本のタイトルは、師・見田宗介の言葉であると「あとがき」で述べている [p. 264] 。3・11の(悪)夢から目覚めねばならないが、それは「夢よりも深い覚醒へ」である、と言う。
……3・11後に生み出されてきた言説のある部分は、あの凡庸な夢解釈のようなものではなかったか。「なんだ、そういうことに過ぎないのか」という表面的な安心を提供することで、夢の真実へと至る道を塞いではいなかったか。われわれに必要なのは、幕となっている中途半端な解釈を突き破るような知的洞察である。……真実を覚知するためには、彼は覚醒しなくてはならないが、それは通常の覚醒――「眠りから覚める」という意味での現実への回帰――とは反対方向への覚醒でなくてはならない。夢の奥に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない。 [p. 9]
これは理論の書である。まず、3・11の悲劇の類型への言及から始まる。テリー・イーグルトンに従って、現代社会の悲劇の対立的な二つの形態を「第一の悲劇は、息が止まるような強烈な破局、破壊的な出来事が、突然、外から侵入することである。第二の悲劇は、袋小路のような絶望的な状態が、鬱々と持続すること、つまり常態化した非常事態である」 [p. 26] とする。
そして、3・11においては、地震・津波は第一の悲劇として、原発事故は第二の悲劇として「継起的・通時的につながっている」 [p. 29]。第二の悲劇の「鬱々と持続する袋小路のような絶望的な状態」を次のように描写する。
いったん起きてしまった大規模な原発事故は、明確な収束の見通しが立たないまま、持続する。さらに、福島第一原発の事故が収束したとしても、原発が残っている以上は、いつでも事故のリスクがある。このことが、福島第一原発の事故以降、自覚されるようになる。また、原発は、正常に稼働しているときでさえも、ときに数万年も危険なレベルの放射線を発し続ける放射性廃棄物――その処理の方法がまだ確立されていないような放射性廃棄物――を大量に残すことも、広く知られるようになった。さらに、仮に原発を廃炉にするとしても、放射性物質にまみれた施設を解体し、廃棄すること自体がきわめて危険であり、その作業にも何年もの時間を要する。このように考えると、原発の存在、さらに原発の残留物の存在が、すでに、それ自体、潜在的な原発事故である。つまり、原発事故という破局は――原発を一度でも建設し使用し始めてしまえば――半永久的に持続する。 [p. 28]
原発事故以前の私たちの心的状態を「信と知の乖離」があったとする。
振り返ってみれば、われわれは、3・11に起きたような破局、すなわち高さ二〇メートルを超える大津波とか、原発の爆発や炉心溶融といった破局は、論理的には起こりうることを、3 ・11の前から知ってはいた。それらが、論理的にはありうること――不可能なことではないこと――を知ってはいた。しかし、同時に、われわれのほとんどは、実際にはそんなことがあるはずはない、と思っていたのだ。破局Xは、論理的には可能だが、現実的ではない、と考えられていたのである。こうした心理の状態は、信と知との乖離として概念化することができる。われわれは、Xがありうることを知ってはいた。しかし、その可能性を信じてはいなかったのである。
信と知の乖離の原因は、第4節で述べたこと、すなわち第三者の審級の撤退にある。第三者の審級によって裏打ちされ、保証されると、知は信になる。そうでないとき、「知ってはいながら、信じてはいない」という心的態度が構成される。 [p. 58]
そして、心理学的ではなく、歴史的問題として、原爆の唯一の被災国でありながら原発建設に邁進した日本のありように言及している。かつて、原子力は世界的にも夢のエネルギー源として過剰で非合理的な期待が掛けられていた。しかし、アメリカやドイツにおいては1970年代に入るとその夢は急速に醒めていく。
だが、日本だけは一九七〇年代に入ってから原発の建設が盛んになる。それを大澤独自の概念、「アイロニカルな没入」によって説明する。それを次のようにオウム真理教と並べて述べている。
理想の時代が終わった後、日本人は、原子力に対してアイロニカルに没入したのではないか。日本人にとって、原子力は、いまだに神である。しかし日本人は、そのことを意識してはいない。このように考えることで、原子力についての、意識レベルの熱狂が消えてしまった一九七〇年代以降に、むしろ熱心に原発が建設され、維持されてきた、という事実も説明することができる。
