伊勢!伊勢!伊勢!
※安徳帝と伊勢平氏の最期
屋島の合戦に破れし平家一門は、瀬戸内海を西へと逃れ、関門海峡近くの彦島に水軍を結集した。
元暦(げんりゃく)2年(1185年)3月24日早いよいよ壇の浦で最後源平の決戦が行われた。
始めは平家が優勢であったものの四国・九州から集めた豪族達が次々に源氏へ寝返り、更に潮の流れ
が逆となり形勢逆転し関東の源氏方が優位に立った。潮流に乗った源氏方の怒濤の攻撃激しく平家軍
は壊滅状態となる。幼い安徳天皇らと共に小舟に乗っていた平入道相国清盛の妻、二位の尼は、もは
最期の覚悟を決める。二位の尼は、八歳になる自分の孫、安徳帝に西に向い念仏を唱させ西方極楽往生
を祈念させ、東に皇祖を祀る伊勢神宮に最期の遥拝させて、涙をながしながら、幼き安徳帝を抱き
上げ「波の下にも都がございます」と、帝を慰め海に身を投げ哀れ、波の下へと入水自殺し沈んで
行き無常非業の最期を遂げる。もし彼女が伊勢平氏の平清盛に嫁入りしなければ平凡な生活を営み、
幼き孫と幸福に暮した事であろう。
※平成天皇退位の為に伊勢神宮参宮
伊勢神宮・外宮に到着された天皇皇后両陛下は2019年4月18日三重県伊勢神宮に参拝された。
いよいよ時代が平成から令和に向けて変遷して行く時代の流を私はテレビの報道画面から強く感じた。
※織田信長の伊勢参宮
『信長公記』の永禄12年には
伊勢御参宮の事
十月五日信長公山田に至つて御参宮。堤源介の所に御寄宿。六日に内宮・外
宮・浅間山に御参詣なさる。翌日御下向、小作御泊。八日上野に御陣を懸けられ、
是れより緒勢打ち納めらる。と伝える。
※足利義満の伊勢参宮
1393 足利義満、伊勢神宮に参詣しますが彼は10回伊勢参宮を行っている。
※元伊勢を探しⅠ
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と
豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承
を持つ神社・場所。
※元伊勢を探しⅡ
伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と
「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その
状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に
「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、
第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に
遷座したとされる[1]。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』
で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『神道五部書』の一書である
『倭姫命世記』においてより詳しく記されている。
※信じられない古代神明造神殿近江の「伊勢遺跡」
・所在地:滋賀県守山市伊勢町・阿村町
・時 期:1世紀~4世紀
・時 代:弥生時代後期-古墳時代初期
・形 状:集落
・特 徴:-
・指 定:-
【概要】
東西700メートル、南北450メートル、面積30ヘクタールに達する弥生時代後期の大規模集落遺跡。
大型建物群が整然と並ぶ「方形区画」。円周上に並ぶ棟持柱付大型建物。方形の竪穴住居、五角形住居
などが出土。他の地域では弥生遺跡が衰退していく紀元1世紀末頃に、この遺跡は突如出現し、紀元2世
紀末に衰退し始める。つまり、邪馬台国時代前夜に、発達を遂げた不思議な遺跡として注目されている。
楼観を中心に直径220メートルほどの円を描くと、その円周上に大型建物が並んでいる。独立棟持柱付
大型建物と呼ばれる特殊な大型掘立柱建物。各建物は、角度や距離を測る技術にもとづいた計画的な配置
がなされ、他の弥生遺跡には例が見られない。独立棟持柱付大型建物は、現在の伊勢の神宮本殿に見られる
神明造りと呼ぶ建築様式に似ており、そのため、祭殿だったのではないかと考えられている。その類似性から、
双方の地名としての“伊勢”に何らかのつながりがあるのではないかとの見方もある。伊勢遺跡は、伊勢の神宮
の式年遷宮の起源、との指摘もある。4.5メートル×9.0メートル、床面積40.5平米のこうした大型建物が、
円周に沿って、延々と30棟建っていたことも予想されており、もし同時期に30棟が存在した集落だった場合、
