城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №9

2019-06-10 00:52:13 | 剣熊考
剣熊考 №9
◆はじめに
 律令三関の設置時期は天武天皇元年(672年)まは、同2年(673年)とされています。従って今回取り上げる壬申の乱の時代以前には不破関、
愛発関、鈴鹿関とまだ呼ばれていなかったと思われます。壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が初動で不破道を塞ぎ、優位に立ったことが知られています。天武天皇として即位した「大海人皇子自身」の戦訓も踏まえて、8世紀初頭の大宝令により三関が正式に警察・軍事の機能を兼備する事が法的に規定されました。また関を閉鎖する目的は東国から畿内への侵入を防ぐ為また特に中央で非常事態「内乱や謀反」が発生した時、その期に乗じての東国から畿内への侵入を防ぐ目的があるとされます。そして中央の謀反者の東国への逃走を防ぐ目的もあると言われています。天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では愛発関「小荒路/剣熊も含むほ」を閉じる事で仲麻呂が息子のいる越前国へ逃げる事を防いだと思われます。673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置されたとされます。

壬申の乱と険熊
◆壬申の乱「じんしんのらん」とは?
 この日本国の内乱は、天武(てんむ)天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に発生した古代日本最大級の内乱であり謎の多い騒乱とも言えます。実はこの騒乱の記録を私は何度読んでも理解しにくいのですが自分の個性を活かして述べたいと思います。天智(てんち)天皇の太子・大友皇子おおともおうじ(648~672)(後に弘文天皇の称号を追号)に対し、天智天皇の皇弟・大海人皇子(おおあまのおうじ/おおあまのみこ/おうしあまのみこと?)(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発しました。近江朝廷から見た場合には、反乱者である大海人皇子方が勝利するという、日本では例の少ない内乱であったと言われますが 海外から見れば韓半島の関係も含めた倭国の大乱の一種と私は考えます。「乱」の名称の由来は、天武天即位の皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)に因むものと言われています。主な文献は『日本書紀』(にほんしよき)の巻二十八(壬申紀)「じんしき」や、『日本書紀』の天武紀を参考にしたいと思います。

◆壬申の乱と険熊
近江方の将軍、羽田公矢国「はたのきみやくに」とその子、大人「うし」らは、一族郎党を率いて大海人方「天武方」に投降しました。大海人は改めて矢国を将軍に任じて北の方の越国に入らせました「北陸道将軍」これは大津の宮から「越前」敦賀へ逃げる道(つまり険熊)へ近江朝廷側が逃げる「または北国と連絡をとる」道を塞ぎました。大津の近江方は「関ヶ原の玉」玉倉部と言う所を攻めましたが大海人は出雲臣狛「いずもの おみ こま」を遣わして是「近江方」を破りました。近江朝廷方は逼塞「封鎖包囲」させられつつありまた。
◆フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
羽田 矢国(はた の やくに)は、飛鳥時代の人物。名は八国とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は公、後に真人。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側に寝返り、琵琶湖北回りの軍を率いて三尾城を攻略した。大弁官。冠位は直大参、贈直大壱。

●壬申の乱での羽田 矢国(はた の やくに)活躍
壬申の乱が勃発した際、矢国は近江の朝廷側の軍の将として、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にありましたが。この近江朝廷軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破にある大海人皇子の本拠を攻撃しようとしましたが、7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、軍勢は混乱して止まった。このとき、近江の将軍・羽田公矢国とその子大人らは己の族を率いて大海人皇子側に「東軍/関ヶ原方」に寝返った。斧鉞「王ら将軍に下賜さつれる征伐鉞マサカリを」授かり、時節将軍となり、ただちに北越「越前方面/愛発方面」に行くよう命じられました。 矢国は琵琶湖東岸を北進して越国への入り口「愛発/★剣熊」を押さえてから、湖西を南下したと類推される。7月22日、矢国は出雲狛と共に三尾城を攻め、これを降します。この三尾は、現在の滋賀県高島市にある三尾里にあたると推定されています。同じ日に味方「東軍/関ヶ原軍」の主力軍は瀬田で「近江朝廷方」の最後の防衛線を「瀬田の唐橋」を破った。翌23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺し、乱は終わった。とありますが実際には大友皇子(弘文天皇)崩御の後も内乱は継続しておりますから壬申の乱の本質とは?大友皇子(弘文天皇)を盟主としながらも大友皇子を擁立する事によりその権益を獲得しようとする派閥と大海人皇子(天武天皇)を擁立してその権益を得ようとする派閥争いかと私は考えていますが?また私は古代倭国の王朝の特徴として兄弟による王統の相続(家父長制とは異なる)の特徴でもあろうかと思いますが?

