かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(6)

2024年08月07日 | 脱原発

2015年6月19日

ころりと横になる今日が終わっている
     尾崎放哉 [1]

 久しぶりに中学時代の同級生に電話をした。肝臓ガンから復帰して2年経ったので、一緒に出かけないかと誘いの電話だったのだが、昨日の検査で肺に転移していたことが分かって来週にも抗ガン剤治療を始めるのだという。
 「君は元気か?」と訊かれて「年相応に元気だが、年相応に弱ってもいる」などと曖昧に返して電話は終わった。
 私は元気である。とくに病んでいるところもない。だが、快調かといえば、そうともいえない。毎日が、気がつくといつのまにか「今日が終わっている」のである。
 実感としていえば、達成感がないままに毎日が暮れてしまうのである。何かをやろうとしてやれなかったというわけでもないのに、達成感がない。どうも、そもそもの自分の平常というのが私には実感できていないので、根拠も理由もなく日々に不満らしいのである。

壁には新しい絵を掲げ
甕には新しい花を挿し
窓には新しい鳥籠を吊るした
これでいい さあこれでいいではないか
〔…………〕
行雲流水 い往きとどまるものはなし
わがよたれぞつねならむ……
それなら私はどこに行くにも及ぶまい
ここにかうしてゐるとしよう
ここにかうしてゐるとしよう
とまれ
今日一日は 
   三好達治「烟子霞子」部分 [2]

 これでいい、さあこれでいいではないか、という心の平衡点を探さなくてはならない。私の年齢のことを考えると、もしかしたら私なりの平衡点(基底状態)にあるのかもしれない。基底状態の量子揺らぎのごとく本質的に避けがたい心の揺らぎに惑わされて、無益に気落ちしているだけかもしれない。
 「とまれ、今日一日は」金デモに出かけて終わらせることにしよう。体を動かし、声を出し、話を聞いて、少し考える。週に一度のそんな時間が大事に思えてくる。
 先週と同じような雨天なのに、先週を上回る50人のデモ参加者は雨の市街に歩き出す。脱原発デモなので、シュプレッヒコールは原発のことばかりだけれども、それぞれは「戦争法案反対!」、「憲法違反を許すな!」と国会前の抗議の声に合わせてひそかに叫んでいるに違いない。

素晴しき一生(ひとよ)へ向かふさみどりの扉みえつつ雨みだれ降る
                           水原紫苑 [3]

 扉は見えているのである。扉を開けて、平和を確かなものにするしか素晴らしい「ひとよ」は得られない。どんなに雨が乱れ降ってもデモは元気に進んで行くのである。雨天、曇天、晴天、いつでもデモは元気なのだが。
 「ええじゃないか」コールはいつ頃からやるようになったのだろう。そんなに前からではないように思うが、このコールをやるようになってからデモは活気づいたように思える。
 いつものコール、いつものアピール文と「ええじゃないか」コールが順繰りに繰り返される。変化があっていいし、「ええじゃないか」コールには、いくぶん原初的な匂いのするリズムがある。
 こういう詩がある。

新聞の見出し
赤と黒
「ドイツ」という言葉のもとに
死者達は売店のそばに立ち
そして大きな眼で
新聞の見出しを見つめる
黒くそして赤く印刷された憎悪を
「ドイツ」という言葉のもとに
死者達は恐れる

これは死者達が恐れている
国である
  ヒルデ・ドミーン「灰色の時代」部分 [4]

 同じように、「日本」という国を、「日の丸」国旗を、「旭日旗」を恐れているアジアの死者たちがいることを忘れてしまったかのように、いま、日本人は政治的に振る舞っている。
 アジアの死者たちから見れば「日本人」として括られるだろうが、私(たち)から言わせれば、安倍自公政権、自民党、公明党とその支持者たちのことである。かつての歴史の中で死んだ死者たちが恐れる国は、70年を経てふたたびアジアを越えて世界が恐れる戦争国家になろうと画策している。
 その政治的野心を潰えさせることができるか、それが今日の私(たち)の避けがたい課題であり、しいていえば私の日々の不達成感の一つの原因でもあろう。
 「原発再稼働するな!」、「原発建設やめろ!」と叫びながら歩くのだが、私にとってこれらのコールは「戦争国家反対!」と等しいのである。
 「美しい国」という虚像に舞いあがっているのは、いったいどういう人たちなのだろう。日本という国のどの時代のどの場所で人は「美しい国」を実感し、納得しえたというのだろうか。
 「日本を取り戻す」という政治的スローガンと一緒に語られる「美しい国」は、過去のどこか一点にあったと推測される(論理的には)が、過去のどこであるかを示す言説は、右翼政治家からは明示的には発せられない。彼らも知らないのだ。少女趣味的なあこがれが、政治的仮面を被っただけの虚言なのだろう。
 しかし、いま、ここで、自公政権の戦争推進立法を認めてしまうと、太平洋敗戦後から今日までの70年の平和を「美しかった日本」といって絶望的に懐かしむ時代が待ち受けているのは確かだろう。

美しさの、裏切り、殺戮の、真実
その日、地上が再び三たび四たび燃え尽きる
そのたびごとの戦後の、はるかな、美しさ
       佐々木洋一「そのたびごとの戦後」部分 [5]

[1] 『尾崎放哉句集(一)』(春陽堂 平成2年)p.15。
[2] 『定本 三好達治全詩集』(筑摩書房 昭和39年)p.154。
[3] 水原紫苑『歌集 くあんおん』(河出書房新社 1999年)p. 43。
[4] 『ヒルデ・ドミーン詩集』(高橋勝義・高山尚久訳)(土曜美術社出版販売、1998年)p.212。
[5] 「アンソロジー佐々木洋一」(土曜美術社出版販売 2001年)p.111。




街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。