それを改良してABC通信機を作り、フランスの時計職人ルイ・クレメント・プレゲが完成型のプレゲ指字電信機を作った。本書16ページにはそれら3種の通信機の図版が掲載されている。明治2年(1869)の日本電信事業創業時、東京-横浜間32キロメートルに設置されたのは、このプレゲ指字電信機である。その受信機の文字盤には、特注でイロハ47文字が記されていた。
指字式通信機のアナログ伝送方式に対して、文字を符号化(デジタル化)して伝送することを考えたのがニューヨークの画家サミュエル・モールスである。1837年モールス自作の電信機の図版が本書18ページに掲載されている。しかし、この電信機は数字だけを符号化して通信するもので、まだモールス符号は使われておらず、単語に対応する数字(例えば58ならtelegarah)をあらかじめ定めておいて、受信した符号の数字を単語へ変換するという具合に、まことに手間のかかる方式で、通信機としての実用性にはほど遠いものであった。
これに改良を加え、小型化して実用化を実現し、現用のモールス符号(アルファベット26文字と数字10文字を、短符と長符で記号化)を完成させた人物がいた。アルフレッド・ヴェイルという機械技師である。著者は、この事実を米国文献の渉猟により明らかにされた。しかし、私たちはヴェイルという名を聞いたことはなくモールスの名前しか知らない。なぜか。それは、ヴェイルが「特許収益の4分の1を受け取る代わりに、新たな通信方式に関連するすべての発明・特許をモールスの名義とすることに同意」したため、以後通信装置は「モールス電信機」、通信に使用される符号は「モールス符号」と呼ばれることになった、という裏話まで披露されている。
この欲のないヴェイル」について、著者は、『のちに「富と名誉、我これを欲せず」と日記に残している。貴人にして奇人というべきか。が、歴史というものは、往々このような世俗の名利(みょうり)を忘れたかの如き仕事人の登場によって、その流れを大きく変えるものなのだ。』と述べている。
モールスが完成した通信装置は、モールス符号を受信装置に印字し、それを受信者が電文に翻訳する方式であった。従来の指字式に比較すれば画期的な原理による通信方式である。
この方式は、1838年4月にはニューヨーク郊外の約16キロメートルに導線を引き、公開実験を行って成功を収めた。大統領ほか閣僚も視察した。
しかし、当時としてはいまだなじみの浅い電気を使って奇妙な符号を遠方まで送るテクノロジーであり、連邦政府は「なかなか面白い工夫だが、本当に使いものになるのか」という程度の認識しか抱かなかった。
それでも1840年6月、モールスの「電信符号」は特許権を得、1844年5月3日、ワシントン国会議事堂からモールス本人の打電した「神の御業なり(What hath God wrought)」という旧約聖書の一節~これは、ワシントン=ボルチモア間の電信線敷設議案可決に尽力したヘンリー・エルスルスウォース議員の令嬢アニーが選んだといわれる~がヴェイルの待つボルチモア鉄道駅に到達。ヴェイルはただちに同じ一節をワシントンに返電する。ここに史上初めてのデジタル通信が産声をあげた。その後、この通信方式はアメリカのみでなく、ほどなくヨーロッパでも電信の定番となっていく。わが国創業期の指字式通信も、間をおかずモールス符号を受信機に印字するモールス通信方式に切り替えられた。
3.モールス通信からモールス音響通信への飛躍
さて、私が本書を読み、驚いたのは、モールスが開発したモールス印字通信方式は、やがてモールス音響通信方式~、耳で聞いたモールス符号を、頭の中で直接電文化する方式~に進化した秘密を教えていただいたことである。今回、この著書に出会って、長年の疑問を解消できたことをこの上なく、感謝し喜んでいる。
このモールス音響通信への移行は、革命的な通信方式への飛躍といえる。だがその音響通信への進化、それを操る音響通信士の出現は、多分に自然発生的なものであったと著者は次のように教えてくれる。
実用化初期の受信機は、「信号記録装置とも称され、紙テープに符号群を刻印・記録する仕組み」であり、受信側の電信士は「紙テープに浮かんだ短符と長符の窪みを読み分けて」文字に翻訳していたが、要領のよい電信士は、「受信機が紙テープに符号を刻むカチカチという機械音の間隔を頭のなかで短符と長符の配列に置き換えながら、元文書へと変換」するようになった。
このことは、事業者側にとっては、紙テープ代が節約でき作業時間短縮にもなる「良いことずくめ」なので、これが主流の通信方式となったのである。受信機も改良されて音響式受信機ができた、というのである。40ページに私たちに馴染み深い音響受信機とスタンドの写真がある。
本書には、このような貴重な知識が随所にある。電信を愛する諸兄に、直接お読みいただくことをお勧めするゆえんです。
