◆タイプライタ登場(その1)
わが国で通信の実務にタイプライタを使用するようになったのは大正3年に大阪中央電信局で欧文通信、大正6年に和文通信に使用したのが初めである。この時はいずれもモールス印字通信のほん書(翻書)用として使用されたものである。音響通信に対する直接受信用としては、大正11年、全国主要局ではほぼ時をおなじくして開始された。
当局(東京中電)においても同様、早くからタイプライタ受信の能率的なことに着目し、この面では特に女子が適性を持つということから、その練習にあたらせていた。その結果、大正6年4月頃から、初めて和文貼付電報のほん書作業にタイプライタを使用、好成績をえたのでさらにこの有技者の増加に努め、9年5月に至って16名の女子有技者を養成した。これらの人たちは、気送連絡局着信の貼付電報を和文タイプライタでほん書する作業にむけられた。
音響通信にこれを使用するようになったのは大正11年、女子部の八王子2番線ほか数回線に使われたのが当局として最初であった。
当時、当局職員であった吉川晋(作家、吉川英治氏実弟)は、そのころの電信マン気質を次のように回顧している。
当時はいわゆる電報文字と称する独特の書体が風びしていて、これが受信者(受取人)に評判が悪い。事実全く読みにくい片仮名を書いたものだ。
局ではこれの改善をやかましく云って書体の美しいもの、正確なものはしばしばお褒めにあずかったものだが、その点では、私の楷書でキチンとした書体は大いに面目をほどこした。通信は1分間85字が標準速度で、これを超過すると、監査から厳重な警告があった。
しかし実際問題としてこんな速度では東京ー大阪間などではいくらやっても電報がさばききれたものではないし、交替時間に、未送信を溜めて引継ぐなどは担当者の恥という精神もあって、送受信ともベテラン同志、腕によりをかけて頑張ったものだ。いきおい速度は110字から120字近くもなる。
それで尚且つ崩さない字体を守ってゆくところが一寸した張合いだった。(電信電話)
大正11年当時は着信紙を保存する必要から、[写」をとっていたが、タイプライタ受信のための複写機ができていなかった関係から、タイプライタ設備回線でも着信電報に対しては手書受信を行い、中継電報にのみタイプ受信を実施した。なお、複写機(ロネオコピア)は翌12年5月に使用を開始し、その後、昭和3年9月には全音響回線のタイプ受信化を完成した。
◆出典 続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
わが国で通信の実務にタイプライタを使用するようになったのは大正3年に大阪中央電信局で欧文通信、大正6年に和文通信に使用したのが初めである。この時はいずれもモールス印字通信のほん書(翻書)用として使用されたものである。音響通信に対する直接受信用としては、大正11年、全国主要局ではほぼ時をおなじくして開始された。
当局(東京中電)においても同様、早くからタイプライタ受信の能率的なことに着目し、この面では特に女子が適性を持つということから、その練習にあたらせていた。その結果、大正6年4月頃から、初めて和文貼付電報のほん書作業にタイプライタを使用、好成績をえたのでさらにこの有技者の増加に努め、9年5月に至って16名の女子有技者を養成した。これらの人たちは、気送連絡局着信の貼付電報を和文タイプライタでほん書する作業にむけられた。
音響通信にこれを使用するようになったのは大正11年、女子部の八王子2番線ほか数回線に使われたのが当局として最初であった。
当時、当局職員であった吉川晋(作家、吉川英治氏実弟)は、そのころの電信マン気質を次のように回顧している。
当時はいわゆる電報文字と称する独特の書体が風びしていて、これが受信者(受取人)に評判が悪い。事実全く読みにくい片仮名を書いたものだ。
局ではこれの改善をやかましく云って書体の美しいもの、正確なものはしばしばお褒めにあずかったものだが、その点では、私の楷書でキチンとした書体は大いに面目をほどこした。通信は1分間85字が標準速度で、これを超過すると、監査から厳重な警告があった。
しかし実際問題としてこんな速度では東京ー大阪間などではいくらやっても電報がさばききれたものではないし、交替時間に、未送信を溜めて引継ぐなどは担当者の恥という精神もあって、送受信ともベテラン同志、腕によりをかけて頑張ったものだ。いきおい速度は110字から120字近くもなる。
それで尚且つ崩さない字体を守ってゆくところが一寸した張合いだった。(電信電話)
◆出典 続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
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