城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

横山城 烏脇山城 中島城 丁野山城見学会の報告と次回予定

2021-08-23 02:19:54 | 城址見学会予定 
横山城 烏脇山城 中島城 丁野山城見学会報告と次回予定

◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が1111回も
再生されて社会では大好評だと思われます!

城郭ビイスタ論 上文字クリック



▼文室山からの奥琵琶湖大観は見事

▼文室山砦の曲輪、段築群 
▼文室山砦の南堀切
▼文室山砦南堀切長谷川博美図面
▼文室山砦 北堀切土
▼ 文室山砦 北堀切土橋
▼文室山砦 

◆対談者
米原学び合いステーシンで長谷川先生の講座
が大変好評です。特に滋賀県北部の城郭遺跡
で発見された石臼の石臼を撮影集をパーワー
ポイント画像で次々披露されたものが好評で
した。
★好評!長谷川城郭講座 次回
日時 令和3年 9月 30日
場所 米原学びあいステーション
   「旧称米原公民館」
参加費 500円
予約☎ 0749-52-2240



◆質問者
竹中半兵衛の居城、美濃菩提山城の台所曲輪
で発見された石臼写真なども大変話題でした。
▲1980年岐阜県不破郡垂井町「当時」
◆質問者
竹中半半兵衛は美濃から羽柴秀吉に属して近江横山城
に進駐しました。また織田信長は元亀年間虎御前山城
からは石臼が出土して虎姫時遊館に展示されてました。

◆反論者
かっと言って近江横山城でも石臼など絶対存在せん!
私は長谷川氏を絶対信用したくないんだ!絶対にね!

◆長谷川
2021/8/21 横山城の南城の深い井戸を見学しました。

◆田畑余呉城郭研究会名誉理事
長谷川先生!横山城南城の北斜面に石臼破片がある!
また、染付や水瓶破片も曲輪の後に見えますますよ!

◆みんな「当日参加者様各位」
うわあー!本当に溝が花崗岩製の石臼が落ちてます!
すげえー長谷川先生の見学会に参加し本当に有意義!
◆対談者
8月21日の見学会は
①大原観音寺
②大原観音寺裏山砦
③横山城南城
④同所石臼見学
⑤横山城北城
⑥横山城伝米蔵曲輪南腰郭
⑦横山城二重堀切
⑧烏脇山城跡
⑨大原観音寺山門
⑩伝石田三成 三献の茶井戸跡
と盛り沢山の充実した内容の見学会でした。
◆参加者
私は烏脇山城址に銃座が有った事に驚けきました。

◆長谷川
21日一旦余呉城郭研究会は解散となりましたが
『米原城歩会』として我々有志7人の侍は一路、
中島城と丁野山城無料見学へと向かいました。



コメント (1)
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近江三雲城の解説

2021-08-19 20:26:06 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

近江三雲城の解説
城郭ビイスタ論 上文字クリック



◆対談者
いやあ~長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が
1100人様もの視聴を記録しています!これは
異変だと思います。長谷川先生のフオロアー
様はたった183名様、先生の投稿に良いね印
を押されている人はたったの5~6様なのです。

◆達観様
あなた?人間社会と言うか社会心理学を全く
知らないんですね?人間の行動心理とは群を
なして集団心理に基づいて行動するものです。

①●地域集団心理 ローカリズム「我町」
村落、集落、町内会、自治会、県市町村

②●利益集団心理 エコノミカル「経済」
会社、同一利益追求集団、派閥、学閥等

長谷川先生の研究や学説が如何に優れて
いようと①②に帰属している人々は絶対
長谷川先生の見学会や講演や講座に参加
されません。無視です。シカトなんです。
でも1100人の動画視聴者様は歴史城郭の
研究ヒントが多数動画に含まれている事
を認識していおられる自治体に所属する
学芸委員や県市町村で活躍されている人
達なんです。ようし今度ウチノ町におい
て城郭ビィスタ論を応用して自分の町の
市民様の前で我町の城の講演や解説する
場合長谷川先生の城郭ビイスタ論は絶大
な威力を発揮するんです。市民様町民様
は何も知らずに無意識下で我町の行政の
歴史講演に参加されている訳なんですよ。
市民様が全く新しい我町の城の城郭構造
説を大衆の面前で披露したらもうこれ即
我町の学芸員様一機に市町村スターです。


◆みんな
町の学芸員さんや研究家達は必死で動画
を見ている。町の市民の皆様は、こぞって
町の歴史講演に参加され城郭ビイスタ論や
長谷川先生の事は全く知らない矛盾が発生
しています。私達長谷川先生の城址解説を
受けて正直衝撃をうけた人も多数おられる。

◆一般様
今社会は歴史城郭戦国の大変なブームです
ものね!?何でも戦後二回目の城郭ブーム。

◆達観様
チョツト待って下さいよ!〇〇ブームとは
社会の一時的現象でしよう。野鳥観察見学
バードウオッチグが日本で大流行したけど
現在各地自治体の野鳥観察小屋は次々閉鎖
された。大衆が一時的に飛び付く城ブーム
とは流行であり必ず衰退する運命にあるわ
今現代は城郭探訪ブームであって城址形状
や遺跡形状を考察しようとする城郭見学の
世界が長谷川先生の城郭遺跡見学会ですよ!

◆長谷川
あの~今回の投稿は近江三雲城なんですが?
滋賀券湖南市吉永にある三雲城が今回の主題。

三雲城(吉永城)は、三雲氏の主家である
安土の観音寺城主・佐々木六角高頼が逃げ
込み用の本城として長亨2年(1487)
に三雲典膳(てんぜん)に築かせた城で、
東西約300m、南北約200mにも及ぶ
広大な城域を有していました。しかし、
織田信長の京都侵攻に際して三雲氏は最後
まで主君の六角氏に従ったために元亀元年
(1570)に織田方の佐久間信盛の攻撃
を受けて山裾にある三雲屋敷と共に落城し
ました。その後、天正年間(1573年〜)
には廃城となってしまいましたが、天正13年
(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣
の中村一氏が岡山城を築いた際に石垣等が用材
として持ち去られたと言われています。城の
縄張りの中心部は、四ヶ所の郭(くるわ)に
よって構成されており、北側の郭は約50m×
40mの広さがあり井戸も残っています。また
北側の郭の北東部分には三方を巨大な石材を用
いた穴太(あのう)積みによって築かれた
22,4m×12mの大きな枡形遺構(虎口)
が残っています。
    当城は、六角氏が度々逃げ込んだことが記録に
残されており、城内には佐々木六角氏の家紋
(四つ目結)を刻んだ石が残っています。
<現地案内板より>

◆対談者
実際にどのような縄張の城ですか?

