2021-2-14には家内が岡山の病院に入院する検査に行った帰りに 松山市内の四国八十八ケ寺の50番から
53番の札所を回って来ました。
2/14に 50番札所の繫多寺に行き、
51番札所の石手寺と52番札所の
大山寺に行き、53番札所の円明寺
に行って来ました。
今年は正月明けから体調が悪くて 畑にも
ほとんど行っておらず今回のお寺参りも
歩くのがしんどくて、52番の大山寺には
最後の階段の下で 家内だけで本堂に
お参りしました。
今回は松山市内の8カ寺を計画しましたが
4カ寺に終わったので 残りは次回です。
コロナの影響でどこも閑散としていました
第50番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺
繁多寺の歴史・由来
寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、
美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、天皇より祭具としての幡を賜った為にこれが寺名になったという説もある。弘仁年間(810~24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。
また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、
有縁の寺に参籠して修行した。
上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には
後小松天皇の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。
こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。
さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた
3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。
繁多寺の見どころ
一遍上人・歓喜天像・接待一万人の石柱
(山門前にある寺名の石柱裏側。10,000人のお遍路接待を成就した記念碑。)
第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺
石手寺の歴史・由来
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。
境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、
それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。
国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。
重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、
「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、
この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、
聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。
翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。
境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ
奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。
石手寺の見どころ
訶梨帝母天堂・落書き堂・洗い石(門前にある別名「渡らずの橋」。裏側に経文が刻まれている。)
・阿弥陀堂(二王門を入り左側。ぼけ防止の祈願者が多く参拝する。)
第52番札所 龍雲山 護持院 太山寺
太山寺の歴史・由来
開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。
長者は豊後でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、
いらい運が開けて大富豪となった。
用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、
観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。
この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の
本堂を建てる木組みを整えて船積みした。
順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。
いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。
その後、天平11年(739)に聖武天皇の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、
その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。
寺が隆盛したのは孝謙天皇のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。
弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、
それまでの法相宗から真言宗に改宗している。
のち、後冷泉天皇をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、
十一面観音像を奉納されている。
いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。
本堂内陣の厨子に安置されている。
なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。
太山寺の見どころ
本堂・仁王門・聖徳太子堂(伊予を訪れた太子が、この寺と縁を結んだ。
法隆寺夢殿と同じ太子像を祀る。)・最古の木製納札(安永9年(1780)銘。)
第53番札所 須賀山 正智院 円明寺
圓明寺の歴史・由来
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、
寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。
江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで
破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで
知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。
縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と
脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、
七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。
当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、
鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に
土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。
さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により
仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。
圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。
圓明寺の見どころ
キリシタン石塔・左甚五郎作の龍・観音堂(十一面観音像を安置。慶長5年の台座銘。)