驚き。小谷城の深淵。東洋の楼閣の系譜
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論が話題沸騰です。
◆長谷川
そうなんですか?私は滋賀で人気全くゼロ!
◆対談者
秀吉の天正大坂城に放射線状ビイスタ工法
がある事を長谷川先生が指摘され驚いてお
ります。特に本丸と極楽橋との関係性にお
いても
◆質問者
秀吉は天正2年に長浜城を築城しますが
文献『信長公記』には秀吉未だに小谷
城に居て織田信長を天正3年には歓待
しています。小谷城にも放射線状縄張
原則やビイスタ手法が存在しますか?
▼ 作成 長谷川博美 小谷城図
▼秀吉が天正3年まで小谷城にいたらビイスタ工法
を使った可能性はゼロとは言えないでしょうね!
▼天正4年起工安土城もその系譜の縄張りでしょう。
安土城 八角平 ビイスタ縄張
▼秀吉と所縁深き備前岡山城なども同類の縄張
▼安土城ビイスタ工法論 長谷川博美
◆長谷川
この記事は純粋な城址見学者の初心者様
と長く城郭の本質や研究を知りたいと願
う人には有意義な内容かと思っています。
◆長谷川
「鐘之丸」(かねのまる)城郭地名伝承は
小谷城本丸、佐和山城(小字地名)ズバリ
彦根城の「鐘之丸」(かねのまる)郭名が
あります。何故?鐘伝承があるのか言う
までもなく城内や城下に居住する家臣団
を招集する為の陣鐘や城鐘に起源とする
事と類推する事が可能かと思います。
城址見学会の御案内★小谷城
時節 令和2年12月19日土曜
時節 令和2年12月19日土曜
集合 JR河毛駅東口9時30分 ★9時30分に訂正しました。
主催 余呉城郭研究会
協賛 ウッデイパル余呉
講師 長谷川博美
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
参加費 2500円
特典 詳細資料A4/P8 弁当付
参加予約先
ウッデイパル余呉 城郭係
主催 余呉城郭研究会
協賛 ウッデイパル余呉
講師 長谷川博美
会長 生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
参加費 2500円
特典 詳細資料A4/P8 弁当付
参加予約先
ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
◆長谷川
例えば家を訪問する場合の礼儀として玄
関から入りましょうと、基本を教えられ
ても何年たっても廊下や裏口から入る人
に何千回玄関から入りましょうと教えて
も是に従わない人も居られます。城址に
おいても虎口や城門跡を認識して城址に
入りましょうと何千回となえても虎口も
知らずに城址を縦横に歩かれる人が多い
のです。城址に対する思いやアプローチ
は千差万別ありこれが正解だと断言出来
ませんが家庭訪問する場合玄関から家に
入られる素朴で初心を忘れない人に対し
て敬意と尊敬の念を、私は常に抱きます。
◆対話者
でも古城に行っても私達は何処が門の
跡なのか、虎口なのか、全く解らない
のです。長谷川先生から教示を受けた
数少ない数人だけが城跡の虎口を認識
出来るようになったのですよ!もしも
長谷川先生に出会わねば何千城も廻っ
ていても城址見学としては失敗です!
それは家庭訪問の時は玄関から入る事
を習わずに何十年も塀から庭から家宅
に入いる「くせ」がついても気付かな
い事と全く同じだと思います。
▼小谷城の表玄関黒金門跡にたたずむ田畑氏
◆長谷川
そうなんですか?そうでしょうか?
◆質問者
彦根城の構成は
①(鐘之丸)ー(廊下橋)ー(天秤櫓)
となっています。
② 彦根城の鐘之丸は佐和山城から彦
根城に移城するとき一番に最初に作ら
れた彦根城の山城の御殿であり郭です。
★小谷城の伝鐘之丸「本丸」と伝中之
丸にも橋があったのではないでしょう?
