城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №13 鼠とは人の事! 追記。

2019-06-18 01:55:51 | 剣熊考
剣熊考 №13 鼠とは人の事! 追記。
対談者
 城郭に興味のある私としては「鼠とは人の事!」大変気に入り驚きました。
長谷川
 何故でしょうか?当該記事は誰も読んでいらつしやる方は皆無と思います。
対談者
 鼠とは人の事!の記事を純粋に城郭記事として読み、考え、感激しました。
長谷川
 流石に貴方は慧眼無双!頭脳明敏!感服致します。流石は蛇の道は蛇です。
長谷川
 『日本書紀』における「ネズミ説話」を人間の築城や築柵の暗喩や比喩だと
 即座に看破した賢明な学者の慧眼と、ただ「おとぎ話や/説話」と受け流した
 凡庸な学者の二例の逸話は良く知られており貴方の発想は驚くべき慧眼です。
対談者
 私の何気ない発想のセンスに先生から賞賛を賜り真にありがとうございます。
 『日本書紀』の記述にある様な俊敏に全国を疾駆し築城した稀有の武将とは?
長谷川
 羽柴藤吉郎秀吉です!織田信長は秀吉を猿とは言ってません。はげねずみです。
 この言葉は秀吉を愚弄し軽蔑する言葉ではありません。俊敏優秀な部下の意味。
対談者
 さてさて『日本書紀』に都の鼠が一斉に近江に走る記述の一年後に近江大津の宮
 が建設されています。と言う事は大津の宮は平城京の様な条坊や都市区画が無い
 大津宮ではあるが大津京ではない事を暗示していませんか?
長谷川
 貴方の洞察力は凄いです。鼠は造柵すると『日本書紀』に記されています。
 現在大津の宮は柵列こそ発掘されましたが都城の城壁は発見されてません。

 
  






 

 
 


 
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剣熊考 №13 鼠とは人の事!

2019-06-16 04:44:20 | 剣熊考
剣熊考 №13 鼠とは人の事!

凡例◆は長谷川解説 ★は重要点

◆そもそも「鼠」ねずみとは中国の殷「商」王朝を支えていた12の部族に起源が
あるのではないだろうか?そもそも干戈「かんか」による暦法とは中国起源である。

◆驚くべき事に干戈「かんか」とはアジアユーラシア大陸に広範に伝播している。
干戈の筆頭が「子」つまり「ネズミ」である。

◆日本神話のネズミ
『古事記』根の国に鼠ネズミが登場し大国主命を地下穴に案内して助ける出雲神話がある。
樹木の根の如く地下世界の根の国に、根を張るネズミ族を連想させて何か不気味に感じる。

◆『日本書紀』の「鼠」は人間移動の事であり倭族の日本列島移住や遷都や築城
「造柵」を暗示する。同書の「孝徳紀」には「鼠」を含む文言が五回も登場する。
①~⑤の項目を上げる。

①「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」★(大化元年冬十二月条)
◆老人達(物知りや分別ある人)が互いに言い合う。春から夏に至りネズミが難波に向かった
遷都の兆候である。★皇極天皇4年6月19日(ユリウス暦645年7月17日)の孝徳天皇即位した
年の12月の事。

◆大化期の日本国内情勢※とは?大化期に起きた事件とは?
※645年(大化元年) 古人大兄皇子を中大兄皇子(天智天皇)が攻め殺す。
東国などの国司に戸籍の作成、田の調査を命じる。★難波長柄豊碕宮へ遷都。
◆難波への正式な遷都が記されている。遷都は宮殿やその宮殿を守衛する★城柵や兵糧を
貯蔵する倉庫が不可欠である。

