ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

四国八十八ケ寺の1番から7番の札所に行って来ました。(2022-4-10)

2022-04-19 | お出かけ

79歳の誕生日の前日(4/10)に四国八十八ケ寺の1番から7番の札所にお参りして来ました。
2017-4-18のお出かけで1番から6
番までに行って納経は書いてもらったのですが、お札が見当たらず
今回 そのお札をいただきに行きました。

 左の画像は4.10の日曜日に行った
 四国八十八ケ寺の1番から7番の
 札所のGoogle Mapの地図です。 
 1番から6番まではお出かけで
 2017年の4月に行っています。
 4月のわくわくお出かけは「四国八
    十八ケ所のバスツアー」に行きまし
     た。
2017-04-24 | お出かけ
 7番には2020年の4月に行って
 います。
 四国八十八ケ寺の7番から10番の札
    所に行って来ました。(2020-4-20)

    2020-05-13 | お出かけ


 
    

 第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺  
     霊山寺の歴史・由来

 四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。
 この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。
 縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。
 弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、
 また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。
 その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。
 大師は、その光景が天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、
 インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。

 このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所と
 さだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。
 誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。
 往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。
 しかし天正10年 長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。
 その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と
 多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。
 以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。
 別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている。

    

  

 

    

        


 第2番札所 日照山 無量寿院 極楽寺
 極楽寺の歴史・由来

 行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年 42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』
 を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊と
 された。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。
 漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、
 「日照山」と号した。その後、天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、
 万治2年、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。

 三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が
 広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。
 その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。
 大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもので、
 安産祈願に霊験があるとされている。
 弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルも
 ある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。
 鳴門市の天然記念物に指定されている。

    

  

  

    

        


 第3番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺 
 金泉寺の歴史・由来

 聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。
 そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して
 開基したという。弘仁年間になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいる
 のを見て、この地に井戸を掘られた。
 この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、
 「金泉寺」とした。その後、亀山天皇が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、
 金泉寺にもしばらく滞在された。

 その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、
 背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。
 この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。
 以来、皇室との縁が深く、長慶天皇の御陵も本堂裏にある。
 また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の
 祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。
 本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つ
 で、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
 すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。

     

     

     

    

        


  第4番札所 黒巌山 遍照院 大日寺
  大日寺の歴史・由来

 徳島と香川県の県境にある阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した
 標高70m前後の尾根の緩斜面上に南向きに伽藍が配置されている。

 弘仁6年に弘法大師がこの地において大日如来を感得し、一刀三礼をして1寸8分の大日如来像を
 彫造したことを由来として大日寺と称するようになったと言われる。

 元禄2年の『四國遍礼霊場記』(寂本1631-1701)では、かっては立派な堂塔が並んでいたものの、
 歳月の経過とともに、荒廃していた、と記されている。
 その後 応永年間(1394-1428)に松法師という人物に夢の託言があって
 修復がなされたという旨が『阿波史』文化12年(1815年)に記されている。
 その後、また荒廃したが 徳島の二代目藩主、蜂須賀忠英が慶安2年に材木を寄進し、
 本堂一宇を建立して以来、 天和(1681年)・貞享(1688年)までに再興されている。
 その後も元禄5年(1692年)に五代目藩主蜂須賀 綱矩が、寛政11年に11代目藩主 蜂須賀 治昭
 それぞれにこれを修復して、今に至っている。また、この地は三方を山に囲まれており、
 黒谷と呼ばれていることから、地元では「黒谷寺」と呼び習わされることもあった。
 山号である黒巌山の由来もこのことに因んだものとされる。
 現在、京都の東寺の末寺としてあるがそれは明治20年以降のこと。
 それ以前は真言宗御室派に属していた。
 僧堂(庫裡)の熨斗瓦や入口の透かし欄間に寺紋の十六菊紋が見受けられる。

     

  

  

 

 


  第5番札所 無尽山 荘厳院 地蔵寺 
  地蔵寺の歴史・由来

 嵯峨天皇の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。
 大師は、自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。
 その後、淳和天皇、仁明天皇の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。
 さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、
 その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。
 この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、
 蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。
 これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国に
 およそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。

 しかし、天正年間の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。
 その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、
 いまでも寺領は40,000平方メートル(12,000坪)にもおよぶ古刹である。
 本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。
 安永4年の創建で、五百羅漢堂とされていた。
 だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んで
 いる。境内の大銀杏。樹齢は800年を超え、母なる大木につつまれ歴史が刻まれている。

