2007年12月に始まった月1回のわくわくお出かけは 2019年で130回になりました。
わくわくお出かけのブログ(バス旅行の分)をまとめました。 2019-01-06 | お出かけ
⑦ 兵庫県立美術館 ⑧ 新緑の修学院離宮
⑨ ハルカスの美術展 ⑩ 箕面温泉
⑪ 造幣局の通り抜け ⑫ 繁昌亭
2007年12月に始まった月1回のわくわくお出かけは 2019年で130回になりました。
⑨ ハルカスの美術展 ⑩ 箕面温泉
⑪ 造幣局の通り抜け ⑫ 繁昌亭
1月のお出かけは「ニュートーキョー 第一生命ビル店」での新年会でした。
3月のお出かけはバスツアーで「奈良公園3名所」を見学してきました。
11月のお出かけはレオマワールドに泊まって志度の畑も見てもらいました。
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2016年分)
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2015年分)
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2014年分)
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2013年分)
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2012年分)
わくわくお出かけのブログをまとめました。(2011年分)
パソコン教室で習ったWindows Liveムービー・メーカーで
デジカメで撮った動画をつないで You Tubeにアップロードした分です。
2012年7月 白浜旅行
その時のブログは下記のものです。
2013年2月 沖縄のイルカショー
その時のブログは下記のものです。
2017年6月 北海道一周クルージング
その時のブログは下記のものです。
1/18には家内が岡山の病院に行った帰りに、西条市の西にある伊予小松から北に行くと
今治市に着き、市内にある57番永福寺から59番国分寺の3カ寺を回って来ましたが
60番横峰寺までの道は2月28日まで通航止めとのことで遠い山道を苦労して入り口まで
行って帰って来ました。 今回(3/17)に岡山の病院に行った帰りに横峰寺に行って来ました。
下の画像は自宅から60番横峰寺までの地図と 横峰寺の画像です。
下の左側の画像は横峰寺のバス停と途中に見える黒瀬湖と バス停からお寺までの地図です。
バス代は1800円でしたが、急な狭い林道でしたので車で行かなくてよかったです。
下の右側の画像はインターネットで見つけたお寺の風景です。 シャクナゲの木がたくさん
植わっていましたので、季節には見事だと思います。
3/17の食事処です。昼食は三豊のSAでラーメン 朝食は岡山の鴻ノ池サービスエリアで
豚汁定食 夕食は観音寺のレストランで洋食のセットにしました。
三豊サービスエリア |
鴻ノ池サービスエリア |
観音寺のレストラン MOCHA |
横峰寺の歴史・由来
西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、
修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で
「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、
この山で修行した様子を記している。
境内は石鎚山の山系の北側中腹(750m)にある。
四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。
昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。
ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。
縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、
山頂付近に蔵王権現が現れたという。
その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。
また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、
桓武天皇の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、
このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。
以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。
明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。
2021-3-10(水)11(木)は快晴で家内の運転で息子と3人でドライブがてら
四国八十八ケ寺の33番から38番の札所を回って来ました。
左の画像は3/10に行った四国八十八ケ寺の
30番から38番の札所の地図です。
30番の善楽寺は以前にお参りしていて
今回は諡号1000年記念バッジを貰いに
行き、31番の竹林寺と32番の禅師峰寺は
以前にお参りしているので 今回はパス
して、33番の雪渓寺と34番種間寺と
35番清瀧寺は前回のブログに載せました。
今回は36番 青龍寺と37番 岩本寺と
38番 金剛福寺の記録です。
下の画像は宿泊した足摺岬の近くの
「ホテル足摺園」です。
下の画像は四国88カ所36番青龍寺・37番岩本寺・38番金剛福寺です。
① 36番 青龍寺
青龍寺の歴史・由来
青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。
昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。
弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。
その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。
弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって
真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。
縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、
東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。
独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。
帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、
独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇に奏上した。
大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、
寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。
明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。
また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、
いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。
② 37番 岩本寺
大師堂・本堂内陣の格天井画
岩本寺の歴史・由来
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、
五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。
歴史は天平の世まで遡る。
寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、
現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる
末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。
仁井田明神の別当職であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。
大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、
それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、
薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。
大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。
このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、
また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。
天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。
再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺に、
寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。
戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、
神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。
明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、
五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、
寺領地の大半を失ってしまう。
再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。
③ 38番 金剛福寺
金剛福寺の歴史・由来
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、
境内は120,000平方メートルを誇る大道場。
弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に
観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。
ときの嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立、