さらこ、付け加えておけば、オウム信者の麻原彰晃への帰依も、また彼らのハルマゲドン(世界最終戦争)への執着も、アイロニカルな没入である。彼らは、麻原彰晃が「ただのおじさん」であることも知っているし、ハルマゲドンが虚構であることも自覚していた。だが、彼らは、麻原が最終解脱した神であるかのように、またハルマゲドンが実際に始まっているかのようにふるまったのである。 (p. 93)
いささか激しく言い直せば、原発建設に邁進してきた日本人の心的、知的状態(レベル)は麻原彰晃に帰依していたオウム真理教信者のそれに等しかったということである。
歴史的にいえば、「憲法九条」や「原子力平和利用三原則」をエクスキューズとして軍備を拡充し、原発建設へ突き進んだのである。日本はいまや世界で屈指の(潜在的な)核保有国なのである。
3・11、とりわけ原発事故で日本はどうなったのか。日本人はどのような決断を要請されているのか。少し乱暴だが、私なりにまとめてみよう。
原発事故、加えて事故を起こしていない原発ですら、未来の長期にわたる時代に負荷を与える。原発で生産された厖大な放射能はいずれ拡散する。拡散の激発的な例が原発事故だが、マクスウェルの法則を出すまでもなく長期間を考えれば、事故がなくても放射能は拡散する。ましてや、原発で発生した放射性物質は10万年単位の厳格な貯蔵を必要とする。人類が滅びているかも知れないような未来について現代人は責任を負わなくてはならない。
私たちの思考、行動に必要なのは「第三者の審級」としての「未来の他者」である。たとえ、それが不可能であろうとも、原発事故が明示したことはそういうことである。
もちろん、現状維持、何も変えたくないというのが日本の政治的現状だろう。大澤は、革命的変革の担い手としての新しいプロレタリア像(古い左翼の語るプロレタリアではない)の議論まですすむ。
結論に進もう。私にとって、もっとも強い衝撃を与えた結論は次の部分である。
先に、禍の預言は、いかに声高に叫んでも、その効力には限界がある、と述べておいた。その原因は、今述べたことにある。禍の預言は、「まだ……しなくてもよい」「これから……すればよい」という余裕を人に与えるのだ。禍の預言よりもはるかに恐ろしい啓示は、だから、「救世主はすでに来た」という宣言なのである。この宣言が発せられてしまえば、人は、今すぐ必死に活動しなくてはならない。
それならば、こうした考察を踏まえたうえで、原発事故という出来事、現代の神の死を告知するこの出来事に対応する、実践的な命令を引き出すとすれば、それは何であろうか。簡単なことである。事故は、否定的な仕方で――悲惨な災害を媒介にして――、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。この「神の国」の意味が実現するように、である。仮に、今すぐに原発をすべて停止したり、廃炉にしたりはできないとしても、停止を決断すること、明確な期限の付いた停止を決断することならばできる。「いつまでに停止する」ということ、できるだけ短い期限を設定した停止ならば、直ちに決定することができるはずだ。これがなすべき第一歩である。
イエスは、こう言っている。「手を鋤につけてから後ろをふり向く者は、神の国にふさわしくない」(「ルカによる福音書」9章62節)と。手を鋤につける、とは神の国に入ってしまった、ということである。もはや神の国に入ってしまったのだから、後ろを顧みるわけにはいかない。原発に未練を残すわけにはいかない。 [p. 192]
少しばかり唐突な記述かもしれないが、それは、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの役割、神の国の表象としてのキリスト、神の国の非在の標徴としてのキリストの磔刑、「ヨブ記」における神の全能性あるいは無能性の議論などを、私がはしょったためである。
いつものように「第三者の審級」や「アイロニカルな没入」概念を使いつつ、該博な知見によって展開する「理論の書」は、読み終われば、じつに明晰な「実践の書」に変容している。
さて、私の住む仙台でも、今週から「脱原発金曜デモ」が始まるのである。
繰り返そう。私たちの置かれている実在相は、こうである。
原発の存在、さらに原発の残留物の存在が、すでに、それ自体、潜在的な原発事故である。つまり、原発事故という破局は――原発を一度でも建設し使用し始めてしまえば――半永久的に持続する。 [p. 28]