◆長谷川
ユニークな指摘ですね!彦根城鐘之丸
は我々城郭研究家から見ると城内で最高
の縄張りの築城技巧を見る事ができます。
またこの鐘之丸の縄張りは戦国武田遺臣
の早川氏が平素から鐘之丸を三国無双の
要害と日頃自慢していた防御を二重三重
に施した秀逸な縄張の城です。あなたの
指摘は小谷の鐘之丸と彦根の鐘の丸の比
較連想から出たもの思われますが素晴ら
しい発想や着眼であると、私は思います。
戦国乱世の時、浅井氏と武田氏は互いに
書状を交換し使者を立て連絡し合ってい
た事は知られています。浅井と武田は軍
事的技術にも交流があったかもしれませ
んね?たしか雨宮存徹と言う武田の使者
だったかもしれません?また小谷城前衛
を守る伝「御馬屋敷」も半円形に巨大な
土塁を引き回した東国とはまた別の意味
の馬だし曲輪だったかもしれませんね?
そう言う意味では彦根城の鐘の丸自体も
表御殿「北」と大手門「南」に降り降る
構造になっており一種の馬だし曲輪機能
とも考えられます。
◆質問者
長谷川先生?先生の復元図には小谷城
の中之丸の土塁にパックリと鐘之丸への
虎口が開いています。
◆長谷川
それは前から私も疑問を持ち不思議に思
っています。本丸建物跡の真壁の跡もこ
の橋に向けた痕跡がかすかにあります。
貴方の指摘の様に架橋がされていた時代
があったのかもしれません?貴方の城址
観察力の素晴らしさに驚きます。たしか
に私の小谷城図の中之丸土塁はパックリ
と土塁に虎口の跡がある。西洋諸国では
国家の国賓が見えた時にすかさずレッド
カーペットを敷設する、人間の貴人にた
いする敬意の形は「橋」や「道」に潜在
していると思います。
↓
↓廊下橋を推定復元する。
◆質問者
だれがこの橋を「渡らせ給うのかね?」
◆対談者
そりやもう浅井氏の主筋たる江北守護職の
京極の殿様ではないのですか?浅井は京極
の下と表現された文献も存在しますからね。
◆質問者
本丸へ架橋されていたなんて考えられない
もし架橋されていたら京極丸を敵軍に占領
された場合小谷城本丸では守備できません。
◆長谷川
文献『信長公記』では浅井長政が自害した
場所を本丸ではなく赤尾屋敷と記してます。
本丸から赤尾屋敷へ降り自害した可能性が
◆質問者
私はこの様に武田流の山城廊下橋が小谷
城の「伝鐘之丸」に存在したのだと推測す
るんです!私は何も知らない初心者ですが
いっまでも良い意味で初心者として心掛け
を忘れたくはありません。
◆常識者さん
ふんそんなもの小谷城本丸に架橋など
ある訳がない、もしも架橋が存在したと
するなら小谷城最大の大堀切の側面を
強烈に防御すべき強固な石垣が堀切の
側面に存在するはずでしょうが?橋を
防御する施設が小谷城にはあるのかな?
◆城郭金田一耕介
ふふふふ、ふふふふ、この堅固な二段石垣の上が
小谷城大堀です!ふふふふ、大堀切に架橋されて
いたら橋の側面を守る為の鉄壁の施設が必然的に
必要とされますよね?一体何の為の2段石垣です?
しかも架橋と城郭ビイスタ線は重複する可能性も。
◆一般者
すげえ~俺小谷城に何百回も行ってるのに二重石垣
見てないわ!おまけにビイスタ論なども全く知らん!