勅額「補陀洛東門」を受し、開創したと伝えられる。
弘仁13年、大師49歳のころといわれる。
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、
自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。
前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、
3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。
縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに
三面千手観世音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。
「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、
別名、金剛杵ともいう。
また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。
歴代天皇の勅願所となり、武将からも尊崇された。
とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、
その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。
戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、
1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、
一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。
大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。
2021-3-10(水)11(木)は快晴で家内の運転で息子と3人でドライブがてら
四国八十八ケ寺の33番から38番の札所を回って来ました。
左の画像は3/10に行った四国八十八ケ寺の
30番から38番の札所の地図です。
30番の善楽寺は以前にお参りしていて
今回は諡号1000年記念バッジを貰いに
行きました。
31番の竹林寺と32番の禅師峰寺は
以前にお参りしているので 今回はパス
して、33番の雪渓寺に行きました。
お参りした後 昼食に「土佐タタキ道場」
というお店に行きました。
その後 34番の種間寺と
35番の清瀧寺にお参りしました。
下の画像は四国88カ所33番雪渓寺・34番種間寺・35番清瀧寺です。
① 33番 雪渓寺
雪蹊寺の歴史・由来
土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。
幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。
雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。
雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色から挙げておく。
1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。
弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。
その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは
戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から
月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。
元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、
元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。
2つ目は、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、
運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、
また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげる
かわい師童子像を彫造して安置したとされる。
一時、慶運寺と名のったのもこうい善膩した由縁で、弟子の道運、
海覚作の12神将共に16体、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。
3つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天質和尚が
朱子学南学派の祖として活躍し、谷時中野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。 雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。
② 34番 種間寺
種間寺の歴史・由来
土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようである。
種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。
6世紀のころである。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、
仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。
彼らが渡来したのは用明天皇の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。
ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、
種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。
彼らは、海上の安全を祈って約145㎝の薬師如来坐像を彫造し、
本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。
その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師が
この地を訪ねたのは弘仁年間である。
大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。
その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆
またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。
天暦年間(947〜57)には、ときの村上天皇が「種間」の勅額を下賜され、
また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、
広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われている。
本尊は「安産の薬師さん」で、また、底の抜けた柄杓に人気があり、信者が多い。
③ 35番 清瀧寺
清瀧寺の歴史・由来
土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる
高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。
「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。
縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、
この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。
これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・釋本寺」と
名づけて開山したのが初めと伝えられている。
弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。
本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して
閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。
満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。
そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。
この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、
やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。
寺伝では、平城天皇の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、
真如と名のった。
真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。
大師十大弟子の1人である。
また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、寺領百石の寄進を受けるなど、
七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。
厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。
3/10の朝に家内と息子の3人で足摺岬まで行って 一泊して高知の四国八十八ケ寺の札所に行って
来ました。 今回は諡号(しごう)1000年記念バッチでまだもらっていない高知の2カ寺が目的でし た。
もらえます。
徳島県 9番 法輪寺 17番 井戸時寺
高知県 30番 善楽寺 37番 岩本寺
愛媛県 45番 岩屋寺 58番 仙遊寺
香川県 66番 雲辺寺 83番 一宮寺
30番 善楽寺には一度行っていますが、その時は
記念バッチはやってなくて 今回で全部そろいました。
諡号という言葉は初めて聞いたので 調べましたが
wordの文字変換でも出てきます。
左の画像は3/10に行った高知の30番
善楽寺から38番金剛福寺までの地図です。
30番はバッチを貰いに行きましたが、
31番と32番は前に行っているのでパスして
33番雪蹊寺 34番種間寺
35番清瀧寺 36番青龍寺
37番岩本寺 38番金剛福寺の8カ寺です。
自宅を出て徳島自動車道から高知自動車道
を通って 30番と33番に行くとお昼に
なったので、スマホで調べて見つけた
