伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

通院待ち時間に、涙拭いながら「南三陸日記」を読み終えた

2019年04月18日 | 読書
 前回4月1日の受診から17日目、午前中に左顔面麻痺の経過観察で受診してきた。

 発病に気が付いたのは2月14日夜。以前に右顔面麻痺を経験し入院治療となる可能性があることを知っていた。1日おけば土日となり診療が遅れることから、翌15日に初診加算覚悟で総合病院外来を受診し、同日午後から1週間の入院で24時間の点滴投薬治療を受けた後、通院治療を続けてきた。丸々2ヶ月が経過したことになる。

 主治医の「どうですか」の質問に、「口の周りのしびれ感など、あまり変わっていないように感じている」と伝えた後に、目視による機能検査を受けた。額にしわ寄せ、目を軽くつぶる、強くつぶる、片目ずつつぶる(ウインク)、鼻を膨らませる、頬を膨らませる、「イー」と口を横に開く、「ウー」と口をつぼめる、あご下に力を入れる、と順番に行っていく。でき具合を0点、2点、4点で評価し、点数をつけていく。満点は40点。


 結果は辛く見て34点とのこと。前回が辛く見て24点だったので、だいぶ成績がアップした。担当医は、前回甘く見て34点と言っていた。顔面の動きが自然になってきているのだろう。

 しかし、うがいをする時に、口の左側から水が漏れる。十分に口を閉じることができていないのだ。まぶたが十分に閉じていないため左目に涙がたまるなどの症状もある。麻痺の影響は確実に残っている。薬をまじめに飲んで、回復に努めなければ・・。


 診察を待っている間に、読みかけの「南三陸日記」(集英社文庫、三浦英之著)を読み終えた。著者は朝日新聞記者で、震災後の2011年春から2012年3月までの1年間、南三陸町に赴任し、全国版に書いたコラム「南三陸町日記」を中心にまとめた本だ。コラムだから一つ一つの記事は短い。見開きの記事、また開くと見開きで写真という体裁で記事は続いていく。短い記事でも、文字からは生き残った被災者の思いが浮かび上がり胸に迫る。



 ページをめくる度に、熱くなった目頭をハンカチで押さえながら読み進んだ。麻痺の影響で目に涙がたまる症状あるので、本を読んで浮かんだ涙をぬぐっているとは、周りの患者にはばれていないと思う。幸いだ。

 この本は、著者本人(現在は福島総局勤務)がツイートで紹介していたことから知った。安保法制による南スーダンへの自衛隊派遣が問題になっていた頃、現地で取材した情報のツイートを目にしてフォローし始め、原発事故の被災地なった福島に赴任した今もフォローを続けていた。そんな縁が私と本を結んだ。


 本には、被災地の住民の日常が描かれる。瓦礫と化した被災地に息づき、新しい時間を刻み始めた被災者の時々の思いを切り取り紹介する。家族を失った悲しみを抱えながら、被災の現実を克服するために前向きに歩み始める人々がいる。その被災者を見つめる著者の目はとても優しい。彼が書けなかったことがあるとう。その理由は「おそらく、私が他の取材者と比べて、取材対象者との距離があまりに近すぎたからだったのだろう」とあった。被災者に寄り添うやさしいまなざしの根源に、この距離感があったのだろう。

 本書の巻末「再訪 二〇一八年秋」に、同町防災対策庁舎で最後まで住民に避難を呼びかけ、津波で命を失った遠藤未希さんをにまつわるエピソードが紹介されていた。あの頃、ニュース番組等で流れる彼女の避難の呼びかけ音声や結婚式を控えていたエピソードなどを聞き、命を奪った震災・津波の無情に涙を誘われていたことを思い出した。

 彼女のことは、「南三陸町・屋上の円陣―防災対策庁舎からの無言の教訓―」(ぎょうせい、山村武彦・編著)でも紹介されていた。こちらは、あくまでも防災の観点からあの時何があったかに焦点をあてている。本書は、彼女を失った彼女を巡る人々の心情が焦点となっている。「生きていて欲しかった」「(彼女を)『忘れた』なんてことない」。生き残った被災者たちの哀しみが行間から溢れてきた。


 本書に記録された被災者の思いは、他の被災者も同じ思いに共通するものがあるだろう。こうした思いを共有し続けることが、これからを考える時に大切になると思う。そんな思いをもって、本書を本棚に納めた。


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