◆コーヒーブレーク『信長公記』との比較
 壬申の乱では大津宮を中心とする近江朝廷側と関ヶ原を美濃を中心とする勢力が瀬田の唐橋で激戦を展開しますが、大津坂本城を本拠とする明智光秀は本能寺の変の後、近江瀬田の唐橋を守る山岡氏が瀬田の唐橋を燃やして明智の安土侵攻を遅らせる事象があります。関ヶ原合戦でも京極高次の大津篭城戦が展開されています。また武田信玄が病床の朦朧とした状況で「明日は瀬田に我旗を立てよと言ったと言われています。まあ関ヶ原の戦い黒血川の戦いなども同類の戦いともいえます。そう言えば不破の関が黒血川で「くろち」愛発関「あらち」の関が何故「あらち」なのかふと疑問に思いました。これは楽しくも素朴な疑問かもしれません。「微笑」

◆三尾城「みおのき」の戦いとは?
先ず(旧高島郡高島町)に所在した「三尾城」について、検討を致します。ここで合戦があったのは7月22日と言われます。『日本書紀』継体「けいたい」天皇即位前紀に「三尾の別業」(なりどころ/べつぎょう)とは、古代貴族の別荘のこと。(たどころ)を「なりどころ」と読ませて表記する事例もあります。『続日本紀』』(淳仁天皇の条、惠美押勝の乱の記述には「高嶋 郡三尾崎」記述が見えます。『延喜式』兵部省には駅路の「三尾」があります、『和名類聚抄』に「高嶋郡三尾郷」の郷名があり、『万葉集』歌のなかには「三尾 の勝野・三尾崎」など三尾の名が見えます。三尾は、古代の高島郡三尾郷の地を指している事に関しては間違いないと思われます。また険熊が三尾城の北に位置し、壬申の乱でもこの道(西近江路や七里半越が)が使われた事が推測されます。三尾城がどのあたりにあったのか、その築城時期された時期も『日本書紀』にも記述がありません、その位置は未だに考歴史学的にも考古学的にも確定されていません。壬申の乱当時の政治状況から検討すると大津の宮から湖西そして北陸方面からの防衛を考慮すると北陸の守りを愛発や険熊に西近江路方面に想定していたと考えられます。また険熊を近江朝廷側からみると三尾城は丁度中間(つなぎ/中継点)の位置とも言えるかもしれません。これはあくまでも私の主観と言う事で述べてさせていただいております。
◆三尾城を簡潔に再度学習
三尾城(みおのき]は、近江国(滋賀県)にあったと推定されています。古代日本の城。城跡の正確な所在地は不明です、現在の滋賀県高島市に推定されていますが。『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月条によると、天智天皇の死後、大海人皇子(のち天武天皇)・大友皇子の間で起こった争乱(壬申の乱)の際に、大海人皇子方は大和国・近江国の2方面に各数万人の軍勢を配して進攻しますが、近江方面軍はさらに湖北(湖西)方面軍・湖東方面軍の二手に分かれて、湖北方面軍において将軍の出雲臣狛・羽田公矢国らが北陸路を押さえたのちに7月22日に「三尾城」を攻め落としたという事です。

◆更に三尾城について
城の名称名「三尾」は地名で、『和名類聚抄』にも近江国高島郡に「三尾郷」と見えており、現在は滋賀県高島市安曇川町三尾里を遺称地とする説があります。三尾は天智天皇・大友皇子の営んだ琵琶湖西岸の大津宮の北方に位置する事から、この城は大津宮の北面防衛の目的で築造された城であったとも推測されます。築城時期は定かでありません、天智天皇の時代には白村江の戦い(663年)の敗北を契機として西日本の各地に古代山城(いわゆる朝鮮式山城や神籠石)が築城されており、三尾城も同様の背景による築城かと思われます。 具体的な城の所在地は、現在も明らかではありません。比定地には諸説あります、特に白鬚神社(高島市鵜川)北側の長法寺山に比定する説があります。ここはで長法寺跡(伝・嘉祥2年(849年)創建)や中世山城跡が重複する事もあって、確実な遺構は明らかでないのですが、1982年(昭和57年)の調査では山中において7キロメートル以上に及ぶ長大な石塁などの存在が認められています。これを江戸時代のシシ垣(作物を守る為の猪垣)とする説もありますが、長大さ・水門などシシ垣とは異なる箇所もあり、後世に猪垣へと転用されたとしても元々は)古代山城の遺構である可能性もあります。 また三尾の地は、継体天皇の出自と関係したと思われる古代豪族の三尾氏がいたとされます。三尾氏は韓半島の文化の影響を強く受けた氏族と考えられ、三尾城の築城要因は三尾氏を推定する説もあります。『日本書紀』天武天皇元年(672年)5月是月条では「自近江京至于倭京、処処置候」つまり近江から大和にかけての、道には候(うかみ、斥候・監視所)が置かれた事から、三尾城は城郭ではなくこのような監視所や見張りであったとする説もあります。この地の地勢は既に湖西/琵琶湖西岸における陸と湖の狭隘部であり十二分な要害性に富む地形と思われます。また同山中には中世城郭の打ちおろし城もあり『信長公記』によりますとこの城に織田信長も陣取り高島郡を攻めた記録が残っております。また木戸城や田中の城は明智光秀に拝領されたと記されてあるのですが、、今夜は疲れましたので、これぐらいで記述を終了致します。「微笑」
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剣熊考 №7