     

   

   

      

          


  第6番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺
  安楽寺の歴史・由来

 『四國禮霊場記』には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき
 絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、
 戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。

 ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、
 山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)
 桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、
 四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。
 その記録である「駅路寺文書」が今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。
 藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。
 茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。

 愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。
 当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。
 二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。
 現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、
 43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。
 昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師が
 無名時代から彫り続けた仏像六十体が各御堂に祀られている。
 大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。
 また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、
 石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。

        

  

  

 

 


  第7番札所 光明山 蓮華院 十楽寺
  十楽寺の歴史・由来

 寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。
 大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、
 如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。
 その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、
 10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。

 創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、
 天正10年長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。
 幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。
 寛永12年に現在の地に移り、再建された。

 さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立。
 本堂左前にある「治眼疾目救歳地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、 
 眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。
 また、中門遍照殿では、良縁を結び、悪縁を切る両方の願いを兼ね備えた、
 愛染明王が祀られており、ご祈願に訪れる人が絶えない。

             

   

 

      

           


 左の画像は7番 十楽寺に行った後
 藍住町のうなぎ屋さんで昼食をして
 神山町のしだれ桜と 白鳥駅近くの
 芝桜富士を見てから帰宅した地図で
 す。

 下の画像は2022-4-10 と
 2020-4-20に食べたうなぎです。

 

    

下の画像は神山町の しだれ桜と 白鳥駅近くの 芝桜富士 です。

 


四国八十八ケ寺の65番の札所としまなみ海道に行って来ました。(2021-12-5)

2021-12-07 | お出かけ

11/20 11/21に四国八十八ケ寺の24番から29番 39番から43番 54番から56番
の札所にお参りして全部のお寺を回ったと思っていたのですが 四国中央市にある
65番の三角寺が残っていました。家内の友人と一緒にお参りしてしまなみ海道を通って
耕三寺と平山郁夫美術館を見て、福山SAで昼食にして瀬戸内自動車道で帰って来ました。

 左の画像は12/5の日曜日に行った
 四国中央市の四国八十八ケ寺の
 65番の札所からしまなみ海道を
 通って耕三寺から福山SAから
 瀬戸内自動車道経由で多度津に
 寄ってから帰ってきました、

 下の画像はしまなみ海道です。

  


        下の画像は四国88カ所65番三角寺です。

    
  
 
第65番札所 由霊山 慈尊院 三角寺

  

 三角寺の歴史・由来

 江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」
 と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。
 伊予最後の霊場で、標高は約360m、平石山の中腹にある静かな境内。

 縁起では、聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために
 開創したと伝えられる。
 その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。
 さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と
 万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。
 この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、
 寺院名の由来ともなっている。
 また、嵯峨天皇の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、
 七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。

 だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、一部の堂宇を焼失した。
 現在の本堂が再建されたのは嘉永2年で、昭和46年に修復されている。

 本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいる。
 ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、
 子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。
 子供を授かった後に、 新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。

 三角寺の見どころ

  三角の池・薬師堂・延命地蔵菩薩立像(昭和52年再建。高さ7m銅造。)


        

    

         

    

        

    

 

 

         

        


   

      

         

    


四国八十八ケ寺の43番と54番から56番の札所に行って来ました。(2021-11-21 後半分)

2021-12-04 | お出かけ

11/21の朝早くに出発して午前中に宿毛市の四国八十八ケ寺の39番から43番の札所にお参りして、
午後からは今治市
の54番から56番の札所にお参りして夜遅くに帰宅しました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の39番から
 56番の札所の地図です。

 39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。

 近くの道の駅に寄ってから 
 今治市にある54番の観自在寺と
 55番の龍光寺と56番の仏木寺
 にお参りしてから 夕食を豊浜
 SAで食べて帰宅しました。

        

下の画像は四国88カ所39番延光寺・40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺
        ・43番明石寺・54番延命寺・55番南光坊・56番泰山寺です。

        


         下の画像は四国88カ所 43番明石寺です

         

   第43番札所 源光山 円手院 明石寺

   

 明石寺の歴史・由来

 明石寺が所在する西予市宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、
 宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、
 多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。
 明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。

 まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。
 6世紀の前半、欽明天皇の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった
 千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。
 のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から
 12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。

 弘仁13年には弘法大師がこの地を訪ねている。
 荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇に奏上して勅命を受け、
 金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。
 その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。
 建久5年、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、
 また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。

 以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、
 また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