◆対話者
安土城ビイスタ論も正直言って失礼ながら長谷
川先生は全く無名の先生ですから長谷川さん個
人の幻想かと思っていたんですよ、私は一度は
長谷川先生を見限って他の会に正直、行ってた
のですよ。私は長谷川さんを見くびっていた。
しかし世間の有識者の方がジワリジワリ長谷川
先生を真顔で真摯に支持されいて根強い学門や
学びへの憧憬が潜在している事を知りました。
教育心理学を学んだ元教員の方々が長谷川先生
の城址解説に傾聴される姿を現場で見て私は
悟った。学習しようとする人の心理と、遊び
をせんと城址に行こうとする人間の行楽快楽
原則のと人間心理は異なる。は学びをせんとす
る心理は少なからず社会には少数ながら存在。
◆対談者
城跡通過型のハイキング観光と城郭遺跡見学は
分野が当然異なる訳よ。城行と城見は当然違う。
▼二段石垣小谷城
◆長谷川
世阿弥の心境「老いてなお初心忘るるべ
からず」ですね。ここで私が貴方の見解
を高飛車に否定すれば、城址見学に臨む
人々の、考える力を萎縮させ否定する事に
なり貴方の考えには私は、傾聴致します。
人間とはお押し着せと反発する心を持つ人
よりも、素直な初心に帰り研究する謙虚さ
がとても大事な時があります。今一度考え
直す事も時には大切かもしれませんよね。
◆長谷川
信長の安土城や浅井の小谷城が現れる前
にも日本国王と、号した足利義満の北山第
には、金閣と言う楼閣と天鏡閣と言う楼閣を
廊下橋で結節する様式が既に登場してます。
◆質問者
私は城郭フオーラムや『城歩会』では
素直な心を持ちで城址を観察される謙虚な
人の気持ちを長谷川先生は大切にされてい
おります。発想や着想が素晴らしいです。
◆長谷川
ありがとうございます。城址見学に真剣
になればなるほど、時として、押し着せと
誤解されて大切な初心者様の純心な心を知
らない間に傷つけてしまう事もあり、深く
反省しています。また依然として城郭遺跡
見学の学習と城址探訪の観光の二つの大き
な目的や趣旨の違いを一般社会に理解して
もらう事の困難さを痛感し、長年にわたり
私は深く悩んでおります。私の支持者様は
全くこの世に存在しない。私は人気ゼロ!
『御湯殿上日記』文明十五年六月二十七日条
「むろまち殿ひむかし山へ御わたましのよしきこゆる。
めてたし」。ほか、『御湯殿上日記』、『親長卿記』同日条。
めてたし」。ほか、『御湯殿上日記』、『親長卿記』同日条。
の文献があります。
おそらくこの記事を読みすごく興味が湧く
人は、城址大好き人間さんではない初心者
様であると確信しております。何故ならば
私も初心者であり、私に城を教えてくれた
のは城址自身なのです。本当の城の先生と
は城郭遺跡そのものが一番偉大な先生だと
私は常に思います。先生から目を離さい事
城址が先生ですから、城址を見る事、観察
する人が一名さまで増える事を祈ります。
◆質問者
先生!正確な第一文献級資料『信長公記』
も私は長谷川先生から学び、浅井備前守長政
最期の様子も読みました。もし小谷城の本丸
こと「伝鐘之丸」に仮に織田浅井の戦闘の
最中に橋が存在していたと仮定したら、小谷
城本丸「伝鐘之丸」には橋から織田軍が侵入
して浅井長政は本丸で最期の自害を遂げられ
ません!つまり長政は本丸では耐えられず他
の屋鋪に赤尾屋敷移るしかなかったのですよ?
◆長谷川
貴方はおそらく浅井長政の最期の場所が本丸
でなく赤尾美作屋敷であった事を指摘したい
のでしょう?貴方も謙虚な初心者、講師の私
も謙虚な初心者です。さあさあ歴史の現場!
小谷城址へと向かいましよう。そこにはきっ
と何か現実や証拠や真実が残っている事でし
ょう!
長谷川
秀吉は天正3年まで確実に小谷城に居た事は
文献『信長公記』で文献史学的には確認可能。
翌年天正4年には城郭形式の画期をなす安土城
の築城が開始されています。秀吉の天正大坂
城も石山本願寺から続く名称『極楽橋』を継続
しています。
◆質問者
先生2018/11/17この痕跡をウッデイパル
城郭フオーラムでこの現地解説してください!