4.電信無宿者だった発明家エジソン
モールス電信を実用システムとして運用するためには、情報や文書の文字をモールス符号になおして送信し、受けたモールス符号を文字になおして受信する技能者の存在が必須である。モールス電信士はモールス電信機の発明によって生まれた新しい職業であり、高度の技能が必要であった。本書ではその必要条件を次のように述べる。
「電信士はモールス符号を完璧に記憶しなければならない。」というのも、彼らはモールス符号という言葉を、声帯の震えと口の動きではなく、手首や肘の動作による電鍵の微妙な打ち分けによって発するからだ。
私も、訓練用電鍵を常に携行し暇さえあれば叩いていた熊本学園の普通科時代、手崩れに悩んだ電報局時代を思い出したが、送信用電鍵についても、その形に定まるまでの前史があった。
モールス通信用電鍵の第1号機は、モールスの影武者アルフレッド・ヴェイルによる試作品だったらしく、これを改良した実用型も作ったという。ジョージ・フェルブスという電信士が作ったキャメルバック型電鍵は、私たちが知っている形に近い。ジェシー・バンネルという電信士は横振りレヴァー式電鍵を作った。キャメルバック型電鍵と横振りレヴァー式電鍵の写真が37ページに掲載されている。
文豪幸田露伴や伊東巳代治(伊藤博文の側近)、小原國芳(玉川学園創立者)などがモールス電信士の大先輩であったことは知っていたが、かの発明王エジソン(1847~1931)が、技能優秀なモールス電信士であり、鉄道電信士として各地を渡り歩き無軌道な無宿生活を送っていた青春時代があったことを、本書で初めて知った。
少年時代から研究、発明の才に長けていたエジソンは、自作の電信機と電池をこしらえて電信ごっこをしたり、駅で新聞売り子をしながら蒸気機関車を運転したこともあったという。たまたま駅で線路へ入り込んで轢死寸前だった幼児を助けた縁で鉄道電信士の職を得た。しかし、電信士としての勤務状況は「いい加減な」ものだったらしい。夜勤時には1時間おきに送信するよう義務づけられた異常なし信号の送信を、手作りの自動発信装置で手抜きしてバレたり、列車の停止指示信号の送信を怠ったため、あわや正面衝突の危機を招いたりしたという。
エジソンにとっては、実験や発明が本業であり、電信士の仕事は生活費や研究費を得るための資金稼ぎの場でしかなかった。「実験と読書の合間に電信士として働いたというのが実情であろう」と著者は述べている。ただ、電信士としての技能は優れていたらしく、早打ち自慢の送信者相手の受信を難なくこなし、相手に対して「とろいぜ。もう片方の足でうちな」と打ち返したという逸話が残されている。
勤め人としては問題児であったエジソンは、当然のことながら同じ職場で長続きするわけもなく、電信士としての技能だけを頼りに中西部各地を転々としながら無宿者的青春を送ったという。そういう渡り鳥的生活ができたのは、鉄道路線と電信網が急速な拡張期にあった1860年代初めから70年代へかけての時代がそれを可能にした、と著者は述べている。
同感である。私もまた昭和26年というモールス音響通信が主流であり採用数も多かった時代のおかげでその道に入ることができた。拙劣な通信技能だったが、モールス電信士の一時期があったことを、自分のひそかな誇りとしている。
◆寄稿者紹介
・片倉日龍雄 昭和10年生れ 佐賀県
・熊本電気通信学園普通電信科 昭和26年卒
・寄稿者は、NTT退職後、郷里の佐賀藩多久領で江戸中期から明治の初めまで書き継がれた古文書の解読・翻刻に専念、現在も、かくしゃくとして佐賀県立図書館や多久東原庠舎(たくとうげんしょうしゃ)の古文書講座講師等を務めながら古文書の研究・紹介活動を行っておられる。
【付記】
私は、「モールス音響通信の思いで(その5)」<2016/1/7日ブログ>に、「音響通信の開発者は誰だろうか」と下記のような疑問を書いた。
モールス通信は1837年、アメリカの画家サミュエル・モース*によって発明されたが、画家であった彼が、あの音響を聞き分ける能力を持っていたとは思えなくなってきた。では、いつの時期、誰の手によって、それがわれわれの学んだ音響式へ進化、移行したのだろうか。ぜひ知りたい。
*サミュエル・モールス⇒サミュエル・モースとも(ウキィペディア)
*サミュエル・モールス⇒サミュエル・モースとも(ウキィペディア)
モールス開発の通信方式が音響通信へ変化した経緯を今回知ることができた喜びを、片倉氏と私だけでなく、数少なくなった音響通信経験者の皆さんとも共有したいと思います。
アメリカ通信史を研究され、私たちの疑問を見事に解明して下さった松田裕之教授に、心からのお礼を申し上げます。(増田)
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