城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が凄い人気です。
◆長谷川
それは生月会長が動画にしましょうと賛同された
からで生月さんの見解や見識を尊重して下さい!
愛知の皆様投稿最期まで是非読んで下さいませ。
▼安土城 「扇型複合縄張」天正4年 1576年 織田信長 長谷川線
天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉の小田原石垣山城
▼小田原石垣山城も二方向からビイスタ線がある。
◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城
禄5年(1596年)「十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付け
られ、奉行衆罷り超す」(『当代記』)とある。
◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城
伏見小幡山城「扇型縄張」
▼江戸城徳川家康「扇型複合縄張」慶長11年(1606年)
▼城郭測量の基本原則 享保18年 1733年
原則として城は2方向から計測測量するようだ。
◆湖岸様
米原市朝妻城ビイスタ構造を長谷川先生が解説
されている投稿を見てまさかと!衝撃を受けた。
◆対談者
米原の朝妻城の城主とは一体誰なんでしようか?
◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子が新庄直信頼
です。ウィキペディア(Wikipedia)より引用を
します
凡例 新庄直頼 |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文7年(1538年) |
死没 | 慶長17年12月19日(1613年2月8日) |
改名 | 直頼→晟珊 |
別名 | 通称:新三郎、新庄駿河入道晟珊(略:新駿入)、宮内卿、法名:晟珊 |
戒名 | 総寧寺殿月海晟珊大居士 |
墓所 | 吉祥寺(東京都文京区駒込) |
官位 | 従五位下駿河守、宮内卿法印 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 浅井長政 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 改易 → 徳川家康 |
藩 | 常陸麻生藩初代藩主 |
氏族 | 新庄氏(秀郷流) |
父母 | 父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘 |
兄弟 | 直頼、直忠、直壽[1]、ほか女子2名 |
妻 | 正室:佐久間盛重の娘 室:前田利太の娘 |
子 | 直定、直綱、堀秀信[2]、直房 女(柴田帯刀[3]室) 養子:虎姫[4](中川秀成室) |
|
新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から
江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は新三郎。
官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊
とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。
摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、
高槻城主。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、
文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから[7]、
徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主とさ
れた。
◆質問者
朝妻城主 新庄直頼 正妻は尾張の御器所城城主で
織田家家臣 佐久間盛重とされますが、御器所城に
はビイスタ工を法施した城郭なのでしょうか?
◆長谷川
私は、愛知中世城郭研究会の一員でもありますが
『愛知県中世城館跡調査報告』に明治時代地籍図
が存在し、御器所西城のあった字北市場の東南に、
御器所東城が記され西には御器所東城の地籍図が
残されてます。現在の愛知県名古屋市昭和区の城。
▼御器所東城明治期地籍図
▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察①
▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察②
登城海道とは「外城」つまり外郭の街道の意味?
▲耕作地と城郭領域や城下の町割も放射線型縄張を
読み取る事が出来る。また小字「中屋敷」地割等も
著者罫書き線の青線のラインに適合する。
▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察①
▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察②
新庄直頼の正室:佐久間盛重の娘とあります盛重は
桶狭間合戦で丸根砦を守って玉砕した佐久間大学盛
重で永禄3年桶狭間合戦で佐久間氏はビイスタ工法
を丸根砦に採用していますか?
◆長谷川
丸根砦とは単純な円郭式の砦の様に一見みえますが
詳細に調査検討しますと「放射型縄張」や「扇型縄張」
がな、繊細検証すると佐久間盛重の縄張が判明する。
◆長谷川 2カ所
◆質問者
佐久間大学盛重の息子はだれですか?
◆長谷川
盛重の長男は信長の家臣で加賀尾山城主「後の金沢城」
の『久間玄蕃盛政』に相当致します。
◆質問者
天正11年賤ケ岳合戦の佐久間玄蕃盛政の陣城
「行市山城跡」にはビイスタ測量法が存在を
致しますか?
◆長谷川
行市山城址には幾何学的ビイスタ測量法が存在します。
◆質問者
柴田勝家の先妻は佐久間重盛であり勝家から見て
佐久間玄蕃盛政は甥に相当致します。柴田勝家は
ビイスタ工法を天正11年1583年の賤ケ岳の合戦に
使っていますか?
◆長谷川 「放射型ビイスタ」 使っています。
内中尾山城/玄蕃尾城 天正11年1583年柴田勝家築城
◆対談者
柴田勝家天正11年1583年玄蕃尾城ビイスタ素晴しい!
