日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

「ワンネスの扉」 脳と魂の違い

2020-06-21 18:57:26 | 日月神示の実践

 


 「ザ・フナイ」2020年3月号で、フランス人のジュリアン・シャムルワさんへの新谷直恵さんのインタビュー記事が掲載されていました。ジュリアンさんは16歳の時に、UFOを見てから、宇宙人がアプローチしてくるようになったそうです。最初はとても怖かったそうですが、次第に宇宙人が危害を加えることがないと分かり、交流が始まりました。
 また、この記事には、頭(脳)と魂(ハート)の違いについて書かれていました。頭とは集合的社会的無意識のことで、魂とは魂の計画を指していると思います。


◆ ジュリアンさんのプロフィール
「1980年、フランスのブルゴーニュ地方、ディジョン市に生まれる。パリ第5大学で人類学修士および言語学修士。16歳でUFOを目撃して以来、謎の宇宙人との交流が始まり、なんの予備知識もないままに繰り返しワンネスを体験。その現象を長年つぶさに記録した手記から『ワンネスの扉』が生まれる。14歳より独学で日本語を学びはじめ、留学生との交流学習を通じて会話を習得。」

 

◆ 「ザ・フナイ」インタビュー記事(抜粋)になります。

新谷:宇宙人とUFOとはどんな関係ですか。

ジュリアン:私もそれがどういう存在なのか考えてきましたが、UFOを作る存在というのは宇宙がわからないと作れませんし、旅ができませんので、そのくらいの理解があるというのは、スピリチュアルな存在だろうと思いました。私は宇宙のことはまったくわかりませんが、向こうはわかっています。そして向こうは波動で宇宙を歪ませたりいろいろなことをやっています。宇宙が歪むということは、宇宙はスペースですので、空間と時間が意思で歪むのです。ですから旅に出ることもできるし、いろんなことができます。

新谷:『ワンネスの扉』を読んで感じたことは、宇宙人はジュリアンさんが真に受け入れるまで辛抱強く待っていてくれて、なんと優しく、なんと辛抱強いのかということでした。もうひとつは、脳とハートの機能の明快な違いです。
 ワンネスの体験は日常生活の中で突然やってきます。横断歩道を渡っているときやスーパーで買い物をしているときにも突然やってくるので困り、それを止める方法がないかといろいろ試したのですね。そして見つけたのが、自分の頭を使うことでした。ものごとを判断したり推測すると、そのすばらしい気持ちがパッと消えた。そうしてスイッチオフを見つけたのですね。

ジュリアン:ある日、ワンネス体験をスイッチオフができたら、スイッチオンもできるのではないかと思い、自分でワンネス体験を初めて誘起することになりました。そこからいろんなスピリチュアルな体験ができました。
 宇宙には時間も空間もないし、私というものもただの錯覚でしかありません。そういうことを私は今、言葉を使って紹介しようとしていますが、その状態になると言葉ではなく、全身に溢れてれくるものがあるので、感動せずに話すのはなかなか難しいです。
 宇宙のことを説明しようとすると、頭ではなく魂にフォーカスしなければならず、そうするとその気持ちが溢れ、泣いてしまうのを止めることはできません。はっきり言えば人々の前で泣くのは嫌です。男として恥ずかしいと思うのですが、でもそう判断しているのは頭の声です。
 そうした記憶は頭ではなく心に記憶されているから、その記憶を取り戻すためにはそこにアクセスするしか方法がありません。つまりこの愛に再びつながることしかないのです。宇宙は愛でできている。そして宇宙は生きている。そして宇宙は私たちをいっさい判断していません。いっさいです。そのことは一生忘れられません。

新谷:そのお話しは感動的で、こちらのハートにも伝わって来ました。ジュリアンさんは私たちが想像していることを、具体的な体験を通して、それを言葉で話してくださるからすごくわかりやすいです。

ジュリアン:はっきり言うと宇宙人とのやり取りは、最初は頭で考えるじゃないですか。「あなたたちは誰だ」「何の用でここに来たの?」などと考えるのですが、その訪れが頻繁になってくると、疑問や違和感を感じているのは誰なのだろうという思いと同時に、来てくれてありがとうという気持ちもあるので、おかしいと思っていました。
 自分の中には二つの自分がいて、違和感を感じる自分と、来てくれてありがとうという自分を同時に体験している。私とは誰なのだろうと混乱していました。違和感を感じる自分は明らかに頭で、大きな声で話しているのですが、その一方にある微かな声は、それまでは自分は知らなかった自分で、それをもっと掘り出して見つめていきたいと思ったのです。彼らの訪れを違和感として体験しながら、もう一つの自分は彼らに対して信頼感を感じている体験はとても新鮮でした。
 その信頼というのは、先月からではなく、昨年からでもなく、ずっと前からの信頼感、安心感だということに気付き、もしかすると、この人生の前の人生の繋がりかもしれないと思いました。