※646年(大化2年) 改新の詔(大化の改新の詔)★薄葬令を発する。高向玄理を新羅に派遣
★新羅から任那への調を廃止させる。◆★薄葬令は古墳時代の終焉を意味する。
★新羅から任那(倭の経営する、みまな)への調つまり税を廃止している。
※647年(大化3年) 七色十三階の官位が製定される。
※648年(大化4年) 磐舟柵を造る。
◆『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)12月21日に越後国に石船柵を修理させた。文武天皇4年
(700年)2月19日には越後国と佐渡国に石舟柵を修営させた。越後と佐渡2国に同じ名前の柵(キ)を作ら
せた事は意味が深い。『日本書紀』(神武天皇、即位前紀)には『東方に美しい国があります。四方を青山
が囲んでいます。その中に、天/あまの磐いわ船ふねに乗って飛び降くだった者がおります』とあるように
倭族は神武東征以前から日本列島に集団で移住して入植し、コロニーを形成する伝統的な習俗を持っている
事である。弥生期の環濠集落の伝統は楕円形であるが矩形の条坊や条理を思わせる律令的な官衙は方八と呼
ばれる一町109mの八倍の数値「方八丁」が東北で使われる事が多い。
またこの石船柵は矩形平面を持つ、つまり四角四面の条理区画の方形とは異なる、楕円形の舟型や船舶を
連想させる城柵と私は想像する。また磐は岩石だけではなく水稲、稲作の民「倭族」の稲作の祭りを暗喩
する磐「いわ」「祝」を、暗喩するものと私は、推定する。践祚祭に相当する新嘗の祭祀も執り行われて
いた事と推定する。日本の朝廷には重祚と言う2度天皇の位についた人も記録されているが現代の皇室も
即位儀式として践祚大嘗祭を執行されている。
◆城郭と神社は違うのか?都城と民間城柵とは違うのか?
◆デジタル大辞泉 - 城狐社鼠の用語解説 - 《「晋書」謝鯤伝から。城にすむ狐(きつね)と社( やしろ)に
すむ鼠(ねずみ)を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下しがたいところから》主君のそばに
仕えている、よこしまな家来。また、それが除きにくい事」とある。何か考えさせる「城狐社鼠」である。

②「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」(大化二年是歳条) 646年(大化2年)
◆越の国「北陸」のネズミ(水稲耕作移民)が昼夜連続して、つまり(寝不身/ねずみ)となり東国に向かって
移動した。

③「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」 (大化三年是歳条)647年(大化3年)
◆数年に渡りネズミが東国に向かっている。これは造柵(倭族移民の築柵)の兆候である。

④「鼠向倭都而遷」(白雉五年春正月朔条)
◆ネズミがヤマトの遷都にともない倭都に移っている。

⑤「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」 (白雉五年十二月条 )白雉5年(ユリウス暦654年)◆老人が言うにネズミがヤマトの都に移っている。これは遷都の兆候である。
◆日本書紀岩波版の注例では、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、・・・群鼠浮河向鄴」とあって、北魏の鄴への遷都の兆としている、と述べており。日本書紀の「鼠が移動する」記事は北魏史に倣った表現をしていると解説している。

◆越国の海岸に着いて東へ向かったのは誰か?
大化元年冬十二月条には孝徳帝の難波長柄豊碕宮遷都が出ているので、同条の「自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」が孝徳帝の遷都のことを言っていると考えて見過ごしてしまう。
しかし、その直後に、「越国言、海畔枯査、向東移去、沙上有跡、如耕田状」と書いている。
この文章は孝徳帝の遷都との関連が不明だが?当時の倭族の入植移民に関するものか?
またこの記述は当時の班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)に関する文言か?田状とある
「状」が「伏」の誤記ならは「田布施」と関係のある言葉ではないだろうか?

「枯査(いかだ:ボロ船の事か)が海岸に着いて、東に向かって移って行き、砂浜には田圃の畝のような跡が残った、と越の国では言っている。」◆畝は上陸時の臨時築城の陣地の土塁か?水田の畝か?この文章は大化二年是歳条の次の文章と一組ではないかと思われる。「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」
◆越国の二つの文章を合わせて解釈すると、「越国の海岸に船で着いた「鼠/ねずみ」連中が、昼も夜も次々に東に向かって移動して行っている」倭族の入植移民の暗喩であろうか?
652年(白雉3年) 班田終わる。戸籍作成。班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)に関する文言か?
◆日本書紀に見える鼠/ネズミの不思議な記述
皇極二年十一月条に、「鼠伏穴而生、失穴而死」
◆皇極2年「643年」古人大兄皇子が、「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬ」と言う。
一説によると蘇我入鹿の滅亡の比喩か?蘇我氏は元は国神の系譜の人「ねずみ」なのか?
天智元年夏四月条に、「鼠産於馬尾(鼠、馬の尾に産む)」
◆天智元年「662年」原文は夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北国之人將附南国、蓋高麗破而屬日本乎。「北国の人は南の国に服属するという意味。高麗が敗れて日本に服属するのではないでしょうか」
天智五年是冬条に、 「京都鼠、向近江移」
◆天智5年「666年」の事。次に近江大津京遷都は翌年天智6年「667年」の事。京都「当時の倭京」から近江に向かうネズミの姿が不気味だ。さてさてネズミとは何なのか?

