ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

これについては議論してみたいなあ。

2017-06-21 | 雑念
本名を発表することはない。

そして普段なにやってるのか?も発言する機会も気もない。

自己紹介とは本当に必要なのだろうか?

研修に行くと当たり前のようにバックボーンをサラリと発表させる。

でもその必要性を考える。

僕はそもそも社会と半分は断絶していて、会社員でもないし教育者とも言えない。

所属してない流浪の旅。
旅の途中にたまたまこの研修にやってきました。

まっとうな人たちの自己紹介に混じって、発言の機会が時計回りに回ってくる恐怖を想像することはできるだろうか。

なんでこんなこと言わなきゃならんの?

と思いながら、それでもそこで「僕はいいたくありません」というわけのわからん発言をして流れを止めるのも変だし。人の学ぶ時間をそんなことで削りたくもない。目立ちたくない。

いくら僕でもそこまで非常識でもない。
わざわざ問題を引き起こす必要もない。

だからそこには僕自身が過剰なパワハラを感じている。

そういう意味でもフルバリューと簡単に言っても、自己紹介にかなり大きなウェイトがかかる。

はじまりのとき

グループが集まってお互いに知り合うまで、そこに大きく意味がある。

本名はまだギリギリオッケーだ。本当は言う必要はないけど、大人の研修ならいきなり「ホクトマン」も恥ずかしかろう。

ただ肩書きは邪魔だ。
これは僕にとっては、の話だから他の人がバックボーンを大切にすることにはノーコメントである。ただし僕ならバックボーン発表は邪魔だし、興味があればそれぞれが休み時間に話しかければいい。

参加者全員に発表するいわゆるオフィシャルな発言とカジュアルな発言を分けたい。いや、分けるべきだし、自然と分かれる。

僕はバックボーン関係なく人間関係の素の部分を取り出したいし、なにが起こるのかを感じて欲しいから扱いたくない。

自分自身が参加者なら隣の人が校長先生だったら、無意識に必要以上に大切に扱ってしまいそうだから

校長先生だけではなく、パイロットといわれれば次のフライトで多くの命を預かるのかと想像して、もうその人と本来の自分との関係はなにやらギクシャクしてしまう。

肩書きとは「壁」なのではないかと考えたりする。

ある程度の仕事の役割を宣言する作業なのではないかと。

校長先生なら若い先生を指導しリーダーシップをとる役割だから、話を聞こうと考えてしまう。

でも実際はバカな校長もいるだろうし、リーダーシップを履き違えている人間もいるだろう。だったら一旦、肩書きなんて放っておいて活動した方が学びや気づきは大きく多いのではないかと考えた。

学校生活を思い出しても、「◯◯係」とか「◯◯委員」と肩書きを与えられて発言しやすくさせられていた。

肩書きありきの人間形成
肩書きありきの教育

僕は多分それに拒否反応をしているのだ。

まず自分以外の人たちにはレッテルを張らせる。
そして自分自身にも鎧兜をつけてしまう「肩書き」

アイスブレイクとはその鎧兜を脱いでもらう作業だと思う。

だから研修でのオープニングでバックボーンを語ってから始めるのはアイスメイクしていると思う。

バックボーンなんかいる?

反論お待ちしてます。

深夜の雨音

2017-06-21 | 雑念
ざわつきと落ち着きが同居する。

心が複雑に蠢く。小さな出来事がまるでひしめき合う蟻の大群のように大きく黒い塊として存在している。

何かが動き出し、何かが崩れ去ったようなふしぎな感覚。

落ち着けばいいのに、それを許さない自分とフワフワした雲のような変幻自在は愉快であり、儚くもある。

深夜に目が覚めた。

雨足が強い。暗闇に響く今年初めての梅雨の兆し。

ベトナムのチームビルディングの仕事の夢を見た。全く知らない説明会の映像を勝手な脳が創造して送ってきた。

妙にリアルだった。

ちゃんと説明会に行ってみよ!