◆長谷川
資料 城郭関係資 A4全10ページ
2018/11/17 土曜日
場所 JR北陸線河毛駅東口(無料駐車場あり)
送迎バス 城址まで送迎バスあり。
講師 長谷川博美 会長 田畑喜久弘氏は
(救援救難担当スタッフ)、
資料 城郭関係資 A4全10ページ
特徴 城址までの送迎バス。御弁当。講師と
サポターさん 参加費3000円用意 各自雨具、
水筒飲料、歩きやすい靴と服装で願い致します。
▼当日参加された初心と深淵を求める同志の皆様
▲何度も小谷城を見学された方が多数なの
に何故今一度長谷川と小谷城を見学したい
と思われたのか?私には全く解らないです。
◆長谷川
2019/10/8 追加記事
先ずこの記事を読む前に非常に大切な日本史
歴史の中に通相概念があります。それは神社
に於いても「神渡り」「渡御/とぎよ」など
の言葉に貴人が何かを渡る習慣が記されてい
ます。先ず「殿のお渡り」などの言葉が登場
する事です。身分の高い人が橋などを渡り
移動し出御する習慣です。
『信長公記』でも信長が正式に天主に移り住む
件を以下の様に表現しています。天正10年の
記述に
五月三日、信長公、御下り、路次は山中より坂本
へ、御小性計り召し列れられ、御舟にて直ちに
安土御帰城。
五月十一日、吉日に付きて、信長、御天主へ御移徒。
中世の貴族社会では引越しを移徙(いし∥わたまし)
と呼んだ事だ。この言葉は昔日の古典『平家物語』
にも 源義経の登場を わたらせます と表現して
いる。事である。
小谷城本丸に仮に架橋されていたとして一体どこの
偉い殿様が本丸「鐘の丸」に わたらせます ので
あろうか?それは浅井氏より中世の貴族武士階層の
上である北近江守護職の京極氏が京極丸より橋を
渡り出仰されるつまり御屋方様「守護職」は京極
氏と言う事になるのではないだろうか?浅井は実質
江北の守護代の役割を担った武家と私は考える京極
の下と言う解釈が室町幕府にあったかもしれません?
◆特別質問?
『天文三年浅井備前守宿所饗応記』の殿中での
浅井亮政の席次を見ると決して上位の階級でない
様に思われますが?
◆長谷川
浅井三代の初期段階ですから亮政の席次は当時
として未だ大名級ではなく中堅に着席してます。
また座席の中央には正中線がありますね!
★中国陶器より学ぶ城郭及び楼閣論
◆対話者
以前行った継体天皇の陵墓とも推定される高槻の
今城塚古墳の復元埴輪には宮門や先導する巫女や武
人埴輪が並べてありましたね?あれに似た物は中国
にありますか?巻向弥生遺跡の神殿の様な形式が?
◆対話者
わたしこの写真見て長谷川先生に学んだ正中線
がわかります。中央の目に見えない線があります。
◆一般者
わからんね!そんな正中線なんて生まれて一度も
聞いた事ないよ!ふんそんもん知るか私は知らん!
◆対話者
神社に行くとき鳥居の中央は神様が通る道だから
神職も氏子も決して中央の正中線は日本古来の常識
として通りません!それは日本の文化の常識です!
◆対話者
この正中線が理解できるようになってから俄然!
遺跡見学が城址見学が非常に楽しくなって来ました。
◆長谷川
話を戻します。埴輪の行列とは?
高槻 今城塚古墳( いましろづかこふん)古墳の事
ですね?これどうです?外門があり従者が正中線を
さけて左右に並び邸宅は院房形式になっており前門、
中門、内門、主殿に分け表現されています。たいへん
楽しい陶器です。
◆長谷川
そうそう簡単な正中線は安土城にも纏向古代宮殿
遺跡にも、存在する事を気付く事が城址を遺跡を
見学する人の、心を養う事が大切かと思いますね!
