ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

新聞の記事に屋島にまつわる話がありました。

2011-03-07 | お出かけ

私が郷里の香川県に行って寝泊りしているのは
高松市の屋島にある家内の実家です。

近くにある新川という橋の欄干に 那須与一
扇の的を射た という話の銅像などがあり、
今回 好天の朝に写真を撮ってきました。

  

川の向こうに見えるのが屋島で 隣には五剣山があります。


最近の読売新聞の夕刊に 海の細道」という連載記事があり
13回「扇の的」射落とされた平家 の中に
以下のように 那須与一のことが書かれていました。
  

黄金の太陽をえがいた紅の扇を竿の先に立て、

舟のうえから手招きしているのは

『平家物語』によると「十八九ばかりなる女房」だった。 

若い女性であるのは平家の陣中にただよう、ある空気を物語っている。

同じ平家の陣営にいても男と女では敵に対する気持ちがちがう。

男にとって源氏の武者は敵以外の何者でもないが、

女にとってはそうばかりでもない。

坂東の田舎侍とはどんな男たちなのか、ちょっと気になる。

からかってみたくもある。

舟の女人は平家陣営の女たちのそうした気持ちの代弁者として

波にゆられながら立っている。

源氏方はこんな挑発を放っておくわけにはゆかない。

扇を射落とすために弓の上手な者のなかから選ばれたのは

那須与一だった。

まだ二十歳ばかり、一本の矢によって後世に名をとどめる若者である。

西国の春の夕ぐれ、太陽は屋島のかなたに沈もうとしていた。

与一は残照にそまる白波に馬を乗り入れた。

このとき、与一が馬を立て、
矢を射たという岩が

海のなごりの水路に沈んでいる。

与一は神々に祈ると、矢を弓につがえ、ぐいとひきしぼってひょうと

放った。鏑矢の先端には形の笛がついていて、放てば音高く鳴る。

『平家物語』のこのくだりは美酒に酔うかのような名文。


そのまま引こう。

「鏑は浦響く程に長鳴りして、誤たず扇の要際一寸ばかりを射て、

ひふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。

春風に一み二按みもまれて、海へさつとぞ散つたりける」

青年はみごと若い女のかかげる扇を射落とした。

恋のかけひきにもまがうこの余興はただの余興ではなかった。

源平合戦のゆく末を占う意昧があった。

じつは扇を射られたとき、平家は源氏に敗れ去った。

壇ノ浦で平家が滅亡するのは、これからわずかひと月

のことである。
 


翌日の「海の細道」 14回 「海の要塞」 敗れて瀬戸内を失う

には 古く 要塞としての屋島が書かれていました。

2月11日の大雪の日に撮った屋島の写真があり 

「海に浮かぶ要塞」 として以下の記事がありました。
 

 

少年のころ、『平家物語』をよんで不思議に思ったことがある。

屋島で敗れた平家はなぜ一気に壇ノ浦まで退いてしまうのか。

途中には平家の聖域である厳島もあるのに、たいした抵抗もせず、

あっさり瀬戸内海を源氏にあけわたしてしまうのはなぜか。

この謎をとく鍵のひとつは古代の東アジアにある。

七世紀半ば、唐と新羅の連合軍が朝鮮半島の百済をほろぼした。

大和朝廷は救援のため大艦隊をさしむけるが、村江の海戦で大敗する。

四百隻の軍船が炎上したという。

勢いづいた唐と新羅が攻め入るのを恐れた朝廷は瀬戸内海一帯に

防衛網をめぐらす。

西の要は太宰府である。もともと海寄りにあったが、

現在の内陸に移し、(水堀と防壁)を築き、

南北ふたつの山城で固めた。

瀬戸内海の屋島、難波と奈良をむすぶ道すじの高安山にも

(き)」とよぶ要塞を築いた。

ときの朝廷の指導者は中大兄皇子(のちの天智天皇)だが、

その警戒心は都を
飛烏から琵琶湖畔の大津、

つまり日本と大陸をむすぶ水路の奥まで下げたことからもわかる。

屋島の頂は平らな台になっている。

周囲は切り落としたような断崖である。

当時の土木技術者たちは断崖でないところに石積みをして

「海に浮かぶ要塞」を
つくりあげた。

瀬戸内淘歴史民俗資料館」の副館長だった溝渕茂樹さんと

要塞の上を歩いた。

「唐の艦隊がいつ姿を現すか、ここから西の海に目をこらして

 いたんですね」

「瀬戸内海はこの辺がいちばんくびれている。

 もしここを突破されれば、
都は裸も同然なのです」

溝渕さんは「屋島は瀬戸内海の制海権の要だった」という。

事情は五百年後の源平時代も同じだろう。

屋島を源氏に奪われた平家は、屋島とともに瀬戸内海全体を

失ってしまったことになる。

もはや、なすすべもなく西の果て関門海峡の壇ノ浦まで

引きさがるしかなかった。

 

    

 


 この記事を読んで 3年前の真夏に孫と岡山のお城を廻ったときに
備中 鬼ノ城 で屋島も同じ遺跡があるとの説明を聞いたことを
思い出しました。



 鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置する鬼城山山頂に築かれた

古代山城(古代朝鮮式山城)だ。
 
すり鉢状になった山頂から八合目辺りをを土塁と石垣で

周囲2.8kmにも渡って廻らした城で、

中世・戦国時代の山城を見慣れている者にとって、

初めて見る古代山城は、全く違った山城の姿に驚かされた。

 鬼ノ城は、幾度も発掘調査はされ、その結果に基づいて

西門とその両翼に連なる版築土塁の復元

そして高石垣の修築、城壁内外の敷石や水門の発掘など、

数々の発掘と復元・修復が行われている。

鬼ノ城は、日本書紀や続日本紀などの史書には鬼ノ城に関する記述がなく、

研究者により諸説があり、実際の築城年代や築城者については定かでない。

 天智天皇2年(663年)、大和朝廷は朝鮮半島の動乱で百済救援のため

出兵し、白村江の戦いで唐・新羅に敗れた。
 
大和朝廷は、西日本に大野城など12城を築城して唐・新羅による

日本侵攻に備えた。

 鬼ノ城は、日本書紀に記されている12城が築城されてた頃に

築かれたか、あるいは以前からあった城砦を現在残る遺跡のように

大規模な増改築されたとする説が有力視されている。 


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1 コメント

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Unknown (kimiちゃん)
2011-03-16 17:51:56

 知らない ことばかり

  ありがとう ございます。
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