◆長谷川
概略はこのような城です。

◆男性
すげえ!俺が行った三雲城と全く違う。
図面さえも全く違うもう一度見直しだ。

◆反論者
ふん。。まさかビイスタ工法は絶対ないぞ!

◆長谷川
矩形の桝形、幾何学的な構造がある以上は
今一度、城郭に幾何学縄張のグランドプラン
基礎構造が潜在しているか検討してみます。
中央の桝形を基軸にした縄張構想があります。
▼赤、青、二方向から縄張しています。
◆長谷川
 二方向から縄張は慶長徳川家康江戸城本丸もそうです。


▼城の中心部からも放射状に縄張しています。①

▼城の中心部からも放射状に縄張しています。②

▼城の中心から放射状に縄張する様式は
 江戸城の紅葉山郭や西の丸にあります。

▼安土城天主閣の縄張も放射線状です。
▼秀吉の天正大坂城も中央から放射状に縄張してます。

◆補足
三雲城を訪れた人なら城の南にある山尾根は
三雲城の弱点と言える事は容易に察する事は
可能である。私は三雲城南の防御遺構を確認
すべく田畑氏と調査に訪れ数人の皆様ととも
に三雲城 奥の城も評価可能な不可解な城塞
を見学した記憶がある。一見城郭として整合
性のない遺構のようにも見えるが土塁や堀切
や竪堀もあり複雑な遺構を我々に提示する砦
であった事を付記したい城郭調査や城郭見学
は城址探訪や城跡ハイキングとは、また別の
分野の世界と思われる。何れにして城郭観光
城郭探訪も城郭遺構見学と様々な分野の人々
がおられるが互いの価値観の違いや目的意識
の違いを互いに尊重し仲良く城見学をしたい。



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愛知県の人々 必見の衝撃的城郭ブログ記事!

2021-08-19 10:12:33 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、


城郭ビイスタ論 上文字クリック




◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が凄い人気です。

◆長谷川
それは生月会長が動画にしましょうと賛同された
からで生月さんの見解や見識を尊重して下さい!
愛知の皆様投稿最期まで是非読んで下さいませ。

▼安土城 「扇型複合縄張」天正4年 1576年 織田信長 長谷川線

天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉の小田原石垣山城

▼小田原石垣山城も二方向からビイスタ線がある。

◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城 
禄5年(1596年)「十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付け
られ、奉行衆罷り超す」(『当代記』)とある。
◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城 

伏見小幡山城「扇型縄張」

▼江戸城徳川家康「扇型複合縄張」慶長11年(1606年)

▼城郭測量の基本原則 享保18年 1733年
原則として城は2方向から計測測量するようだ。

◆湖岸様
米原市朝妻城ビイスタ構造を長谷川先生が解説
されている投稿を見てまさかと!衝撃を受けた。


◆対談者
米原の朝妻城の城主とは一体誰なんでしようか?

◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子が新庄直信頼
です。ウィキペディア(Wikipedia)より引用を
します

凡例
新庄直頼
時代
戦国時代 - 江戸時代前期
生誕
天文7年(1538年)
死没
慶長17年12月19日(1613年2月8日)
改名
直頼→晟珊
別名
通称:新三郎、新庄駿河入道晟珊(略:新駿入)、宮内卿、法名:晟珊
戒名
総寧寺殿月海晟珊大居士
墓所
吉祥寺(東京都文京区駒込)
官位
従五位下駿河守、宮内卿法印
幕府
江戸幕府
主君
浅井長政 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 改易 → 徳川家康
常陸麻生藩初代藩主
氏族
新庄氏(秀郷流)
父母
父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘
兄弟
直頼、直忠、直壽[1]、ほか女子2名
正室:佐久間盛重の娘
 室:前田利太の娘
直定、直綱、堀秀信[2]、直房
女(柴田帯刀[3]室)
 養子:虎姫[4](中川秀成室)


新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から
江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は新三郎。
官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊
とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。 
摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、
高槻城主。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、
文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから[7]、
徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主とさ
れた。 
◆質問者
朝妻城主 新庄直頼 正妻は尾張の御器所城城主で
織田家家臣 佐久間盛重とされますが、御器所城に
はビイスタ工を法施した城郭なのでしょうか?

◆長谷川
私は、愛知中世城郭研究会の一員でもありますが
『愛知県中世城館跡調査報告』に明治時代地籍図
が存在し、御器所西城のあった字北市場の東南に、
御器所東城が記され西には御器所東城の地籍図が
残されてます。現在の愛知県名古屋市昭和区の城。
▼御器所東城明治期地籍図
▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察①

▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察②
 登城海道とは「外城」つまり外郭の街道の意味?
 
▲耕作地と城郭領域や城下の町割も放射線型縄張を
読み取る事が出来る。また小字「中屋敷」地割等も
著者罫書き線の青線のラインに適合する。


▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察①

▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察②


◆質問者
新庄直頼の正室:佐久間盛重の娘とあります盛重は
桶狭間合戦で丸根砦を守って玉砕した佐久間大学盛
重で永禄3年桶狭間合戦で佐久間氏はビイスタ工法
を丸根砦に採用していますか?

◆長谷川
丸根砦とは単純な円郭式の砦の様に一見みえますが
詳細に調査検討しますと「放射型縄張」や「扇型縄張」
がな、繊細検証すると佐久間盛重の縄張が判明する。




◆長谷川 2カ所 

◆質問者
佐久間大学盛重の息子はだれですか?

◆長谷川
盛重の長男は信長の家臣で加賀尾山城主「後の金沢城」
の『久間玄蕃盛政』に相当致します。

◆質問者
天正11年賤ケ岳合戦の佐久間玄蕃盛政の陣城
「行市山城跡」にはビイスタ測量法が存在を
致しますか?