新谷:ジュリアンさんが大切にされていることはありますか。

ジュリアン:できるだけいろんな人と一緒に行動し、喜びと一緒に動くことを大切にしようと思っています。それは仕事の面でも、パーソナルな面でも。
 私たちが頭で記憶していることと、魂で記憶していることは別のものです。私の体を使い終わった後に残るのは魂に記憶されたものだけですので、これからの人生をどう生きるか、できるだけ魂の経験を重ねていきたいと思います。
 頭が必要なときもありますが、頭での判断はもう許しません。頭の言葉を借りる時間は、はっきり言ってもうないのです。私は言葉では語れないそうした体験をこれからもみなさんと分かり合いたい。なぜかというと、もう十分頭の中の声にだまされてきたからです。頭から心へのフォーカスが必要です。それが私の願いです。

◆ ワンネスについて
 一般的にワンネスとは以下のように言われています。
・すべては意識から創造された
・すべては一つ
・すべては繋がっている
・時間という概念がない
・場所という概念がない
・生と死という概念がない
・始まりも終わりもない

 

 

 

◆ 次にジュリアンさんが書かれた本「ワンネスの扉」(2019年5月5日発行)を読んでみました。
以下抜粋になります。

・人間の記憶媒体は以下の3つである:
① 脳(記録ができる身体の器官)
② 魂(身体を運転している人間の本質)
③ 身体(脳以外の身体の筋肉や細胞)

・ワンネス体験のはじまりは、愛だ。愛は感動を生み出す。胸がいっぱいで涙を抑えられない。その愛はハートをつらぬく。アンプを調節すると音楽の周波数が飽和するみたいに、人間である自分がこの愛で飽和状態になる。ハートが愛で満ち溢れる。この愛が、人間である僕の殻を破り、それを超える次元の体験をさせる。
 この愛から学んだ一番大切なことは、「私はあなた、あなたは私」。他者との区別はない。それは頭で理解するコンセプトではなく、身体で感じる体験だ。「私はあなた、あなたは私」という感覚が身体に浸透すると、見ず知らずの他人を見ても自分が見える。人が体験している人生に深い感謝が湧いてくる。皆が一つの生命体のように、互いの体験を重ね合わせているのがわかる。

・通りを歩く人々の考えが本人のまわりに雲のように現れるのだ。その人の信念や想念が形となって顕在化しているのだろう。ポジティブな思いは明るい色の雲として、愚痴や不平不満の思いは暗い色として見える。積年の悩みがずっと頭の周辺にまとわりついている人もいた。ふと湧いた考えが、突然ポンと頭のまわりに現れることもあった。その思念の雲と一緒に、考えている内容も伝わってきた。彼らの思いが、僕の脳にではなくハートに響く。その雲をはじめて見たときは驚いた。想像したこともない現象で、意味もわからなかった。でも何度もワンネスを体験するうち、だんだん当たり前の現象に見えるようになった。
 次第にわかってきたのはこういうことだ。僕たち一人ひとりが創造者で、つくり出したいものを念じて宇宙へ送り、宇宙は鏡のようにそれを実体として映し返す。そのプロセスは一から十まで時間がかかるが、最初のステップは「思い」だ。思いは漠然とした雲となり、それがだんだん形ある実体となっていくことで物質的な次元で具現化される。
 人々が道路ですれ違うとき、双方の思念の雲が触れ合い、互いに影響を及ぼしているのも見えた。交流はつねに行われていた。通りを歩きながら赤の他人とすれ違っているときでさえ、目に見えない次元での交流が起こっている。
 僕には交流が見えただけでその結果はわからなかったが、ふとアイディアが湧いたり、インスピレーションがひらめいた時というのは、きっとこの交流の影響を受けているのだろう。頭の中で歌をうたっているとき、そばにいる友達が同じ歌を口ずさみ始めることがある。それと同じ現象だ。

