中矢伸一氏は、著書のなかで、真実の神は直接人間には憑依しないと言われています。
霊的体験をしたとか、神から導かれたなどの体験をされている方もいるようですが、そのほとんどが低級霊や動物霊の影響のようです。スピリチュアルな体験というのは私は経験がありませんが、そういった類の体験も低級霊や動物霊の影響の場合があるようです。
ただ、運良く仕事が上手くいったとか、偶然に知り合いの紹介で仕事が大きく前に進んだ、或いは、たまたま3ヶ月前納品した仕事と同じ仕事が来た、などの運の良さを今年は特に感じました。この運の良さは低級霊や動物霊の影響ではなく、正流の影響かどうかは定かではありませんが、とてもありがたく思いました。
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「真実の神は直接人間には憑からない」
本当のことを言えば、そもそも神が人間に憑かるなどということは起こりえないのである。究極的存在としての神は、人知を超越している。だから、われわれ人間は「神」という言葉を使い誤っていると言える。神が存在するらしいことはわかるが、その神とは如何なるものであるかは、絶対に知りうるものではない。
ただし、神が直接的に人に憑かるという意味でなければ、確かに神憑かり現象は起こりうる。というのは、重層的次元構造をなす神霊界においては、媒介的存在である神霊(高級霊・天使・聖霊など)の段階を中継することによって、神意を感受することは可能であるからだ。このように「神」からの直流的な意思の流れを「正流」という。
だが、この正流とて、現代人ではなかなか受けることはできない。つまり、神からの正流を受けられるほど身魂の清浄な人が、ほとんどいなくなっているからである。
人間は誰しも内的には神性を具有しているが、現在はあまりにも曇り(穢れ)をつみ過ぎて、これがほぼ塞がった状態にある。この神性が甦ったときにはじめて、ある程度の神界との交流が、媒介役を通じて許されることになるだろう。
曇りをつんだ状態で、無理に神界との交流をはかろうと試みれば、低級なる霊的世界と通じることになる。だから、自感法や他感法などによってこちら側から神へ働きかける行法は、極めて危険なのである。
これまでは、それなりに霊格が高く霊的因縁のある人物に、神界から一方的に伝達される神感法(自動書記など)の形が取られてきたが、これとて人類史上めったに起こるものではない。
日月神示には、次のように示されている
『霊人(高級霊)は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。
神が直接、人間を通じて人語を発し、また書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語にしても、その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ぬのである。』(「地震の巻」第十二帖)
『 高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤もらしく人民の目には映るものであるぞ。高度のものは、その人民のミタマ如何によって、それと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降(くだ)って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。』(「龍音之巻」第三帖)
『 浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応はほとんどないぞ。』(「龍音之巻」第十六帖)
この意味からすれば、“神憑かり”というより“霊憑かり”という言葉を使った方が妥当なのかもしれない。(「真正日本神道」中矢伸一氏著)
霊的体験をしたとか、神から導かれたなどの体験をされている方もいるようですが、そのほとんどが低級霊や動物霊の影響のようです。スピリチュアルな体験というのは私は経験がありませんが、そういった類の体験も低級霊や動物霊の影響の場合があるようです。
ただ、運良く仕事が上手くいったとか、偶然に知り合いの紹介で仕事が大きく前に進んだ、或いは、たまたま3ヶ月前納品した仕事と同じ仕事が来た、などの運の良さを今年は特に感じました。この運の良さは低級霊や動物霊の影響ではなく、正流の影響かどうかは定かではありませんが、とてもありがたく思いました。
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「真実の神は直接人間には憑からない」
本当のことを言えば、そもそも神が人間に憑かるなどということは起こりえないのである。究極的存在としての神は、人知を超越している。だから、われわれ人間は「神」という言葉を使い誤っていると言える。神が存在するらしいことはわかるが、その神とは如何なるものであるかは、絶対に知りうるものではない。
ただし、神が直接的に人に憑かるという意味でなければ、確かに神憑かり現象は起こりうる。というのは、重層的次元構造をなす神霊界においては、媒介的存在である神霊(高級霊・天使・聖霊など)の段階を中継することによって、神意を感受することは可能であるからだ。このように「神」からの直流的な意思の流れを「正流」という。
だが、この正流とて、現代人ではなかなか受けることはできない。つまり、神からの正流を受けられるほど身魂の清浄な人が、ほとんどいなくなっているからである。
人間は誰しも内的には神性を具有しているが、現在はあまりにも曇り(穢れ)をつみ過ぎて、これがほぼ塞がった状態にある。この神性が甦ったときにはじめて、ある程度の神界との交流が、媒介役を通じて許されることになるだろう。
曇りをつんだ状態で、無理に神界との交流をはかろうと試みれば、低級なる霊的世界と通じることになる。だから、自感法や他感法などによってこちら側から神へ働きかける行法は、極めて危険なのである。
これまでは、それなりに霊格が高く霊的因縁のある人物に、神界から一方的に伝達される神感法(自動書記など)の形が取られてきたが、これとて人類史上めったに起こるものではない。
日月神示には、次のように示されている
『霊人(高級霊)は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。
神が直接、人間を通じて人語を発し、また書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語にしても、その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ぬのである。』(「地震の巻」第十二帖)
『 高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤もらしく人民の目には映るものであるぞ。高度のものは、その人民のミタマ如何によって、それと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降(くだ)って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。』(「龍音之巻」第三帖)
『 浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応はほとんどないぞ。』(「龍音之巻」第十六帖)
この意味からすれば、“神憑かり”というより“霊憑かり”という言葉を使った方が妥当なのかもしれない。(「真正日本神道」中矢伸一氏著)