2019-06-08 08:04:22 | 剣熊考
剣熊考 №7

◆剣熊考着手の発端

 長浜市西浅井町集福寺に私が迷い込んだ記事を発端としている。南北町の頃、見の曲「剣熊」の地で新田義貞の
北陸方面へ降る時、彼らの後続隊が西浅井の集福寺へと迷い込んだ事からも端を発している。ここで再度当地の
小字名を考察してみる事にしたい。

※先ず気になる地名は「余呉谷」である。当然余呉町池原とは集福寺超えを挟み婚姻や交流があった事が推定される。
 また「オサガタイラ」であるが、わしは過去に余呉町の行市山を越えて敦賀市の奥麻生「おくあそう」の長者屋敷と
よばれる場所に行った経験もある。大変な深山幽谷の地であり怖かった記憶がある。

※また西浅井の集福寺の人は北陸線が塩津谷に完成していない明治期には余呉町中之郷駅を目指して通行があった事。
次に遅越と書き「オソコエ」と読む地名である。余呉町に在住していた頃は「オクレ超え」と俗称していた記憶がある。
遅越「オソコエ」地名は河野氏等が難渋した路を言うのか?
◆『太平記』原文
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。
由来するものと私は私は推定する。この文中の「前の勢に追殿れ」の「追殿れ」は追い遅れと読むのだ。

※また次の「若山や城の腰」の地名は集福寺の中世城郭遺跡を指すものであろう。山門「比叡山領」であろうか?この
城址は大津の穴穂の壺笠山城にも酷似していて何故か幻想的でもある。今でも一部石垣が残っており興味深い土地だ。

上図には椿坂と椿井宿の二カ所が記された近江国細見図であるが『義経記』の能見山は越前燧城に流れる能見川であるが、
この椿坂と椿井宿の二カ所は私にとり摩訶不思議な場所である。先ず椿市なる集落を私は聞いた事が遠い昔に消えた集落
なのか?余呉町でも丹波なる集落が消滅したり下余呉の南組の式内「乃彌神社」が消えてしまったり。坂田郡の中山近辺
に男罪と書いて「オガリ」と読む集落が存在し、そこには「キトラ谷」の城址を私は大へん昔に発見しているのであるが。


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剣熊考 №6

2019-06-08 02:37:53 | 剣熊考
剣熊考 №6
◆近江剣熊には小荒路なる地名もあるが。『義経記』にみる国道161号線沿いの越前の愛発の描写を考察する。

三 愛発山の事

判官は海津の浦を立ち給ひて、近江國と越前〔の〕堺なる愛発の山〔へ〕ぞかかり給ふ。一昨日都を出で給ひて、大津の浦に著き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞなき。★①愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立枯れ、巖石峨々として、道路すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は、紅を注ぐが如くして、愛発山の岩角染めぬ所ぞなかりける。少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。見奉る山伏共、余りの御痛はしさに、時々代り代りぞ負ひ奉りける。かくて山深く分け〔入り〕給ふ程に、日も既に暮れにけり。路の辺二町許り分け入つて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。