・ワンネス体験が頻繁だった頃、日々の生活にもさまざまな影響があった。たとえば、道を歩いているだけで周囲の人から何かを感じ、それが心地よいときもあれば、不快で気分が悪くなることもあった。スーパーや人混みで近くにいる人の考えが聞こえてきたり、あるいは人の全身を見ると健康状態やバランスのとれていない器官がわかったりもした。
 体験から考察すると、僕たちは身体から目に見えないエネルギーを発しており、そのなかにはたくさんの情報が含まれている。その情報を受け取ることができれば、嘘はつけなくなり、お互い正直にならざるを得ないのではないかと思う。
 こういったエネルギー体を少しでも感じられるようになれば、それらを介して情報交換ができるようになる。さらには宇宙人や守護霊などとも意思疎通が可能になってくる。波動が上がると情報が流れてきて、ラジオの周波数を変えるように波動を変えると、また異なった情報が得られた。
 こうした学びを通して最終的にわかったことは、波動によって同じ波動レベルの物事や人物が引き寄せられてくるということだ。まさに「類は友を呼ぶ」の通り、自分の波動によってそれに見合う環境が備わっていく現象を数多く目撃した。それは物事や人物だけでなく、目に見えない存在についても同様だ。自分の波動が上がると、さまざまなスピリットやあの世の霊たちも見えてくるようになった。
 ワンネスを誘起するために窓から人々を見つめていて一番驚いたのは、共感を呼び出すときにかいま見たスピリットの存在だ。通りを歩く人のまわりに寄り添う、たくさんのスピリットたち。なかには亡くなった人の霊もいたが、多くは身体を持たずにこの地上で活動している存在だった。スピリットたちは人のすぐそばにいて、霊的に励ましたり、その人の考えをじっと見守っていたりする。僕はいつもワンネスを深く体験することに集中していたため、その姿を一瞬かいま見るだけだったが、そういったスピリットと人間との関係はどれもポジティブで、人々にスピリチュアルな支援をしているように見えた。
 この現象を見るまで、僕は目に見えない存在にはあまり興味がなかった。亡くなった人は霊となり、しばらく地上に留まったあと最終的に霊的世界へ戻るのだと思っていたし、それ以外の存在がいるとも思っていなかった。だから、ワンネスで見たこの現象は驚きだった。
 スピリットたちは皆、心から人間を支えたいと願っていた。僕の心の中でときどき聞こえる小さな声も、こういう存在から来ていたのだろう。きっとスピリットガイドと呼ばれる存在なのではないかと思う。
 人間や土地に取り憑いて離れられなくなった霊のことを、よく憑依霊や地縛霊などというが、ワンネスの波動の高い状態で見る世界には、そういった霊が視界に入ってきたことはなかった。僕たちが住むこの世界は何層ものレイヤー構造になっており、彼らは別のレイヤーに存在しているかもしれない。
 僕が見たスピリットはとても自由に人々のあいだを闊歩していた。何より驚いたのは、その存在の多さだった。一人、二人といった数ではなく、そこらじゅうにあふれている。人間一人につき少なくとも一人のスピリットが付き添っていた。彼らは自由に現れ、あちこち移動し、人に近づいたり消えたりしていた。「なんだこれは!?」と最初は本当にびっくりした。人がいれば必ずすぐそばにスピリットがいて、何かしらに交流がなされている。この現象はワンネスのはじめに一瞬目にするだけで詳しく観察したわけではないが、それでも彼らと人間との関わりの多さ、交流の豊かさに感銘を受けた。

・人生で子どもの頃から脳がつくり上げてきた「私」は本当の「私」ではない。もともと、肉体を持つ人間に生まれることを決めたのは魂だ、新しい命として人間の体験を通して学んでいくのも魂であり、老化した肉体を脱ぎ捨てて次の旅に向かうのも魂だ。決して「私=脳」ではない。本当の「私」とは、肉体と脳を使いこなし、いま物質的な次元を体験している「私」を超えたものであり、それが「魂」なのだ。

・宇宙意識と僕たちの意識が交流するには、コンタクトしやすい民族や文化があり、逆にコンタクトしにくい民族や文化がある。彼らは西洋的な個人型の意識よりも、集合型の意識とのほうがコミュニケーションしやすい。その点で、日本人は宇宙人たちと話が通じやすいと僕はずっと感じていた。

 

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 長々と引用しましたが、大変興味深い内容だと思いました。ジュリアンさんは能力者というわけではないのですが、宇宙や宇宙人を世に認知させるというお役目を持った方だと思います。16歳の時にUFOを見た時から、宇宙人からのコンタクトが始まりました。最初は怖いので、拒否していたのですが、何度も宇宙人からコンタクトがあるので、半ばあきらめて対応したようです。
 魂で対応すると宇宙と繋がり、大きく感動しますが、頭で考えた瞬間に宇宙から遮断されました。集合的社会的無意識と魂の計画のことであると思います。
 また、私たちの傍にはスピリットが寄り添っているそうです。スピリットとは西洋では精霊、妖精と思われます。日本では妖怪も含まれるのではないでしょうか。