 明石寺の見どころ 
 神仏習合・本堂・しあわせ観音像
(客殿の裏にあり、身の丈2m余、長い袂着物姿で、左手に水瓶をもつ慈悲深いお顔の観音さま。)

      

   

      

         

            


        下の画像は四国88カ所 54番延命寺です

        

   第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺

   

 延命寺の歴史・由来

 今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている
 近見山という標高244mの山がある。
 この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。

 縁起によると、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる
 不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。
 弘仁年間になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、
 「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。
 この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との
 間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。

 その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、
 享保12年に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。
 この間、鎌倉時代の文永5年、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、
 初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。
 「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、
 上下2巻に記されている。

 寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、
 境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。

 延命寺の見どころ

 山門・火伏せ不動尊・越智孫兵衛の墓(阿方の庄屋であった越智孫兵衛は、農民の窮乏を救い、
 享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。)

        

                  

   

      

         


        下の画像は四国88カ所 55番南光坊です

        

   第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊

   

 南光坊の歴史・由来

 四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。
 正式には光明寺金剛院南光坊という。
 今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と
 深くかかわる歴史を有する。

 推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立されて。
 其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝三年(703)風波のため祭祀が
 おろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。
 弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と定めた

 のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、
 南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。
 慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、
 また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。

 さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と
 脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。

   太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。
 現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

 南光坊の見どころ

 大通智勝如来・川村驥山の菅笠・金比羅堂(讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。)

                

             

   

      

         

   

      


      下の画像は四国88カ所 56番泰山寺です

      

   第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺

    

  泰山寺の歴史・由来

 泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。
 弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。
 蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、
 人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。
 この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり
 修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

 大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、 
 感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。
 この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。
 「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、
 亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。

 寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、
 塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。
 だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、
 大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。

 泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、
 『八宗綱要』を撰述した凝然(1240〜1321)が誕生した地とされている。

 泰山寺の見どころ

  土砂加持・不忘の松・地蔵車(本堂斜め前。石塔に丸い輪があり、
  これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。)

        

               

   

      

         

   

        



 11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の
 札所にお参りして、「駒季」というお店で
 昼食にしました。
 私はうなぎ丼
 家内は刺し身定食でした。

 朝食は 
小松島市のコメダコーヒーで
 モーニングにしました。
 
 室戸市のランチで調べると
 金目鯛のどんぶりが人気でしたが
 予約ができませんでした。

 

 

 

 11/20の午前中に室戸市の24番から26番の
 札所にお参りして、午後からは香南市
 ・南国市の25番から29番の札所に
    お参りしてから宿毛市のホテルに
 泊まりました。
 ホテルで聞いた近くのお店で夕食に
 しました。カツオのたたきは一人前しか
 ありませんでした、
 若い人が多くて賑やかでした。

 

 

 

 11/21の39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。
 お店のお勧めランチ ミニハンバーグ
 を食べましたが 美味しかったです。
 今治市の三か寺を回ってから夕食は
 香川県に入って豊浜SAでステーキ定食
 を食べました。

 

 左の画像は11/20の夕食後に
 行った宿毛市のリゾート温泉です。
 夜は9時まででしたが 
 良かったです。
 ロビーに宿毛市の観光地や偉人の
 パネルがありました。

 11/21の昼食後に今治市に向かう前に
 道の駅に寄って少し買い物を
 しました。

 ちょうどコスモスが見ごろで
 宇和島市の三間町にたくさん
 咲いていてきれいでした。

       


四国八十八ケ寺の39番から42番の札所に行って来ました。(2021-11-21 前半分)

2021-12-03 | お出かけ

11/21の朝早くに出発して午前中に宿毛市の四国八十八ケ寺の39番から43番の札所にお参りして、
午後からは今治市
の54番から56番の札所にお参りして夜遅くに帰宅しました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の39番から
 56番の札所の地図です。

 39番の延光寺がある宿毛市の
 小さな喫茶店でモーニングを
 食べました。
 40番の観自在寺と41番の龍光寺
 と42番の仏木寺と43番の明石寺
 にお参りしてから宇和島市の
 喫茶店で昼食にしました。

 近くの道の駅に寄ってから 
 今治市にある54番の観自在寺と
 55番の龍光寺と56番の仏木寺
 にお参りしてから 夕食を豊浜
 SAで食べて帰宅しました。

        

下の画像は四国88カ所39番延光寺・40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺
        ・43番明石寺・54番延命寺・55番南光坊・56番泰山寺です。