北の方、「あら恐しの山や。是をば何と云ふ山やらん」と問ひ給へば、判官、★②「是は昔はあらしいの山と云ひけるを、何とてあらちの山とは名づけけん」と宣へば、「此山は余りに巖石にて候程に、東より都に上り、京より東に下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、「あはれ是程跡形なき事を仰せ候御事は候はず。人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血〔の〕山と申し候はんに〔は〕、日本國の巖石ならん山の、★③あらちの山ならぬ事は候はじ。此山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ」と申せば、判官「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」と仰せければ、弁慶「申し候はんとする処を、君の遮りて仰せ候へば、争か弁慶申すべき。此山をあらちの山と申す事は、加賀國に下白山に女体后の龍宮の宮とておはしましけるが、志賀の都にして、辛崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其月近くなり給ひしかば、同じくは我が國にて誕生あるべしとて、加賀國へ下り給ひける程に、此山の絶頂にて、俄に御腹の気つき給ひけるを、明神御産近づきたるこそとて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてげり。其時産のあら血を零させ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。★④さてこそあらしいの山あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて、笑ひ給ひけり。


★①「愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立枯れ、巖石峨々として、道路すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。」
 とあり、荒涼とした七里半超え、つまり161号線沿いの景観を描写している。

 ★②「是は昔はあらしいの山と云ひけるを、」と記している。
 敦賀市疋田の出郷の追分の孫字に「嵐」がある事には驚愕する。また敦賀の追分は近江塩津から疋田に至る到着点でもある。
 越前疋田には平家の小松重盛が近江と越前を結ぶ運河の開削を計画した場所とさ疋田船川なる場所も残っている。
 
 ★③「あらちの山ならぬ事は候はじ。此山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ」
 武蔵坊弁慶は和歌山の田辺、熊野方面から来た人物。また元来比叡山や廻国の山伏と考えられる。

 ★④さてこそあらしいの山あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて、笑ひ給ひけり。
 義経 も「あらち」の由縁は知ってるよと弁慶に笑って答えたと描写している。

 この石塔の写真は滋賀県長浜市集福寺の式内「下津塩津神社」にある河野氏のものと考えられる。河野通治か?

 余談であるが集福寺には熊野信仰が入ったと思われる。また中世城郭「若山城跡」も存在する。
 集福寺は比叡山領で一二坊伝承がある。
 以下の写真は滋賀県能登川の神郷亀塚古墳を訪問した際の式内「乎加神社」近辺にある石塔の写真。


 勿論この近辺に和田山城があり『信長公記』にも登場する。素晴らしい土塁による縄張は進歩的だ。
 織田信長はこの和田山城には美濃三人衆を派遣するだけで和田山城には強引に攻め寄せてはいない。
 孫子兵法にいわく。強い敵を攻めるのではなくて敵の弱点を攻めなさいとある。まさに是であろう。





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剣熊考 №5

2019-06-07 15:31:57 | 剣熊考
剣熊考 №5
◆№5 はじめに
 剣熊や天熊の地名は滋賀県湖北や湖西や越前近江国境に住む歴史に詳しい人ならば誰でも知っている事
 である。しかし日々の生活におわれる現代人にとっては 剣熊や天熊の地名は、何の意味も持たない事
 なのかもしれない。何の気無しに剣熊や天熊地名に取り組んできた、私にとりこれだけ継続して剣熊や
 天熊の地名がこの地域の交通史を語る上で重要であったのかを再認識させた事は重要な事である。本稿
 はまだ続くと思われるが敦賀市、長浜市、高島市、に住む皆様の共同認識として、剣熊や天熊の地名が
 長く後世に顕彰喧伝されこの地域に住まいされるの人々の産業文化の隆盛を謹んで祈念致すところです。
 また元滋賀県知事谷口久次郎氏が西浅井町から出て滋賀県民の隆昌を計られた事に深く敬意を表します。

◆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事
を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。
生涯
滋賀県西浅井郡大浦村(現滋賀県長浜市西浅井町大浦)に生まれる。早稲田大学通信教育部法科を卒業し、
故郷永原村の村会議員・村長を務め、県農協連合会長・県農業会議長等を歴任し、県会議員を2期務めた。
1958年(昭和33年)に滋賀県知事選に立候補し、自由民主党反主流派(堤派)と社会党の支持と農業団体
を背景にした選挙戦において、元農林大臣で現職知事の森幸太郎を破り第39代滋賀県知事に就任した。以降
2期知事職にあり、1973年(昭和48年)8月9日老衰により自宅で死去した[1]。 知事在職中、日本は高度
経済成長時代にあり、滋賀県経済も伸張し高校5校の新設、琵琶湖大橋建設、県警庁舎・県合同ビル新築など
の大型公共工事を行った。知事就任前年より開始した大中湖の干拓事業も総事業費41億円をかけ、1964年
(昭和39年)に干陸し、1966年(昭和41年)から入植(216戸)が始まった。知事を辞した翌年1967年
(昭和42年)には勲三等旭日中綬章を受章した。叙従四位。