 ジュリアンさんとはSNSで何度かやり取りしましたが、とても礼儀正しく、優しくていい人です。ジュリアンさんはパリでパンケーキのお店を経営しています。また、多くの仲間とパリの市民農園で、無農薬で野菜も栽培しています。
 今年の12月に来日されるとのことで、お互いに都合がつけば会いましょうということになっています。
 この「ワンネスの扉」という本は、「宇宙人はいるよ」という本です。こういう本が出てきたというのが宇宙元年の2020年にふさわしいと思いました。
 

                                   
                                 


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コロナが暴いた人間性     「元の世界」に満ちていた不正や欺瞞が露呈した

2020-06-07 05:33:36 | 日月神示の実践

 

<東洋経済より転載>

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コロナ禍が始まって以降、わたしたちの周辺では目を疑う光景が続々と出現している。

デマや流言を真に受けて慌てふためく人々、「自粛警察」を買って出る人々、今も続く「感染者たたき」に血道を上げる人々はもちろんだが、もっと身近なところでは「感染症対策を根性論で乗り切ろうとする経営者」「テレワークができるのにそれを認めず、出社を求め続ける経営者」「テレワークで部下を執拗に監視し、仕事をほとんどしない上司」「在宅の時間が増えても家事や育児に協力しないパートナー」「エッセンシャルワーカーをばい菌扱いしたり、八つ当たりの対象にしたりする客」などといった諸問題が噴出した。
 緊急事態宣言の解除後は、大都市圏で早くも満員電車が復活する中で、惰性的に「全員出社」を命じる企業や、「新しい生活様式」に過剰適応してクレーマーと化す人々などが世間を騒がせている。
暴かれた所属組織や人間関係の真価
 コロナ禍によって暴かれたのは、よくも悪くもそれまでの所属組織や人間関係の真価だった。例えは悪いかもしれないが、大規模かつ長期的な心理テストの被験者にされたかのように、職場や家族などのメンバーが特定のストレスでどのように振る舞うかが試されたのである。
 いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。
 しかし、恐らく大多数の人々は日頃から薄々感づいていたことばかりだったのではないだろうか。これまでは実害がさほど大きなものではなく、またそれを解決するにはあまりに困難なことを理由に、肝心の問題を棚上げにしたり後回しにしたりしていたのだ。
 けれども、緊急事態宣言が発令され、感染者の増加や重症化のリスクがさまざまなメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的なダメージが着実に広がっていく状況下で、程度の差こそあれ誰もが「人間性の危機」に対処せざるをえなくなったのである。
 ウィズコロナ(withコロナ)、アフターコロナ時代は、テレワークなどの多様な働き方が加速するだけでなく、所属組織や人間関係においても「見切る」「見直す」考え方も加速することだろう。近年の災禍を振り返ってみると、このような局面は3.11でも起こっていた。ただし、コロナ禍ほど広範囲で人々の心理に影響を与えている例はない。
 「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」と述べたのは、ナチスの強制収容所の生き証人で、実存分析(ロゴセラピー)の創始者であるV・E・フランクルだ。
 フランクルは、第2次世界大戦後にニヒリズムや悲観主義が蔓延する社会に対し、強制収容所での有名なエピソードから1つの教訓を示した。その収容所では、ナチスの親衛隊員である所長が、密かに自分のポケットマネーで囚人のために薬を購入していたのだった。他方で、最年長者の囚人は、囚人仲間を「ぞっとするような仕方で」虐待していた。
ますます「人間性」を突き付けられる
 フランクルは、この経験を踏まえて「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と主張したのである。
最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。虚栄も、野心も、縁故もです。すべてが、裸の実存に還元されました。(以上、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社) 
この真理は現代においてもまったく変わるところがない。むしろ現在のコロナ禍で痛いほど突き刺さってくるエピソードではないだろうか。
わたしたちはこれからも、コロナ禍が引き起こすさまざまな事件や出来事への関わり方をめぐってますます「人間性」を突き付けられることになるだろう。そのような視点から眺めれば、ウィズコロナ、アフターコロナ時代は案外悪いものではない。フランクルのいう「裸の実存」に還元されやすくなるからだ。
