伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

沖縄は我慢しろ? 日米政府の復帰50周年式典の言葉の意味

2022年05月15日 | 政治
 50年。沖縄の施政権が日本に返還されてからずいぶんと時間が経ったものだ。
 敗戦により、連合国といいながら、事実上米国の占領下にあった日本が、サンフランシスコ条約の発効によって、1952年、敗戦から7年で独立を回復した。しかし、沖縄の米軍占領は続き、米国が指名する住民を首班とする琉球政府のもと1952年まで米国の統治が続いた。

 52年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還されるが、米軍基地の存在は、米国占領下とほとんど変わらなかった。
 昨日5月14日に、NHKBSプレミアムで「返還交渉人〜いつか、沖縄を取り戻す〜」が放送された。2017年に放送されたドラマの再放送だが、これを視聴して、沖縄返還交渉の舞台裏に憤りを感じた。「核抜き、本土並み」を目標としながら、緊急時の核持ち込みを認める密約や、横田基地からのF-14戦闘機の沖縄移設で本土基地の機能縮小は図られながら、沖縄の基地の基地はほとんど縮小されないなど、現在に続く沖縄への基地負担の集中などの萌芽となった問題が描かれていた




 日本の領土の施政権が日本に返ってくるのに、米国の軍事戦略上の思惑が色濃く反映されて本土復帰が決まった現実には、日本が侵略戦争に敗れた敗戦国とはいえ、そんなばかな話があるかと強い不快感を覚えた。

 その時から50年が過ぎたわけだが、沖縄の現実は、この時と基本的に変わっていないといわざるをえないだろう。
 たった日本の総面積の6%にすぎない沖縄県に、日本の米軍基地の7割が集中し、普天間基地の土地の返還と辺野古への移設の問題のように、沖縄の人々の土地や事故や事件のない平和な暮らしへの願いが米軍とその基地に押しつぶされていく現実や是認する政府の姿勢が、そのことを証明している。

 実際、式典のそれぞれの言葉にも、この姿勢が示されたように思う。

 式典は、政府と沖縄県の共済で催されたようだが、岸首相の式辞は、沖縄県民の基地負担にふれながら「日米同盟の抑止力を維持しながら、基地負担軽減の目に見える成果を積み上げていく」としました。現代的課題の最大の1つである普天間基地の撤退が、結局、同じ沖縄県の名護市辺野古に決まったのは、政府流に言えば「抑止力の維持」に他ならない。つまり、この論理を持ち出す限り、沖縄からの米軍基地の撤退は進まない。この式辞は、「平和な沖縄」という県民の願いに応えるものとはならないと思う。




 また、東京会場からオンラインで祝辞を寄せた、米国のエマニュエル中日大使のあいさつは、もっと露骨だったように思う。
 大使は、ロシアのウクライナ侵略をあげながら、「われわれが共有する価値観と原則」を守るため、先人が代償を払ってきたとして、「先人たちのように自らが信じるものを守り、推進しなければならないとしながら、沖縄県のロシアの戦争非難をひきながら、「日米両国とその国民は、共に平和を守らなければならない。われわれはみんな、そのような人類の努力に責任を負っている」と、実質上、沖縄県民の基地負担の継続を呼びかけ正当化した。



 戦後77年、沖縄の本土復帰50周年という人の一生にも等しい長い時を刻みながら、日米両政府の基本的な姿勢は何ら変わっていない。これらの言葉を聞いた沖縄県民は、どんな思いでいるのだろうか。岸首相の式辞の最中、何を話すのかに注意深く聞き耳を立てる玉城デニー沖縄県知事の表情をとらえた映像が目を引いた。

 こうした日米政府の姿勢に玉城知事の式辞は釘をさした。

 玉城知事は、沖縄は本土復帰にあたって「沖縄を平和の島とする」という目標が、復帰から50年たってなお達成されていないとして、「本土復帰の意義と恒久平和の重要性」の国民認識の共有を図り「すべての県民が真に幸福を実感できる平和で豊かな沖縄の実現」の取り組みを求め、沖縄がアジア太平洋地域の持続的安定と平和に貢献し、「時代を切りひらき、世界と交流し、ともに支え合う平和で豊かな『美(ちゅ)ら島』おきなわ」の未来に向かってさらに力強くまい進していく」と決意をのべた。

 基地負担を求める日米両政府に、平和を求める心刃(こんな言葉があるかどうかは分かりませんが)で対向する考えを突きつけたと思う。



 政府と沖縄。これからの沖縄をどうするかでは、その考えに大きな隔たりがあるとはじめから分かっている。そのためだろうか、首相の言葉を聞く玉城知事、逆に玉城知事の言葉を聞く首相には、一言も聞き漏らすまいとする真剣な表情が見えるようだ。




 天皇はおことばで、「沖縄には、今なおさまざまな課題が残されている。若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後も、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願う」とした。

 米軍基地については、本土の基地でも、その存在をめぐって賛否の声がある。また、気縄の県外移転については、沖縄以外の人々にも拒否感があるのは間違いない。後段に掲載するが、以前、沖縄で自民党市議と話した際、沖縄基地の存在は、軍事上の地政学的な優位性などにあるとする議論がある一方、福島には基地はいらないなといった。その答えは正直なところだろう。

 本土に迎えることができないものは、沖縄にもいらない。そんな気持ちをもって、天皇のおことばのように考えていければ、沖縄の問題が解決する道筋も見えてくるのではないだろうか。そう思う。そして、沖縄の今後の地域にとって大切なことは、沖縄の人々の願いが県土づくりに息づくことなのだろう。「基地負担軽減の目に見える成果を着実に積み上げ」と、ゴールの見えない課題を据えるのではなく、沖縄県民の願いをゴールに据えることを明確にした日本政府努力が何よりも求められるのだと思う。