「土佐タタキ道場」というで昼食です。
34番 35番 36番には簡単に行けた
のですが、37番岩本寺まではかなり
距離があって予約していたホテルには
5時に着けないと連絡して6時には
やっと着けました。
ホテルは足摺岬の近くで、岬を見学して
38番金剛福寺にお参りして 高知道
徳島道を通って帰着は4時でした。
下の画像は 3/9~3/11の食事処をまとめたものです。
3/9の昼食は西宮から帰ってきた息子と鳴門市の香川県寄りにある
「活魚料理のびんび家」にして、夕食は志度にある中華の「四川」にしました。
3/10の昼食は33番の札所から近い「土佐タタキ道場」カツオのたたきにしました。
3/10の夕食と3/11の朝食は「ホテル足摺園」で、昼食は南国SAでハンバーグ定食
夕食は志度にあるうどん店「源内」でした。
下の左の画像は3/10の昼食の店までのGoogleマップの地図です。
33番雪渓寺から桂浜付近の道を約10分くらいで「土佐タタキ道場」があります。
下の右の画像は足摺岬の近くにある「ホテル足摺園」をGoogleマップでとりました。
ホテルの屋上には小さい露天風呂があって、太平洋の景色がきれいでした。
左の画像は足摺園の風景と
当地出身の「ジョン万次郎」の像です。
最南端にある灯台はとても立派で
灯台まではツバキの木の回廊を歩き
ましたが、ツバキの時期は2月まで
でした。
とても天気が良かったので海がきれいに
見えました。
「ジョン万次郎」の大河ドラマ化を
推進しようと署名活動をしていました。
38番金剛福寺は足摺岬から約50mの
近さでした。
かなり大きなお寺で庭も立派でした。
1/3に行ったブログはアップしたのですが、その後 1/16に行った66番雲辺寺と
1/18の今治市の57番永福寺から59番国分寺の3カ寺と
1/26の西条市の61番香園寺から64番番前神寺の4ケ寺の分です。
左の画像は60番横峰寺までの道は
2月28日まで通航止めとの案内です。
遠い山道を苦労して入り口めで行って
帰って来ました。
この掲示は市内の61番香園寺で見つけました。
① 1/16に行った66番雲辺寺のブログです。
66番雲辺寺は遠いので香川県でまだ行っていませんでした。
ロープウェイで登ってのお参りですが、少し前に降った雪がたくさん残っていました。
雲辺寺の歴史・由来
四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、
「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。
現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。
住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。
霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる
僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。
② 今治市にある57番永福寺から59番国分寺の3カ寺のブログです。
1/18には家内が岡山の病院に行った帰りに、西条市の西にある伊予小松から北に行くと
今治市に着きました。市内にある57番永福寺から59番国分寺の3カ寺を回って来ました。
57番 栄福寺
栄福寺の歴史・由来
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。
栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、
海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。
縁起によると、嵯峨天皇の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。
内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。
その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。
この阿弥陀如来の尊像を本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
58番 仙遊寺
仙遊寺の歴史・由来
境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、
今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。
その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した
「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。
創建は天智天皇の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、
本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、
海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。
さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、
七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという
伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。
59番 国分寺
国分寺の歴史・由来
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。
往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。
東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。
礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、
豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、
その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇の勅願により
行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。
③ 西条市にある61番香園寺から64番番前神寺の4ケ寺の分です。
1/26には西条市内の60番横峰寺から64番番前神寺を回る予定でしたが 60番横峰寺が
通行止めで行くことが出来ず、4ケ寺を回って来ました。
61番 香園寺
香園寺の歴史・由来香園寺は聖徳太子の開基という四国霊場屈指の古刹であり、
一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。
このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、
本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。
のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。
ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。
婦人は元気な男子を無事に出産した。
これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、
再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る
「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。
62番 宝寿寺
宝寿寺の歴史・由来
往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが
宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、
大和の僧・道慈律師が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、
現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間で、寺に久しく留まり
聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。
これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。
63番 吉祥寺
吉祥寺の歴史・由来
四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、
その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。
大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像
を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。
高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。
土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、
元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、
徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。
64番 前神寺
前神寺の歴史・由来
山岳信仰の山として崇拝される日本七霊山の一つである石鎚山の麓の霊場で、
真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。
開創は、天武天皇時代に修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んだ後、
衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって
現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する。
その後、桓武天皇が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、
勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された。
以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。
後に空海も2度石鎚山を巡鍚し虚空蔵求聞持法や護摩修行、
断食修行などを行ったことが知られている。