極めて壮観なものだったことが予想され、一部では邪馬台国そのものだったのではないか、との説もある。
邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が邪馬台国とされる。
※伊勢の本来の意味
斎いつきの瀬、つまり祭礼を前に禊みそぎをする場所と言う意味がある。
※近江伊勢遺跡には隣接して河川の瀬が確認されている。
※近江弥生の伊勢遺跡には大変なものが出土している。
それは焼床とよばれる建物地下式タイルである。
伊勢遺跡を国家的祭祀の場と思わせるものがある。
※延喜祝詞
斎内親王奉入時には
神嘗の幣を進る詞を申し畢へて、次に即ち申して云ふ。
辞別きて申し給はく、今進る斎内親王は、恒の例に依りて、
三年斎ひ清まはりて、御杖代と定めて進り給ふ事は、皇御孫之尊を天地日月と
共に常磐に堅磐に、平けく安けく御座坐さしめむと、御杖代と進り給ふ御命を、
大中臣茂桙の中取り持ちて、恐み恐みも申し給はくと申す。とあり。
常磐のときはとは硬い床、盤石を指す焼床の様な意味の言葉であろう。
ときはは斎の意味があり伽の意味がある。古代には夜に祭祀が実施された。
明智光秀の愛宕社に参籠して連歌を読む
「時は今、雨がしたしる五月かな?」大変な意味のある言葉である。
※魏志倭人伝には卑弥呼の食事は弟王が担当したとある。
※伊勢神宮の斎王は いつきのひめみこ と呼ばれる斎王である。
※2019年4月平成天皇は伊勢に参宮されたが祭主は黒田清子さん
とされている。黒田清子さんは元皇室の紀宮さまである。斎王と
言う解釈をしても良いかもしれない?
※もし敬宮愛子内親王としのみや あいこないしんのうが次期伊勢神宮の斎王になられ
て悠仁親王(ひさひとしんのう)が皇統の男子とし天皇に即位されたらどうなるのか?
それは、卑弥呼と男王の図式に似たものか?時代の変遷とともに皇室典範も変わるか?
私には知る由もない事ではあるが、、、
倭国は卑弥呼以前も数百国存在している。
新元号「令和」の深意とは何であろうか?
※皇室は天照大御神の霊威をおそれてか?歴代天皇はみずから参拝していない。
それは伊勢が幽界、かくりのみやと言う別世界の意味か?それとも天照大御神
とは皇室とは別の卑弥呼を中心とする古代邪馬台国政権を暗示するものか?
※安徳帝と伊勢平氏の最期
屋島の合戦に破れし平家一門は、瀬戸内海を西へと逃れ、関門海峡近くの彦島に水軍を結集した。
元暦(げんりゃく)2年(1185年)3月24日早いよいよ壇の浦で最後源平の決戦が行われた。
始めは平家が優勢であったものの四国・九州から集めた豪族達が次々に源氏へ寝返り、更に潮の流れ
が逆となり形勢逆転し関東の源氏方が優位に立った。潮流に乗った源氏方の怒濤の攻撃激しく平家軍
は壊滅状態となる。幼い安徳天皇らと共に小舟に乗っていた平入道相国清盛の妻、二位の尼は、もは
最期の覚悟を決める。二位の尼は、八歳になる自分の孫、安徳帝に西に向い念仏を唱させ西方極楽往生
を祈念させ、東に皇祖を祀る伊勢神宮に最期の遥拝させて、涙をながしながら、幼き安徳帝を抱き
上げ「波の下にも都がございます」と、帝を慰め海に身を投げ哀れ、波の下へと入水自殺し沈んで
行き無常非業の最期を遂げる。もし彼女が伊勢平氏の平清盛に嫁入りしなければ平凡な生活を営み、
幼き孫と幸福に暮した事であろう。
※平成天皇退位の為に伊勢神宮参宮
伊勢神宮・外宮に到着された天皇皇后両陛下は2019年4月18日三重県伊勢神宮に参拝された。
いよいよ時代が平成から令和に向けて変遷して行く時代の流を私はテレビの報道画面から強く感じた。
※織田信長の伊勢参宮
『信長公記』の永禄12年には
伊勢御参宮の事
十月五日信長公山田に至つて御参宮。堤源介の所に御寄宿。六日に内宮・外
宮・浅間山に御参詣なさる。翌日御下向、小作御泊。八日上野に御陣を懸けられ、
是れより緒勢打ち納めらる。と伝える。
※足利義満の伊勢参宮
1393 足利義満、伊勢神宮に参詣しますが彼は10回伊勢参宮を行っている。
※元伊勢を探しⅠ
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と
豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承
を持つ神社・場所。
※元伊勢を探しⅡ
伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と
「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その
状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に