 近年、人の尊厳を保つのに必要とされる信頼関係やコミュニティーといったソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の重要性に関心が注がれている。コロナ禍がそれらの再考を迫る強力な刺激剤となっている以上、引き続き既存の所属組織や人間関係を疑問視する人々が増加することは必定といえる。
 「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」というシンプルかつ重大な啓示は、「厳正な眼差し」となって自他の言動――電車でたまたま隣り合った人から一国の首相に至るまで――の道義性を見極めようとする。現にもうそのような傾向が少なからず定着しつつある。
 わかりやすく言えば「人間性を疑うような者たちとどう向き合うのか」ということであり、抽象的な言い方をすれば、フランクルの「裸の実存」に基づき自分自身の生き方を問うのである。
 「こんなひどい働き方を強いる職場には戻りたくない」「パートナーは家族のことを何も考えていないかもしれない」などといった現在進行形の不信や疑念は、「何を守るために、誰と、どう生きるのか」という大きな問題へと歩み出す契機にすぎない。
逃げられる社会から逃げられない社会へ
 人類学者の西田正規は、「定住革命」について「逃げられる社会から逃げられない社会へ」というフレーズで表現した。その昔、人類は「定住者」ではなく「遊動者」として生きてきた。それが劇的に変化したのはおよそ1万年前といわれている。
 西田は「霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活の伝統は、その一員として生まれた人類にもまた長く長く受け継がれた。定住することもなく、大きな社会を作ることもなく、稀薄な人口密度を維持し、したがって環境を荒廃することも汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきた」と指摘する。
だが、今、私たちが生きる社会は、膨大な人口をかかえながら、不快であったとしても、危険が近づいたとしても、頑として逃げ出そうとはしないかのようである。生きるためにこそ逃げる遊動者の知恵は、この社会ではもはや顧みられることもない。(以上、西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫) 
 地震や噴火、津波や大洪水といった自然災害を、「遊動者」は身軽に移動することで、かわすすべを心得ていたが、わたしたちは「定住」という言葉が示すとおり、あくまでそこにとどまろうとする。西田は「ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えた」という。
 恐らくこれは物理的にというよりは、心理的にだ。住居というストックが象徴的であるが、所有という概念に根差した固定的な社会があるからである。関係性に対するスタンスもこの志向に半ば引きずられ、非常時においてもこの「基本戦略」を忠実に遂行しようとしてがんじがらめになっているのだ。
 「不快であったとしても、危険が近づいたとしても」「人間性を疑う」カルチャーが支配する関係性を守ることを選びがちになるのである。損して得を取れ――尊厳は損なわれるが一時の安心は得られる――というわけなのだ。
「遊動者の知恵」から何を学ぶか
 当然のことながら、わたしたちは気まぐれに「遊動者」へと先祖返りするようなアクロバティックなことはできない。そのような社会はほとんど存在しないからだ。とはいえ、「遊動者の知恵」から学ぶことはできるだろう。
 今日的な「遊動者の知恵」とは、「裸の実存」を物事の判断の中心に据えて、コミュニケーションの仕方を変えたり、相手の「人間性」を「差し引いて付き合う」フットワークのことであり、尊厳が損なわれる場所から、実りのない関係性から、素早く距離を取ったり、軽くいなしてしまうフットワークのことだ。冒険を恐れずに新しい仕事や新しいつながりに飛び込むこともそこに含まれるだろう。
 「わたしたちはもう元の世界には戻れない。しかし、元の世界がよかったといえば微妙だ」――まるでSF映画のせりふのようにも聞こえるかもしれないが、これがウィズコロナ、アフターコロナ時代の嘘偽りのない現実といえる。ならば、わたしたちはむしろ、「元の世界」に満ち満ちていた不正や欺瞞がおのずから露呈する「今の世界」こそ、愛でなければならないのではないか。

 

<転載終わり>

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 緊急事態宣言が解除され、繁華街では人出が多くなってきています。6月19日からは県をまたぐ移動の制限も解除されます。現在はまだ、鎖国中ですし、県境にはまるで関所があるようです。3月は東京の山手線や地下鉄などでも、マスクをしている人は半数くらいでしたが、今はほぼ100%マスクを着けています。テレビだけしか見ない人は、コロナウイルスを過度に危険視している傾向があります。

 この記事にあるように、コロナウイルス騒動で職場や家庭、近隣の人間関係に大きな変化が出てきています。これからは自身のやり方ではなく、在り方が大事になってくるのだと思いました。

 

 

・東洋経済


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