元来は柴田勝家の主君は織田信長でありません信長の
弟で末森城織田信勝の家老でしたが稲生の戦いで信長
に敗れ主君を信勝から信長へ変えましたね!さてさて
『信長公記』には末森の城は尾張としては「山城」と
書いています。もしかすると末森城にもビイスタ工法
が存在するのではないのでしょうか?
◆長谷川
古図では末森城とは非常に美しい「扇型縄張」です!
◆長谷川
非常に用意周到で完璧に近い「扇型ビイスタ縄張」です。
◆長谷川
尾張中村出身の藤吉郎秀吉は太閤となり肥前の
名護屋「なごや」に肥前名護屋城を晩年築城を
致します。秀吉の生家からは那古野「なごの」
が近所にあり九州において秀吉は那古野の頃
を追憶して自ら人生を振り返っていた事でしよ
う。藤吉郎の肥前名護屋城もやはり扇型に縄張
しています。「扇型ビイスタ工法」を展開して
おります。▼肥前名護屋城「扇型ビイタ工法」
◆秀吉の兄弟 羽柴秀長の城もやはりビイスタ工法を使う。
◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子の新庄直信頼を
ウィキペディア(Wikipedia)より引用すると。
天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌
の長男として生まれた。 天文18年(1549年)、父が37歳
のときに江口の戦いで戦死し、11歳で後を継いだ。『浅井
三代記』によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていた
が、最終的には戦国大名・浅井長政に従った[5]。 元亀元年
(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦
っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方
の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の
丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して
軍門に降った[5]。 織田家では江北を任された羽柴秀吉の
与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第
に家臣化された。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに
従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に
封じられていたというが、時期ははっきりしない[5]。天正
19年(1591年)に近江大津城1万2,000石に移封されるが、
嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう[6]。秀吉の
馬廻を務め[5]、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共
に秀吉に随従した[6]。また、伏見城普請を分担[6]。 文禄
元年(1592年)、文禄の役には、直定(新三郞)が兵300
を率いて朝鮮へ渡海した。 文禄3年(1594年)5月23日、
肥前名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、直頼は
長谷川守知、尼子三郎左衛門[8]、三上与三郎と共に御酌通
之衆として次室の末席に控えていた[9]。同年10月、大和宇
陀城主に移封され[5]、同4年(1595年)、摂津高槻城に移
封され、3万石に加増されたが、この頃、秀吉の御伽衆に
も列する[6][5]。 慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して
遺物金十枚を受領[6]。 慶長4年(1599年)、徳川家康が
上洛した際に、加藤清正、浅野幸長と共に家康の伏見屋敷
を警護した[10]。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは
西軍に与し、東軍の筒井定次の留守部隊を押しのけて伊
賀上野城を占拠し、そのまま籠城した[6][10]。『寛政重修
諸家譜』には、当初は東軍に与しようとしたものの、周囲
の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属し
たと書かれている[10]。急を知らされた筒井定次が帰国し
対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去し
た。(『伊乱記』)「上野城の戦い」も参照戦後処理に
て改易となり、新庄父子の身柄は蒲生秀行の預かりとな
った[10]。慶長9年(1604年)1月15日、家康に召されて
駿府に入り、赦免を受け、江戸の徳川秀忠に拝謁して、
常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂郡、下野
国芳賀郡・都賀郡・河内郡の8郡において、3万300石を
与えられ、後に行方郡麻生に立藩した[10]。 慶長13年
(1608年)12月26日、法印に叙され、宮内卿を称す
[10][6]。慶長17年(1613年)12月19日に死去。享年75。
直定が跡を継いだ。
脚注[編集]
1. ^ 号は蔵斎。秀吉に仕える。
2. ^ 同じ坂田郡の堀秀村の養子。
3. ^ 松平忠直の家臣。
4. ^ 実は佐久間盛政の娘。
5. ^ a b c d e f g 谷口 1995, p. 210.
6. ^ a b c d e f g h 高柳 & 松平 1981, p. 125.
7. ^ 尊朝法親王の『唐崎松記』に「文武世にすぐれ、
五常もをのづから備わりたる人」と賛辞が載っている[5][6]。
8. ^ 秀吉の馬廻の組頭。
9. ^ 『松浦古事記』による。
10. ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 286.
参考文献[編集]
- 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 「秀郷流新庄」 『寛政重脩諸家譜. 第5輯』 國民圖書、1923年、286-287頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/152 国立国会図書館デジタルコレクション。
- 谷口克広; 高木昭作(監修) 『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、1995年、210頁。 ISBN4642027432。
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、125頁。