◆長谷川
行市山城址には幾何学的ビイスタ測量法が存在します。


◆質問者
柴田勝家の先妻は佐久間重盛であり勝家から見て
佐久間玄蕃盛政は甥に相当致します。柴田勝家は
ビイスタ工法を天正11年1583年の賤ケ岳の合戦に
使っていますか?

◆長谷川 「放射型ビイスタ」 使っています。
内中尾山城/玄蕃尾城 天正11年1583年柴田勝家築城




◆対談者
柴田勝家天正11年1583年玄蕃尾城ビイスタ素晴しい!
元来は柴田勝家の主君は織田信長でありません信長の
弟で末森城織田信勝の家老でしたが稲生の戦いで信長
に敗れ主君を信勝から信長へ変えましたね!さてさて
『信長公記』には末森の城は尾張としては「山城」と
書いています。もしかすると末森城にもビイスタ工法
が存在するのではないのでしょうか?
◆長谷川
古図では末森城とは非常に美しい「扇型縄張」です!

◆長谷川
非常に用意周到で完璧に近い「扇型ビイスタ縄張」です。
◆長谷川
尾張中村出身の藤吉郎秀吉は太閤となり肥前の
名護屋「なごや」に肥前名護屋城を晩年築城を
致します。秀吉の生家からは那古野「なごの」
が近所にあり九州において秀吉は那古野の頃
を追憶して自ら人生を振り返っていた事でしよ
う。藤吉郎の肥前名護屋城もやはり扇型に縄張
しています。「扇型ビイスタ工法」を展開して
おります。▼肥前名護屋城「扇型ビイタ工法」



◆秀吉の兄弟 羽柴秀長の城もやはりビイスタ工法を使う。

◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子の新庄直信頼を
ウィキペディア(Wikipedia)より引用すると。

天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌
の長男として生まれた。 天文18年(1549年)、父が37歳
のときに江口の戦いで戦死し、11歳で後を継いだ。『浅井
三代記』によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていた
が、最終的には戦国大名・浅井長政に従った[5]。 元亀元年
(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦
っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方
の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の
丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して
軍門に降った[5]。 織田家では江北を任された羽柴秀吉の
与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第
に家臣化された。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに
従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に
封じられていたというが、時期ははっきりしない[5]。天正
19年(1591年)に近江大津城1万2,000石に移封されるが、
嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう[6]。秀吉の
馬廻を務め[5]、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共
に秀吉に随従した[6]。また、伏見城普請を分担[6]。 文禄
元年(1592年)、文禄の役には、直定(新三郞)が兵300
を率いて朝鮮へ渡海した。 文禄3年(1594年)5月23日、
肥前名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、直頼は
長谷川守知、尼子三郎左衛門[8]、三上与三郎と共に御酌通
之衆として次室の末席に控えていた[9]。同年10月、大和宇
陀城主に移封され[5]、同4年(1595年)、摂津高槻城に移
封され、3万石に加増されたが、この頃、秀吉の御伽衆に
も列する[6][5]。 慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して
遺物金十枚を受領[6]。 慶長4年(1599年)、徳川家康が
上洛した際に、加藤清正、浅野幸長と共に家康の伏見屋敷
を警護した[10]。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは
西軍に与し、東軍の筒井定次の留守部隊を押しのけて伊
賀上野城を占拠し、そのまま籠城した[6][10]。『寛政重修
諸家譜』には、当初は東軍に与しようとしたものの、周囲
の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属し
たと書かれている[10]。急を知らされた筒井定次が帰国し
対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去し
た。(『伊乱記』)「上野城の戦い」も参照戦後処理に
て改易となり、新庄父子の身柄は蒲生秀行の預かりとな
った[10]。慶長9年(1604年)1月15日、家康に召されて
駿府に入り、赦免を受け、江戸の徳川秀忠に拝謁して、
常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂郡、下野
国芳賀郡・都賀郡・河内郡の8郡において、3万300石を
与えられ、後に行方郡麻生に立藩した[10]。 慶長13年
(1608年)12月26日、法印に叙され、宮内卿を称す
[10][6]。慶長17年(1613年)12月19日に死去。享年75。
直定が跡を継いだ。 
脚注[編集]
1.     ^ 号は蔵斎。秀吉に仕える。 
2.     ^ 同じ坂田郡の堀秀村の養子。 
3.     ^ 松平忠直の家臣。 
4.     ^ 実は佐久間盛政の娘。 
5.     ^ a b c d e f g 谷口 1995, p. 210. 
6.     ^ a b c d e f g h 高柳 & 松平 1981, p. 125. 
7.     ^ 尊朝法親王の『唐崎松記』に「文武世にすぐれ、
五常もをのづから備わりたる人」と賛辞が載っている[5][6]。 
8.     ^ 秀吉の馬廻の組頭。 
9.     ^ 『松浦古事記』による。 
10.   ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 286. 
参考文献[編集]
  • 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 「秀郷流新庄」 『寛政重脩諸家譜. 第5輯』 國民圖書、1923年、286-287頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/152 国立国会図書館デジタルコレクション。
  • 谷口克広; 高木昭作(監修) 『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、1995年、210頁。 ISBN4642027432。
  • 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、125頁。

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衝撃!日本城郭史 革新的研究手法  城郭ビイスタ論 大全!

2021-08-19 10:08:29 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
長谷川先生!大変な事になって来ました!
全国の町の教育委員会の文化財の部長級
課長級、主査級の方々達で今日本全国で
城郭ビイスタ論が話題騒然となっている
との事です!何でも長谷川博美とは誰か?
わが町の城址にはビイスタ工法が施工さ
ているのか?一体どうしたら?ビイスタ
工法の正確な中心点が求められるのかと?
日本全国津々浦々の文化財課が騒然です!

◆みんな
良く言うわ!私達長谷川先生の現地講義を受けて
来た人は「城郭ビイスタ論」なんか何十年も前に
余呉城郭研究会、米原城歩会で!熟知してた事!
今全国であわてふためいてビイスタ動画を何度も
見ている人々は全国の学者や学芸員や研究家達!

