貴重な話を聞きました。子どもの頃を満州で過ごし、敗戦から8年目、16歳で帰国したという方の体験談です。先だって松島奈々子さんが主演したドラマ「レッドクロス」とぴったり重なる部分があって、興味深いのです。
ドラマは、従軍した赤十字病院の看護婦の体験を軸に、戦後に満州で別れた息子との絆の回復を描いていました。
K氏は敗戦を新京(現在の吉林省長春市)で迎えました。その町に住む日本人は、いったん町を離れ、やがて南方に逃亡するグループと町にもどるグループに分かれたそうです。南方に行った人々は大変な苦労をしたといいますが、町に戻った人たちは、苦労もなく過ごすことができたといいます。ドラマでは敗戦後、日本人に仕返しする中国人の姿が描かれましたが、そんな場面に出会ったことはただの一度もなかったといいます。
敗戦から8年も中国にいたのは、国民党軍、中国解放軍それぞれに依頼され、技術者として協力してきたためだといいます。そういえばドラマでも医師と看護婦が、解放軍に協力するよう迫られ、軍とともに中国国内を転戦する場面が描かれていましたが、専門的技術を持った人たちは、中国の戦争からの復興に駆り出されたということなのですね。
重なる点の一つは軍隊の描写です。
ドラマの中では、敗戦後に赤十字の医師や看護師が身を寄せた病院を、やがてソ連軍がやってきて接収しました。そこに描かれたソ連軍の姿は野蛮です。「女はいないか」。その隊の隊長らしき人物が、日本人医師などを問い詰め「いない」と答えますが、やがて女性看護婦を発見し拉致、連れ去ってレイプ後に放り出した場面が描かれます。
実際に満州国の中心であった新京(現在の吉林省長春市)で暮らしていたK氏は、進駐してきたソ連軍兵士に強盗に入られたことを覚えているといいます。当時、それぞれの世帯が手分けして開拓民の娘を1人づつ預かっていたそうです。K氏は「姉ちゃん」と呼んでいた。強盗が入ったその時、〝姉ちゃん〟とK氏の母を屋根伝いに隣家に逃したというのです。
実際、女性に対するレイプがあったのかどうかは分かりません。少なくともそのようなうわさがあったので、そのような行動をとったのでしょう。少なくともこのエピソードは、ソ連軍の兵士が粗暴な行為を働いていたという事実を示しています。
その後、新京には、国民党軍、中国解放軍が交互に入ってきたそうですが、解放軍の兵士は、決して粗暴な行為をとることはなかったといいます。同軍が接収した建物には、「針一本も人民のものに手を付けない」という趣旨の文言が書いてあると、大人たちは言っていたそうです。
この新京が国民党軍の支配下にあり、解放軍に包囲され、半年後に解放された時だけは、苦しい思いをしたといいます。長春包囲戦というようです。
包囲されている町に、初めのうちは空から落下傘をつけた食料などが航空機から投下され、やがて落下傘のない物資の投下が始まったといいます。国民党軍が持っていく前に町の人たちがこれを集め、何とか食いつないでいたそうですが、やがて物資の補給はなくなった。ただ、ウィキペディアで見ると、この場面はちょっと違うようで、そもそも解放軍は兵糧攻めを行うために、食料の空輸を停止したとあります。体験の記憶が正しいのか、ウィキの記述が正しいのか・・。
いずれにせよ待っていたのは飢えでした。「やっぱり弱い者から死んでいくんだな」。K氏この時の体験を振り返りました。体の弱かった弟はやがて衰弱してして死んでいったそうです。自分、それから赤子の兄弟もいたけれども、その他の子ども達は無事だったといいます。
飢えがひどくなると町を離れる者が出てきます。新京を脱出した者は、まず国民党軍と包囲する解放軍の間にもうけられた「チョウズ」(違うからもしれない。要するに軍と軍の間にある一定の空白地帯のことらしい)に、しばらく留め置かれたといいます。
町に出るときに荷物を積んだリヤカーは、長春の国民党軍兵士に奪われた。「食料を求めてだったと思う」といいます。また、自分達のすぐ前でリヤカーを引いていた女の子は、国民党軍からと思われる銃撃を受けたといいます。即死だったとか。そして「チョウズ」には2日間とどまったそうですが、水を汲みに行った時に、目の前で父親が足を撃たれたそうです。そのすぐ後ろに自分が居たそうですが、幸にケガはなかったそう。運が良かったのですね。すぐに伏せて匍匐(ほふく)前進をしたといいます。
そうこうして2日後に「ちょうず」から脱出したといいます。長春は荒涼としたたたずまいだったものが、その外側は豊かに緑に溢れていたそうです。畑に作物が実っていたのですね。そして脱出した家族は、解放軍によって別の町に移送されたといいます。
ただここも先のウィキの記載はニュアンスが違う。解放軍は役にたつ者だけの脱出を許したとしているのです。ウィキの記載通りならK氏の父は鉄道の技術者だったために優遇されたということになります。さてどちらの評価が正しいのか・・。
戦後、同じように満州から帰国したYさんは、ある時に体験を語り、「父が中国人の倉庫から食料を盗んできたのが、いまだに心に引っかかっている」と話したそうです。
K氏はこんな話を聞いたことがあったそうです。日本軍は砂糖や米など大量の食糧を倉庫に残したまま撤退した。しばらくは日本兵が守っていたために中国人はここに近づかない。そのことを知っている日本人が物資を運んでくる。K氏は「おそらくお父さんは、そこから物資を持ってきたんだと思う」と伝えると、Yさんは心のしこりを取り除くことができた、と安堵したと言っていたそうです。
極限の状態の中での体験で、長い間苦しんでいるきた人々がいることを教えてくれるエピソードです。戦争の真実はそこにあるのかもしれません。いまあらためて問われているのが、日本人が再びこうした体験をするようになっていいのですか、ということなのだろうと思います。
ドラマは、従軍した赤十字病院の看護婦の体験を軸に、戦後に満州で別れた息子との絆の回復を描いていました。
K氏は敗戦を新京(現在の吉林省長春市)で迎えました。その町に住む日本人は、いったん町を離れ、やがて南方に逃亡するグループと町にもどるグループに分かれたそうです。南方に行った人々は大変な苦労をしたといいますが、町に戻った人たちは、苦労もなく過ごすことができたといいます。ドラマでは敗戦後、日本人に仕返しする中国人の姿が描かれましたが、そんな場面に出会ったことはただの一度もなかったといいます。
敗戦から8年も中国にいたのは、国民党軍、中国解放軍それぞれに依頼され、技術者として協力してきたためだといいます。そういえばドラマでも医師と看護婦が、解放軍に協力するよう迫られ、軍とともに中国国内を転戦する場面が描かれていましたが、専門的技術を持った人たちは、中国の戦争からの復興に駆り出されたということなのですね。
重なる点の一つは軍隊の描写です。
ドラマの中では、敗戦後に赤十字の医師や看護師が身を寄せた病院を、やがてソ連軍がやってきて接収しました。そこに描かれたソ連軍の姿は野蛮です。「女はいないか」。その隊の隊長らしき人物が、日本人医師などを問い詰め「いない」と答えますが、やがて女性看護婦を発見し拉致、連れ去ってレイプ後に放り出した場面が描かれます。
実際に満州国の中心であった新京(現在の吉林省長春市)で暮らしていたK氏は、進駐してきたソ連軍兵士に強盗に入られたことを覚えているといいます。当時、それぞれの世帯が手分けして開拓民の娘を1人づつ預かっていたそうです。K氏は「姉ちゃん」と呼んでいた。強盗が入ったその時、〝姉ちゃん〟とK氏の母を屋根伝いに隣家に逃したというのです。