◆『源平盛衰記』から、敦賀、高島、長浜の地名を探す。

『源平盛衰記』寿永二年四月十七日、木曾追討の為に官兵北国に発向
~中略~西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連たり。東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、~後略

◆長谷川的※解説
①『源平盛衰記』②寿永二年四月十七日、③木曾追討の為に官兵④北国に発向
~中略~⑥西路には⑦大津、三井寺、片田浦、比良、⑧高島、木津の宿、今津、海津を打過て、⑨荒乳の中山に懸つて
、⑩天熊国境⑪匹壇、三口行越て、⑫敦賀津に著にけり。其より⑬井河坂原、木辺山を打登、⑭新道に懸て還山まで連たり。
⑮東路には、⑯片山、春の浦、塩津宿を打過て、⑰能美越、中河、⑱虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎北国に下向と
聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、~後略
①『源平盛衰記』とは?フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
によれば『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。
※げんぺいじょうすいきと読む学者も多い。
②寿永二年四月とは?寿永2年(1183年)
※寿永二年当時の歴史的背景 寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)は、寿永2年(1183年)10月に
朝廷から源頼朝に下された宣旨。頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
頼朝による東国支配権を公認したものとされる。寿永の宣旨とも言われる。
③木曾追討の為に官兵北国に発向
朝廷方は木曽義仲を追討し、その後、兵衛佐(頼朝)を追討しようとして、北陸道へ討手を派遣した事。
④北国に発向
北近江をも含む越前方面の事
⑥西路
西近江路の事。京都から琵琶湖の湖西を経て越前に向かう道。湖西廻りの道。
⑦大津、三井寺、片田浦、比良
大津は滋賀郡「志賀郡」の事現在の大津市の事。
三井寺、みいでら、は大津市の三井寺。
堅田浦は、滋賀県大津市堅田漁港の事。浮見堂も近くにあり琵琶湖大橋も近い。
比良は現在の大津市比良つまり比良山系の山麓。
⑧高島、木津の宿、今津、海津
高島は旧高島郡で現在の高島市
木津の宿は滋賀県高島市新旭町饗庭の木津浜近辺の事か?
今津は元滋賀県高島郡今津町。現在は高島市今津「余談であるが琵琶湖周航の歌には明日は今津か長浜かとある」
海津は旧高島郡海津で現在は高島氏に所属、湖西湖北を代表する港町、中世には浅井氏縁戚の海津城も存在した。
⑨荒乳の中山に懸つては?
七里半超えつまり現在の国道161号線を経由する事。
荒乳は越前愛発や近江小荒路に掛かる古来よりの古歌の枕言葉。
⑩天熊国境
剣熊や天熊であり、越前と近江の国境「くにざかい」。
峠の近くにある国境集落をとってこう呼ばれ、地形的な峠としても交通史的にも重要なところと言える。西近江街道。
702年に置かれた古代三関の一つ・愛発駅はこの峠の北にある山中集落のあたりだったというのが説もあるが未画確定。
⑪匹壇、三口行
匹壇、は間違いなく敦賀市疋田の事『信長公記』には「引壇の城」として登場する。
古代三関の「愛発関」あらちの関の最有力候補地この地は湖北に向かう道と湖西に向かう道
と北陸に向かう道の三叉路に相当する。国道8号線と国道161号線が合流する交通の要衝の地。
近代においても疋田検問所が設置された。三口は敦賀市「道口みちのくち」と推定されるが?
★『義経記』にみえる三口とは何か?
『義経記』には
三の口の関通り給ふ事
夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前國へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。
其処を三の口とぞ申しける。これは素晴らしい特筆される大変な記述であろう。
⑫敦賀津
北陸道随一の名港。古代には角鹿津に迎賓館に相当する施設や近代にはロシア領事館も設置された著名な要衝の地。
⑬井河坂原、木辺山を打登
井河(敦賀市井川)・坂原(敦賀市葉原)・木辺山( 木ノ芽山)※木の芽峠の事と推定される。
この木の芽峠は『日本紀略』によれば、官道の北陸道の一部として、天長7年(830年)に道が開かれた。しかし、
道の険しさや冬の厳しい気候のために、難所の一つであった。このため、中世には、北陸道(北国街道)は東の
栃ノ木峠(現在の国道365号)滋賀県方面のルートに移動した。 木の芽峠は木の目峠とも書く。
⑭新道に懸て還山まで連たり。
帰山・還山(読み)かえるやま
精選版 日本国語大辞典の解説によると
かえる‐やま かへる‥【帰山・還山】
福井県中部、南越前町南今庄(旧帰村)にある丘。蛙山。海路山。歌枕。
※古今(905‐914)離別・三七〇「かへる山ありとはきけど春がすみたちわかれなばこひしかるべし〈紀利貞〉」
⑮東路には
近江の東部廻りの道
⑯片山、春の浦、塩津宿を打過て
片山は旧近江国浅井郡片山で現滋賀県長浜市で近江国浅井郡の延喜式内 片山神社
春の浦は旧近江無伊香郡飯浦「はんうら」現長浜市木本町飯浦国道8号線沿いの地
塩津宿は滋賀県長浜市塩津道の駅塩津がある場所
※この当時の通路は船を使ったか?湖畔の狭隘な道を使ったと推定される。
途中の湖岸には阿曽津に有漏神社あり。
また長浜市西野に若狭街道の道標あり、また近隣に熊野と言う集落あり。
⑰能美越、中河、虎杖崩より
能美越とはズバリこれである。
『義経記』には
三の口の関通り給ふ事
夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前國へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。
其処を三の口とぞ申しける。これは素晴らしい特筆される大変な記述であろう。

