かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(15)

2025年01月28日 | 読書

2017年2月5日

 一番町も広瀬通りを過ぎ、さらに中央通りの入り口を過ぎると急に人通りが少なくなる。青葉通りに曲がれば、デモ人と車ばかりという感じである。バスはたくさん通るので、バスの方にプラカを掲げ、乗客に向かってコールをあげることが多くなる。
 バスの乗客には声が届いているのだろうか。バスの乗客としてデモを眺めてみたいと思ったが、たしかそんな短歌があったのではないか。抜き書きノートで探して見た。三人目として探した岡井隆のノートにあった。


じりじりとデモ隊のなか遡行するバスに居りたり酸き孤独嚙み
                 岡井隆 [1]

 長いデモの列を遡るようにバスはのろのろ進み、デモに加わっていない作者には忸怩たる思いがわいているのだ。バスの中からデモの列を眺めてみたいなどと単純にはいかないようだ。デモに加わっていない自分をどう見るかの方が心に重くのしかかってくるのだ、きっと。たぶん、私でも……。

[1] 『現代短歌全集 第十三巻』(筑摩書房、1980年)p. 293)。

 

2017年2月24日

 先週の金デモの翌々日、2月19日の日曜日の夕刻にお祝い会があった。女川原発の建設計画の段階から地元漁民とともに原発の反対運動に取り組んでこられ、現在も反原発運動を牽引されている仙台市の篠原弘典さんが「第28回多田瑤子反権力人権賞」を受賞された。有志の提案で、その記念講演会と祝賀会が開かれたのであある。私も、楽しいお祝いの席にカメラ持参で参加させてもらった。その時の様子を撮った写真は、フェイスブックの写真アルバムとして私のタイムラインに投稿してある。
 「多田瑤子反権力人権基金」は、1986年12月18日に29歳で夭折された弁護士の多田謡子さんの遺志を将来に生かすために、1989年に設立され、毎年、「権力に対して闘い、人権擁護に尽くした団体や個人を顕彰」している。辺野古や高江の反基地闘争の先頭に立ち続け、今は不当逮捕で異常な長期拘留を課されている沖縄の山城博治さんは、第27回の受賞者である。
 篠原弘典さんの人生をかけた長い闘いは、多田瑤子反権力人権基金による授賞理由によく要約されている。
 篠原弘典さんは1966年東北大学に入学し、原子力の平和利用によって社会に貢献することを願って原子核工学科に進みましたが、全国学園闘争の波の中で自らの学問と社会のかかわりを問い返し、原子力の危険性を知るに至って反原発の歩みを始めました。
 1970年、女川町で開かれた「第1回原発反対漁民総決起集会」に参加して漁民の心に触れた篠原さんは、仲間たちと女川で長屋の一室を借り、原発の危険性を訴えるビラをつくって漁民に働きかけることになります。卒業後は、原子力企業などに就職する同窓らと袂を分かち、とび職として生活を築きながら、一貫して女川原発差止訴訟原告団(団長・阿部宋悦さん)をはじめとする運動の牽引役となり、その後は「みやぎ脱原発・風の会」を主導してきました。
 今、女川の運動を長年支えた仲間は、東日本大震災とその後の苦難の中で、ほとんどが亡くなっています。彼らの遺志を継ぎ、脱原発東北電力株主の会代表、女川原発の再稼働を許さない!みやぎアクション世話人、放射能問題支援対策室「いずみ」顧問などで、脱原発社会実現のため活躍している篠原さんの長年にわたる闘いに敬意を表し、多田謡子反権力人権賞を贈ります。

 19日の篠原さんのお祝い会の翌日から、〈脱原発 東北の群像〉という5回連載の記事が河北新報に掲載され始めた。その署名記事には、つぎのような言葉が添えられている。


東北で反原発運動に人生をささげ、警告を発し続けてきた人々がいる。福島第1原発事故は、その「予言」を現実のものにする一方、運動が積み重ねてきた敗北の歴史も浮き彫りにした。事故から間もなく6年。国が原発再稼働を推し進める中、彼らは何を感じ、どう行動するのか。(報道部・村上浩康)