◆長谷川
戦前戦後を通し城郭研究のテーマ主観は建物、
曲輪、虎口、横矢、堀、土塁を縄張の根本と
誤認していた傾向が長く現代も続いています。

縄が城に張られる事。また測量台から縄や糸
を経始して城郭全体の基本デザイン構成構図
決定されてる経始の文言の意味や本意が認識
されていなかった事に、そもそも根本原因が
あります。貴方の会社や役場のビルの前には
定礎と呼ばれる、測量基準点が今でも残って
おります。これこ経始の「始」に相当します。
経は目には見えない測量機器が発する光学の
真っ直ぐな経線、経始の「経」に相当します。



勾殳玄・規矩術(きく)の基本語句の説明
勾殳玄(こうこげん)ピタゴラスの定理の応用。
※勾殳玄法には様々な呼び名がある。
勾・立水(たつみ、たてみず・たちあがり等ともいう)『垂線』
殳・陸水(ろくみず・ていへん)          『底辺』
玄・勾配(こうばい・のびがね等の呼び名)     『傾斜』

◆穂積さん
岐阜城山麓居館に規矩術ビイスタ工法はありますか?
◆長谷川
岐阜城信長館は分度を応用の6カ所のビイスタ工法の跡が!






◆反論者
築城縄張の名手藤堂高虎は絶対に長谷川先生
の説かれるビイスタ手法は絶対使っていない!





◆対談者
高虎は放射測量法(ビイスタ工法)を使ってる!
名大工の河原豊後守こと甲良豊後守と同郷!

▼中世城郭 近江男鬼城 二局ビイスタ論
中央の堀切Aを境に赤と青のビイスタが存在


▼文禄慶長の役 釜山倭城 二局ビイスタ論









◆対談者
但馬竹田城に100回訪れた人が長谷川先生の
ビイスタ工法放射線罫書き線見て強い衝撃!
▼米原学び合いステーシンヨンの長谷川博美 城郭講座 好評!
★好評!長谷川城郭講座 次回
日時 令和3年 9月 30日
場所 米原学びあいステーション
   「旧称米原公民館」
参加費 500円
予約☎ 0749-52-2240

▼余呉城郭研究会
令和3年8月21日
近江横山城見学会
浅井氏、織田信長、羽柴秀吉、石田三成所縁の城
集合場所 JR 河毛駅 東口 10時10分
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
▼米原 城歩会 記念写真

◆反論者
長谷川さんは古代の都や中世の城や信長や秀吉の
城に勝手に罫書き線っていうかビイスタ線てな物
を入れて本当に変わった異端の先生だと常に思う。

◆対談者 下書きの重要性
貴方は舗装した道路に道路標示線をコーティング
をする職業をしておられますね?チョークで事前
に計測し白い道路標示塗装をされますね?いずれ
チョークの線は雨でアスフルトから消えてしまう。
◆達観様
解った!ヒラメイた!道路路面標示の白い塗料が
『城』自体であり、雨露でやがて、消えてしまう
白い罫書き線こそ今、日本で話題騒然の城郭論点
『城郭ビイスタ論』だと言う事を私は悟りました!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

規矩術の典型 扇や扇骨自体 ビイスタ工法!

◆質問者
規矩術応用した古代都市建築は存在しましたか?
◆長谷川
弥生の纏向宮殿遺跡や古代都市計画は
ビイスタ線と左右対称シンメトリック
日本の文化は中世戦国と進捗する従っ
て左右非対称のアシメ、「アンシメ
トリック」の文化が醸造されて行きます。
日本庭園の植木の松の枝や盆栽の枝など
左右非対称の日本の文化とも言えます。
正中線(中心線)を中軸として左右対称シンメトリクツ形式
▼近江伊勢遺跡神殿のビイスタ配置「放射状建物配置」
▼五世紀の日本の古代豪族の城館 三つ寺Ⅰ遺跡の規格矩術



▼東洋中国幾何学 学術書


◆奥州 藤原氏 毛越寺 ビイスタ工法Ⅰ
坂東武者は武家政権都市鎌倉府「鎌倉城」を開設させた。

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論は日本全国で認識
され注目される戦前戦後を通して希有の城郭論
です。先生自身がズバ抜けた研究視点の持主!

◆長谷川
だれも私の城郭ビイスタ論は見ていないハズ?
見ているとたらそれは一部の学術家さんかと?

◆反論者
その通り、どの書店に行っても、どの図書館
に行っても、城に向かって放射線状に直線を
走らせる、城郭測量や城郭研究の図書は無い
長谷川氏の城郭ビイスタ論など掲載されてま
せん。長谷川氏は完全に城の邪道で異端者。

◆対談者
ニユートンが万有引力の法則を発見するまで
何処の図書館にも行っても万有引力の法則が
収録されていたでしょうか?城を人間の先生
や人間や集団が下す定説や既存の概念こそが
絶対に正しいと言い切れますか?それを絶対
正しいと盲信した時点でそれはもう学門とは
別の、偏向したたけの人間崇拝の世界になる。
真実や答えを教えてくれるのが本当の先生か?

◆長谷川
戦前戦後を通して多くの城郭研究家が文系で
あり、そもそも、平盤測量や測量台を用いて
元来放射状に城を計測した日本文化を見落と
しておられる事が原因ではないでしょうか?
また堂宮大工、社寺建築の人は西洋分度器
を使わず曲尺「かねじゃく」一本で角度を
出して木材をタンジエント計算する人です。
それを東洋中国日本では規矩術と呼んでる。
享保年間に記された『量地指南』に城測量
の当時の手法が記されている。これこそが
近代の我々城に関わる人々が看過した欠点!
江戸時代にはまだ放射状に「城」を計測す
る文化や伝統を日本人は保有していた事を
全く近代学者や研究家は考慮せず無視した。
これこそが元来日本の伝統的測量文化です。

『量地指南』に9番目の測量線が記されいます。
かって、朽木史朗さんは、安土城の石垣裏から
「惟住内九」と言う墨書を発見報告されてます。

惟住=丹羽長秀 内=内衆 九は九番目の石と
言う意味でありましょう。近世城郭名古屋城の
天守石垣の刻印に「加藤肥後守」「内小代下総」
ある。後半の「内小代下総」とは、加藤家家臣
 小代下総守 という意味(「内」=家臣)。清正
の家臣(肥後国人の)小代氏がこの石の意味!
◆対談者
それみて御覧なさい!東洋日本の規矩術や西欧
のビイスタ理論を万年無視していては万年城郭
研究が進展しません。城に何万回旅行したとて
城郭を見て気付く事「覚り」には至りませんよ!
城を勉強する時も人間は肩書きや著書や社会的
地位に眩惑されて、城自身を熱心に集中し見学
する習慣を失くしてしまいます。答えは教科書
や図書館に収録蒐集されている図書刊行物だけ
に存在すると思ったら大間違いでないですか?

◆対談者
日本は47都道府県が存在します。一つの県には
少なくとも純心で優れた学芸員様や測量技師は
10名様は必ずおられる。一般有識者層でも先生
の優れたオリジナル城郭研究視点や視座に正直
驚愕している人は各県には10名は優秀な方々が
必ずおられる単純に計算をすと各県長谷川先生
の城郭ビイスタ動画を見た人は20名おられる事
になります。つまり20名×47都道府県=940様の
動画披見者様が必ず出現する。もしかすると世
の中には聡明な人が多数潜在し我も我もと動画
を見られる賢人がいらっしやる可能性はゼロと
は断言できません!必ずや全国の良識ある善
良な賢者様に支持される!いつの世も人間社会
の特徴として賢者は賢者を認識支持し、愚かな
人は、愚な指導者に常に誘導洗脳されるのが、
人間社会の常で、これこそ、浅猿ましき事よ!
浅猿=「あさましき」と古来はこの字を使った。

▼永禄3年尾張桶狭間合戦 丸根砦「佐久間氏」



◆小牧山城
『信長公記』収録
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
『公記』では「小真木山」記されている。近年
安土城以前の石垣三段も発掘され話題を呼んだ。

◆質問者
信長の築城の際には山も谷も
同時に縄張をしましたか?

◆長谷川 解答①
『信長公記』
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
の記録には「此の山にて御要害仰せ付けられ侯
はんと上意にて、皆々、家宅引き越し侯へと御
諚侯て、爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしら
へ侯へと、御屋敷下され、記されていますから
当時は山頂の曲輪も山麓谷間の屋敷も同時進行
で縄張りされたと私は推定し従って織豊城郭の
ビイスタ工法も山頂や谷間に及ぶ可能性がある。

▼長谷川博美 挿入 小牧山城 城郭ビイスタ線
★織田信長築

▲大手方面よりの小牧山城のビイスタ「展望、見栄え、顕示」
▼小牧山城 複合ビイスタ工法論

◆伊木山城
岐阜県各務原市鵜沼字伊木山
原図 各務原市「伊木山城跡発掘調査概要」より
『信長公記』に以下収録
信長濃州伊木山へ御上の事(永禄7年)(1564)
★織田信長の陣城


築城時期や伊木家の経歴については諸説あるが、
一般に信じられている来歴は以下の通りである。 
1561年(永禄4年)、この地を攻めた織田信長
によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、こ
の地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊
木忠次と改名したという。そして、この伊木山
に伊木山城を築き居城とした。後に信長の家臣
である池田恒興に転仕した。 1590年(天正18年)
、廃城となった。恒興の死後も池田輝政に仕えた
忠次は、岡山藩筆頭家老となった。 廃城時期が
天正末期でありビイスタ工法の可能性もあろう。

▼中世能楽舞台の弐ヵ所のビイスタ「見所」

◆近江城郭ビイスタ工法 近江八幡市北庄町 岩崎山城
武蔵国 比企郡 菅谷館 ビイスタ工法 「埼玉県」
武蔵杉山城 ビイスタ工法 「埼玉県」



▼永正の乱 近江八幡市 円山城 西条氏



▼永禄11年 近江和田山城 佐々木六角氏 『信長公記』


◆近江城郭のビイスタ工法 元亀の騒乱 須川山砦 「米原市」



◆近江横山城
元亀年間の織田信長、羽柴秀吉の城として使わ
れた元来は浅井長政の城を姉川合戦元亀元年6月
28日1570年7月30日奪取した事は『信長公記』に
詳しい。また信長秀吉は虎御前山と横山を連携
て近江浅井氏を小谷城に攻撃している重要な城。
★浅井氏、織田氏、羽柴氏の城
▼横山城ビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 長浜市/米原市」
▲山上山下を含めて縄張された可能性がある。
▼横山東麓の大原観音寺は基本的に本道と山門
を結ぶ参道の左右に寺坊を配列した山寺の塔頭
様式であるが元亀の頃の信長、秀吉の暫定的な
横山城下山麓居館としての機能も再考する必要
▼米原市大原観音寺


横山城見学会は下記 8月21日 予定
▼横山城は北城も南城も含めて総合的ビイスタ工法施工
驚くべき事に竪堀までもビイスタ放射線縄張に従ってる。

『信長公記』を要約 横山城は近江江北攻めの信長拠点
元亀三年壬申 (じんしん))元亀3年(1572年)
奇妙様御具足初めに、虎後前山御要害の事 
七月十九日、信長 御父子江北表に至りて御馬を出だされ、
其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居え
られ、廿一日、浅井居城大谷小谷城へ推し詰め、
七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる
虎御前山に臨時築城を命じた。

◆近江宇佐山城「滋賀県大市」
◆織田信長 森三左衛門 の近江志賀郡押えの城

この城の文献上の初見は永禄13年(元亀元年、
1570年)3月20日の多聞院日記に
内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、
今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長
ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲ
コシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾ
ムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、
乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル
坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、
東山ノ辺ヲ通」とある。

★信長家臣森氏の城で志賀の陣では織田信長の拠点城郭。
▼宇佐山城ビイスタ図 石垣は山中方面より大津方面に堅固


◆織田信長 近江虎御前山城 元亀4年天正元年期
★近江浅井氏小谷城攻めの陣城で信長/秀吉が築城
「滋賀県長浜市」
★藤吉郎秀吉は城郭内分から放射線状に縄張りしている。

▼虎御前山城 織田信長陣城 測量図 西側よのビイスタ工法

◆小谷城「滋賀県長浜市」
羽柴秀吉は天正3年まで小谷城に在城した事は
文献『信長公記』に記される。▼小谷城ビイスタ論
★A近江小谷城本丸
▼天正4年織田信長は丹羽長秀を普請奉行として
羽柴秀吉も築城に参加した事は『信長公記』ある。
「滋賀県近江八幡市」
★築城主体 織田信長 普請奉行丹羽長秀 
▲安土城のビイスタ工法▼信長の絶対的権力を誇示するビイスタ工法!
安土城 天主台 ビイスタ論 長谷川線挿入
★B近江安土城天主 ★天主中心部より放射状設計

▼安土城 八角平のビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 ★放射状設計

◆対談者
『信長公記』よると天正6年鳥取城法線の模様を
半兵衛戦況報告のため安土に向わせ5月24日安土
に着き、信長に謁見して信長は半兵衛の図面を
見て鳥取城の様子が図面から手に取る様に解る
と激賞したとされますが羽柴秀吉が鳥取城攻め
の為に天正6年に築城した、太閤ケ平陣城にも
当然秀吉はビイスタ工法用いて築城してますか?