「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、
第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に
遷座したとされる[1]。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』
で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『神道五部書』の一書である
『倭姫命世記』においてより詳しく記されている。
※信じられない古代神明造神殿近江の「伊勢遺跡」
・所在地:滋賀県守山市伊勢町・阿村町
・時 期:1世紀~4世紀
・時 代:弥生時代後期-古墳時代初期
・形 状:集落
・特 徴:-
・指 定:-
【概要】
東西700メートル、南北450メートル、面積30ヘクタールに達する弥生時代後期の大規模集落遺跡。
大型建物群が整然と並ぶ「方形区画」。円周上に並ぶ棟持柱付大型建物。方形の竪穴住居、五角形住居
などが出土。他の地域では弥生遺跡が衰退していく紀元1世紀末頃に、この遺跡は突如出現し、紀元2世
紀末に衰退し始める。つまり、邪馬台国時代前夜に、発達を遂げた不思議な遺跡として注目されている。
楼観を中心に直径220メートルほどの円を描くと、その円周上に大型建物が並んでいる。独立棟持柱付
大型建物と呼ばれる特殊な大型掘立柱建物。各建物は、角度や距離を測る技術にもとづいた計画的な配置
がなされ、他の弥生遺跡には例が見られない。独立棟持柱付大型建物は、現在の伊勢の神宮本殿に見られる
神明造りと呼ぶ建築様式に似ており、そのため、祭殿だったのではないかと考えられている。その類似性から、
双方の地名としての“伊勢”に何らかのつながりがあるのではないかとの見方もある。伊勢遺跡は、伊勢の神宮
の式年遷宮の起源、との指摘もある。4.5メートル×9.0メートル、床面積40.5平米のこうした大型建物が、
円周に沿って、延々と30棟建っていたことも予想されており、もし同時期に30棟が存在した集落だった場合、
極めて壮観なものだったことが予想され、一部では邪馬台国そのものだったのではないか、との説もある。
邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が邪馬台国とされる。
※伊勢の本来の意味
斎いつきの瀬、つまり祭礼を前に禊みそぎをする場所と言う意味がある。
※近江伊勢遺跡には隣接して河川の瀬が確認されている。
※近江弥生の伊勢遺跡には大変なものが出土している。
それは焼床とよばれる建物地下式タイルである。
伊勢遺跡を国家的祭祀の場と思わせるものがある。
※延喜祝詞
斎内親王奉入時には
神嘗の幣を進る詞を申し畢へて、次に即ち申して云ふ。
辞別きて申し給はく、今進る斎内親王は、恒の例に依りて、
三年斎ひ清まはりて、御杖代と定めて進り給ふ事は、皇御孫之尊を天地日月と
共に常磐に堅磐に、平けく安けく御座坐さしめむと、御杖代と進り給ふ御命を、
大中臣茂桙の中取り持ちて、恐み恐みも申し給はくと申す。とあり。
常磐のときはとは硬い床、盤石を指す焼床の様な意味の言葉であろう。
ときはは斎の意味があり伽の意味がある。古代には夜に祭祀が実施された。
明智光秀の愛宕社に参籠して連歌を読む
「時は今、雨がしたしる五月かな?」大変な意味のある言葉である。
※魏志倭人伝には卑弥呼の食事は弟王が担当したとある。
※伊勢神宮の斎王は いつきのひめみこ と呼ばれる斎王である。
※2019年4月平成天皇は伊勢に参宮されたが祭主は黒田清子さん
とされている。黒田清子さんは元皇室の紀宮さまである。斎王と
言う解釈をしても良いかもしれない?
※もし敬宮愛子内親王としのみや あいこないしんのうが次期伊勢神宮の斎王になられ
て悠仁親王(ひさひとしんのう)が皇統の男子とし天皇に即位されたらどうなるのか?
それは、卑弥呼と男王の図式に似たものか?時代の変遷とともに皇室典範も変わるか?
私には知る由もない事ではあるが、、、
倭国は卑弥呼以前も数百国存在している。
新元号「令和」の深意とは何であろうか?
※皇室は天照大御神の霊威をおそれてか?歴代天皇はみずから参拝していない。
それは伊勢が幽界、かくりのみやと言う別世界の意味か?それとも天照大御神
とは皇室とは別の卑弥呼を中心とする古代邪馬台国政権を暗示するものか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます