「国家への道順」(柳美里著、川出書房新社)を読んだ。
柳美里さんは震災後、鎌倉市から南相馬市に移り住み、FMラジオで番組を持ち、昨年、小高区に本屋さんを開設したことを知っている程度だった。その柳さんが、何を書いているのか。書店に並んでいた本の中から、そんな興味を持って手に取った本だった。
読み始めた本は、いきなり重かった。「国家への道順は?」。その前段で、良く知った自分の家の道順を尋ねる人はいないということを書いている。家への道順は知っている。しかし、「国家」すなわち、国籍を同じくするものが住む一つの「家(国家」への道順は知っているのだろうか。そんな問いかけを読者に投げかける。
国とは何か。日本人の両親の子として、日本に生を受け、生まれた時から日本国籍を有する私は、当たり前のような顔をしてこの国家の一員として生活している。しかし、その国家が、国際関係の中で当たり前の国家として機能しているのか。柳さんの問いかけはその点にあるのだろう。
柳さんは、在日朝鮮人の子として生まれ、韓国籍を持ち、ハングルではなく日本語を使うという、自分のアイデンティティに悩んだえきたらしい。その悩みが彼女の作品を生み出す原動力になってきたという。一方、柳さんは韓国の人々との交流を通じて自らのルーツを確認しながら、自らのアイデンティティを探す旅を続けているようだ。
その時に、日本という国のあり方はどうだろうか。侵略戦争を仕掛け、植民地支配をしたり、大きな犠牲を強いた国々に対して日本はしっかり謝罪することが必要だ。日本は侵略戦争の罪を犯し人々に犠牲を出したことを謝罪をしたはずなのに、実際の行動には、その謝罪を脇に置いてあの侵略戦争を肯定するかのような行動をとったり、被害者に対する横柄な姿勢が垣間見えたりするようなことがある。もちろん、謝罪をする立場だから、相手の言い分を全部受け入れろとは言わない。日本に理がある問題は正々堂々とその主張すればいい。しかし、その前提には、侵略の罪に対する真摯な謝罪がなければならないのはいうまでもない。
また一方、ヘイトスピーチの問題がある。安倍政権のもとで右翼的な潮流が先鋭化し、日本が侵略した国々の人々に対する誹謗中傷がまかり通っている現実がある。これに対する批判の声ももちろんあるが、これらのヘイトを根絶するまでには至っていない。
日本の謝罪が相手にしっかり伝わっていない。その現実を変えていくことが必要となっているのだろう。そのためにはヘイトを許さないことがもちろん必要だ。そして、政府としても侵略の事実をしっかりと認め、その事実の上に心からの反省を積み上げることが必要だ。同時に、大切なことを柳さんは指摘する。「対話」だ。
柳さんはこう書く。
「過去の痛苦を孕んだ現在の重みを軽くできるのは、現在の努力だけです。対話の道筋の中でしか、共通の言葉は見つけられません。私は対話を、求めます。」
そう。日本の敗戦で戦争が終わって70年以上が過ぎても、この対話が決定的に不足しているのだろう。
最初に書いた。本書の内容は。ある意味のほほんと生きてきた自分にとって、非常に重い。その重さを受け止めるためのは、彼女の言葉に繰り返し耳を傾ける姿勢なのだろうと思う。
購入した本書は、なぜかサイン本だった。書店に平積みで販売されていたものだったのだが、なぜか、サインが入っていたのだ。
サインのいきさつは知らないが、大きく、力強く書かれたサインは、アイデンティティーを探し続ける彼女の内面の強さを示されているようだ。
柳美里さんは震災後、鎌倉市から南相馬市に移り住み、FMラジオで番組を持ち、昨年、小高区に本屋さんを開設したことを知っている程度だった。その柳さんが、何を書いているのか。書店に並んでいた本の中から、そんな興味を持って手に取った本だった。
読み始めた本は、いきなり重かった。「国家への道順は?」。その前段で、良く知った自分の家の道順を尋ねる人はいないということを書いている。家への道順は知っている。しかし、「国家」すなわち、国籍を同じくするものが住む一つの「家(国家」への道順は知っているのだろうか。そんな問いかけを読者に投げかける。
国とは何か。日本人の両親の子として、日本に生を受け、生まれた時から日本国籍を有する私は、当たり前のような顔をしてこの国家の一員として生活している。しかし、その国家が、国際関係の中で当たり前の国家として機能しているのか。柳さんの問いかけはその点にあるのだろう。
柳さんは、在日朝鮮人の子として生まれ、韓国籍を持ち、ハングルではなく日本語を使うという、自分のアイデンティティに悩んだえきたらしい。その悩みが彼女の作品を生み出す原動力になってきたという。一方、柳さんは韓国の人々との交流を通じて自らのルーツを確認しながら、自らのアイデンティティを探す旅を続けているようだ。
その時に、日本という国のあり方はどうだろうか。侵略戦争を仕掛け、植民地支配をしたり、大きな犠牲を強いた国々に対して日本はしっかり謝罪することが必要だ。日本は侵略戦争の罪を犯し人々に犠牲を出したことを謝罪をしたはずなのに、実際の行動には、その謝罪を脇に置いてあの侵略戦争を肯定するかのような行動をとったり、被害者に対する横柄な姿勢が垣間見えたりするようなことがある。もちろん、謝罪をする立場だから、相手の言い分を全部受け入れろとは言わない。日本に理がある問題は正々堂々とその主張すればいい。しかし、その前提には、侵略の罪に対する真摯な謝罪がなければならないのはいうまでもない。
また一方、ヘイトスピーチの問題がある。安倍政権のもとで右翼的な潮流が先鋭化し、日本が侵略した国々の人々に対する誹謗中傷がまかり通っている現実がある。これに対する批判の声ももちろんあるが、これらのヘイトを根絶するまでには至っていない。
日本の謝罪が相手にしっかり伝わっていない。その現実を変えていくことが必要となっているのだろう。そのためにはヘイトを許さないことがもちろん必要だ。そして、政府としても侵略の事実をしっかりと認め、その事実の上に心からの反省を積み上げることが必要だ。同時に、大切なことを柳さんは指摘する。「対話」だ。
柳さんはこう書く。
「過去の痛苦を孕んだ現在の重みを軽くできるのは、現在の努力だけです。対話の道筋の中でしか、共通の言葉は見つけられません。私は対話を、求めます。」
そう。日本の敗戦で戦争が終わって70年以上が過ぎても、この対話が決定的に不足しているのだろう。
最初に書いた。本書の内容は。ある意味のほほんと生きてきた自分にとって、非常に重い。その重さを受け止めるためのは、彼女の言葉に繰り返し耳を傾ける姿勢なのだろうと思う。
購入した本書は、なぜかサイン本だった。書店に平積みで販売されていたものだったのだが、なぜか、サインが入っていたのだ。
サインのいきさつは知らないが、大きく、力強く書かれたサインは、アイデンティティーを探し続ける彼女の内面の強さを示されているようだ。
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