        


         下の画像は四国88カ所 39番延光寺です

         

   第39番札所 赤亀山 寺山院 延光寺

    

 延光寺の歴史・由来

 土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。
 現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。
 時代は平安中期、延喜11年のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。
 僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。
 この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6㎝、口径23㎝の小柄な鐘で、
 明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、
 国の重要文化財に指定されている。

 縁起を寺の起源にもどそう。
 神亀元年に行基菩薩が聖武天皇の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、
 これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。
 当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、
 また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。

 弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間で、桓武天皇の勅願所として再興、
 日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。
 このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

 延光寺の見どころ

 眼洗い井戸・延宝8年建立の石碑・大赤亀の石像(竜宮城伝説を象徴しており、
 赤い大きな亀が背中に鐘を乗せた姿をしている。仁王門をくぐった右手にある。)

        

         

   

       

 


        下の画像は四国88カ所 40番観自在寺です。

        

  第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺

    

 観自在寺の歴史・由来

 愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、
 「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。
 寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、
 真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。

 縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇の勅命を受けてこの地を訪れ、
 1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、
 十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。
 このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、
 舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。

 平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇とともに親しく行幸され、
 御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。
 こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで
 「平城」とも呼ぶようになっている。
 
 寛永15年、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、
 「薬師院」の院号を授かっている。
 このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。
 だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として
 旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

 観自在寺の見どころ

 本尊と脇侍・「南無阿弥陀仏」の名号宝判・本堂(昭和39年、全国の信徒の浄財だけで再建。)
 ・大師堂(平成5年、総檜の宝形造りで、回廊では四国八十八ヶ所のお砂踏ができる。)

        

          

       

   

        

            


      下の画像は四国88カ所 41番龍光寺です。         

      

  第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺

   

  龍光寺の歴史・由来

 宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10㎞ほどのところが三間平野。
 地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、
 往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。

 その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。
 この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。
 境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。

 縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人が
 あらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。
 大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、
 その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。
 このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、
 「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。

 創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、
 明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。
 新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、
 その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。

 三間平野は四季折々の草花が美しく、毎年11月ころにはコスモス祭りが開かれる。

龍光寺の見どころ

 本尊と脇侍・「南無阿弥陀仏」の名号宝判・本堂(昭和39年、全国の信徒の浄財だけで再建。)
 ・大師堂(平成5年、総檜の宝形造りで、回廊では四国八十八ヶ所のお砂踏ができる。)

      

          

          

   

      



       下の画像は四国88カ所 42番仏木寺です。

      

   第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺

     

 第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 仏木寺

   仏木寺の歴史・由来

 牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。
 ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。
 近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、
 牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。
 往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて
 動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。

 大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。
 誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、
 光を放っているのを目にした。
 よく見ると、これは大師が唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、
 三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。
 大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。
 大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。
 これを本尊として安置し、「一カ山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した
 『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

 その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、
 鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。
 戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、
 再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。

 仏木寺の見どころ

  本尊・大日如来像・家畜堂・鐘楼堂(四国霊場では珍しい茅葺の屋根。元禄時代に再建されたもの。

        

        
   

      

   

    

       


四国八十八ケ寺の27番から29番の札所に行って来ました。(2021-11-20 後半分)

2021-12-01 | お出かけ

11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の四国八十八ケ寺の24番から26番の札所にお参りして、
午後からは香南市・
南国市の25番から29番の札所にお参りして、宿毛市のホテルに泊まりました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の24番から
 29番の札所の地図です。

 午前中に24番から26番の札所
    にお参りして、昼食は室戸市
 の「駒季」というお店に
 行きました。午後からは27番の
 最神峯寺がある安芸郡安田町へ
 行った後 香南市の28番大日寺
 南国市の29番国分寺に行き
 宿毛市の秋沢ホテルで宿泊
 しました。


       
下の画像は四国88カ所24番最御崎寺・25番津照寺・26番金剛頂寺
        ・27番神峯寺・28番大日寺・29番国分寺です。

        


        下の画像は四国88カ所 27番神峯寺です。
 
        
    

   第27番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺

 神峯寺の歴史・由来

 神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。
 幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、息子の出世を祈願し
 往復20kmの道のりを21日間日参したという話は、いまも伝わっている。

 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。 
 聖武天皇の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。 
 その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、
 本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。
 明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。
 だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、
 苦難の道を歩んで今日にいたっている。

 昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、
 夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

        

   