◆長谷川
先ず2方向からビイスタ工法を施した縄張手法が
認められます。流石は秀吉/半兵衛/見事な城です。

◆更に念入りに2ヵ所のビイスタ工法も認められ
ます。天晴見事用意周到な傑作陣城と言えます。
赤線、青線、緑線、黒線と城郭縄張は見事です。

◆長谷川
当時の武将は四方正方形90度の正方形の陣城を築城せずに
不整形な矩形の主郭を築いております。これは秀吉晩年の
肥前名護屋城も是非彼の城の本丸が正方形でない事を各自
確認してください。これはビイスタ工法に従ったからです。

▼天正10年羽柴秀吉は明智光秀を山崎に破り天王山に築城する。



▲山崎山城 ビイスタ線挿入 長谷川博美 ★放射状設計
「京都府大山崎町」
▼羽柴小一郎も着陣した城 但馬竹田城ビイスタ論

▼但馬竹田城のビイスタ線に適合した石垣の様子。

★特別質問者★
本能寺の変後天正10年に織田信長の重臣は尾張
清須城に集合して織田家の今後の方針を決定す
る会議、寄り合い、とも言う「清須会議」開催
しますね?清須城は尾張の中心であり織豊城郭
つまり織豊城郭ビイスタ論が濃厚に残存してた
可能性はありますか?日本国を平定過程でだっ
た織田信長の安土城天守ず何故正方形に作られ
いないのか?天正大坂城本丸が何故四角形状に
作られていないのか?信長秀吉権力行使力から
見てキッチリト矩形方形の城郭を繰り得たハズ
です。長谷川先生!織豊政権の根本根幹とも言
える尾張清須城のビイスタ工法を一度見検討し
てみていただけませんか?清須こそ尾張の中心
で清須越しによって尾張の中心が名古屋に移動
し現在の東海中京圏が形成されていったのです。

◆長谷川
良質の清須城の測量図がない限り無理!

★特別質問者★Ⅰ
そこをなんとか古図等を駆使して清須城ビイスタ
を復元しみて頂けませんか?何度も改変された城
清須城のビイスタ工法に私は強く魅了されます!

◆長谷川
では概略的にアバウトと清須城ビイスタを考察
してみましょう。あくまでも仮想仮定としいう
事を前提に清須城のビイスタを考察してみます。
▼下図を参考に用いてみましよう。

★清須城=天正10年信長が本能寺に倒れ信長家臣が清須会議を開催
◆長谷川
ビイスタ工法の痕跡があるようにも思えます。★尾張織田家の根拠城郭
◆長谷川
別角度からビイスタ工法を検討しますと図の〇印
に整合性あるかもしれけません。あくまでも仮定
です。


◆長谷川
赤線は本丸と右の馬出曲輪を含むビイスタ線
黒線は尾張斯波氏守護館の縄張起点か?断言
は避けますが、読者各位様で考察して下さい。

★特別質問者★Ⅱ
清須城には
     ★A近江小谷城本丸
     ★B近江安土城天主
     ★C近江佐和山城本丸
     ★D天正大坂城本丸
     ★E備前岡山城本丸
の様な城郭内から放射状ビイスタ線
縄張が施工されたのでしょうか?
◆長谷川
古図から推測するに城内より放射線状に織豊城郭
清須城が縄張りされていた可能性はゼロではない。


近江佐和山城は浅井氏磯野丹波から織田氏が
奪取してからは歴代織豊大名が城主のです!

■ 『信長公記』大船を作られ侯の事
五月廿二日、佐和山へ御座を移され
在佐和山なされ「佐和山城に居住して」
巻六(元亀四年癸酉)の信長佐和山居住記録
★近江佐和山城は信長の時世に織田家臣丹羽氏の城
▼近江佐和山城 ビィスタ理論 長谷川博美


★C近江佐和山城本丸

天正11年1583年
賤ヶ岳合戦で元織田両軍「柴田羽柴」は陣城を造る。
▼羽柴秀長/羽柴秀吉/田上山城
▼北勢「北伊勢」滝川方「柴田方」峯城ビイスタ 縄張
▼天正11年柴田勝家 内中尾山城「玄蕃尾城」

▼柴田勝家 玄蕃尾城

▼玄蕃尾城 航空写真 ビイスタ論 長谷川博美
▼柴勝家甥 佐久間盛政 行市山城



長谷川博美 岩崎山 動画等 上文字クリック
◆長谷川
▼高山右近はキリシタン殉教者だけでなく優れた設計技師

▼賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉と丹羽長秀は坂本城
を拠点として江北「滋賀北部へと進駐する」
▼▲近江坂本城 ビイスタ理論図 長谷川博美 坂本城縄張は不明
▼坂本城 城郭ビイスタ論

◆明智光秀
光秀は織田信長より近江志賀郡坂本城を与えられ
織田軍として丹波方面に進駐して亀岡城福知山城
周山城などを構築していく丹波の黒井城は光秀の
家臣斉藤利三が黒井城を織豊城郭に改修したと思
われ主郭部にビイスタ工法の片鱗を見る事が可能。
▼丹波黒井城 ビイスタ論

▼丹波黒井城 ビイスタ論




▼羽柴秀吉は天正大坂城を構築して天下を平定する。
★D天正大坂城本丸
▲大坂城ビイスタ論 長谷川博美▼大坂城天守ビイスタ論

▼織豊系城郭 特に秀吉の築城法放射状ビイスタ工法
 は備前岡山城の宇喜多氏の城つくりにも強く影響!
★E備前岡山城本丸


天正18(1590)年の小田原陣
▼秀吉は天下平定の過程でお小田原石垣山城を作る。


◆以下ウイッキペデイアより
「聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として
1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正
15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移った。
 九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を
みた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には
後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また
天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。 
◆質問者
聚楽第は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。
◆関白豊臣秀吉は洛中に彼の政庁とも言うべき
聚楽第を構築する外郭とての総構土塁、御土居
を構築して洛中洛外を区画しする京都七口とも
言われるが実際は10箇所の土塁開口があったと
される。