▼近江 安土城
▼纏向宮殿
長谷川
そうそう岐阜の大野町の古墳もそうでしたけっけね?▲
◆一般者
もしかして?長谷川先生ってスゴイ人じやないの?
◆対話者
長谷川先生のブログの安土のセミナリオ解釈論は
非常に斬新で驚きました。目が覚める思いでした。
◆長谷川
そうでしたか?ありがとうございます。僕は平凡
◆対話者
日本の城郭や楼閣の起源やルーツは何処にあると
思いますか?
◆長谷川
漢字のルーツや起源は中国の古代象形文字が起源
です城郭も同じではないのでしょうか?
◆対話者
小谷城の柳の馬場や飛鳥宮のエビノコ郭の様な
副郭も中国には有りますか?
◆長谷川
上図は近江小谷城の千畳敷大広間や本丸「鐘の丸」
の私の図です。黒金門や殿舎が壮麗に配置され本丸
には礎石を用いた楼閣がその礎石から推定されます。
◆対話者
中国の陶器にも前門の側面に腰郭や側面郭と思しき
ものがあります。側室と言う言葉の起源も連想する
◆長谷川
同時に中門の左右を監視する三重の見張り櫓や後方
の主殿にも注目。小谷城の黒金門の左右の櫓台にも
陶器と比較し注目しておいて下さい。もっとも中国
では兵馬俑に代表される「俑」よう、と呼んでます。
◆対話者
以前現地見学学習に行きました。玄蕃尾城の東にも
側面郭があった?彦根城の天秤櫓も門の左右に櫓が
設定されています。これ羽柴秀吉の長浜城から移設
されたとか?また長浜城は小谷城から移設されたと
聞いておりますが?
◆長谷川
さてどうなんでしょうか?真実は私には解りません。
正門の左右を守衛する楼閣は京都宇治の平等院鳳凰
堂や奥州の藤原氏の毛通寺などに影響を与えている
と思います。もっともその起源は東洋史学的見地か
ら見ると、やはり、中国起源の城郭や楼閣の流れを
くむと、私は思います。また足利義満の北山弟には
金閣と天鏡閣と言う華麗な楼閣を結節する橋、があ
ったとされます。
◆長谷川
陣城の場合は横郭や脇備えに相当するのではないでし
ょうか?
◆対話者
それにしても中国の陶器には正門とは別の脇門や
裏門が見えて楽しい。京極丸の並び虎口や高土塁の
東の腰郭本丸東の赤尾郭をも連想します。そして
京極丸西北下段の枡形虎口も思いだします。
◆対話者
信長の安土城には天主と殿舎を結ぶ空中回廊が存在
したと言う人も居る。また岐阜城の空中回廊も余り
にも私には突飛な発想だと思うのですか?
◆長谷川
織田信長なる人は現代で言うならば、日本史専攻の
学生でなく広く東洋史学の文化文物に広範に智識を
持っていた有識者でスケールの大きな人物でしょう。
◆長谷川
秀吉の大坂城の極楽橋や竹生島舟廊下橋を思い浮か
べて連想して下さい。また柴田勝家の北庄城には
『柴田退治記』には天主と小天守を廊下で結んだ
記録があります。『吉田兼見卿記』と言う文献資料
にも明智光秀の坂本城には天主と小天主があり兼見
と光秀は小天守で食事をしていますよ。それにごく
身近にある名古屋城も小天守に一度入ってから回廊
状の橋を通り大天守へと至る経路を持っています。
もしかしたら大小天守を経由する伝統は中国起源か
もしれませんね?柴田の居城北之庄城の九重の天守
を記した秀吉の書簡も柴田の陣城、玄蕃尾城から推
測すると巨大で石の扉を用いた堅固な楼閣であった
可能性があります。
◆対話者
そんな事言われましても大天守と小天守を廊下で連結
する奇妙な発想が私には理解できないんです。たしか
に犬上郡の男鬼城の本丸には先生が言われる様に大櫓
と小櫓が土塁で連結されている様子を私は観察しまし
たが大天守と小天守を廊下で連結する奇妙な発想自体
が納得できないし。
◆長谷川
米子城は二基の天守が存在した事で至極有名ですが?