2021-2-23(天皇誕生日)は快晴でドライブがてら 2/14に行った続きの四国八十八ケ寺の49番から
49番の札所を回って来ました。
松山市内の46番から49番は楽に回れましたが、45番の岩屋寺は少し元気になった足腰でしたが
相当にきつかったです。
今回の食事は「豊浜SA」と「石鎚SA」に立ち寄り 岩屋寺までの道沿いでサツマイモを食べました。
45番札所の岩屋寺までは
1時間半くらいの急な登り道
で途中のお店で食べた安納芋
のサツマイモがとても美味し
かったです。
岩屋寺の入り口から本堂までは
急な登り道が長く続いて、
私は何度も休みました。最期の
本堂までの階段は登らず家内
だけが行きました。岩屋寺は
標高700mにある四国遍路でも
屈指の難所として知られ、
駐車場から約800ⅿ山道を
歩いてお参りをします。
四十三番明石寺からの道のりは約80㎞、峠越えの難所がつづき、
歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。
四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。
四国山地に囲まれた標高579mに位置し、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。
縁起は大和朝廷の時代まで遡る。
百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。
飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、
菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。
ときの文武天皇はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、
元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。
弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、
四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。
仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間(1156〜59)に後白河天皇が
病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。
このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。
神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、
さまざまな伝承が残されている。
弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。
そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、
空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。
だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。
大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、
また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。
一遍上人(1239〜89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、
『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、
護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。
いつの頃からか、四十四番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に第一世の住職が晋山した。
だが、同31年(1898)に仁王門と虚空蔵堂をのこし諸史料ともども全山を焼失した。
大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建、その後、昭和2年に本堂、同9年に山門、
27年鐘楼を復興、宿坊遍照閣は38年、逼割不動堂・白山権現堂は同53年にそれぞれ建立されている。
大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。
穴禅定・道開き不動・逼割禅定(奥の院・大師堂奥の山道を辿る。)
・鈴の音山河(お遍路さんをさわやかに歌ったうた。現住職が作詞・作曲。)
・七鳥(三宝鳥、慈悲心鳥、慈悲声鳥、鼓鳥、鈴鳥、笛鳥、鉦鼓鳥。)
・初めて発見された植物(イヨクジャク、イワヤシダ、イワヤスゲなどがある。)
浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。
参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた
正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。
このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。
縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、
仏法を修行する適地として伽藍を建立した。
白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、
眷属として十二神将を彫造して安置した。
寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。
約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、
荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。
室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、
ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。
江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、
70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。
堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。
また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、
苦難の末に8つの橋を架けている。
境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が信仰を得ている。
浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、
田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。
遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。
修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。
寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇の勅願により
伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。
このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、
また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、
荒廃した寺を再興して霊場と定めた。
本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、
「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。
このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。
だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって
末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。
現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、
本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。
本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。
本堂と大師堂の間。「極楽の途」「地獄の途」があり、
極楽には美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、修羅道などが描かれている。
寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。
門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。
「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、
松山市の天然記念物とされている。
縁起によると、聖武天皇の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、
国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。
その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、
本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。
大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。
ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、
国家の安泰を祈願する道場とされた。
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、
近くで清水の水脈を見つけた。
寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、
昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。
時代は江戸・寛永年間(1624〜44)、火災で堂塔を焼失した。
元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、
宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、
本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。
現大師堂は平成20年(2008年)に再建された。
福授地蔵・孝行竹・寺宝(『四國偏禮繪圖』。
最古の四国遍路絵図として貴重。宝暦13年(1763)の刊行。
また『四国霊場記』(明治24年・1891刊)も貴重資料。)
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。
浄土寺は空也上人の姿がいまに残る寺である。
腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、
「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。
道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、
また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。
この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、
縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇の勅願寺として、
恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した
釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。
法相宗の寺院だったという。
のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。
そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、
天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。
鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。
だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。
本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、
和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。
空也上人像・落書き・三蔵院(浄土宗の開祖・法然上人、1世・聖光上人、
2世・良忠上人の自作像が安置されていた。
この三像は昭和20年の松山空襲で出開帳先の寺で全焼している。)
2021-2-14には家内が岡山の病院に入院する検査に行った帰りに 松山市内の四国八十八ケ寺の50番から
53番の札所を回って来ました。
2/14に 50番札所の繫多寺に行き、
51番札所の石手寺と52番札所の
大山寺に行き、53番札所の円明寺
に行って来ました。
今年は正月明けから体調が悪くて 畑にも
ほとんど行っておらず今回のお寺参りも
歩くのがしんどくて、52番の大山寺には
最後の階段の下で 家内だけで本堂に
お参りしました。
今回は松山市内の8カ寺を計画しましたが
4カ寺に終わったので 残りは次回です。
コロナの影響でどこも閑散としていました
寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、
美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、天皇より祭具としての幡を賜った為にこれが寺名になったという説もある。弘仁年間(810~24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。
また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、
有縁の寺に参籠して修行した。
上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には
後小松天皇の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。
こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。
さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた
3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。
一遍上人・歓喜天像・接待一万人の石柱
(山門前にある寺名の石柱裏側。10,000人のお遍路接待を成就した記念碑。)
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。
境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、
それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。
国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。
重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、
「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、
この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、
聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。
翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。
境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ
奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。
訶梨帝母天堂・落書き堂・洗い石(門前にある別名「渡らずの橋」。裏側に経文が刻まれている。)
・阿弥陀堂(二王門を入り左側。ぼけ防止の祈願者が多く参拝する。)
開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。
長者は豊後でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、
いらい運が開けて大富豪となった。
用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、
観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。
この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の
本堂を建てる木組みを整えて船積みした。
順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。
いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。
その後、天平11年(739)に聖武天皇の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、
その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。
寺が隆盛したのは孝謙天皇のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。
弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、
それまでの法相宗から真言宗に改宗している。
のち、後冷泉天皇をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、
十一面観音像を奉納されている。
いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。
本堂内陣の厨子に安置されている。
なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。
本堂・仁王門・聖徳太子堂(伊予を訪れた太子が、この寺と縁を結んだ。
法隆寺夢殿と同じ太子像を祀る。)・最古の木製納札(安永9年(1780)銘。)
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、
寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。
江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで
破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで
知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。
縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と
脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、
七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。
当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、
鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に
土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。
さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により
仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。
圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。
キリシタン石塔・左甚五郎作の龍・観音堂(十一面観音像を安置。慶長5年の台座銘。)