◆デジタル大辞泉 - 城狐社鼠の用語解説 - 《「晋書」謝鯤伝から。城にすむ狐(きつね)と社( やしろ)にすむ鼠(ねずみ)を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下しがたいところから》主君のそばに仕えている、よこしまな家来。また、それが除きにくい事」とある。城狐社鼠の意味合いは私に意味合いが深いと思わせるものがある。

★「壬申の乱」の疑問符!「関ヶ原合戦」の疑問符!
この乱で近江朝側は盟主とされる大友皇子が首を吊って自決しても乱は簡単には収束していない事である。瀬田川の決戦に敗れて大津宮が落ち、大友皇子が首を吊って自決したのだから乱は全て収束すべきはずである。近江朝側に属していた人々は、なおも抵抗している。天智五年是冬条に「京都鼠、向近江移」は意味が深いと思われる。また小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は 672年の壬 申の乱の際、尾張国司守として大海人皇子(天武天皇)に味方したが、内乱終結後に自殺している。現代の感覚で言えば「勝ち組」筆頭として大海人皇子(天武天皇)に誉められた人物であるはずなのに?小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は謎の自害をしているのである。「関ヶ原合戦でも西軍から東軍に寝返った小早川秀秋は家康に誉められているのに後年謎の死を迎えている事である。勝利に大いに貢献したのに謎の窮地に追い込まれる両者!大海人皇子(天武天皇)は
小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)謎の自害を聞いて、何故小子部が自殺したんだろうと?
惚けている。なかなか本心を現さない人物、人傑である。近江朝側の人は大海人皇子(天武天皇)
の事を翼の有る虎を野に放つと表現している。これは中国の政治軍学書『陸稲』の影響であろう。

◆聖人行くとき、必ず愚色あり。
織田信長は「たわけ/うつけ」と蔑視されたが本心を現さず愚行を装った、恐ろしい人物。
大石内蔵助は「ひるあんどん」と蔑視されたが武士の本懐を成就させた軍学に通じる人物。
長宗我部元親は「姫若子」と一見軟弱と蔑視されたが四国を切り従えた稀代の英傑。
中国の政治軍学書『陸稲』なんと恐ろしい兵書であろうか?長谷川博美。


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剣熊考№12 驚愕 大彦命

2019-06-14 07:22:37 | 剣熊考
剣熊考№12 驚愕 大彦命(意富比危)おおびこ
◆稲荷山古墳の銘文発見の経緯
 1968年の稲荷山古墳の後円部分発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。
1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が実施された。鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌
で表されている事が判明。(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・
学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定、2年後、1983年には国宝指定。
◆銘文の内容(原文)
(鉄剣表面)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(鉄剣裏面)
其児名加差披余其児名世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
書かれている文字に読点を打って解釈すると、
◆読み下し文
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒヨ
(カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク
」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾[、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。(裏面)」

◆刀剣によるヲワケの臣の系譜
①上祖、(初代)名はオホヒコ「意富比垝」とは皇族の大彦と推定される。
『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人の鉄剣銘文にある「意富比垝」つまり「大彦命」と推定する人もある。

