79歳の誕生日の前日(4/10)に四国八十八ケ寺の1番から7番の札所にお参りして来ました。
2017-4-18のお出かけで1番から6番までに行って納経は書いてもらったのですが、お札が見当たらず
今回 そのお札をいただきに行きました。
左の画像は4.10の日曜日に行った
四国八十八ケ寺の1番から7番の
札所のGoogle Mapの地図です。
1番から6番まではお出かけで
2017年の4月に行っています。
4月のわくわくお出かけは「四国八
十八ケ所のバスツアー」に行きまし
た。2017-04-24 | お出かけ
7番には2020年の4月に行って
います。
四国八十八ケ寺の7番から10番の札
所に行って来ました。(2020-4-20)
2020-05-13 | お出かけ
第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺
霊山寺の歴史・由来
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。
この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。
弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、
また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。
その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。
大師は、その光景が天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、
インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所と
さだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。
誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。
往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。
しかし天正10年 長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。
その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と
多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。
以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。
別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている。
第2番札所 日照山 無量寿院 極楽寺
極楽寺の歴史・由来
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年 42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』
を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊と
された。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。
漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、
「日照山」と号した。その後、天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、
万治2年、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。
三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が
広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。
その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。
大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもので、
安産祈願に霊験があるとされている。
弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルも
ある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。
鳴門市の天然記念物に指定されている。
第3番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺
金泉寺の歴史・由来
聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。
そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して
開基したという。弘仁年間になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいる
のを見て、この地に井戸を掘られた。
この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、
「金泉寺」とした。その後、亀山天皇が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、
金泉寺にもしばらく滞在された。
その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、
背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。
この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。
以来、皇室との縁が深く、長慶天皇の御陵も本堂裏にある。
また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の
祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。
本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つ
で、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
第4番札所 黒巌山 遍照院 大日寺
大日寺の歴史・由来
徳島と香川県の県境にある阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した
標高70m前後の尾根の緩斜面上に南向きに伽藍が配置されている。
弘仁6年に弘法大師がこの地において大日如来を感得し、一刀三礼をして1寸8分の大日如来像を
彫造したことを由来として大日寺と称するようになったと言われる。
元禄2年の『四國遍礼霊場記』(寂本1631-1701)では、かっては立派な堂塔が並んでいたものの、
歳月の経過とともに、荒廃していた、と記されている。
その後 応永年間(1394-1428)に松法師という人物に夢の託言があって
修復がなされたという旨が『阿波史』文化12年(1815年)に記されている。
その後、また荒廃したが 徳島の二代目藩主、蜂須賀忠英が慶安2年に材木を寄進し、
本堂一宇を建立して以来、 天和(1681年)・貞享(1688年)までに再興されている。
その後も元禄5年(1692年)に五代目藩主蜂須賀 綱矩が、寛政11年に11代目藩主 蜂須賀 治昭
それぞれにこれを修復して、今に至っている。また、この地は三方を山に囲まれており、
黒谷と呼ばれていることから、地元では「黒谷寺」と呼び習わされることもあった。
山号である黒巌山の由来もこのことに因んだものとされる。
現在、京都の東寺の末寺としてあるがそれは明治20年以降のこと。
それ以前は真言宗御室派に属していた。
僧堂(庫裡)の熨斗瓦や入口の透かし欄間に寺紋の十六菊紋が見受けられる。
第5番札所 無尽山 荘厳院 地蔵寺
地蔵寺の歴史・由来
嵯峨天皇の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。
大師は、自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。
その後、淳和天皇、仁明天皇の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。
さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、
その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。
この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、
蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。
これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国に
およそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。
しかし、天正年間の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。
その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、
いまでも寺領は40,000平方メートル(12,000坪)にもおよぶ古刹である。
本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。
安永4年の創建で、五百羅漢堂とされていた。
だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んで
いる。境内の大銀杏。樹齢は800年を超え、母なる大木につつまれ歴史が刻まれている。
第6番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺
安楽寺の歴史・由来
『四國禮霊場記』には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき
絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、
戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。
ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、
山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)
桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、
四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。
その記録である「駅路寺文書」が今も残されており、宿坊は以来400年の歴史を有する。
藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。
茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。
愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。
当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。
二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。
現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、
43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。
昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師が
無名時代から彫り続けた仏像六十体が各御堂に祀られている。
大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。
また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、
石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。
第7番札所 光明山 蓮華院 十楽寺
十楽寺の歴史・由来
寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。
大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、
如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。
その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、
10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。
創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、
天正10年長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。
幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。
寛永12年に現在の地に移り、再建された。
さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立。
本堂左前にある「治眼疾目救歳地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、
眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。
また、中門遍照殿では、良縁を結び、悪縁を切る両方の願いを兼ね備えた、
愛染明王が祀られており、ご祈願に訪れる人が絶えない。
左の画像は7番 十楽寺に行った後
藍住町のうなぎ屋さんで昼食をして
神山町のしだれ桜と 白鳥駅近くの
芝桜富士を見てから帰宅した地図で
す。
下の画像は2022-4-10 と
2020-4-20に食べたうなぎです。