山崎方代を評するに「漂泊」、「放浪」、「無用者」などの形容が用いられることが多い。そして、種田山頭火や尾崎放哉と比べられることがあるが、私にはそんなふうには思えない。
放浪の時期といわれているときも、横浜の姉の家に住んでいて、そこを根城に出歩く程度なのである。山頭火の漂泊には遠く及ばないし、ましてや保険会社の重役の身分を捨てて寺の堂守となった放哉のような意志的に俗世を捨てたわけでもない。姉の死後、その家を出て2度ほど住居を変えるが一貫して定住している。
29才(1945(昭和18)年)の時、チモール島クーパンでの戦闘で無数の弾の断片が顔に刺さるという負傷で右眼の視力を失い、左眼も0.01程度の視力になってしまった。目を負傷する以前から、どのような職についても長続きせず、それに弱視が加わることで極度な貧困の中で暮らすが、住居を提供する支援者がいたり、彼を取り巻く同人仲間も多くいて、戦後、休むことなく作歌活動を続ける。
その歌は、口語体を多用する平明な表現が多い。そして、貧しい生活、妻も娶らず、孤独な人生のありようを、ときに明るく、ときに切なく切りとってみせるのである。戦後の現代短歌の先鋭たちの多くが歴史的仮名遣いも文語体も捨てずに現代的感覚を切りとって見せたことと、きわめて対称的である。歌われる内容もまた、「近代」とか「現代」とか言挙げするようなものではない。
歌集『迦葉』の解説で、玉城徹は方代を「意識的に能動的に、自分を自分たらしめてる作家」として捉え、次のように述べている。
その方法論を、整理すると、次の二方向に要約できそうな気がする。
(a) 虚構(フィクション)。方代は、これを「ほんとの嘘」と言った。「拵えもの」ではいけないと言うのである。要は、必然的な根拠あるフィクションを方代は考えたのである。その「根拠」は、方代が方代を生きることによって保証されるであろう。
(b) 叙事詩性格。方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている。ここから、方代の作品は、全体として一つの叙事詩としてよめる形に、次第に成長してきているのである。 (p. 189)
(b)については賛成しかねるけれども、(a)は方代短歌の本質の一端を言い当てていると思う。方代の歌の中には当然のことながら「俺」、「吾」のような自己呼称が用いられるが、「方代」という自分の名前を直接用いる例が多い。その現れ方に「虚構のリアリティ」の存非がかかっているようである。
ここには、歌を詠む自分と歌の中の自分との複雑な関係があるようだ。歌中の自分には、歌を詠む自分と完全に同一の場合、客観的に眺められている自分、まったく別人格のような自分、そして「彼」と表現する方がふさわしい物語の主人公としての自分。歌を詠む自分のメタ的立ち位置もそれに応じて変わるのである。直截に日常を読む場合、虚構としての日常を読む場合、人生の物語(実人生の場合も虚構の人生の場合も)を読む場合、などのシークェンスに応じて詠む自己と詠まれる自己は複雑な時空を形成するのである。
私の手には負えないだろうが、いつかこの「方代」における自己表現と自己の中の他者性の問題を考えてみたいと思っている。とりあえず、ここでは「俺」、「吾」の歌と「方代」の歌のいくつかを引用しておく。
かなしきの上に泪を落す時もわたくしの感情にはおぼれておらず 『方代』(p. 14)
大阪の佐伯に逢いぬもう吾のゆく所はなし死んでしまおう 『方代』(p. 17)
仕末のつかぬ俺の所業にてこずって身をけずる姉が浅間町にあり 『方代』(p. 18)
地下鉄の口に吸われてゆくかげにわれ踏み入りて消息をたつ 『右左口』 (p. 39)
ゆく秋のわれの姿をつくづくと水に映して立ち去ってゆく 『右左口』(p. 50)
わたくしはわたくしよりも億兆の遠くにありてまなこ離たず 『右左口』(p. 70)
これやこのわれとて水呑百姓の父の子なりき誇らざらめや 『こおろぎ』(p. 98)
ふるさとの右左口郷は骨壷の底にゆられてわがかえる村 『こおろぎ』(p. 104)
わたくしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった 『迦葉』(p. 141)
下し扉が下りつつ軋しむ十八時目的のなき方代も急ぐ 『方代』(p. 14)
冬の日が遠く落ちゆく橋の上ひとり方代は瞳をしばだたく 『方代』(p. 15)
このわれが山崎方代でもあると云うこの感情をまずあばくベし 『方代』(p. 25)
方代の嘘のまことを聞くために秋の夜ながの燠が赤しも 『右左口』(p. 64)
恐ろしきこの夜の山崎方代を鏡の底につき落すべし 『右左口』(p. 65)
方代の一日が暮れて朝が来て又ふあふあと日が開けてゆく 『こおろぎ』(p. 97)
間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ死んでも生きても方代である 『こおろぎ』(p. 108)
留守という札を返すと留守であるそしていつでも留守の方代さんなり 『こおろぎ』(p. 109)
柳の木の下にどじょうがいたわけではないけれど一人方代が立ちすくんでいる 『迦葉』(p. 138)
方代さんはこの頃電気を引きまして街ではちっとも見かけませんわよ 『迦葉』(p. 147)
馬の背の花嫁さんは十六歳方代さんのお母さんなり 『迦葉』(p. 166)
早生れの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる 『迦葉』(p. 174)
ここまで引用して分かることは、「方代」は後年になって多くなり、それに伴って「俺」、「吾」、「わたくし」の用例は減っていくのである。多分、それは歌詠みの自分と物語の主人公として自分の関係が安定化したためであろう。
さて、私が好きな歌は、どちらかと言えば「俺」、「吾」、「わたくし」、「方代」が含まれない歌に多いようだ。
ゆくところ迄ゆく覚悟あり夜おそくけものの皮にしめりをくるる 『方代』(p. 14)
ばらの木に返り咲くばらの花あればくやしき涙にじみ来るなり 『方代』(p. 21)
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ 『方代』(p. 25)
わからなくなれば夜霧に垂れさがる黒き暖簾を分けて出でゆく 『右左口』(p. 39)
おのずからもれ出る嘘のかなしみがすべてでもあるお許しあれよ 『右左口』(p. 48)
右の手に鋤をにぎって立っておるおや左手に妻も子もいない 『右左口』(p. 56)
山かげの五六ヵ村の夕まぐれひとり生まれて一人死にゆく 『右左口』(p. 67)
盲いてゆく瞼をとじて遠きひと姉の名を呼ぶ弟なれば 『右左口』(p. 74)
踏みはずす板きれもなくおめおめと五十の坂をおりて行く 『右左口』(p. 74)
何かしら後めたいことあるような佗助椿が花こぼしおる 『右左口』(p. 75)
本当に泣いているのだ喑がりに威儀を正してめし食べている 『こおろぎ』(p. 95)
ふるさとの右左口郷は骨壷の底にゆられてわがかえる村 『こおろぎ』(p. 104)
しぼり出る汗の匂いを華というふざけた事はいわないでくれ 『こおろぎ』(p. 110)
うつくしい花もつ合歓は折れやすく吾のいのちを盗みかねつも 『こおろぎ』(p. 126)
とうきょうの夜更の街の柱に体あずけてあきらめている 『迦葉』(p. 136)
母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日の思いよ 『迦葉』(p. 155)
詩と死・白い辛夷の花が咲きかけている 『迦葉』(p. 186)
(写真は記事と関係ありません)