友達や会社の同僚との会話で、よく話題にあがるのは、日本人の無節操と思われる宗教観です。正月は神社やお寺に初詣に行き、子供には神社で七五三のお参りをし、結婚は神前でもキリスト式でもどちらでも好きなほうでやり、人が亡くなればお寺で拝んでもらい、戒名を付け、クリスマスは家族や友人で楽しく過ごします。その他、バレンタインデーやハロウィン、イースターなどのイベントも結構そこら中でやっています。一年を通して、これらのイベントをやってますが、理論的には若干矛盾も感じますが、私もそうですが、さほど気にしないのが普通の日本人ではないかと思います。また、背景の宗教は気にせず、単に行事やイベントと捉えているのかも知れません。
そんな日本人の無節操に見えて、ある意味懐の深い宗教的な行事に対する思いや行動が、神道の影響から来ているものであると中矢伸一氏は言われています。
『宗教に限らず、世界のどのような思想やイデオロギーも、不思議と日本に入ると日本的なものに咀嚼され、根付いてしまうのです。大陸仏教が流入し、日本仏教に形を変えてわが国の文化として広く浸透したり、社会・共産主義が日本にやって来て花開いたりしております。ヨガや気功、太極拳なども人気があります。このような、日本人の持つ包容性は諸外国に例を見ず、世界に秀でたものであると思います。日本人に節操がないとか、アイデンティティを持たない国民性だとかいう次元の低い評価は、誠に神道の本質を知らぬ者が犯す短慮であります。事実は逆で、日本人の心に神道的精神性が失われずにあるからこそ(失われつつあることもまた事実ですが)、他に対して寛容になれるのです。日月神事にも、まさにその包容の精神が表れています。
「神も仏もキリストも元は一つぞよ」(『天つ巻』第四帖)
「釈迦祀れ。キリスト祀れ。マホメット祀れ」(『松の巻』第十七帖)
「悪も御役ながら奥表に出てはマコトおさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(仏)結構、基(キリスト)結構、ことごとく結構の世と鳴り成る神の仕組み近くなって来たぞ」(『雨の巻』第八帖)
「天之日月の大神様は別として、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、釈迦、キリスト、マホメットの神様、百々の神様、みな同じ所に御神体集めてまつりて下さよ」(『光の巻』第二帖)
「今度はキリスト教も仏教も何も彼も生かさなならんのぞ」(『梅の巻』第二十一帖)
「日月大神、キリスト大神、釈迦大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ」(『空の巻』第十四帖)
「仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるもののみ救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思ってはならん、アラーの神によるもののみ救はれるとのではないぞ、その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、何も彼も皆救われるのぢゃ」(『紫金之巻』第四帖)
「釈迦、キリスト、マホメット、其の他世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様と讃え祀れと申してあろが。おおひつき大神様の一つの現はれぞと申してあろうが」(『月光の巻』第十九帖)
以上のように、神道のエコロジカルな面と、あらゆる宗教・思想を受け入れる包容力の面、この2つの点についてはもっと世界にアピールすべきではないかと思います。」(『日月神事 ミロクの世の到来』より)
以上の中矢氏の説明により、神道は無節操ないい加減な宗教ではなく、どんな宗教も受け入れる包容力のある宗教だと言えるのかもしれません。
世界を見渡してみれば、ユダヤ教 VS イスラム教、イスラム教 VS キリスト教など宗教戦争は今現在でも激しく行われています。また、民族間の戦争にしても、宗教の違いや文化・風習の違いから起こっている場合がほとんどだと思います。(グルジアの紛争などは、イルミナティが自分のエゴのために、起こした可能性もありますが)