                      

   

      

         

    

        

   

      

         


         下の画像は四国88カ所 28番大日寺です

         

   第28番札所 法界山 高照院 大日寺

   

 大日寺の歴史・由来

 境内には四季折々の花が咲き、巡拝者の目を楽しませてくれる。
 早春にはサンシュユの花、3月彼岸ごろにはしだれ桜、本坊前のコブシの花、
 10月中旬から十月桜や万両が見頃を迎える。

 縁起によると、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、
 堂宇に安置して開創されたと伝えられる。
 その後、寺は荒廃したが、弘法大師が四国を巡教された弘仁6年、末世の人々の安泰を祈り、
 楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。

 以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間からは 
 土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。
 明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した
 本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。

 行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが約146㎝の寄せ木造りで、四国では最大級。
 また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172㎝と大きく、
 ともに国の重要文化財に指定されている。
 また、大師ゆかりの楠の霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされている 。
 その楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂を建てて安置している。
 この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされている。
 薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧く。

大日寺の見どころ 本堂・大師堂
            ・野市百人衆(武将・長宗我部軍の遺臣たち100人を使って水田を開拓させた。 
             彼らは土佐郷士の初めとなった。)
            ・龍河洞(日本三大鍾乳洞のひとつ。全長4km。)

   

      

        

        

        


       下の画像は四国88カ所 29番国分寺です

       

   第29番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺

   

 国分寺の歴史・由来

 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之が浮かんでくる。
 とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることは
 あまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国衙は、国分寺から北東1㎞ほどの近くで
 「国分寺共々土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・経済・文化の中心地であった。

 聖武天皇が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。
 土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。
 歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。

 縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年のころで、
 毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。
 その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた 。
 以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。

 本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部国親元親親子が、永禄元年に再建。
 外観は柿葺き、寄棟造りで天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、
 室町時代の特色が見られる。現在国の重要文化財に指定されている。
 また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で建立され、
 現在の仁王門は昭和の初めに再建され、二層造りである。
 1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史跡に指定され、
 杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。

 国分寺の見どこ

 国指定文化財・金堂・庭園、句碑(本堂を背にして、春は桜・牡丹、初夏には紫陽花、
 秋には萩と、心やすまる参道、創建当時の七重塔の心柱をささえた礎石、杉苔の美しい庭園が広がる。

   

      

        

           

   

      

    


四国八十八ケ寺の24番から26番の札所に行って来ました。(2021-11-20 前半分)

2021-11-27 | お出かけ

11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の四国八十八ケ寺の24番から26番の札所にお参りして、
午後からは香南市・
南国市の25番から29番の札所にお参りして、宿毛市のホテルに泊まりました。

 左の画像は11/20に行った
 四国八十八ケ寺の24番から
 29番の札所の地図です。

 24番の最御崎寺がある室戸市
 までは距離があり、小松島市
 のコメダコーヒーでモーニング 
 を食べました。
 25番の津照寺と26番の金剛頂寺
 にお参りしてから 室戸市の
 「駒季」というお店で昼食に
 しました。


        下の画像は四国88カ所24番最御崎寺
・25番津照寺・26番金剛頂寺
        ・27番神峯寺・28番大日寺・29番国分寺です。

        


        下の画像は四国88カ所 24番最御崎寺です

         

 第24番札所 室戸山 明星院 最御崎寺

     

 最御崎寺の歴史・由来

 「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。
 黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。
 そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、
 藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。
 延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。
 この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。

 「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 
 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」

 大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。
 虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。
 嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、
 戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。

 当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。
 往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。
 室戸岬では東西に対峙している二十六番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、
 最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。
 南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。

 最御崎寺の見どころ 国指定重要文化財・御厨人窟(みくろど)
              ・明星石(大師が修行中に、星のように光を放ち、
              毒龍の妨げを防いだという伝説の石。

   

          

 

      

          

 

        


       下の画像は四国88カ所 25番津照寺です

       

 第25番札所 宝珠山 真言院 津照寺

     

 津照寺の歴史・由来

 室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、
 通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。
 弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に
 似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。


 はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称して七町余の地高を有しその後、
 山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も
 全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めておりましたが、
 明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺とされました。

 荒廃にまかすこと約十数年明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったのでありますが
 寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなく、只本堂が地蔵堂としてのこり御殿と申された
 庫裏の一角が当時小学校として残っておりました。
 現在、小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築されたものです。