◆徳川幕府 二条城
秀吉は己の栄華の跡たる聚楽第をあとかもなく
破却したと言われている。それは豊臣秀次邸宅
としての府城聚楽第の城を消去する目的とされ
ているが?ビイスタ工法がより整合性を持って
同心円放射状に機能設定されている城とは徳川
が築城した二条城こそがより御土居と整合性を
持っているように著者は感じ歴史の疑問を思う。
帝王や国王が自国の領土を眺望する城を古来、
国見の城とも言うが当時の京洛を眺望する為に
は徳川二条城の方がより方位学的に優れている。

◆質問者
豊臣秀吉の
伏見城は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。




▼秀吉は文禄慶長の役で自分の城 肥前名護屋城に
ビイスタ工法を用いる。掛線 長谷川博美 挿入


★太閤 豊臣秀吉の城▲肥前名護屋城
▼伏見城の治部少輔丸

▼豊臣秀吉の家臣石田三成の佐和山城
▼佐和山城が廃されて彦根城には鐘之丸が築城された。


コメント (3)
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石田三成 佐和山城 ビイスタ論 長束正家 水口岡山城 ビイスタ論

2021-08-19 07:05:40 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

石田三成 佐和山城 ビイスタ論
長束正家 水口岡山城 ビイスタ論

◆質問者
佐和山城って織田政権においては丹羽長秀の城
でしよ?しかも丹羽は安土城の普請奉行もある。
という事は当然安土城と今回の佐和山城も山城
部分で類似する縄張があるのですか?

◆長谷川
重複する放射状測量を根幹に置くと事に関して
佐和山城も安土城もビイスタ縄張の現実を否定
できる段階や次元や時代ではなくなって来てい
ます。日本の城を語る場合、我々は縄張と言う
概念を升形や虎口や曲輪配置のみに捉われて城
の基本形状が如何に決定されたのかつまりは城
の構図は如何なるものなのかと?読み解いて行
く城郭研究の段階へと時代は進捗して来てます。

▼佐和山城複合ビイスタ

◆長谷川
領域を英訳するとTerritory[テリトリー」と翻譯する。
縄を張るを英訳するとA rope is stretched.となる。
stretched.「ストレッチド」は伸ばすと言う意味だ。
もし我々日本の城郭研究家が城の縄張を領域のみに
に戦前戦後固執し続け城郭縄張をテリトリー領域
のみに拘束され続けたら、今回紹介する近江の
佐和山城や水口岡山城から検証確認される放射状
に設計配列された曲輪群の配置配列は一体何を意味
するものであろうか?令和の我々は今一度城郭が
城外から計測されていた事を認識し世相や流行に
浮かれた城郭研究を進捗するべき時節ではないか!?
▼長谷川博美 佐和山城のコンポジション「構成」


▼江戸期の城郭測量法 享保18年

▼甲斐 武田氏 新府城の放射線城縄張
◆対談者
今回の投稿では関ヶ原で敗れた織豊大名
石田三成の城 佐和山城と
自刃した長束正家の水口岡山城
の両城のビイスタ工法が存在したのか
一度長谷川先生に検討して頂きたい!

▼佐和山城 赤色写真
▼佐和山城 本丸 推定復元図 著者作図

◆対談者
令和3年8月21日の横山城見学会大変楽しみです!
何しろ横山城は石田三成出身地長浜の石田に近く
信長、秀吉、三成に由緒の城ですから期待します。
◆反論者
横山城って、ただの土の砦でしょう?
矢倉も塀もない、柵だけの砦てしょ?
◆長谷川
あなたは城跡も文献も読み双方から
歴史を冷静に確実に楽しんで下さい。
文献『信長公記』に横山城の塀も矢
蔵も台風でそれらが吹き飛んだ歴史
的事実が記録されている史学文献で
す。そもそも文献『信長公記』に記
されてる城は当時の城としては一流
の城にしか、記録されていませんよ。


◆反論者
でも横山城は小さな砦でしょう。多数の兵員が
入城できる様な城では絶対なかったのですよね?
◆長谷川
いいえ、横山城には多数の放射状ビイスタ線も
確認できる非常に大規模城址であり『信長公記』
には秀吉の大人数を入れ置いた事が記録がある。
西暦1571年『信長公記 元亀2年の記録』です。

◆対談者
横山城にもビイスタ工法があると言う事で私は
城址段築や曲輪も丁寧に見学したいと思います。

▼「扇型複合縄張」

◆反論者
横山城のビイスタ論なんて本当ですか?
米原市に住んでいますが朝妻城なんて
長谷川先生のビイスタ論なんかと全く
関係ないと私は固く思っております!
そんなの絶対にビイスタ論など絶対に
無いんです!長谷川先生から私は絶対
学びませんし、城を考えたりしません!
◆対談者
私は頭脳が柔軟だから長谷川先生に傾聴
致します。しかし先生は僕と言う人間を
信奉しないで下さい。城の本当の先生と
は現地の実際の城郭遺跡ですと言われる。

◆長谷川
近江国坂田郡朝妻城も白黒の明治の地割
図からかつて世継城のビイスタ工法さえ
もおおよそではありますが判明致します。
また朝妻港とは琵琶湖の内陸の交通要衝
であり古くから文献や『伊勢物語』にも
登場している港ですから地籍ずから復元
すると琵琶湖の湖中になんと城郭測量点
を読み取る事が可能です。「みどり色」
が内城で「茶色」が外輪つまり外郭で
あると読み取る事が可能かと私は思う。
◆長谷川
また外郭外堀もビイスタ工法の影響と右の町屋の
通路の赤線にも「筋違道」「鉤折道」が観察可能

◆対談者
すごいわ!しんじられない!でも私には
城郭遺跡の平面構造を解読解説できる
先生の様なセンスや能が全くありません!

