城郭 長谷川博美 基本記録

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小谷城見学予約者殺到の原因と物生山城

2021-01-03 06:25:14 | 社会観察
城郭ビイスタ論 上文字クリック

小谷城見学予約者殺到の原因と物生山城

物生山城
Unknown (勝手な想像ですが)
磯山城じゃなくて物生山城を付け城にすると、
信長型の城が綺麗に東西南北に並ぶから、
そうしたんじゃないでしょうか。琵琶湖
城郭ネットワークの4城を結んだらひし形
になるのと同じ程度の理由で。

有識者
説は兄が角を出して言葉で弟に高圧的説教
するから説。その兄の説が金メッキの如く
薄いならば説とはペラペラと剥がれ落ちる。
でも世の中は平気でウソを言う人が人気者。

対談者
令和2年12月19日に予定されていた。長谷川
先生講師の小谷城見学会は惜しくも主催様か
から、積雪中止電話連絡入った。聞くところ
によりますと冬にも関わらず先生の人気実力
ともに抜群と関係者の方々が言ってました?

長谷川
困ります。人気も実力も支持者も私には無い。

一般者
でもね人気ですよ。小谷城でテレビ出演した
人気ガイド宮本さん、城郭解説の長谷川先生
これもう小谷城城郭遺跡見学の白眉本命です。
しかも観光客様に遠慮して冬期の城郭遺跡が
明確に観察できる中世城郭遺跡見学に適応し
た期日を選定されている事に深奥が存在する。
天体を観察するのに雲の多い天候では不利で
す。城郭遺跡は樹木繁茂により城郭遺跡観察
する季節に探訪しても三段、二段、一段石垣
は全く見えません。植物が城を見えなくする
煙幕のような、存在である事は当然の理論で
長谷川先生は元滋賀県中世城郭分布調査員で
すから他所の県から琵琶湖に入って来た外来
種の淡水魚じやなくて琵琶湖純正の滋賀産の
城郭研究家ですから琵琶湖原産の鮎や鮒と同
じで滋味があります。滋味とは滋賀本来と言
う意で今回私は使いますが滋賀本来の研究者
という意味で長谷川先生を滋味ある歴史城郭
研究家で城郭本舗であると定義づけています。
食通ならば琵琶鮎の美味しさを、琵琶モロコ
格別の味を知っているのと同じ事なのです。

対談者
要するに12/19は真実や誠実を求める歴史愛好
家様達が宮本さん長谷川先生の小谷城の一段
石垣、二段石垣、三段石垣を強く希望した事。
研究者の切口と城観光とは全く別の分野です。

▼小谷城三段石垣
▼小谷城二段石垣
▼小谷城一段石垣
一般者
しかし小谷城の一段、二段、三段、石垣の見学事案
と言う企画をされた長谷川先生こそ正に地に足が付
いた私達、滋賀、近江が生んだ、オリジナル本格派
地味で本格的城郭研究家と言えると私達は思います。

対談者
見ていなさい!長谷川先生は音楽家で言えば作曲家。
オリジナル根本音楽家それを猿真似コピーする軽輩
が、フオロアー「追従者」で「二流/亜流」と言える。
今後どこかで小谷城一段、二段、三段、石垣を見学
しますと言うイベントキャツチコピーの催事が出て
来たらコピペで尻馬乗りの二流である事を証明して
ます。本物の滋賀産城郭研究家なら気付くべき基本。


長谷川
大変困ります。城郭研究家とは人気商売では
ありません。研究家は客寄せパンダ役でなく
城郭遺跡見学とは極めて少ない人数で遺跡の
構造を静粛に学習検討する、研修学習であり
学究の場です。私個人は客寄催事イベントと
は認識していません。図書館で軽率に騒がな
い様に学門の場で軽佻浮薄な俗言や言動は慎
みさける事こそ学士や有識者の本義でしよう。

対談者
以前我々の会では『島記録』を学習した経緯
があります。また長谷川先生と物生山城見学
した時に物生山城の東郭の低土塁郭等は佐和
山城に向かって作られておらず北を向いてる
この城は私達の遺跡見学所感では陣城や向城
や付け城の様式では一切なく在地城郭であり
坂田兵部の小規模城郭であると判断してます。
また我々は、図書館で地元近江の文献資料で
『嶋記録』を学習して織田信長が佐和山城の
付け城とし「北磯山にハ市橋九朗左衛門」と
地元坂田郡の文献には記してあり私は物生山
城を織田方の付け城とは全く考えていません。

一般者
『嶋記録』って?①坂田郡飯村の人々の記録
でしょう?そんなの彦根市鳥居本町と今では
言ってますが歴史的には鳥居本は由緒正しき
坂田の地、古代坂田の条里制も鳥居本の水田
にも採用されている。だから鳥居本が坂田郡
である根本歴史地理を忘れては駄目じゃない
んですか?果して坂田郡の人が磯山と物生山
を誤認して記録する事などは先ずない事です。
例として安土町は現在近江八幡市に合併され
ましたが地元の方々は安土山と八幡山を混同
する事は先ず有りえないのと同じ事でしょう?

①註 滋賀県米原市飯「旧坂田郡近江町飯」

長谷川
浅井氏の磯野丹波守員昌は主家浅井氏とは別に
野村河原「姉川合戦」に参加した坂田郡南部の
国人層今井氏の家臣の嶋氏に永禄十三年に領地
を下賜している事に注目して下さい。当時伊勢
に二度出陣した記録が残る磯野丹波守の居城の
佐和山城は琵琶湖水辺の城として織田軍団方は
必ず掌握したい枢機の城、琵琶湖水運重要拠点
織田信長の琵琶湖水上軍事権の根幹たるべき城
です。織田期は家老格丹羽長秀が佐和山城へと
入城し秀吉の時代になると堀秀政や堀尾義晴や
関ヶ原合戦を引き起こす石田治部少輔の居城と
して徳川政権となり徳川四天王の雄たる井伊氏
が琵琶湖水辺の城としての水陸の要の城として
佐和山城の根本機能を彦根城へ移設しています。
そう言う近江/滋賀の歴史大観を持っ事が重要!