 【楫取地蔵の由来】御本尊延命地蔵を楫取地蔵(かじとりじぞう)という由来を申しますと、
 慶長七年秋の頃山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い困難いたされた時、
 何処からともなく大僧が現れ船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。
 ほっとした所で先程の大僧の姿が見えないがともあれ探して津寺へ参詣してみると
 本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、
 之より本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになりました。
 この霊験記は、旧記南路史に明記されて居ります。

 また今昔物語には「地蔵菩薩火難ニ値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」第六として津寺の本堂が
 火難に遭った時、本尊地蔵菩薩が僧に身を変えて村人に知らせ、
 火難を逃れたという物語が出ており古くは火事取りの意味でも、かじとりじぞうと呼ばれております。

 津照寺の見どころ 
  境内・境内周辺の見所・本堂前より行当岬・室戸スカイライン・太平洋が望めます

   

         

    

        

    

        

            

        


       下の画像は四国88カ所 26番金剛頂寺です

              

 第26番札所 龍頭山 光明院 金剛頂寺

  

 金剛頂寺の歴史・由来

 室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。
 硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。
 その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺であり、
 室戸三山の一寺院として「西寺」の通称でも親しまれている。
 朱印も「西寺」と捺される。当寺から4㎞のところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。
 若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、
 「行当」はその名残かもしれない。
 縁起によると、大師が平城天皇(在位806〜9)の勅願により、
 本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられている。
 創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、
 婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。

 次の嵯峨天皇(在位809〜23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、
 現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823〜33)も勅願所として尊信し、
 住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。

 室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、
 江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。
 昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。
 平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、
 わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。

金剛頂寺の見どころ 霊宝殿・奴草・鯨供養塔(鯨の供養塔。別名「クジラ寺」)
          ・一粒万倍の釜(大師が炊いた米が一万倍に増え、人々を飢えから救ったという釜)

    

        

 

     

         

                 

           

    

         


四国八十八ケ寺の20番から23番と12番の札所に行って来ました。(2021-10-24 後半分)

2021-11-04 | お出かけ

10/23に家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まりました。
翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。

   左の画像は10/24に行った
 四国八十八ケ寺の
20番から
 23番と12番の札所の地図です。

 23番の薬王寺は42歳の厄除け
 の時にお参りして
以来で
 日和佐のうみがめ博物館 
 は開園前で
見れませんでした。
 21番の太龍寺は標高618mの
 太龍寺山の
山頂近くにあり
 平成4年に開通した
ロープ
 ウエーに乗って行きます。

 20番の鶴林寺は標高470mの
 鷲が尾の山頂にあり 
 徳島県下唯一の三重塔は
 県指定重要文化財である。

 

 

 

       下の画像は四国88カ所20番雪渓寺・21番鶴林寺・22番平等寺・23番薬王寺です。

            

      下の画像は四国88カ所18番焼山寺です。      

      

 第22番札所 白水山 医王院 平等寺

      

         平等寺の見どころ 本尊薬師如来像・箱車・天井絵      

     

 平等寺の歴史・由来

 弘仁5年、弘法大師がこの地を訪れ禅定に入られたころ、心に薬師如来さまの姿が
 浮かびました。 お大師さまはそのお薬師さまを想いながら次のような御誓願を立てられます。

 「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」

 大師はこの地での修行を志し加持水を求めて井戸を掘られたところ、
 乳のごとき白い水が湧き溢れました。
 その霊水で御を清められた大師は百日間護摩行を続けた後に
 先のお薬師さまの姿を木に刻まれ本尊として奉安し、
 山号を白き水が湧いたことから白水山、寺号を平等寺と定められました。
 以後、寺は大規模に栄えましたが江戸初期頃までに一度興廃し、
 1680年に伊予から来た中興一世照俊阿闍梨らによって再興され、
 現在に至っています。現存する本堂が再建されたのは1737年、大師堂は1824年建立です。

 大師が掘られた霊水の湧く井戸は男厄除坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなく
 こんこんと湧き出ております。
 現在は無色透明で飲用に適し、万病に効く「弘法の霊水」として全国に知られています。
 

      

   

        

    

        

  

    

        

            

 第23番札所 医王山 無量寿院 薬王寺

      

    薬王寺の見どころ 瑜祇塔(ゆぎとう)・厄坂の賽銭・肺大師

 薬王寺の歴史・由来

 「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。
 厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って本堂に向かう
 最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、
 さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。
 各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、
 参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登る光景が見られる。
 縁起によると、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。
 弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、
 厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。
 大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで
 奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされている。