中河は中河内の事であろ。疋田からは池河内を経由して中河内に至る古道が存在する。
しかし近江国椿坂には柳ケ瀬関以前に関所が存在した伝承が『淡海温故禄』に残っており椿坂峠とも
考えられるが。
能美山が椿坂峠または栃ノ木峠に該当するのかは保留としておきたい。越前の能美川と思われるのだが?
しかし『信長公記』天正三年九月 日、九月廿三日、北庄より府中まで御出で。廿四日、つば
井坂、御泊。とある椿井坂はもっともっと注目されるべき地名であろう。

⑱虎杖崩「栃ノ木峠も含む」とは福井県の板取の事であり。崩れとは絶壁の事であろう。
虎杖山には越前一向一揆の時の虎杖いたどり砦があると言う。



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剣熊考 №4

2019-06-06 10:01:16 | 剣熊考
剣熊考 №4
◆違う時代に行ってみる。同じ日本なのに倭語とはむずかしい。

ここにある世界は大化2年648年の世界である。
京師と書いて「みさと」と読ませている。勿論大和政権の中心部の意味であろう。
畿内国司と書いて「うちつくにのみこともち」と読ませている。近畿の諸国の
県知事や府長クラスの人の事であろう。
郡司と書いて「こおりのみやつこ」と読ませててる。郡の郡長の事であろう。市長さんクラスか?
関塞と書いて「せきそこ」と読ませている。
この言葉は剣熊や関ヶ原や鈴鹿や愛発などを考える時に大変魅力的な古語である。
塞と書いて「ふさぎ」と読ませる事もあるが、ここでは塞を「そこ」と読ませている事だ。
◆精選版 日本国語大辞典の解説では
ソこ【塞・塁】
〘名〙 要害の地に設けてあるとりで。要塞(ようさい)。
※『日本書紀』(720年)敏達一二年是歳(前田本訓)「毎に、要害(ぬみ)の所に、堅く、塁塞(ソコ)を築けむ」
とあり大変興味深い。
※『太平記』(14C後)一九「とても勝べき軍ならずと一筋に皆思切たりけれは城を堅し塁(ソコ)を深くする
謀(はかりこと)をも事とせす」とあり大変興味深い。
斥候と書いて「うかみ」と読ませている。見張りや偵察の事であろう。
ブリタニカ国際大百科事典では
「斥候」 うかみ
古代の間諜。敵の様子を探る者。「うかがい見る」の略であろう。『日本書紀』継体天皇,推古天皇の条に「候」
と出ており,大化2 (646) 年,大化改新の詔に初めて「斥候」とみえる。壬申の乱の直前,近江朝廷側が
大海人皇子側の様子を探るために利用したらしい。」とあり間諜とは忍者やスパイの事である。
守人と書いて「さきもり」と読ませている。砦を守る戦士や兵員の事であろう。
駅馬と書いて「はゆま」と読ませている。文字通り早馬の事、緊急連絡制度の事であろう。
伝馬と書いて「つたわりうま」と読ませている。後の徳川家康の作った伝馬制「でんませい」の原型であろうか?
鈴契とかいて「すずしるし」と読ませている。
駅鈴とは 646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って
造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。
日本の独自のスポーツに「駅伝」がある事に興味を引く。
◆剣熊には古代の駅が存在したのか?
現代の国道161号には道の駅 駅名マキノ追坂峠が存在する恵美押勝の乱に関係する地名なのかは私は
解らない。しかし延喜式には 鞆結「ともゆい」駅 が当地、剣熊には記載されている。駅馬は九匹いたようだ。