◆長谷川
最初からもう絶対に解らないと脳に信号
を送らない!決め付けないで地道に考察
を継続を続けられる事を私は希望します。

◆対談者
石田三成の逸話では大原観音寺つまりは
近江横山城山麓で三成が秀吉の三献の茶
を献上した事で特に有名です。また三成
は元来若年の時に「三也」と署名してま
すし石田氏の家紋が「大一大万大吉」の
三吉祥文字をモチーフにしたものですか
ら石田三成の近江佐和山城の鳥居本側に
三カ所の城郭の見晴を考慮した石田三成
の3ビイスタ構造が想像したと私は思って
います。それに三成は九曜星り家紋も用
いてますから佐和山には無数の砦が放射
城に存在したと私は個人的には思います。

◆長谷川
石田三成の3に関したエビソードから彼の
城、佐和山城に3ビイスタが存在したかと
発想するあなたの発想力はユニークです。

◆対談者
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と
佐和山の城と落首(落書)さえされるほど
佐和山城の景観は素晴らしかったと聞きま
す。「またおおれは都の者なれど、近江
佐和山見物しょ、大手のかかりを眺むれば、
金の御門に八重の堀、まずは見事なかかり
かよ、うらの御門をまず出てて、北を眺む
れば、すそは湖やや見事。良い城よ見事な
城よ堀ほりあげて、せきしょをうえて、せき
しょに花が咲きしならば、この城ほりは花盛り
(滋賀県犬上郡多賀町に伝わる、かんこ踊りより)
とありますから絶対に佐和山城には見晴や
見栄えの良いビイスタ工法が施工されてます!


◆長谷川
解りました。貴方の御意見を取り入れて佐和山
城のビイスタ工法を一度考察してみましょう。

▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ ▼「扇型複合縄張」
▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ ▼「扇型複合縄張」


▼佐和山城 山城部分 城郭ビイスタ「扇型縄張」


◆男性質問者
長谷川先生!?部分総構の意味とは何ですか?

◆長谷川
総構は城の全周囲を塁濠で囲んだ形式と一部
城下や武家屋敷を取り囲んだ部分総構があり
ます。天正11年の賎ケ岳の戦いで羽柴秀吉は
東野山と堂木山の谷間に掘削した堀を総構の
堀と表現しております。近江では彦根城初期
の総構は山城の全集に気付かれた土居に相当
する全回型総構があります。安土城の安土御
構は水堀二重と城下土塁の三重構造が総構に
相当致します。部分総構の様相を物語る例と
しては近江八幡山城の古図の緑色の部分が
本来「土居敷」と書かれた、土塁を伴う城の
▼部分外構と解釈可能かと思われます。八幡
山城の山麓には今でも三カ所の橋梁が存在し
ます。

◆男性質問者
近江佐和山城の土居敷「土塁を伴う総構」部分総構位置は?
◆長谷川
江戸期の佐和山城古図を検討しますと明確に茶色で土塁と
水色で佐和山城の大手口の部分総構の様子が記されてます。
◆男性質問者
ちょつと待って!横山城の東山麓の観音寺池はもしか
すねと横山城は一時信長や秀吉の逗留していた城です。
この観音寺池の右側にもしかすると横山城東砦が
あるのか?8月21日是非とも此れを見学したい!



◆対談者
石田三成の鳥居本方面の3ビイスタ工法の解説を!
◆長谷川
現在残っている水堀の水濠の跡の3カ所をビイスタ
工法の起点の仮定しましょう。

◆長谷川
先ず第1のビイスタ視点です。
◆長谷川
第一ビイスタ方面からの実際の佐和山眺望の様子です。

◆長谷川
次に第2のビイスタ視点です。見事な城郭眺望ビイスタです。

◆長谷川
その次の第三のビイスタの眺望です。

第三ビイスタの眺望は三之丸、二之丸、本丸と折り重なる見事な眺望。


◆対談者
さすがは鳥居本方面から沢山ビイスタは見事ですね!
◆長谷川
私は3ビイスタには納得していません何故ならば
ビイスタ線の中央主軸が大手門跡を通過してない。
歴史的建造物の中心主軸を「正中線」と言います
が正中線が大手門跡に存在しなければビイスタ論
の整合性がありません。扇の要たる佐和山城正面
の位置がずれていては納得できません。理論から
言うと佐和山城大手門跡に中央線が存在し門から
は天守を仰ぎみる完璧なビイスタ工法が存在した
筈です。


◆長谷川
再度佐和山城古図を考察しましよう。下の画像から曲輪は
彦根カントリークラブ方面にも存在した事が考えられます。
鳥本本から彦根に至る切通道の右にも水堀が描かれてます。
◆長谷川
つまり青線が本来の鳥居本側からのビイスタ工法の正中線
つまりセンターラインであった事は確実であり大手門から
天守を望む非常に見栄えのするビイスタ工法を駆使した城
が佐和山城であったと私は推測致します。

◆長谷川
青線つまり鳥居本側から見た佐和山城の眺望こそ最も
佐和山城のビイスタつまり佐和山の山容の素晴らしさ
である事に気付く人はおられると思います。

◆長谷川
石田三成が出した文書には天正十八年(一五九〇)
『佐和山惣構部普請』にあたって犬上郡、坂田郡、
浅井郡、伊香郡の四郡の百姓たちを動員したい旨
が記されています。石田三成の佐和山城総構普請
は四郡の人々をそれぞれ四つの割普請にして佐和
山城の外郭群を形成したと私は考えております。
上の佐和山城写真を見ると、一見して近江八幡
山とも非常によく似た山容であるとも言えます。

勿論佐和山城鳥居本側にも琵琶湖側にも睨み
を利かす天正の大小2天守が存在したのかも
しれませんし、山頂を中心に週にビイスタ線
を九曜星の様に曲輪を配置したかとも思います。

◆湖南様
長束正家 水口岡山城 ビイスタ論も御願いします。
◆長谷川
では髙田徹氏の優れた図面をお借りして検討します。
▼東海道水口の宿方面の城郭ビイスタは完璧に存在
 します。水色の部分ビイスタや北東の裏ビイスタ
 も是非検討してみて下さい。
◆長谷川
東海道の裏側に面した北面ビイスタも素晴らしい縄張!

◆対談者
正直衝撃と言うか一種のカルチヤーショツクを
私は今回受けました。

コメント (3)
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