◆女子職員の電信事業採用
電信電話事業に女子職員の採用が制度的に確立されたのは、明治24年9月、「電話交換手採用規程」の制定が最初である。これはわが国の電話事業創業(明治23年12月16日)によるものである。一方、電信事業にも採用する方針がきまったのは、ずっと遅れて明治33年7月、「女子職員採用規程」の制定によってである。
同規程の第2条によれば、応募資格は①年齢満13年以上にして家事の繋累なき者、②身体強壮にして言語明晰聴力完全なる者。③身元確実にして品行方正なる者。となっている。
当局では明治39年2月、150名の之希望者の中から22名採用したのが最初である。明治39年といえば日露戦争の終結直後であり、職場も一種殺伐としていた時代だが、女子採用はなごやかな新風を吹き込んだものである。
たしか、明治38年上旬と思ひます。男女通信伝習生募集の広告を見まして私も応募することに致しまして、京橋築地の養成所で受験致しました。私も合格者の1人で、同年の9月に養成所が今の管理練習所の傍に移転致しましたので、その月から其処へ通学致しました。其の時代は今の様に1ヵ年卒業ではなく6ヵ月でした。私達は39年2月第1期生として日本橋江戸橋際の東京郵便局電信課に採用されたので御座います。
当時はいうまでもなく女子にも宿直勤務があったが、深夜の閑散時などは、男子職員が昇降器を振って合図し、談話用ラッパで事故電報等を連絡しあった。これがまた、当時の若い職員たちの胸を、大きくときめかしたといわれる。
男子禁制の部を配置するなど、風紀は非常に厳格であったが、それはそれなりに、また明るいエピソードも多数生んだようである。
◆出典
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
電信電話事業に女子職員の採用が制度的に確立されたのは、明治24年9月、「電話交換手採用規程」の制定が最初である。これはわが国の電話事業創業(明治23年12月16日)によるものである。一方、電信事業にも採用する方針がきまったのは、ずっと遅れて明治33年7月、「女子職員採用規程」の制定によってである。
同規程の第2条によれば、応募資格は①年齢満13年以上にして家事の繋累なき者、②身体強壮にして言語明晰聴力完全なる者。③身元確実にして品行方正なる者。となっている。
当局では明治39年2月、150名の之希望者の中から22名採用したのが最初である。明治39年といえば日露戦争の終結直後であり、職場も一種殺伐としていた時代だが、女子採用はなごやかな新風を吹き込んだものである。
たしか、明治38年上旬と思ひます。男女通信伝習生募集の広告を見まして私も応募することに致しまして、京橋築地の養成所で受験致しました。私も合格者の1人で、同年の9月に養成所が今の管理練習所の傍に移転致しましたので、その月から其処へ通学致しました。其の時代は今の様に1ヵ年卒業ではなく6ヵ月でした。私達は39年2月第1期生として日本橋江戸橋際の東京郵便局電信課に採用されたので御座います。
其際、電信課長の宇田洋五郎様より、「初めて試験的に女子を採用することになったが、成績がよければ採用する積りである。皆様は女子電信吏員として最初であるから、特に品行を方正にして、男子に劣らぬ成績を挙げる様」訓示がありました。其内3月に第2期生、4月に第3期生も卒業して参りました。
そして回線等も増加し、私達が3番勤務となって宿直をやる様になりましたが、7部は女子許かりで男子は主事の夏目さん(夏目漱石の兄)、横谷さん、小堀さんの3人きりで全く女護ケ島の感がありました。
そして美人も外の職業に比べて多く、帝劇の女優第2期生に合格したもの(月岡静江こと中村きみえさん)もいる等、新聞や雑誌によく書きたてられたものです。
この訪問記にも述べられているように、女子の所属部は、江戸橋に面した1階の第7部(甲府・吉田・岡谷・寄居・鴨川・鹿沼線など15回線収容)で、もちろん男子禁制であった。となりの第6部との間には、1尺に満たない小窓があり、ここから電報その他の授受をした。1階の受配および3階の第1部とは小さい昇降器によって連絡し、電報はこれによって運信するようになっていた。そして回線等も増加し、私達が3番勤務となって宿直をやる様になりましたが、7部は女子許かりで男子は主事の夏目さん(夏目漱石の兄)、横谷さん、小堀さんの3人きりで全く女護ケ島の感がありました。
そして美人も外の職業に比べて多く、帝劇の女優第2期生に合格したもの(月岡静江こと中村きみえさん)もいる等、新聞や雑誌によく書きたてられたものです。
当時はいうまでもなく女子にも宿直勤務があったが、深夜の閑散時などは、男子職員が昇降器を振って合図し、談話用ラッパで事故電報等を連絡しあった。これがまた、当時の若い職員たちの胸を、大きくときめかしたといわれる。
男子禁制の部を配置するなど、風紀は非常に厳格であったが、それはそれなりに、また明るいエピソードも多数生んだようである。
◆出典
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
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