昼食を取ってから芸術の森へ移動。
■札幌市芸術の森美術館「遠藤彰子展 生生流転」。とにかく必見!
「部屋」:一時期、広い空間を描くことに抵抗を感じていて、このような作品を描いた作者だが…。

「私の街」:一気に世界が広がった、遠藤の「街シリーズ」を見て思った言葉は「重層性」である。螺旋階段のような通りが階層を構成し、列車はその隙間を走り、人々があらゆる階層にいる。そして、決して下の階層が貧しいエリアであるとか、汚らしいといった差別がない。

「葉っぱ猫」:何点か立体作品がある。これは樹脂に岩絵具で彩色したものらしい。

「たそがれ」:このバランス感、見事である。

「みつめる空」:500号を超える作品展示になってからは、もう驚きしかない。圧倒される思いである。

作品には二つの焦点があって、一つは左上にある明るい空。人々は空を見つめている。

もう一つは地の底にあるかのような夜空。しかし決して暗く希望のない空ではない。

一つの作品の中に対応する2つのものが描かれているのはそれぞれを際立たせるためであろうし、もう一つは物理的にこの面積を埋めるためには複数のパーツが必要になっているという理由なのかもしれない。
「炎樹」:作品の中に物語性があり、心の中で話が始まりだすような作品を私は時に好むが、まさにこれがそういう作品であるだろう。

「その時ゆくりなき雲」:描かれているものの中に原子力発電所と工場があるように見える。2015年の作品とあって、描かずにはおられなかったのかもしれない。

「朝日新聞連載小説 篠田節子「讃歌」より132話挿画」:トカゲの形がエッシャー作品を思わせる。

実に素晴らしい展覧会だった。作品に圧倒されること、私はミュシャ「スラブ叙事詩」を思い起こしたくらいである。ぜひちょっとでも興味を持った人は(いや、できれば興味がないという人もだが)、この展覧会を見に行って欲しいものだ。

この後、工芸展を眺め、池をぐるりと回って街中に戻る。


■ギャラリー創「中西敏貴写真展 Kamuy」。写真にはまだこういう可能性があったかと思わせられる、素敵な展覧会。私、なかなか気に入りました。
■札幌市芸術の森美術館「遠藤彰子展 生生流転」。とにかく必見!
「部屋」:一時期、広い空間を描くことに抵抗を感じていて、このような作品を描いた作者だが…。

「私の街」:一気に世界が広がった、遠藤の「街シリーズ」を見て思った言葉は「重層性」である。螺旋階段のような通りが階層を構成し、列車はその隙間を走り、人々があらゆる階層にいる。そして、決して下の階層が貧しいエリアであるとか、汚らしいといった差別がない。

「葉っぱ猫」:何点か立体作品がある。これは樹脂に岩絵具で彩色したものらしい。

「たそがれ」:このバランス感、見事である。

「みつめる空」:500号を超える作品展示になってからは、もう驚きしかない。圧倒される思いである。

作品には二つの焦点があって、一つは左上にある明るい空。人々は空を見つめている。

もう一つは地の底にあるかのような夜空。しかし決して暗く希望のない空ではない。

一つの作品の中に対応する2つのものが描かれているのはそれぞれを際立たせるためであろうし、もう一つは物理的にこの面積を埋めるためには複数のパーツが必要になっているという理由なのかもしれない。
「炎樹」:作品の中に物語性があり、心の中で話が始まりだすような作品を私は時に好むが、まさにこれがそういう作品であるだろう。

「その時ゆくりなき雲」:描かれているものの中に原子力発電所と工場があるように見える。2015年の作品とあって、描かずにはおられなかったのかもしれない。

「朝日新聞連載小説 篠田節子「讃歌」より132話挿画」:トカゲの形がエッシャー作品を思わせる。

実に素晴らしい展覧会だった。作品に圧倒されること、私はミュシャ「スラブ叙事詩」を思い起こしたくらいである。ぜひちょっとでも興味を持った人は(いや、できれば興味がないという人もだが)、この展覧会を見に行って欲しいものだ。

この後、工芸展を眺め、池をぐるりと回って街中に戻る。


■ギャラリー創「中西敏貴写真展 Kamuy」。写真にはまだこういう可能性があったかと思わせられる、素敵な展覧会。私、なかなか気に入りました。