名人堀久太郎と奥田直政は戦国双頭の鷲
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奥田直政は天文16年(1547年)尾張中島郡
奥田庄にて、奥田直純の子として生まれる従弟
・堀秀政の伯父の一向宗の僧のもとで秀政と共
に幼少期を過ごす。この伯父が2人に先に手柄
を立てた方にもう一方が従い協力し家名を興す
よう諭し、秀政が先に手柄を立てたので直政は
その家臣になったといわれる。なお、この種の
逸話は加藤清正など他の武将にも見られ、創作
との指摘もある。
私は堀秀政と奥田直政は羽柴秀吉、羽柴秀長の
の様に二人で1セットの役割を果たした人物と
考えている。織田信長は『信長公記』を見る限
り。秀吉の弟小一郎秀長も、一廉の武将として
その記述から推定される。秀吉と秀長は二人で
社長と専務の様な役割を果たすと私は見ている。
堀久太郎秀政と奥田直政も二人で1セットの役割
をなしていたのではないかと私は常に考えている。
天正11年賎ケ岳の戦いでは前半3月には秀政らは
滋賀県長浜市今市の山上に陣取りその陣小屋を
黒田官兵衆が久太郎小屋を柴田方に利用されない
様に撤去を命じた文献が発見されている。ただし
合戦に参加せず京都で療養していた柴田勝豊らの
参戦は柴田勝豊らの家臣「長浜衆」が余呉に派遣
されているので黒田官兵衆が直接黒田官兵衛参戦
の証拠になり得ないと思われる。この久太郎小屋
とは如何様な構造持つ陣小屋であろうか?
先ず堀秀政が賎ケ岳合戦で本陣守備した東野山城
の図をよく観察して頂きたい。土塁の内側に存在
する事に着目願いたい。この形状を何度も何度も
焼き付けて頂きたい。この城の他に連結して菖蒲
谷にも城塞を普請している。つまり秀政と直政の
それぞれの陣城と推定される。四角い部分に注目
さて小一郎や黒田官兵衛衆により取り壊された陣
久太郎小屋をどうしたら発見認識できるであろう?
以下の図は東野山から約1㌔m北にあり合戦の初期
佐久間勢の布陣により前線から撤退した久太郎小屋
の残骸であろう。非常によく似た陣跡であり現地は
西陣東陣と呼ばれている。これを合戦初期段階の堀
秀政と奥田直政の陣と仮定した場合。両者の陣跡は
規模が拮抗しており11間四方の両者の陣跡が主従を
成すように残存している事であ。類推するに堀秀政
と奥田直政はよりそう様に布陣していたと考えられ
る。従弟同士の陣跡と言えようか?何れにしても堀
秀政と奥田直政らはあの強豪柴田勝家をも防ぎ秀吉
に天下掌握の機会を与えた事であろう。
長谷川博美共著紹介