◆鞆結駅の鞆「とも」とは何であろうか?
鞆を着用した射手。『年中行事絵巻』より
鞆(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具である。
古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字である。と言う。
また 三省堂 大辞林 には
① 船尾。船の後部。 ⇔ みよし ・ へさき
② 馬の腰から腿(もも)にかけての部分。後肢。とある。
デジタル大辞泉の解説によればとも‐づな【×纜/×艫綱】とあり
船尾にあって船を陸につなぎとめる綱。もやいづな。ともあ。
鞆結駅の鞆「とも」とは 船や馬に関係する言葉と私は類推する。
そもそも高島市マキノ町の語源は(旧:西庄村牧野に由来)して
朝廷の牧場が存在した可能性や高島の饗場は朝廷の饗庭に由来
すると、私は考えている。従って饗場氏は名族と私は推定する。
◆朝倉義景館の堀から出土した(御者たやとの」は
高島郡の馬飼の仕事をする田屋氏の馬の調教の事なのか?

◆剣熊考 途中経過
 何の脈絡もなく高島市「小荒路」を考察している間に「万字峠」や「剣熊村」や「天熊の関」にまで
及びまた古代の宿駅である「鞆結駅」にまで及んでしまい驚くばかりだ。この地は日本国屈指の天下の
「嶮」の1つではないのかと思うほど、この地には魅了される。さてさて『太平記』の当該地の例文
剣の曲やその他『源平盛衰記』そして「壬申の乱」「恵美押勝/藤原仲麻呂」の乱にも関わる古来より
伝わる「天下の要衝」と思われる。

◆コヒーブレーク「ちょと余計な事」
唱歌や童謡の世界 『箱根八里』
この歌は明治34年(1901年)に創作されたものであり剣熊とは関係ないものだ。しかし箱根八里や当地
剣熊つまり7里半超えや国道161号が近畿から北陸に繫がる要衝である事や『箱根八里』が戦国後北条
氏や関東の江戸に開府した徳川政権の重要な関所である事を考えると創作された『箱根八里』の歌詞は
明治の頃の人々の心の中を伺う資料として貴重な存在であろう。
箱根八里
作詞:鳥居  忱(まこと)
作曲:滝廉太郎
歌唱:中学唱歌
制作:滝野細道

