家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まりました。
翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。
左の画像は10/23に行った四国八十八ケ寺の
18番の恩山寺と19番の立江寺と
昼食で行った「はやしのお好み焼き」の
店と宿泊スーパーホテル・阿南までの
地図です。
第18番札所 母養山 宝樹院 恩山寺
恩山寺の見どころ 玉依御前の剃髪所・弘法大師像
大師堂の手前。「大師御母公剃髪所」の 大師自ら彫造した像で
石碑と小さなお堂が建ち、 現在、大師堂の本尊とされている。
また、大師作と伝えられる「御母公像」、
母君の髪の毛が安置されている。
恩山寺の歴史・由来
小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にある。
縁起をたどると、創建は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が草創して、
当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。
本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、
災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。
十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、
女性が入ることは許されていなかったのである。
延暦年間になって、弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。
大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。
だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、
女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。
やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、
大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され
「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。
寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、
現在の本堂や大師堂は文化、文政年間ころに建立された由緒ある建造物である。
境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、
大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。
母君を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺である。
第19番札所 橋池山 摩尼院 立江寺
立江寺の歴史・由来
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、
また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で
行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、
念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。
これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。
弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。
大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして
新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を
納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。
当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、
七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。
「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。
だが本尊だけは奇しくも難を免れている。
のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建された。
また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている。
昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により
花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する
文化財であると高く評価されている。
寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。
邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれている。
立江寺の見どころ 肉付き鐘の緒の黒髪堂・白鷺橋・本堂・観音堂の絵天井