②タカリのスクネ「多加利足尼」

③テヨカリワケ「弖已加利獲居」

④タカヒシ(タカハシ)ワケ「多加披次獲居」

⑤タサキワケ「多沙鬼獲居」

⑥ハテヒ「半弖比」

⑦カサヒヨ「加差披余」

⑧ヲワケノオミ「乎獲居臣」

西暦471年説をとるとヲワケノオミが仕えた獲加多支鹵大王「ワカタケルのオオキミ」は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の大和の磯城郡には含まれていることになり、この通説に従えば21代雄略天皇の考古学的な実在の可能性もある。
◆雄略天皇は『日本書紀』の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)に相当すると考えられる?。また中国の記録にある倭王「武」とも言われる。
★「倭王武」とは?
武(ぶ)または倭 武(わ ぶ、生没年不詳)は、5世紀後半(古墳時代中期)の倭王。「倭王武」とも言う。
済の子、興の弟で、「倭の五王」の最後の1人。第21代雄略天皇に比定する説が有力視される。また『宋書』
『梁書』における「倭の五王」中の武にも比定され、以上のことから5世紀末頃に在位していた天皇と推測される。
稲荷山古墳の象嵌文にある。獲加多支鹵大王「ワカタケルのオオキミ」は雄略天皇と仮定し、その王を補佐して
いたのが稲荷山古墳鉄剣の銘文にあるヲワケノオミ「乎獲居臣」と言う事になる。
◆宋書には
『宋書』列伝夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとする。また順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔したとする。
◆倭王武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」とした事に余りにも驚く?

倭王「武」の上表文の内容は次の通り。
封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。

「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む」とある。
◆東征毛人五十五國,「関東の毛人55国を制した。」
西服眾夷六十六國,「西の衆夷の66国が服従した。」
渡平海北九十五國,「海を渡り北の95国平定した。」などと倭王「武」は極東の覇王の姿を強調し表現している。
しかしここに表わされた国が日本の郡県単位なら大袈裟ではなく納得する。
◆ヲワケノオミ「乎獲居臣」の七代前の先祖が(意富比危)つまり大彦であると鉄剣銘文から考えられる。
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は日本の第10代天皇
(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。3世紀後半頃に実在した大王と考えられている。
即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、
吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させる事となった。
従って、大彦命は崇神天皇「ミマキイリヒコ」の時代3世紀後半頃の人と推定される。
◆時代感覚の整理
崇神天皇「ミマキイリヒコ」の時代3世紀後半の人。彼の臣下に大彦「意富比垝」が居た事になる。
↓日本の時代は経過して↓
領土拡大した倭王「武」こと。日本の追号は雄略天皇。日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇
と言う事になる。雄略23年を機械的に西暦に換算すると479年となりヲワケノオミ「乎獲居臣」は大彦「意富比垝」
の七代末孫であり雄略天皇を補佐した人物。ヲワケノオミ「乎獲居臣」と言う事になる。

◆以下は対話式の超短編小説です。どうぞ宜しく小説として御理解下さいませ。長谷川博美
崇神天皇 大彦よ!(意富比危)よ!貴君を北陸道の将軍に命じる!行って参れ!
大彦命
 ハハーッ大君(おおきみ)様!ヤマトの北陸道将軍として恥ずかしくない武功を立てて、まいります!
崇神天皇
 武渟川別「タケヌナカワケ」よ!貴君をヤマトの東海道将軍として派遣する東北の会津にて「大彦命」と合流せい!
武渟川別命
 承知いたしました。「オオキミ様」に対して私は忠誠を尽します。
崇神天皇
 よいか!会津は相津でもあり合図でもある。双方が同士討ちしない様に矢羽根や合言葉は両軍事前に統一せよ! 
大彦命
 ところで!北陸道とは何と読むのですか?
崇神天皇
 北陸道と書いて「角鹿」つのが「敦賀」への道「くねがのみち」と読むのだ!よく覚えておけ!
【くね】 くね とは? 塀、生け垣 の事じや!ヤマトと越の国「こしのくに」の境を遮断する壁の事じや!
大彦命
 その道とはマガリクネル、天ノ曲「テンノクマ」や嶮熊「ケンクマ」の道つまり越前と近江の荒知の道の事でしょうか?
崇神天神
 汝が真のヤマトの四道将軍ならば、剣難の地を乗り越えてでも「くねがのみち」北陸道を安泰、鎮護、すべし!
大彦命
 天下の剣「天ノ曲」を乗り超えて越の国に至り、ヤマトと、大君の世を安泰とならしめて、まいりまする!
崇神天皇
 よう言うた大彦!ヤマトの四道将軍として恥ずかしくない大功を打ち立てて帰るて来るのじやぞ!