実際、女性に対するレイプがあったのかどうかは分かりません。少なくともそのようなうわさがあったので、そのような行動をとったのでしょう。少なくともこのエピソードは、ソ連軍の兵士が粗暴な行為を働いていたという事実を示しています。
その後、新京には、国民党軍、中国解放軍が交互に入ってきたそうですが、解放軍の兵士は、決して粗暴な行為をとることはなかったといいます。同軍が接収した建物には、「針一本も人民のものに手を付けない」という趣旨の文言が書いてあると、大人たちは言っていたそうです。
この新京が国民党軍の支配下にあり、解放軍に包囲され、半年後に解放された時だけは、苦しい思いをしたといいます。長春包囲戦というようです。
包囲されている町に、初めのうちは空から落下傘をつけた食料などが航空機から投下され、やがて落下傘のない物資の投下が始まったといいます。国民党軍が持っていく前に町の人たちがこれを集め、何とか食いつないでいたそうですが、やがて物資の補給はなくなった。ただ、ウィキペディアで見ると、この場面はちょっと違うようで、そもそも解放軍は兵糧攻めを行うために、食料の空輸を停止したとあります。体験の記憶が正しいのか、ウィキの記述が正しいのか・・。
いずれにせよ待っていたのは飢えでした。「やっぱり弱い者から死んでいくんだな」。K氏この時の体験を振り返りました。体の弱かった弟はやがて衰弱してして死んでいったそうです。自分、それから赤子の兄弟もいたけれども、その他の子ども達は無事だったといいます。
飢えがひどくなると町を離れる者が出てきます。新京を脱出した者は、まず国民党軍と包囲する解放軍の間にもうけられた「チョウズ」(違うからもしれない。要するに軍と軍の間にある一定の空白地帯のことらしい)に、しばらく留め置かれたといいます。
町に出るときに荷物を積んだリヤカーは、長春の国民党軍兵士に奪われた。「食料を求めてだったと思う」といいます。また、自分達のすぐ前でリヤカーを引いていた女の子は、国民党軍からと思われる銃撃を受けたといいます。即死だったとか。そして「チョウズ」には2日間とどまったそうですが、水を汲みに行った時に、目の前で父親が足を撃たれたそうです。そのすぐ後ろに自分が居たそうですが、幸にケガはなかったそう。運が良かったのですね。すぐに伏せて匍匐(ほふく)前進をしたといいます。
そうこうして2日後に「ちょうず」から脱出したといいます。長春は荒涼としたたたずまいだったものが、その外側は豊かに緑に溢れていたそうです。畑に作物が実っていたのですね。そして脱出した家族は、解放軍によって別の町に移送されたといいます。
ただここも先のウィキの記載はニュアンスが違う。解放軍は役にたつ者だけの脱出を許したとしているのです。ウィキの記載通りならK氏の父は鉄道の技術者だったために優遇されたということになります。さてどちらの評価が正しいのか・・。
戦後、同じように満州から帰国したYさんは、ある時に体験を語り、「父が中国人の倉庫から食料を盗んできたのが、いまだに心に引っかかっている」と話したそうです。
K氏はこんな話を聞いたことがあったそうです。日本軍は砂糖や米など大量の食糧を倉庫に残したまま撤退した。しばらくは日本兵が守っていたために中国人はここに近づかない。そのことを知っている日本人が物資を運んでくる。K氏は「おそらくお父さんは、そこから物資を持ってきたんだと思う」と伝えると、Yさんは心のしこりを取り除くことができた、と安堵したと言っていたそうです。
極限の状態の中での体験で、長い間苦しんでいるきた人々がいることを教えてくれるエピソードです。戦争の真実はそこにあるのかもしれません。いまあらためて問われているのが、日本人が再びこうした体験をするようになっていいのですか、ということなのだろうと思います。
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