モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

◆ 電報配達は自転車に乗って

2017年12月15日 | モールス通信
◆ 電報配達は自転車に乗って

下記は明治3~4年ころの電報配達員の模様を伝える記述である。創業当時は電報配達員を駆使と呼んでいたが、明治20年5月6日、「集配人使役心得」が制定されてから、駆使は集配人と呼ばれるようになった。

局と局との間の電報使送に、馬を使ったという記録はあるが、電報配達はすべて駆け足で行なわれていた。配達人の風体は縞の羽織に脚絆、尻はしょりの体にて電報配達なりとて、何町何分と時間に制限あるにあらねば、さまで急がず、夜は工部省御用の文字ある大なる小田原提灯をぶらさげ、雨天の節は鳶合羽に高下駄を穿き、洋傘を肩にして出て行くなど、実に百余金を投ぜし高価の自転車を走らせ、尚以て足れりとぜざる今人の、到底想像に及ばざる様なりし(「逓信協会誌」第76号)。


電報配達に自転車が採用されるようになったのは、明治26~7年が最初であった。
当局(当時は東京郵便電信局)が木挽町から江戸橋に移転した際、初めて3台の自転車を電報配達に使用した。時を同じくして他局も試用を開始しているが、26年12月号「電気の友」および同年発行「交通第69号」には、自転車による配達を調査した結果、徒歩で1時間を要した距離を25分で走破したと記述されている。

同じころ大阪郵便電信局においても自転車と徒歩との比較試験を行ったところ徒歩で6分要した距離を、自転車では6分30秒要したといわれる。自転車のほうが徒歩より遅かったというのは、自転車に乗る者がのる時間とおりる時間に、徒歩者が一歩先んじた結果であった。

これは自転車が現在のように普及・発達していない時代で、自転車自体は木製で前輪車と後輪車のインチの差がはなはだしく、また操縦も未熟であったためである。

明治29年には外国製の自転車を採用することとなり、当時当局の集配人であった中谷末松が横浜の外国商館に出張し、外国製自転車が日本製自転車にくらべてはるかに優秀であることを実験報告し、のちに部内でも採用することになった。

歩いて配達する時代からみれば、起動力をそなえた合理的な配達方法に変わったわけであるが、風をきってスイスイというようなわけにはいかなかった。当時の模様を「交通」第270号(明治35年3月発行)は次のように記述している。

東京郵便電信局にては電報配達人に自転車を使用せしめつつあるを以て非常に便利なると共に、又一方時々衝突して自転車を破損し、人を倒し、為に損害賠償をとらるる事少なからざるにより、自今自転車を毀損し、又は行路者に衝突して負傷させたる者には、月末の賞与金を給与ぜざる旨告示したるにぞ。元来薄給なる配達人等は此上損害金迄とられては妻子を養う事能わず、さりとて辞職したらんには明日よりも糊口に窮する次第なりとて、各自大いに不平を鳴らし居る由なりと。


自転車についての規程は、明治35年3月の「自転車整備規程」によって、3当局においても整備することを公認、36年2月に「電報配達用自転車設備規程」を制定、39年9月にこれを一部改正して、自転車を「赤色塗」とするなどがあった。

◆出典 続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月





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