◆四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、
『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)など
◆崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は日本の第10代天皇
(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。3世紀後半ごろに実在した大王と捉える見方が少なくない。
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剣熊考 №11

2019-06-12 04:52:09 | 剣熊考
剣熊考 №11
◆長谷川
剣熊考を自分の思いにまかせて記述していますが老婆心ながら数少ない読者の方は№1から№11までを是非繰り返し読ん
で頂きたいと思います。加えて№11の今回は★や◆を注意して読んでいただけると嬉しく思います。剣熊は意外に
も長く続いておりますが、まだまだ継続すると思いますこ。令和元年の六月中旬に入りました。皆様梅雨の天候の変化
に気を付けながら御壮健にお過ごしくださる事を謹んで心より御祈り致します。長谷川博美 令和元年2019年6月13日
 

世界大百科事典 第2版の解説によると
あらちやま【愛発山】
歌枕。福井県敦賀市南部の山。有乳山とも記す。《万葉集》巻十に〈詠黄葉〉として〈八田の野の浅茅色づく有乳山峯の沫雪寒く降るらし〉がある。以降,詠歌は多い。主にもみじ,雪が題材となる。北陸道の入口で,愛発関(あらちのせき)が置かれたので,★①軍記物にたびたび描かれた。《義経記》の巻七には〈愛発山の事〉があり,★②義経主従が奥羽への途中に通ったことを記し,名義について,加賀白山の女神がこの山で出産し,あら血がこぼれたので〈あらち山〉というとする。
★①軍記物とは『信長公記』などの文献とは異なる後世創作された二次史料。
★②義経主従とは源義経と武蔵坊弁慶の主従の事。主君と従者「家来」の関係。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると
愛発山
あらちやま
福井・滋賀県境付近にあったとされる山。★有乳山、荒血山、荒乳山とも書く。山中を七里半越(西近江(にしおうみ)路)が通っていた。畿内(きない)から★③湖北の愛発山を越えると、全国屈指の★④多雪地帯となるので、中央の都人にとっては非常に重苦しく感じられたのであろう。そのため、この山での感慨をおりに触れて詠んだ歌が『万葉集』巻10に「八田(やた)の野の浅茅(あさじ)色付(づ)く愛発山峰(みね)の沫雪(あわゆき)寒く降るらし」と残されている。また『義経(ぎけい)記』『太平記』にもしばしば登場する。福井県敦賀(つるが)市南部の旧愛発村と、滋賀県高島市マキノ町★⑤小荒路(こあらじ)との間の山塊と考えられる。[印牧邦雄]
★③湖北とあるが湖西路も愛発山で越路へと合流する。
★④厳冬期の積雪量が多い事で全国区で知られている。
★⑤小荒路(こあらじ)とは 愛発関の出先機関の事か?
◆長谷川
「福井県敦賀(つるが)市南部の旧愛発村と、滋賀県高島市マキノ町小荒路(こあらじ)との間の山塊と考えられる。」に強く心を惹かれる。

精選版 日本国語大辞典の解説によると
あらち‐やま【愛発山】
福井県敦賀市にある山。古代、北側に愛発関が置かれた。歌枕。★⑥七里半越。愛発越。
※万葉(8C後)一〇・二三三一「八田の野の浅茅色づく有乳山(あらちやま)峰の沫雪寒く降るらし」

◆長谷川
★⑥「七里半越。愛発越。」の文言や名称にも私は個人的に強く心を惹かれる。
◆長谷川追想
父である故長谷川銀蔵と国道161号線を福井県敦賀市疋田から延々と滋賀県海津に向けて歩いた記憶がある。
所謂「七里半越。愛発越。」である、長い長い徒歩による親子による冒険の旅路であった。古代の旅人もこの道を
通り近江と越前を超え行き灌漑深く詩を詠んだ事であろう。国境峠で俗称「十字架地蔵」を見学した記憶がある。

『海津村史料 #18 閑窓随筆 (二) 閑窓随筆』を参考にさせていただくと
近境地理往事考

●海津県之境 海津トハ近境三庄ヲ統タル惣名也 三庄ハ★⑦嶮熊野 開田 大処是也 近世庄ノ名モ変リテ今ハ海津
東ノ庄 海津西ノ庄ト二ツニ分レリ 村数二十一ケ村也 其中ニ湊アリ 海津ノ湊ト称ス ★⑧此ヨリ越前国★⑨敦賀
ノ津ニ通ル道筋ヲヘ★⑩七里半ノ海道ト云 ★⑪海津ノ湊モ古今其地変レリ 其事奥ニ記ス
★⑦嶮熊野は文字どうり嶮熊に相当すると思われる。
★⑧は161号線に相当する福井県敦賀市に通じる街道。「越前国敦賀ノ津ニ通ル道筋ヲ七里半ノ海道ト云」に注!
★⑨敦賀の津は現代の福井県敦賀市敦賀港の事。
★⑩七里半ノ海道とは七里半ノ街道の事。
★⑪海津ノ湊モ古今其地変レリ 海津港と表現せず「湊」表現している事に注意。