箱根の山は 天下の嶮
箱根の山は 天下の(てんかの=この国(世)中で一番の)嶮(けん=険しいところ)
函谷關も 物ならず
函谷關も(かんこくかんも=中国長安の都を守るため険しい谷合に設けた関所も)物ならず(ものならず=ものの数
ではない、比ぶべくもない)萬丈の山 千仞の谷、萬丈の(ばんじょうの=1丈は10尺約3.3mで、非常に高い)
山 千仞の(せんじんの=1仞は1尋に同じで約6尺、2m弱で、非常に深い)谷前に聳え 後に支ふ
前に聳え(そびえ=万丈の山がそそり立ち) 後に(しりえに=背後に)支ふ(さそう=千仞の谷が八里道を支える)
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす、雲は山を巡り(=雲は山をよこぎったり、山頂をかすめて流れ) 霧は谷を閉ざす
(=霧は蓋をしたように谷底を隠して湧き立っている)昼猶闇き 杉の並木昼猶闇き(ひるなおくらき=日中でも木
の下闇で暗い) 杉の並木(=関所前の杉並木)と歌詞は続いているのであるが、、、、
◆函谷關とはなんなのか?
 勿論「函谷 はこたに 関」とは読まない。函谷関(かんこくかん)は、中国河南省にあった関所。この関より西を
関中といい、中原から入る上での交通の要衝にあり、歴史上多くの戦いが行われ、また故事が生まれた。場所だが
 函谷關と箱根の「ハコ」韻が面白い。
◆箱根と秀吉 剣熊と秀吉
天正18年 関白羽柴秀吉は西国の軍勢を率いて箱根湯本や石垣山に陣城を「一夜城」を築いて関東の大国後北条氏の
本拠小田原城を攻略するのであるが、秀吉は天正11年賎ケ岳の戦いにも、旧織田軍北陸方面指揮官である柴田勝家に
勝利する。秀吉は余呉庄「長浜市余呉町」や木ノ本町に多数の陣城を構築して柴田勝家の南進を防ぐ長期戦を展開した
一方柴田方も余呉町柳ケ瀬に内中尾山に巨大な陣城を事前に構築して完璧不敗の陣容を整えていた。結果として秀吉は
賎ケ岳で勝利した。さてさて当時越前と近江を結ぶ街道は北国道だけではない。塩津街道や七里半超えつまりは剣熊を
塞いで西近江路からの柴田軍の京都進行を防ぐ体制「シフト」が必要となってくる。
◆丹羽長秀の策謀
何をおいても丹羽長秀の策謀術の深謀遠慮には驚愕する。天正10年段階に既に丹羽長秀は時局の趨勢を予測して山崎
合戦が勃発する前段階で明智の娘婿で近江高島郡の領主織田信澄を大坂で暗殺している。信澄は織田信勝の遺児であり
信勝とは織田信行の事である。柴田勝家の旧主とは織田信勝なのである。勝家の「勝」は信勝から拝領したものであろ
う。義理に硬い柴田は津田信澄として養育している。信澄は一段優れた人物であったらく勝家に育てられ光秀の娘婿と
なり更に織田信長から近江高島郡大溝城を与えられた秀才である。しかし人間社会は秀才よりも社会状況を冷徹に予測し
て行動する人間が栄達するのが常で原則である。
◆丹羽長秀の剣熊と塩津を封鎖し秀吉の覇業を補佐する。
天正11年賎ケ岳合戦の前段階で丹羽長秀は塩津海津に兵員を七千配り置いているのである。流石は丹羽長秀抜かりなく
剣熊の地と塩津を抑えている。そして賎ケ岳の本戦では柴田方により落城寸前の賎ケ岳城に海津方面から要領よく船
で到着し賎ケ岳城で秀吉と合流して。丹羽長秀は名言を吐く「五郎左がこの表に到着したからには、秀吉方の将兵は
安心せよと」豪語するのだ。丹羽長秀なんと言う要領の良い人間であろうか?賎ケ岳に秀吉と長秀が到着した頃には
柴田軍に属していた前田利家はすかさず塩津谷へと下り越前府中に帰還している。利家は秀吉に服従して加賀百万石
の巨利を得ている。流石は前田又左衛門だ。戦場から逃げて百万石を得る漁夫の利と言うか。戦わずして、勝利する
兵法は『孫子兵法』に言う最上策の極意である。前田利家が算盤を持つ画像がある事にも驚いてしまう。「微笑」
◆丹羽長秀の琵琶湖高島郡からの湖上も進撃策戦と足利のうみ。だろう?
さてさて湖西では琵琶湖が足利のうみ。と呼ばれた事もある。
また古代の人が湖西高島から湖北に急ぐ様子もこの万葉歌から推測できる。
万葉集
小 弁
巻09-1734  
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ。

◆余呉のうみ 鳰のうみ  琵琶湖  あしりのうみ
 私は長浜市余呉の出身であるから、余呉湖を「よごのうみ」と言う習慣を持っている。
第一級文献資料とされる『信長公記』元亀三年の条には「与語の入海」なる記述がある。
さて湖を「うみ」と表現する根本原因は古代海洋系民俗の近江移住の影響が推定される。
ワタツミ(綿津見)は海を表す古代語であり「安曇」あど「和邇」わに、「志賀」など
の海洋系の地名が滋賀県内に残る。滋賀県内には「薩摩」「宇佐」「志賀」「日向」等
の九州系を連想させる地名や神社も存在する。さてさて滋賀県民ならば琵琶湖の古名称
が「鳰の海」におのうみ である事は誰でも知っている事だ。さてさて近江の万葉集に
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ と言う名歌
がある。古代の湖西の人が湖北に向かう様子が見事に描写されている。そして琵琶湖
に関して信頼のおける角川地名辞典「滋賀県」では以下のように説明している。
鳰ばかりではなく「あしりのうみ」とも呼ばれたと表記している。湖北に早崎
なる地名があり早船を連想させるものだ。

『近江國輿地志略』には「北にては足利のうみといふ、高島郡にての稱なれば」とある。
つまり著者 (寒川辰清【さむかわとききよ】は高島郡では あしりのうみ とも言うと。
記していると思われる。考察するに湖西の人は湖上交通の利便性を足利と表現したのか? 






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