ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

四国八十八ケ寺の11番から17番の札所に行って来ました。(2021-1-3)

2021-01-23 | お出かけ

今年になってから体調が良くなくて 今日(2021-1-23)は久しぶりにブログで
今年の1月の3日に行った四国八十八ケ寺のお寺参りをまとめました。

四国八十八ケ所お遍路の旅」の最初は2017-4-18にお出かけの12名のメンバーで阪急トラピックスの
バスツアーで1番カ寺から6番カ寺に行ったのが最初でした。
4月のわくわくお出かけは「四国八十八ケ所のバスツアー」に行きました。)

さぬき市に引っ越しをしてから香川県の88カ寺は殆ど回ったので、
コロナで出かけることができなくなった
2020-4-17に7番カ寺から10番カ寺に行って来ました。
四国八十八ケ寺の7番から10番の札所に行って来ました。(2020-4-20))

今年は子供たちが帰ってこないので、静かな正月で1日には近くの神社と高松の田村神社にお参りして、
2日には恒例の香川県工芸展を見て 3日には久しぶりには徳島の88ケ所参りをしてきました。

 左の参拝案内図こ今回購入したのを
 スキャナーで取り込んで加工しました。
 今回の行程は17番井戸寺から
 11番藤井寺の順で、12番焼山寺はパス
 しました。

 11番藤井寺
 13番大日寺
 14番常楽寺
 15番国分寺
 16番観音寺
 17番井戸寺

 

 


      

      


第11番札所 金剛山 一乗院 藤井寺

藤井寺の歴史・由来

全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。
阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。
三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは
弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って
薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、
金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。
その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。

寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。
だが、天正年間(1573〜92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。
その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、
その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍は
すべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもの。
本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。
藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。
弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。

 

      


第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺

大日寺の歴史・由来

徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、
車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。
開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、
空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、
「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。
大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。
寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、
戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。
その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、
諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、
管理に当たっていた。
ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、
同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、
納経所として参拝されていたようである。
このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。
その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、
もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 
日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。

大日寺の見どころ

ぼけ封じ観音・奥の院・建治寺・しあわせ観音
(樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像。幸せの願いを祈る。)

      

 

 

      


観音寺の歴史・由来

観音寺の見どころ

寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。
巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、
享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。
その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、
観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、
また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、
徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。
この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。
弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、
本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。

その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、
本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。
遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。

観音寺の見どころ

夜泣き地蔵・絵馬・天狗久(人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。

 

      


第17番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺

井戸寺の歴史・由来

世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、
阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。
寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。
本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、
また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。
のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、
檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。
この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、
現在、国の重要文化財に指定されている。
大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、
自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。
そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、
次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。
江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 
七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。

井戸寺の見どころ

面影の井戸・日限大師・仁王門(阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。)