●海津之名
 海津ノ湊ハ★⑫京都ヨリ北陸ヘノ道筋ナレハ往古ヨリノ名所也 山水ノ佳趣ハ洞庭西湖ヲモ奇也トセス 古人詩歌ニ詠シ歴史載スル事多カルヘシ サレドモ予カ井蛙ノ江海不知カ如キノ知見ナレハ僅一首ノ古歌ヲ証トスルナリ
★⑫京都ヨリ北陸ヘノ道筋ナレハ往古ヨリノ名所也とは京都から北陸への道筋と表現している。
★⑬堀川院百首         仲実朝臣
★⑬平安時代後期の百首歌。『堀河院百首』『堀河院御時百首和歌』『堀河院初度百首』『堀河院太郎百首』ともいう。

 荒路山雪気ノ空ニナリヌレハ

 カイツノ里ニ霙フリツゝ

海津ノ名此歌ヨリ見ヘタリ

 堀川院 人皇七十三代帝也 御即位ヨリ今享保十八年マテ六百四十年ニサル

平家物語巻七 竹生島詣云

 大将軍◆維盛道盛ハ進ミ玉ヘトモ副将軍忠度経正清房友教ハイマタ◆①近江国塩津貝津ニ控へ玉ヘリト云々
 是モ亦海津之名之出所也
◆①平氏/平家の事
◆②海津を貝津と表現している。
按ニ大軍北国ヘ下リ玉ヘハ湖ノ西畔ヲ通ル武士ハ海津ヘ控ヘ通ル武士ハ塩津ニ控へ玉フナルヘシ ◆③古クマ貝津ト書タルトミヱタリ 太平記ヨリハ海津ト書記
◆③剣熊の事か?

●七里半之海道

 海津ヨリ越前国ヘ通ル路ナリ 此道海津ヨリ◆④嶮熊野ノ庄ニカゝリ◆⑤荒路山ニ竝越前国山中ノ宿ニ至リ◆⑥駄口疋田三口ナントヲ経テ敦賀ノ津ニ至ルナリ 其里数◆⑦七里半アル故ニ七里半ノ海道ト名付タリ
◆④嶮熊野ノ庄の事。
◆⑤荒路山の事
◆⑥福井県敦賀市の駄口と疋田の三叉路の事
◆⑦七里半ノ海道の事
按ニ住古七里半ノ海道ハ◆⑧高木浜ノ湊ヨリ熊した路峠ヲ通リタルト云フ説ニ近境里人伝ヘ称スル事ナレド年代久シキニヨリ明証ナシ 又近境里人伝ヘ説ニ云 ◆⑨追坂山之新道ヲ開キ今ノ海津町湊トナリシト云々 此説ニ拠レハ◆⑨追坂道ヲ新道ト云ナレバ古道ハ◆⑩熊路峠ナルヘシ
◆⑧は滋賀県高島市マキノ町高木浜の事か?
◆⑨⑨追坂峠は現在は道の駅になっている。
◆⑩熊路峠とは剣熊の事か?または万字峠の事か?
太平記巻十七 北国下向勢ノ條下ニ云
義貞朝臣七千余騎ニテ塩津海津に著玉フ 七里半ノ山中ハ尾張守高経大勢ニテ◆⑪差塞ト聞ヘケレハ◆⑫道ヲカヘテ木目峠ヲ越ヘ玉フ 又云 河野土居得能ハ三百余騎ニテ後陣ニ打ケルカ◆⑬天ノ曲ニテ先陣之勢ニ迫殿ルト云々
◆⑪街道を封鎖した事。
◆⑫北国への旅路のルートを変更した事。
◆⑬天ノ曲とは?剣熊の事であろう。
 七里半ト云海道之名
 山中ト云宿ノ名