 文治四年、火災で諸堂を焼失しているが、このとき厄除け本尊は、
 光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。
 のちに後嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、
 避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。
 以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。
 境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』に登場した石碑がある。
 

      

   

      

         

  

      

      

   

 第12番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺

      

  焼山寺の見どころ 三面大黒天・杖杉庵・神山町(徳島県の特産であるウメやスダチの産地。

 焼山寺の歴史・由来

 焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。
 剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがる眺望はすばらしい。
 四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、
 焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。
 いまは山上まで車道が通っている。
 縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、
 蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。
 ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、
 しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。
 弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、
 阿弥陀様があらわれた夢を見た。
 目を覚ますと目の前が火の海になっている。
 そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。
 大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、
 真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。

 大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。
 そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた
 民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。
 また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。
 「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しており、
 鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138〜39)の勅願所となっている。
 境内は樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び、巡礼者を迎えている。
 

      

                

        

  

        

   

         


四国八十八ケ寺の20番から23番と12番の札所に行って来ました。(2021-10-24 前半分)

2021-10-31 | お出かけ

10/23に家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まりました。
翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。

   左の画像は10/24に行った
 四国八十八ケ寺の
20番から
 23番と12番の札所の地図です。

 23番の薬王寺は42歳の厄除け
 の時にお参りして
以来で
 日和佐のうみがめ博物館 
 は開園前で
見れませんでした。
 21番の太龍寺は標高618mの
 太龍寺山の
山頂近くにあり
 平成4年に開通した
ロープ
 ウエーに乗って行きます。

 20番の鶴林寺は標高470mの
 鷲が尾の山頂にあり 
 徳島県下唯一の三重塔は
 県指定重要文化財である。

 

 

 

       下の画像は四国88カ所20番雪渓寺・21番鶴林寺・22番平等寺・23番薬王寺です。

            

      下の画像は四国88カ所18番焼山寺です。      

      

 第20番札所 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺

    

 鶴林寺の歴史・由来

 標高470メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、
 遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が
境内である。
 樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、

 寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。
 寺伝によると延暦17年、桓武天皇の勅願により、弘法大師によって開創された。
 大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて
 老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。
 この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、
 その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。

 また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、
 山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、
 また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、
 七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。
 阿波一帯の寺が  兵火に遭遇した「天正(1573・92)の兵火」にも、
 山頂の難所にあるためか難を免れている。

 「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。

 鶴林寺の見どころ

 波切り地蔵・地蔵菩薩立像・鶴林寺の室町時代の年号を刻んだ丁石が、
 本堂から遍路道沿いに11基残っている。

 1丁は約109メートル。徳島県最古の丁石。三重塔(県指定重要文化財)

    

        

             

    

       

 

    

        

 

 第21番札所 舎心山 常住院 太龍寺

   太龍寺の見どころ  舎心嶽・ロープウェイ

     

 太龍寺の歴史・由来

 「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。
 樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。
 弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、
 100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、
 大師が24歳のときの著作『三教指帰』に記されており、よく知られている。
 虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、
 大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしている。
 縁起によると延暦12年、桓武天皇の勅願により堂塔が建立され、
 弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。
 山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

 皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。
 だが、「天正(1573〜92)の兵火」からは逃れられなかった。
 また、江戸時代になっても幾たびか罹災し、荒廃の途を余儀なくされているが、
 その都度ときの藩主の保護をうけ再建されている。
 仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興している。
 四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの山岳寺院にロープウエーが
 開通したのは平成4年である。
 徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要していた。
 1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、風格をそなえた古刹である。

   

     

 

   

      

         

    

      

      


四国八十八ケ寺の18番と19番の札所に行って来ました。(2021-10-23)

2021-10-29 | お出かけ

家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まりました。
翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。

 左の画像は10/23に行った四国八十八ケ寺の
 18番の恩山寺と19番の立江寺と
 昼食で行った「はやしのお好み焼き」の
 店と宿泊スーパーホテル・阿南までの
 地図です。

 下の画像は昼食とホテルの画像です。
  
   
  

 

       

 第18番札所 母養山 宝樹院 恩山寺    

     

    恩山寺の見どころ 玉依御前の剃髪所・弘法大師像

     大師堂の手前。「大師御母公剃髪所」の   大師自ら彫造した像で
     石碑と小さなお堂が建ち、         現在、大師堂の本尊とされている。
     
また、大師作と伝えられる「御母公像」、
     母君の髪の毛が安置されている。

 恩山寺の歴史・由来

 小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にある。
 縁起をたどると、創建は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が草創して、
 当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。
 本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、
 災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。
 十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、
 女性が入ることは許されていなかったのである。
 延暦年間になって、弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。
 大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。
 だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、
 女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。

 やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、
 大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され
 「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。
 
寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、
 現在の本堂や大師堂は文化、文政年間ころに建立された由緒ある建造物である。
 境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、
 大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。
 母君を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺である。

  

         

 

 

      
                                              


 第19番札所 橋池山 摩尼院 立江寺

 立江寺の歴史・由来

 高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、
 また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で
 行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、
 念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。
 これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。
 弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。
 大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして
 新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を
 納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。
 当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、
 七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。

 「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。
 だが本尊だけは奇しくも難を免れている。
 のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建された。
 また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている。
 昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により
 花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する
 文化財であると高く評価されている。
 寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。 
 邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれている。

 立江寺の見どころ 肉付き鐘の緒の黒髪堂・白鷺橋・本堂・観音堂の絵天井

   

 

 

  

 

   

      

         

 


わくわくお出かけで行った「食品会社などの訪問」をまとめました。

2021-08-14 | お出かけ

わくわくお出かけは 2007年の12月に1回目の社会見学「朝日新聞」から開始しています。

2008-3-25に最初の工場見学で阪急電車の正雀工場に行きましたが、
記録は残っていません。皆さん とても熱心に見学しました。

今回は 今までに行った「食品会社などの訪問」をまとめてみました。

ブログのタイトル(赤色)をクリックすると、ブログにリンクしますが 

お出かけのブログを作り始めたのは 2011年からでそれ以前にはブログが

ありません。


①  2008-5-27 明治製菓 茨木工場

   

②  2008-6-12 ラーメン発明記念館・手塚治虫記念館 見学会

             

③   2009-1-20 森永製菓 塚口工場

         

④   2009-9-29  サントリー山崎蒸留所

          

⑤  2010-1-26  アサヒビール吹田工場

          



⑥  2011-2-25 ヤクルト神戸工場

         2月のわくわくお出かけは ヤクルト神戸工場でした。 

         

⑦  2011-3-25 キューピー伊丹工場

         3月のわくわくお出かけは キューピー伊丹工場でした。  

         

⑧ 2011-8-20 京セラ株式会社

  8月のお出かけは 京セラに行きました。 

  

⑨   2011-10-7 コカ・コーラ京都工場

         9月のお出かけは コカ・コーラ京都工場でした。

         

⑩  2011-12-22 京都の和菓子作り体験

         12月のお出かけは 京都の和菓子作り体験でした。 

         

⑪  2012-1-26 グリコピア神戸

    1月のお出かけは 「グリコピア神戸」でした。

         

⑫  2012-7-20  シャープの歴史・技術ホール

  7月のお出かけは天理市にあるシャープの歴史・技術ホールでした。

  

⑬  2012-9-18 京都の八つ橋庵 「そば饅頭つくり」でした、

   9月のお出かけは 京都の八つ橋庵での「そば饅頭つくり」でした。

   

⑭   2012-9-23 かねてっちゃん工房

        公民館の社会見学で「カネテツてっちゃん工房」に行って来ました。

        

⑮   2012-10-23 三輪そうめん

        10月のお出かけは 三輪そうめん山本のそうめん作り体験でした。

        

⑯  2013-1-31 かねてっちゃん工房

     今年(2013年)最初のお出かけはてっちゃん工房でした。

  

⑯  2013-9-17 茨木市の伏見屋

    9月のお出かけは 「豆腐とこんにゃくの老舗 伏見屋本店」でした。

        

⑰ 2013-10-25 河内ワイナリー

  10月のお出かけは「河内ワイナリー」でした。

  

⑱  2014-10-22 ニチレイフーズ関西工場

   10月のお出かけは ニチレイフーズ関西工場に行って来ました。

       

⑲  2015-9-25  酒どころバスツアー

     9月のわくわくお出かけは 酒どころバスツアーに行って来ました。 

      

 2017-1-24 サントリー山崎

     1月のわくわくお出かけは「サントリー山崎蒸溜所の見学」でした。 

      

  2018-3-23 パナソニックミュージアム

  3月のお出かけはパナソニックミュージアムに行きました。

  

 2019-2-22 白鶴酒造記念館

  2月のわくわくお出かけは「白鶴酒造資料館」の見学会でした。