さて
大小の楼閣を土塁連結する事自体、男鬼城が北近江
守護職京極氏に関係ある城郭遺跡である可能性を秘め
ているかも知れませんね?「微笑」
◆対話者
あのう~私は男鬼城の大櫓跡や大櫓に登るための石の
階段もちやんと見ました別の櫓台もちゃんと覚えてる。
◆長谷川
ちやんと真剣勝負で見学している人はその遺構を認識
して覚えているものです!見る気があるか?無いか?
◆対話者
長谷川先生!玄蕃尾城は5間四方の天守台の跡があり
ました。しかし天守北の土塁には虎口の痕跡がある。
◆長谷川
よく丁寧に観察しておられますね!天守礎石は現地に
残っていますが現実に楼閣が存在したのか?正方形の
櫓台ですので建物は寺院の様な宝形つくりの形式かも
しれません?またその虎口の外に橋があったとすると
想定するとこの様な形になるかもしれません?
◆長谷川
ちなみに名古屋城には、もう一カ所「小天守」を
連結させる計画があったのですが中止になってます
◆一般者
私は全くその発想や話についていけません解らない!
◆長谷川
そうでしょうか?日本の城郭の中心部に大小の天守が
存在する事がそんなに違和感がありますか?佐和山城
も何度も城主が変わってます様々な様式の天守が存在
した可能性は全く無いのでしょうか?佐和山にはコビ
キAとコビキBの二種の瓦が採取されていますから!
少なくとも二種類の天守が存在した可能性はゼロでは
無いと思います。
◆対話者
さあどうした物か?私には全く想像が出来ませんね!
◆長谷川
この中国の陶器なんかどうですか?
中国東洋に於いては極めて普通です。
この写真は中国河南省鄭州博物館で
売られていた書籍に掲載されたもの。
◆対話者
すごいです!天主に相当する楼閣には複数の欄干や正門
を守る左右の櫓も観察できます。しかし小天主に相当する
建物に空中架橋する事には驚く。
◆長谷川
それだけでありません。小天守に相当する建物には二重
の石落しつまり日本の城郭で言う南蛮造りの様な特殊な
構造になっており、しかも小天主台には楼閣基底部に塀を回
して石落しをより有効にならしめる工夫がある。
◆対話者
そこまで見るんですね?長谷川先生は?
◆長谷川
そりやそうよ!中国の楼閣は各階安土城の様に壁が着色され
たものや7層の楼閣もある。
◆対話者
すばらやしい!でもね我が国の古代の唐子、鉤遺跡の様な
井楼は中国に無い!
◆長谷川
あったらどうしますか!?
中国は漢字の親元。城郭の親元であり。文化のルーツだと
私は思います。
◆対話者
ありやまあ!あっけない!井戸と井楼と亀はつきもの。
彦根城は井伊さんの金亀城だし。彦根城天守の守護神
だった亀の置物は、竹生嶋の宝物館にありましたね?
◆長谷川
だって織田信長は安土城を築くにあたって(1576年築城、
天守閣の完成は1579年)その瓦の製作を明(みん/現在
の中国)の人、一観(いっかん)に命じてますよね?
焼き上げた軒瓦の前面には蒔絵の技術を応用して金箔が
貼られて現実に出土してます。
◆対話者
小谷城の貯水槽から亀のモチーフをした10㎝の銅鏡が
出土しましたね?中国にも亀をモチーフにした銅鏡が
あるのでしょうか?
◆長谷川
小谷城の銅鏡の亀は明瞭でありませんが、中国には
月宮鏡と言う形式があります。
◆対話者
長谷川先生?もしかしたら滋賀県内の明智の事もっと
城の事を知ってるんじやないですか?
◆長谷川
さあ~どうでしょうかねえ?
解りませんが
いつも誠実な
良いね!に
深く感謝を
致します。