 ◆⑭天ノ曲ト云庄ノ名前ニ見ヘタリ

按ニ◆⑭天ノ曲ハ嶮熊之ケト テト通約之◆⑮嶮熊ハ本嶮熊野ノ庄古キ名ト見ヘタリ 山中村ノ故家粟津氏ノ家ニ弘安以来下シ賜ル御書アリ嶮熊野ノ庄トアリ 後世略シテ◆⑯嶮熊ト云 又里人ノ説ニ◆⑰剣熊ト云 剱熊正字之トイへ共俗説信固い信難 粟津氏ノ御書正字ナルヘシ 又按ニ太平記ニ道ヲカエテ木目峠ヲ越ルト云ハ作者地里ヲ不知シテ妄意ニ書立ルトミヱタリ 木目峠ハ越前国ニ入テ敦賀郡ヨリ北二アリ 尾張守高経七里半ノ山中サヘ★指塞ト聞ヘケリ 木目峠ヲ越ユヘキ憶ニ◆⑱小荒路村ノ◆⑲万字峠ヲ越ヘ塩津ニ新道野ヲ経テ敦賀ニ至リ金ケ崎山ニ籠城セラレシタルナルヘシ 叡山ヨリ裏下リ玉フナレハ今津海津ナルヘシ◆⑳塩津ト海津ハ嶮難ノ山テ隔テタルナリ 一ツゞキノ地ニアラス

●荒路山 歌書ニ有乳山共書シ 又荒血トモ書ス

按ニ古ヨリ越前国ノ名所ノ部ニ入 此山江州ヨリ越前ヘ連リタル山々ヲ統テ名付タルトミヱタリ 一峯ヲサシテノ名付タル山ニハアラヌ 海津ヨリ程近キ邑ヲ小荒路ト称ス◆21 此山二州ニ渡リタル一証ニナリ 江州海津ヨリ越前駄口マデ四里許ノ間ニ連リタル山々ヲスベテ名付タルモノト見ヘタリ
◆⑭天ノ曲ハ嶮熊之とは天曲=剣熊だと表現している。
◆⑮嶮熊ハ本嶮熊野ノ庄と表現している。
◆⑯嶮熊ト云と表現している。
◆⑰では剣熊ト云と表現している。
◆⑱小荒路村とあるこの地名は現在も存在する。
◆⑲万字峠が登場している。
◆⑳塩津と海津は剣難の山を経たててそれぞれ独立してあると表現している。現状も塩津谷国道8号と海津国道161号とは谷筋が異なる。
◆21「あらち山」は越前と近江の両国に存在すると表現している。

◆22●矢田野 荒路山ニムスビテ詠レタル古歌多シ
◆矢田野ハ越前国疋田新田野ノ間ニアル名所ナリと表現している。

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剣熊考 №10

2019-06-11 02:24:19 | 剣熊考
剣熊考 №10
◆藤原仲麻呂
彼は天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。これは当時交通
や交通軍事を考える上で重要な事であろう。