日月神事には、今までの宗教では考えられないことが書いてあります。仏教もキリスト教もイスラム教も神道や天理教、大本、金光教など、全ての神様を祀るように言っています。老子や孔子の教えを信じてもいいと書いてあります。このように全ての宗教は元は同じだから、何を拝んでもいいという宗教は世界中どこにもありません。全ての宗教は「我が神尊し」で、自分の宗教だけが、正しくて、他の宗教は良くない宗教だと教えます。その観点では、神道はとても懐の深い、平和的な宗教だと言えると思います。
何だか、日本人の初詣やクリスマスなどのイベント好きな面が、少し理解できたような気がします。
そんな日本人の無節操に見えて、ある意味懐の深い宗教的な行事に対する思いや行動が、神道の影響から来ているものであると中矢伸一氏は言われています。
『宗教に限らず、世界のどのような思想やイデオロギーも、不思議と日本に入ると日本的なものに咀嚼され、根付いてしまうのです。大陸仏教が流入し、日本仏教に形を変えてわが国の文化として広く浸透したり、社会・共産主義が日本にやって来て花開いたりしております。ヨガや気功、太極拳なども人気があります。このような、日本人の持つ包容性は諸外国に例を見ず、世界に秀でたものであると思います。日本人に節操がないとか、アイデンティティを持たない国民性だとかいう次元の低い評価は、誠に神道の本質を知らぬ者が犯す短慮であります。事実は逆で、日本人の心に神道的精神性が失われずにあるからこそ(失われつつあることもまた事実ですが)、他に対して寛容になれるのです。日月神事にも、まさにその包容の精神が表れています。
「神も仏もキリストも元は一つぞよ」(『天つ巻』第四帖)
「釈迦祀れ。キリスト祀れ。マホメット祀れ」(『松の巻』第十七帖)
「悪も御役ながら奥表に出てはマコトおさまらんぞ、悪結構な世は済みて、善結構、悪結構、卍(仏)結構、基(キリスト)結構、ことごとく結構の世と鳴り成る神の仕組み近くなって来たぞ」(『雨の巻』第八帖)
「天之日月の大神様は別として、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、釈迦、キリスト、マホメットの神様、百々の神様、みな同じ所に御神体集めてまつりて下さよ」(『光の巻』第二帖)
「今度はキリスト教も仏教も何も彼も生かさなならんのぞ」(『梅の巻』第二十一帖)
「日月大神、キリスト大神、釈迦大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ」(『空の巻』第十四帖)
「仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるもののみ救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思ってはならん、アラーの神によるもののみ救はれるとのではないぞ、その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、何も彼も皆救われるのぢゃ」(『紫金之巻』第四帖)
「釈迦、キリスト、マホメット、其の他世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様と讃え祀れと申してあろが。おおひつき大神様の一つの現はれぞと申してあろうが」(『月光の巻』第十九帖)
以上のように、神道のエコロジカルな面と、あらゆる宗教・思想を受け入れる包容力の面、この2つの点についてはもっと世界にアピールすべきではないかと思います。」(『日月神事 ミロクの世の到来』より)
以上の中矢氏の説明により、神道は無節操ないい加減な宗教ではなく、どんな宗教も受け入れる包容力のある宗教だと言えるのかもしれません。
世界を見渡してみれば、ユダヤ教 VS イスラム教、イスラム教 VS キリスト教など宗教戦争は今現在でも激しく行われています。また、民族間の戦争にしても、宗教の違いや文化・風習の違いから起こっている場合がほとんどだと思います。(グルジアの紛争などは、イルミナティが自分のエゴのために、起こした可能性もありますが)
日月神事には、今までの宗教では考えられないことが書いてあります。仏教もキリスト教もイスラム教も神道や天理教、大本、金光教など、全ての神様を祀るように言っています。老子や孔子の教えを信じてもいいと書いてあります。このように全ての宗教は元は同じだから、何を拝んでもいいという宗教は世界中どこにもありません。全ての宗教は「我が神尊し」で、自分の宗教だけが、正しくて、他の宗教は良くない宗教だと教えます。その観点では、神道はとても懐の深い、平和的な宗教だと言えると思います。
何だか、日本人の初詣やクリスマスなどのイベント好きな面が、少し理解できたような気がします。