 さて、以前に、いわき市議会の特別委員会の視察で、沖縄県での新設病院の建設をめぐる視察に出かけた際、空き時間を利用して、基地や戦跡などを見てきたことがある。そのことを「伊藤浩之の活動日誌」にまとめたことがある。

 活動日誌の記事は基本的に本ブログに掲載してきたが、ブログのスタートが2012年のこと、視察が10年の2月だったので、当然、この記事はブログに掲載していない。12年も前の記事ではあるが、この機会に掲載しておきたい。






沖縄視察余話
実感 基地と軍事の最前線

普天間基地・沖縄戦跡を見学して

伊藤浩之の活動日誌 2010年2月14日 №69




 沖縄県宜野湾市の米海軍普天間基地。日本共産党の志位和夫委員長の国会質問に、鳩山首相は「在日米軍は、抑止力であり、代替施設なき返還は不可能」と答えました。しかし、駐留米海兵隊は「殴りこみ」部隊。抑止力ではありません。

 1月25日、沖縄視察出発の朝、時間があればこの基地を見てきたいと思い立ちました。持っていくカメラを一眼レフにするか、コンパクトカメラにするか考えました。結局、コンパクトにしましたが、一眼レフにすれば良かった。視察先と基地が近く、見学の時間をとることができたからです。

 基地が一望できる宜野湾市の嘉数高台公園の展望台から基地を望みました。1月26日のことです。この日、基地に動きはなく、屋外に航空機もありませんでした。ただ広大な滑走路(基本的に軍用ヘリコプターの基地)が、市街地の真中に広がっていました。

 展望台には、「宜野湾市は普天間飛行場を一日も早く返還させ、夢のあるまちづくりに取り組みます」と呼びかける同市の広報があります。基地周辺の公共施設などを紹介、そして基地移転後のまちづくり計画が記してあるのです。市ぐるみで基地の返還を求めていることが分かります。

 宜野湾市の隣の嘉手納町には嘉手納基地があります。こちらは戦闘機などの基地です。展望台にいた15分ほどの間、5、6機の大型機が北方から飛来し、着陸しました。背中に円盤型のレーダーを乗せた早期警戒管制機が確認できました。残りは偵察機のようです。

 嘉手納基地も市街地に隣接しています。直下の町は爆音と墜落の危険に常にさらされていることでしょう。
 報道では、北朝鮮が、1月25日から3月29日の間の黄海航行禁止令を出し、27日から連日、軍事境界線に向けて砲撃していたそうです。着陸した大型機は、この動きに対応した監視・偵察だったかも知れません。沖縄が軍事の最前線にあることを想起させます。

 たまたま乗ったタクシーの運転手さんは、「基地を見に行きたい」と話しかけると、「ぜひ見て行って。ついでに持って帰ってください」と穏やかに答えました。沖縄のみなさんには申し訳ありませんが、とても〝イエス〟とは言えません。それだけに沖縄のみなさんの心を知ることが、とても大切に思えました。

 運転手さんの自宅は普天間基地の近くといいます。
 「騒音、ひどいですよ。沖縄に国内の米軍基地の75%が集中しています。宮森小学校に米軍機が墜落した事件もあったし、国際大学に米軍ヘリが落ちた事件もあった」と語りました。

 宮森小学校の事件では、1959年に米軍機が同小に墜落し、小学生11人を含む死者17人、重軽傷者210人という犠牲を出しました。米兵がひき逃げ事件を起こしたことは記憶に新しい。

 沖縄県民の体験を語る運転手さんの言葉に、基地の存続という痛みを背負ってきた沖縄県民の心を見るような思いでした。

 もっとお話を聞ければよかったのですが、タクシーに乗り合わせた議員が共産党が2人(私と溝口民子議員)に自民党が2人。お互いの考えを主張しあうので、運転手さんが話すひまもなかったようです。運転者さんも困惑したでしょうね。

 那覇市にもどり、運転手さんの「また、ご利用ください」と声をかけられ、もっとお話を聞きたかったと、悔いが残りました。
 

 まだ時間があったので、戦跡も見学しました。
 沖縄戦最大の激戦地であり、沖縄戦が終わった土地である糸満市と八重瀬町。そこに沖縄戦跡国定公園があります。この中にある、平和の礎とひめゆりの塔を見学しましたが、時間が遅く資料館等には入館できませんでした。後に、見学できた方たちの話を聞きました。

 案内したタクシーの運転手さんは78歳。13歳で沖縄戦を体験し、家族8人のうち2人だけが生き残ったそうです。自らは艦砲射撃で負傷し、倒れているところを捕虜となり生き残ったこと、傷口にウジ虫がわいたことなど、悲惨な戦争体験を話してくれたそうです。「私はあそこに倒れていたんです」と指をさすリアルな戦争体験は、心に重く残ったといいます。

 また、ひめゆり記念館では、学徒動員で従軍看護婦をさせられ、ひめゆり部隊で生き残った方が、ひめゆりの塔を建立した思いを証言したそうです。これも心に深くつきささる話だったとか。
   

 ひめゆりの塔の足元に、現地ではガマと呼ばれる壕が口をあけています。沖縄陸軍病院第三外科の跡地です。
 かつて、地の底に戦争の傷跡を刻んだ暗い穴から、平和の尊さが湧き上がるようです。


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