モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

◆タイプライタ登場(その2) 黒澤貞次郎・電信用カナタイプライタ開発

2017年12月26日 | モールス通信
◆タイプライタ登場(その2)

電信用カナタイプライタの開発~黒澤貞次郎


大正6年(1917)6月21日は電信界にとって永く記念すべき日と存じます。この日、大阪中央電信局に於て和文タイプライターを2台、現業受信に初めて用いたものであります。

和文タイプライターの施設に関する大正5年度大阪中央電信局電信事業記録によれば、「機械の作製に就いては、東京黒澤貞次郎をして考究せしめるために、別紙同人より仕様書の通りにして、即ち現在当局にて、貼付欧文電報翻写用に供しつつあるL.C.Smith 式タイプライターを基として、之を和文電報タイプライターに適する様改造すべきものにして、之がキーボードの文字配列は当局に於て多数電報に就き各文字毎に使用の多寡及び運用上の便否を慎重に研究し之を定めたるものなり。」云々とあります。

同局に於て和文タイプライターを現業受信に使用すべく立案せられたのは、前年の大正5年7月であります。大正5年春同局から和文タイプライター作製の件に付き出頭を求むるはがきを自分が受取って早速大阪へ出張しました。主として鹿島通信課長(のち大阪中央電信局長)の指導を受けまして翌大正6年に上納しましたのが先に申しました2台の電信用和文タイプライターでありました。

キーボードの配列は、局で1,838通の電報此文字98,450字を研究せられて定められ、その後当初の漢字を全廃しましたのが現今のキーボードであります。

私がかなもじタイプライターに従事することになったのは、米国の子供達が文字が簡易な為、いかにもやすやすと小学教育を受けつつあるのを目撃して、我が国にも漢字を廃止してかなもじを採用したらばと強く感じたのが動機でありました。

明治29年(1896)ニューヨルク在留中に「エリオット・ハッチの工場で段々と研究をつづけ、翌々年末には機械らしきものが出来上りました。それを明治32年(1899)9月3日、時事新報が発明として報道してくれました。当時、電信用という考えがなくその書体は「ひらがな」でありました。
逓信省の方に初めて和文タイプライターを御見せしたのは明治32年(1899)7月ニューヨルク市を訪れた逓信省技師でありました。続いて33年7月、逓信省技師大岩弘平氏に御見せしました。その時両氏は、自重して大成せられる様に大いに奨励してくれました。またカタカナ機を作る様、注意をしてくれました。それから6ヵ月の後カタカナ機が出来ました。当時ニューヨルクを訪れた逓信省参事官、松永武吉氏にも御見せしました。

最初のカタカナ機は明治34年(1901)2月に作り上げました。そして同年6月に帰国しまして我が国に於ける最初のタイプライター業を開きましたのが此の工場(黒澤工場)の始まりであります。
帰朝後まもなく、大岩弘平氏の御紹介で、東京郵便局電信課でタイプライターの説明をいたしたのが、私が電信業務に接触した始まりでした。
その当時、逓信省、東京盲唖学帰校、東京郵便電信局電信課等に合計10台ほど納入し(正確な記録は関東大震災により焼失)、翌年大阪郵便電信局電信課にも2台ほど納めました。
ところが、この時(明治34年(1901))に納めました和文タイプライターは、江戸橋本局ー汐留局間の受信に実験せられましたが、当時の和文機械が幼稚でありまして、ついに不成績に終わりました。

それから15年の後大正6年(1917)6月6日に、大阪局で試験的ではありましたが、現業用に2台の施設を見るに至りましたことは先に述べました。この日を迎えるまでには、かな文字タイプライターの制作を志してから18年の永き歳月が過ぎたのであります。

その後、この工場の作品である和文スミスタイプライターは、逐年改良せられ、軽快、無音、頑丈の特徴が電信業務の要求に合致して、今日よくその真価を発揮しうるようになりました。カナタイプライターを作成してから今日までの26年間、電信関係者各位のご指導に負うところ多大で、常に有難く思っている次第であります。

◆出典 黒沢貞次郎著 タイプライターの沿革 
   ・昭2年2月開催(和文印刷電信機技術官講習会資料の一部)

◆黒澤貞次郎氏の経歴
1875年(明8) 1月、現在の日本橋室町生れ、公立小校を中退し薬種問屋に小僧奉公に出る
1893年(明26) 臨時の船員として横浜港からアメリカに向け出港、アメリカ西海岸に到着後、農業や缶詰工場などの仕事をする
1895年(明28) ニューヨークに渡り、エリオット・ハッチ商会(The Elliott & Hatch Book Typewriter Co.)のエリオット家で働きのち同社に就職。勤務の傍ら「ひらがな・縦書き」のタイプライターを試作
1900年(明33) 同社でカタカナ・タイプライターの製造に成功
1901年(明34) 5月、カタカナ・タイプライターなどを携え帰国、これが日本で最初のかな文字タイプライターといわれる。タイプライターの輸入、販売、修理業および事務用品の販売業として現在の中央区銀座に黒澤商店を創業
1921年(大10) 蒲田区(当時の東京府荏原郡蒲田村)に2万坪(6万6千㎡)に及ぶ工場敷地内に鉄筋コンクリート造の工場および従業員住宅を建設、周囲からは「黒澤村」と称され、幼稚園、小学校、プールなどもあった
1823年(大12) 関東大震災により蒲田工場崩壊
1924年(大13) カナ・タイプライターが大阪中央電信局の全回線に使用される
1928年(昭3) カナ・タイプライタ-開発の功績により、緑綬褒章を受賞
1935年(昭10) モールス電信機の次世代通信機、国産印刷電信機の制作完成
1937年(昭12) 11月3日、国産印刷電信機により、東京―大阪1番線で商用試験開始
1940年(昭15) 国産印刷電信機開発の功績により大毎・東日通信賞を受賞
1945年(照20) 空襲により自宅焼失、蒲田工場、本社ビル壊滅的打撃を受ける
1946年(昭21) 銀座の本社ビル、GHQにより国際赤十字社の建物として接収される(接収解除は1952年(昭27))
1953年(昭28) 1月26日、電信タイプライター、印刷電信機の開発一筋の輝かしくも波乱、不屈の生涯を終える。享年78歳、従六位勲五等瑞宝章を授与さる。敬虔なクリスチャン、模範的ロータリアンだったそうだ。多摩川霊園墓地に眠る。葬儀の後日、蒲田賜恩教会(現在のシオン・キリスト教団 蒲田教会)にて告別式

なお、個人商店黒澤商会は、昭28年株式会社クロサワとなる。32年富士通㈱と共同出資により黒澤通信工業㈱を設立、その後商号を富士通アイソニック㈱に変更、現在は小規模ながら福島県伊達市に本社、工場を移転してパソコン製造などを行っている。
株式会社クロサワは、黒沢不動産株式会社、クロサワ育成事業団と共にクロサワグループとして銀座6丁目のクロサワビルを拠点に事業を展開している。グループ中核の株式会社クロサワは、富士通のパートナーとしてシステム関連機器の販売、各種ソリューション提案等を行っている。


・経歴参照資料 ウィキペディア、エピローグ~クロサワ、平川克美『隣町探偵団』および『Yasuokaの日記』の黒澤貞次郎関係ヵ所を参照させていただきました。詳しくはNetでお読みください。


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