 1回目は、一面トップで「熱狂は失われたのか」と題して脱原発みやぎ金曜デモが取り上げられた。2012年7月に300人ほどの参加者で始まったみやぎ金デモも2017年2月17日のデモでは45人の参加者になっていた。それでも市民の意識は確実に変わった、とこれからを語るスタッフの言葉も紹介されている。
 多田瑤子反権力人権賞を受賞した篠原弘典さんが「長き闘い 諦めの先へ」と題する2回目の記事で取り上げられている。長きにわたる厳しい闘いが紹介され、「地元で抵抗する根っこを孤立させてはならない」という小出裕章さんの言葉も紹介されている。
 3回目は、青森県大間町長選に立候補した熊谷厚子さんを取り上げた「「首長奪取」遠い彼岸」という記事である。母親のあさ子さんの遺志を継いで二代にわたる大間原発反対の運動を続けている熊谷さんの町長選挙は惨敗だった。また、六ケ所村で町長選、町議選に挑戦している菊川慶子さんも紹介され、負け続けても新潟県知事選のように地方の首長をとることの重要性を語る旧浪岡町長の平野良一さんの言葉も紹介されている。
 福島で原発反対を訴え続ける人は、4回目の「悔恨 それでも訴える」という記事で取り上げられている。反対闘争にも関わらず10基もの原発が建設されてしまった苦衷を語る石丸小四郎さんや、福島原発告訴団団長として現在の闘いを闘っている武藤類子さんなどが紹介されている。
 「学び つなぎ 踏み出す」と題する最後の5回目の記事は、ふたたび仙台の活動が取り上げられている。サークル「ぶんぶんカフェ」とスタッフの斎藤春美さん、「エネシフみやぎ」と副会長の小野幸助さんなどが紹介されている。この記事を読んだ妻が、さっそく斎藤春美さんに電話をかけていた。斎藤さんは妻の友人の一人である。
 このシリーズ記事は、反原発運動の苦闘の歴史の紹介となっているが、現在も続く闘いの紹介でもある。シリーズ最後の記事は、一昨年から金デモに参加しはじめた若い女性や、昨年末から参加している老婦人の言葉を紹介したあと、次のような言葉で締め括られている。

踏み出す人がいる限り、忘却にあらがう道は続く。

 多田瑤子反権力人権賞を受賞された篠原弘典さんとは福島事故後のデモではじめてお会いした。篠原さんは東北大学工学部原子核工学科に私の2年後に入学しており、私は大学院修士課程まで在籍していたので、在学中にお会いしている可能性はあるのだが、記憶にはない。
 私が修士1年の夏、原子核工学科の教授から助手までの全教官が辞め、新しい教官が着任することになった。全教官の総取り換えである。他大学に移る人もあったが、多くは他部局に配置換えになった。私の指導教官も他部局へ移り、修士論文のための実験はその部局の研究室で行うことになり、私が原子核工学科へ顔を出す機会はぐっと減ってしまった。というよりも、原子核工学科には私が所属する研究室も机もなくなったのである。おそらく、そういうことも篠原さんと知り合う機会がなかった理由になっているかもしれない。
 教官同士の内紛とは別に、私は私で数人の友人たちと「原子力工学という学問がないではないか」というカリキュラムへの抗議を学科教授会に行っていた。
 また、当時、全国原子核共闘という全共闘系の組織があったが、東北大の原子核工学科にはそういうものがなかった。その原子核共闘が仙台で開催された原子力学会で抗議行動を行うにあたって、どういうわけか私に連絡が来て、活動のサポートをすることになった。会議をする教室の手配や彼らの宿から学会会場までのルートの案内など一人でやった記憶がある。絓秀美さんの『反原発の思想史』[1]で、同じ原子力学会で高木仁三郎さんたちが反原発のビラまきをしていたことを知ったが、一緒になった記憶はない。
 そのような諸々のためなのか、修士課程が終わると原子核工学科から追い出されることになった。博士課程への進学願書を出したのだが、どこかで握りつぶされたのだった。原子核工学科の教授会のやり方に法的な瑕疵があるということになって、工学部上層部(評議員クラス)が動いて、救済措置として附置研究所の物理系研究室の助手籍が与えられた。
 こうして私の物理学が始まったのだが、そのときほっとしたことを覚えているが、それは原子力工学から離れられたうえに職まで得たことによるのだが、どうもそればかりではなかったようだ。今思えば、反原発の現場から遠のいたこと、これから学問に専念できること、そうした思いもない交ぜになってほっとしていたような気がする。
 そして、東電1F事故によって反原発の場所に戻ってきたような気分になっている。ここまでずっと遠く迂回してきたのだが、この迂回がなければ物理学者になることもなかったのである。物理学者としては恵まれてはいたのだが……。

[1] 絓秀美『反原発の思想史――冷戦からフクシマへ』(筑摩書房、2012年)。

 


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