反論者
ふん!そんなもの物生山城が佐和山城攻の
付け城である事は確実だ!

対談者
私は長谷川先生の『信長公記』解説を何度も
拝聴いたしました。織田軍が敵城を包囲開城
させる場合遠巻きに柵を結節し籠城兵に兵糧
を補給させない為に「猪垣/ししがき」を設定
します。力攻め接近戦は、しない場合が多い。
織田軍は攻城した場合に敵の城を遠巻き包囲
してその「ししがき」の柵の破れなきを巡視
する柵、尺限見廻衆を設定している事です。
佐和山城攻めも佐和山山隗ではなく遠巻きの
策戦を実施したればこそ長期籠城戦が展開さ
れた事籠城期間を文献を冷静に時間軸で分析
する事が大切。磯野氏の佐和山城籠城は長期。

有識者様&みかん茶様
佐和山城の北には大洞山があり浅井氏時代に
は寺村淡路兄弟が守備したいた。浅井時代の
佐和山北限堀切は物生山に接近して掘削され
てる、また物生山城も永禄末期の織田軍陣城
の特徴よりも地元土豪層による築城の要素が
強い、その何よりもの証拠として物生城堀切
は佐和山城ではなく東部の磯山城に向けて設
定されている。また物生山の東麓には磯山城
に向けて数段の物生城の腰郭が存在していた。
この初歩的な純心な観察眼こそ大切な事です。
織田方の丹羽、水野、川尻、市橋の武将配置
は遠巻包囲戦法が当時の常道や常識で接近戦
ではないのです。是を根本理解しないと困る。

反論者
違う物生山城こそ永禄織田軍の北の陣城です
この城や里根山城が南北から磯野丹波守守備
する佐和山城を攻めたから簡単に佐和山城は
落城した。

対談者
それはないでしよう!私達全員長谷川先生の
『信長公記』解説を学びました。文献を吟味
すると磯野丹波守は8ケ月も佐和山に籠城して
織田4部将を退ける見事な防衛線を展開した
名将とも言える人物で『信長公記』にも磯野
は佐和山城から伊勢戦線へと2回も浅井氏属将
ながら信長に従軍しています。織田軍の佐和山
包囲網は鳥磯本、磯山、彦根山、平田山、等の
遠巻きの包囲戦を採用していた従って浅井方の
磯野は佐和山内湖/松原内湖から十分な長期籠城
の兵糧が補給出来たればこそ8ケ月も籠城出来た
織田は遠巻きの包囲網も敷ていた証拠です。先年
彦根市の松原内湖で見つかった砦も佐和山に向か
って掘削されてない。むしろ佐和山を守る為に外
に堀切が掘削されている。そもそも大きな意味で
物生山も里根山も佐和山山塊の地理的要因があり
東百々山、南平田山、西彦根山、北磯山等の山塊
とは別の佐和山とは別の佐和山城を遠巻きにする
為に有利な地形と言えます。

反論者
ふん平田山なんか要害と言える山か?笑わせるわ
第一平田山城なんか既に消滅しとるじやないか?

対談者
浅墓な事を言わないで下さい。平田山は慶長期
の徳川家康の佐和山城攻めの本陣であり三重の
切岸厳重堅固に引き回した素晴らしい城郭遺跡
ですよ!坂田郡と犬上郡では磁気方位とは別に
条里制水田に強く北陸線と八号線が影響を受け
て犬上郡に入ると八号線や東海道線や新幹線も
この犬上郡の古代条理制の影響を強く受けてる。
だから佐和山から南は平田山に該当するんです。
坂田郡と犬上郡では磁気方位は同じでも地域の
方位観念が異なる事を考慮に入れておくべき事。

長谷川
裁判の判決が軽々には即決決定しない慎重で
重々しく厳格である様に、歴史研究も史実を
追求確認する、まるで石を布で光沢ある石に
磨き挙げる様に一本の針を作成するのに一個
の斧を気長に研磨して作成する如くローマは
一日に落成せざる如く学門の道は峻厳なもの
だと私は思います。一個の斧から一本の針を
作り出す仏教説話は彦根市鳥居本町磨針峠に
あります。磨針峠は交通の要衝、その峠から
真東に望まれる中世城郭の立地が物生山城と
いえます。現在既に物生山から彦根に松原内
湖の東岸を通った『物山道』なる石碑を昭和
の昔に私は見た覚えがあります。学門や学説
には諸説あるのが常に真実の道を究める為に
はたかが100年200年で学門の道は究められず
文字や図書は軽々に人の心を動かす事が出来
ても歴史の真実を正確に解明する為に慎重に
慎重を重ねるべき重い事だと、私は思います。

対談者
対談者それですよ!それ歴史の重さを知る事!
奥の細道を究めるには奥の細道歩む事ですよ!
真実の歴史には霧が深くて誤謬や偏見も多い!
世の中とは、歪曲を支持する人も真実を求める
人もいて様々、公衆の面前で、平気で嘘言をう
政治家さんも現実には存在致します。世の中は
ふふ正直者が阿呆を見るわいと嘘吹く人も居る。
青臭く真面目で純粋な事を嫌う人も多いのです。
▼霧深き、伊賀上野忍者駅前の松尾芭蕉の銅像 

コメント (9)
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