モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

音響通信~目で見る通信から耳で聞く通信へ   

2017年11月30日 | モールス通信
◆音響通信の採用

1.目で見る通信から耳で聞く通信へ

電信の通信方式は、創業から100年の間には、数々の変遷をたどってきた。その中で、最初の変革といえば、目で見る印字機通信から、耳で聞く音響通信への切替えである。

創業と同時に東京―横浜間に使用された電信機は、フランス人が発明したブレゲー指字電信機であった。その後明治4年、わが国ではイギリスからシーメンス・モールス電信機を購入、これに関する技術を習得した結果、明治6年4月、東京―長崎間の各局にモールス印字機(モールス現字機ともいう)による通信を開始した。

シーメンス・モールス印字機はブレゲー印字機にくらべると、非常に鋭敏で通信速度が早く、かつ遠距離通信に適していたので、以後はすべてこれを使用することになり、さらに明治11年からは国内生産も始められた。

明治18年制定の電信局内心得書によれば、モールス印字機通信はモールス符号を使用、送信は電鍵で行ない、受信は印字機のテープに印字されたモールス符号をみて受信した。

この印字通信は昭和初期まで使用されるのであるが、その間、「聴響機」あるいは「響鳴機」などと呼ばれた音響機が、明治10年4月、工部省内局(のちの葵町局)と築地の東京電信局に装置された。

この機械は明治4年10月、岩倉大使一行が欧米巡視の途中、サンフランシスコの電信局に立ち寄った際に同局から贈呈をうけたものであ年る。当時、在米中であった肥田造船頭から、明治4年12月工務省に、「・・・右ハ(音響器)響ヲ聞得テ文字ヲ知リ候仕掛ニテ至極宜敷機械ニハ候へ共右ニ熟達仕候ニハ少ナクモ一両年を費シ不申候テハ不相成由申聞・・・後略」(逓信事業史)と報告しているように、当時としては技術の習得に困難であったため、2,3試みた電信局もあったが、それは単なる試用にとどまった。明治11年3月の電信中央局開業式当時には、東京―横浜間に1座の音響器があった。東京市内局で使用されたのは30年ころからである。

モールス音響機は、モールス印字機にくらべ通信速度にまさることから、明治28年から全国的に切り替えられることになり、中央電信局では明治37~38年までに切替えが完了した。

この切替えは、従来の目で見て受信する通信から、耳で聞いて受信する通信へと当時においては一大変革であった。もちろん事前に十分な訓練が行われたが、切替えの直後は誤びゅうが増大し、従業員の疲労ははなはだしく、非難ごうごうたるものがあったといわれている。しかし慣れるにしたがい、誤びゅうも減り、そ通能率は著しく向上し、後の”通信の花形、音響通信”の時代へと発展していくのである。

ちなみに、東京中央電信局における音響機は、大正15年には200座となり、あらに昭和4年には241座となって、全回線の65%を占めるに至った。

当時職員の中には、送信してくる符号を聞きだめしたり、あるいはまた連続受信作業で2時間も3時間も聞きかえさずに受信する者などもいて、音響通信華やかなりしころの”電信人気質”は、いまなお古いひとたちの語り草となっている。]

◆出典 続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)

2.音響通信機採用に戸惑った明治の通信技手

「通信技手の歩いた近代」(松田裕之著・日本経済評論社)は、電信創業期に逓信省の通信技手として生涯の大半を過ごした土佐藩出身・山崎義麿の70年の生涯を辿ったヒストリーである。

その中に、シーメンス・モールス印字機から音響通信機への切替えに遭遇した主人公が、その変革に戸惑った様子が次のように記されている。

「自分のような年配組は符号の聞き聴き取りができようか・・・」
ある意味、性能面と価格面でいまだ問題の多い電話の実用化よりも、音響式電信機の採用のほうが、義麿ら老練の技手にとっては重大事だったに相違ない。これを今風にいうならば、技術失業へのひそかな不安、とでも表現できようか・・・。義麿は技術系の現場管理者についていたが、仮に電信機器の体系が音響式を主流として全国的に一新され、印字機時代に培ってきた熟練技能が不要となれば、その地位も危うくなりかねない。

ここはもう勝負に出るしかない―さきに引いた「旅日記」の「内地に碌々消光せんよりは、この機会に乗じ須からく台湾に渡り活動せん」という一節は、まさにこの決意を語ったものとも解釈できる。

義麿にとって好都合なことには、もっぱら聴覚に頼る音響式電信機は、「御用電報や軍用通信を託するに不適」との指摘もあり、植民地になったとはいえいまだ占領が完遂していない台湾では、印字式電信機の使用がこれからも継続される見込みだった。〔給金もいいし、軍の恩給はかなりのおのだった。それに俺が新領土で功をたてれば、山崎の家も安泰となろう〕と、決断の正しさを確かめるように、義麿はみずからにいい聞かせた。(中略)
このような決断をして電信部隊を志願して渡った台湾は、義麿のいささか楽観的な予想をはるかに超える緊張と不安に包まれていたものだった。


◆出典 通信技手の歩いた近代 松田 裕之著 日本評論新社(2004年1月)
  
◆著者紹介
情報通信文明史の大家、松田裕之氏は、多くの興味深い著書を上梓されているが、全部は読めないでいる。読んだものは、いずれも情報通信の石器時代の現場で働いた者にとっては、垂涎ものの目からウロコのおちる思いがするものばかりです。本ブログに寄稿された泉下の多くの先輩方へのお土産として、正直なところ、これに過ぎるのものはないでしょう。皆さまにも是非ご一読をお勧めしたい。著書のうち「モールス電信士のアメリカ史―IT時代を拓いた技術者たち」などは、本ブログでも、そのうち、どなたかにお願いするなどして、ご紹介したいと考えています。
なお、各書の巻末には、圧倒されるような豪華絢爛たる膨大な文献一覧が付されており、それを渉猟したい誘惑に抗するには、苦労をされると思います。それにしても、そのうちの通信関係史料は、現在のNTT関係機関のどこかには保管されているのだろうか。

以下は、ウィキペディア等から引用した著者のご紹介です。

著者略歴
大阪府豊中市1958年生まれ。1980年関西大学商学部卒業。1985年関西大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学。1992年同修了、博士(商学)。1986年松商学園短期大学助教授。1999年甲子園大学現代経営学部助教授、のち准教授。2010年神戸学院大学経営学部教授
主な著書
『ATT労務管理史論―「近代化」の事例分析』 ミネルヴァ書房1991年
『AT&Tを創った人びと―企業労務のイノベーション』 日本経済評論社1996年
『電話時代を拓いた女たち―交換手(オペレーター)のアメリカ史』 日本経済評論社1998年
『労働者文化の胎動―メーデー発祥の地シカゴ-精肉都市の光と陰―』 清風堂書店出版部1999年
『明治電信電話ものがたり-情報通信社会の≪原風景≫-』 日本経済評論社2001年
『ドレスを着た電信士マ・カイリー』 朱鳥社2009年
 『通信技手の歩いた近代』 日本経済評論社2004年
『モールス電信士のアメリカ史―IT時代を拓いた技術者たち』 日本経済評論社2011年
審議会・委員会活動
 情報通信学会情報通信文明史研究会 幹事(2008-2010)
主な研究分野
 日米労務管理史、企業者史、労働史、情報通信文明史(モールス電信士、電話交換手、政商、開港地)


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