◆藤原仲麻呂の乱
藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)
とも言う。女帝、孝謙太上天皇・弓削道鏡の派閥と対立した彼は当時は太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)
と言うが「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」特権をも用いて時の政権を奪取しようとして失敗した事件であ
この乱は藤原仲麻呂が湖西で捕縛処刑されて、一週間で収束しているが剣熊を考察する上で重要な事である。
◆ 剣熊近辺の事
仲麻呂は愛発関の占拠を味方に命じた。しかし、部隊の通過を予期して待機していた物部広成らの為に、強行突破する
事が出来ず、撃 退されている。そこで、いったん※①角野郷に引き返し、ここから船で塩津に向かった。ところが逆風にあい
船を進めることができず、やむなく湖岸(西浅井町大浦付 近)に上陸、饅頭越え(マキノ町海津)で西近江路に出て、
再び愛発関を突破しようとするが、伊多智らの阻止にあって果すことが出来ず、仲麻呂の軍はやむな く西近江路に引き
返し南に向うと言う件がある。
◆※①角野郷(古代)の事
『高島郡誌』によると「平安期に見える郷名高島郡のうち「和名抄」に見える高島10郷の1つ当郷と関係の深い豪族に
高嶋郡前少領角家足がある天平宝字8年9月の恵美押勝の乱の時,越前に逃れようとした藤原仲麻呂は,湖西に道をとり,
角家足の宅に宿ったが,その夜仲麻呂の臥屋に甕ほどもある隕石が落下したという(続日本紀)家足はまた,天平12年
自らの墾田を正三位小野石根に寄進し,これがのちの子田上【こたなかみの】杣・川上荘の出発点となったと称される
(平遺2281)「延喜式神名帳」に載せる津野神社の鎮座地で,一説によれば現行の高島郡今津【いまづ】町北仰【きとげ】
・構【かまえ】・平ケ崎・桂・深清水・大沼【おおぬま】・中庄のあたりという。
◆饅頭越えとは?
饅頭越えとはは何であろうか?万字超えの事であろう。万字坂または万字峠とは高島市小荒路から長浜市黒山つまり大浦
に超える道の事である。この件に関して興味のある方は剣熊考 №1を是非読んで頂きたい。ここは剣熊や天熊とも呼ばれ
た天嶮険阻の地である。その地勢は若狭、越前、京都、美濃、様々な方向に通路が繫がっていて道の十字路の意味を持っ
ていたと私は推測する。
◆饅頭とは?
中国の天才軍師、諸葛孔明が発案した食品で本来は肉饅頭の事。日本には中世に甘い菓子として広がったとされる。さて
民俗学的な発想をするならば食品の饅頭と仏教の万字。曼荼羅「卍」は同義語とされている。簡単に言うなら東西南北を
表わした四方と言う意味がある。
◆万字峠には万字の刻印があるとか?
私は是を現実に見ていないので確証がない。万字。満字。卍など方位を表したり陰陽師や陰陽道を司る人を道師と古来
言う。諸葛孔明も道士だ。日本では蘆屋道満(あしや どうまん)なる人陰陽師が居たと伝承される。さてさて弓削道鏡
(ゆげのどうきょう)なる人も日本にいた。当時の女帝、孝謙太上天皇の側近である。また三世紀には鬼道をあやつる
卑弥呼も日本にいた。是は道教の一種とも考えられている古神道とも言えるものであろうか?
◆道とは一体なんぞや?道とは政治の
事を事を言う。古代中国の周の文王、武王、の理想化された政治を文武の道と言う。また日中に限らず地方には首長
となる諸侯が存在した。残酷な話であるが中国では「路」と「道」の2文字を使い分けている。地方の首長たる地方
王が中央の朝廷に反乱し征伐される地方王の首はこの「道」都へと運ばれるから道の文字が成立したと言われている。

◆万字とは?
サンスクリット語でSvastika (デーヴァナーガリー表記: स्वस्तिक、スワスティカ、スヴァスティカ)と呼ばれる。
英語の swastika やフランス語の svastika もこの語に由来する。現在の日本語では「まんじ」は漢字「卍」の
訓読みとされているが、由来は漢語「卍字」または「万字」の音読みである。 左卍と右卐があり、現代の日本では
左卍が多く用いられている。漢字では卐は卍の異体字である。 かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用
いられていた。日本、中国等の芸術において卍はしばしば繰り返すパターンの一部として見られる。日本では、寺院
の象徴として地図記号にも使用され、家紋の図案にも取り入れられている。まれに忍者を表す場合にも使われる。
『萬川集海』と言う 書物もある。城郭の縄張りには「万字縄」と呼ばれる縄張り術がある。スヴァスティカとは
全ての意味であろう。よろず「万」の事であろう。『万葉集』なる日本の詩歌の全集も意味の深いものだろう。

◆葛飾北斎から連鎖発想する剣熊界隈
画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」と晩年に称している。北斎とは北極星の事である。きたは古来
玄武「げんぶ」の地と言われ「玄」だけで「くろ」と和訓する。万字坂、万字峠、がある西浅井方には大浦の黒山
なる集落がある。何でも多数の石仏が出土した場所ともされる。一説によると黒山が織田信長の通行を妨げた伝説
があるとか?それは様々な時代の騒乱と剣熊の地が関係のある事を暗示するものであろう。是非行ってみたい黒山、
見てみたい石仏、そして黒山から万字坂を超えて峠の万字の刻印を見てみたい。しかし今の私には話し相手も仲間
も仕事も皆無である。またいつか善き人が1人2人と集う機会が万が一にもあるのなら、小荒路、天熊、剣熊、
の世界を実際に見て見たいと思うが、今となっては相談相手も皆無の私である。

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